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第二十二話 むかしの真弓/いつもの愛花 2


 空手をやっていて身体は強くなったのか、健康そのもので育っていった私は、風邪をひいたことがなかった。

 体調に違和感を感じることすら、本当に少なかった。

 だが結局のところ一日も休めなかった学校。

 そこで楽しい、と思える日になるのは稀なことだった。



 私は休みたかった。

 本当のことを言うと、学校なんて休みたかった。

 もちろんそれは、家の庭で稽古を続ける親父を見たいなんていう理由はないのだが……。



 ――――



 あれは小学二年生の時である。

 握りこぶし、正拳のイメージが強い空手ではあるが、親父は手刀(チョップ)にもこだわった。

 裏庭、板の上にビールの空き瓶を並べ、それを水平に抉る手刀で割っていった。

 琥珀色の欠片が砕けていく。

 目の前の光景に幼さ丸出しの真弓は手を叩いた。


「おとーさんすごぉい!」



 笑顔が底抜けに明るい黒髪の幼女が、そこにはいた。

 短い手指で、拍手などしてみる。


「いや、まだまだだ―――」


 父はその転がる瓶を指差す。


「瓶が倒れているだろう?ほんとうなら瓶を倒さず、その首の部分を切りたい」


 妥協せずそれからも毎日やっていた。

 余談だがあの親父は酒が苦手だった。

 ビールなど家では何か客人の付き合いでしか開けていなかった。

 じゃあ技を鍛えるためにわざわざもらってきたということか、どこからか。



 真弓は懐古し思う。

 そのようなことは続いていく。

 具体的にどうとか、多すぎて上手く言えない。

 ただ世間一般のよくいる父親とは違うのだと、知っていく。

 親父の稽古は年をとるにつれ、若さが残る無茶をさらに加速させていく。



 例えばクラスメイトのお父さんは体を鍛えたりしないらしい。

 蹴りのリーチが伸びるように稽古をしないらしい。

 木の枝から吊り下げたピンポン玉を宙がえり蹴りで打ち上げたりしないらしい。

 同級生の松谷くんのお父さんは、同じ男でもピンポン打ちをやろうとしたことさえないらしい。


『ええっ何それ知らないよ!?真弓ちゃん、てっきり僕、卓球の話だと思ってたよ』

 それまでは普通だと思っていたので、まあ男子ならやるだろうと思いうっかりクラスメイトに話した真弓は困惑。

 えっ、なんで。

 疑惑を生み出した。

 そうなのか……、普通しないのか。

 出来ないことをできるようになろうとすることも、ないのか。


 何でだろう、と思いながら自宅に帰る。

 親父は『真弓ぃィ!お父さんは瓦!瓦割りを二十二枚できたぞッ!ははははは!いよいよ二十五枚が見えてきたな!』と弾けるような笑顔で答えたばかりだった。

 その日、暗くなっても家から漏れる光を浴びて父は跳んでいた。


「何故飛び蹴りの練習をするのかって? 自分より身長の高い相手が来ても立ち向かうためだ!」



 別の日。

 あれは四年生の頃だった。


『私のお父さんはね、手でこうやって、かき氷作れるんだよー』


 教室の休み時間。

 ぐるぐる手を回すしぐさをして、栄美(エミ)ちゃんが首をかしげる。


「えーすごーい、何それかき氷機?」


「うん、最後は機械使うんだよ。それとね、ビール瓶くらいの手ごろな氷柱。こうやって手刀(しゅとう)でね―――小指のつけ根で、ぴっ。ってやるの」


 それを聞いた時の栄美ちゃんの奇妙な沈黙と表情の停止を私は忘れない。

 手刀のジェスチャーをする私を黙って見ていた。



 父は、科木拳一は、瓦を割っていた。

 割ったのは瓦だけでもなかった。



 冬場に雪解けをかたどり氷柱を作って、瓦割りのごとく正拳で叩き割るのが趣味だった。

 小学校高学年になってから、私の精神は揺らいでいた。

 やっぱり違うのだ。

 普通のお父さんは冬場に空手着、上半身裸で庭先でチュるアアアアア!と叫んでガッシャンと割ったりしないらしい。


 男たるもの、とクソ親父が言っていたからそういうものだったんだなと、信じた。

 ああ、私が本当に嫌いなのは親父だが、あの頃、目を輝かせてすべてを納得していた自分のことも、嫌いだった。



 それ以来情報の出どころ(ソース)が父だったら、まず信じないようにした。

 絶対に信じないようにした。

 私はようやくというか―――いつからだろう、自分の父は強いのではなく、『違う』のだな、と思うようになった。

 違う。

 それが(たま)らなかった。



 よく思わなかったのだろう。

 私は、少しずつだが、に一人を感じた。

 真弓の家族は人類ではない、という噂がささやかれ始めた。



 普通の人間が、大勢いる。

 教室なんて、多くの一般的な学生生活なんて、そういうものだろう。

 そして私の家庭はそうではなかった。



 ―――――――――


「お母さん、みんながね」


 どうしても気になって母に聞いたこともある。


「そう―――学校のみんながそうなの……違うのね」


 母は上品に笑った。

 だが私は納得できない、笑ったって、そんな風に微笑んだって、綺麗には見えないぞ、母よ。

 子供の意見だと思って可愛いなあなんて思っているのか。

 私は真面目なんだぞ。



「真弓はいいわね、お喋りできるお友達が出来て」


「そういうコトじゃあなくて~、ねぇおかあさぁん。どうしてウチはそうなの」


「……お父さんが強くなりたいからよ」


「それやめてもいいと思う、これ以上やったって、だれも、なんていうか―――だれも」


 誰も、の後は曖昧になった。

 うめき声だけが漏れた。

 小学生だったからだろうか、真弓は上手く感情を説明できなかった。



 だが伝えたいことはとてもたくさんあった。

 あったんだ。



 誰もついてこれない。

 誰からも認めてもらえないよ。

 誰のためにやっているの。

 誰の役に立つっていうの。

 みんなは、……変だ、って思うよ。

 他の誰かって、そうだよ。



「ふつーがいいよ」


 きっと、きっとクラスの女子の中には、本当に嫌悪している子もいるはずだ。

 格闘技なんて武道なんて、暴力と大差ない。

 ていうか親父のアレは空手がどうとかいう以外の問題点があるだろう。



 真弓は怯えていた。

 ―――真弓のお父さんって怖いよね。

 面と向かって言われたことはない。

 だが、何時(いつ)来るか。

 何時、その台詞が来るか。

 そう言われる日が来るのか、怯えていた。



「普通がいい、普通の人―――ね」



 母は黙る。

 しかしそれは笑みで―――いかにも自分の子供が駄々をこねているのを楽しんでいる様子が表情から見て取れた。


「むう」


 他の子が羨ましかった。

 強くなることに、殴る蹴るしか頭にない父ではない家庭。

 休日、遊園地や水族館に連れて行ってもらった他の女子のお話をたまに聞いていた。

 隣の県にまで旅行とか。



 そうして時が経っていく。


 私はその日いやその日も、落ち込みつつ一人で帰った。

 なぜ私の家だけがこうなのだろうという想いを重ねつつ。

 着実に、積み重ねつつ。



 本当に幼いころは、違っていた。幼い日の私は、父を否定的な目で見たことはなかった。

 そうだったし、そうするしかないのだろう、幼ければ。

 そして今は懐疑。



「負けないようにいじめられないように」


 ああ、確かにいじめられることはなかったさ。

 ないよ。

 気持ちで負けたことはない。

 無かった、無かったよ。



 父との組手と比べればなんと容易いことか、学校の連中など。

 私に細かな怪我は絶えなかったが、組手中に足払いで脛を刈られる生傷などが主だった。


 ――――――



 その日も。

 家の庭。

 ピンポン玉がぶら下がっている。

 百九十センチの高さ。


「―――で、これが!」


 飛びながら空中で脚を回す真弓。

 玉は、踵を受け弾け、枝の真上をぐるんと回り、また垂れ下がる。

 着地、姿勢は崩れず。

 足がふらつけばそれは付け入る隙を与えてしまう、と親父に言われていた。

 ふらふらと揺れるオレンジ色のそれを、懐疑の表情で見つめる。


「これが……何だっていうのさ……」



 これをずっと繰り返すのか?

 これが―――これで、この先に何かあるのか?



 頭上を見あげる。

 ピンポン玉に対して何とも言えない感情が沸く。

 悲しい―――お前も苦労するなあ。


 揺れるピンポン玉を恨みったらしく見つめる真弓。

 別にそういう仕様っていうか、目的じゃあなかったはずの、それ。

 木の枝から吊り下げられたくて生まれてきたわけでもないでしょう?


 瞳を細めて、見つめる。

 ひどい目をしていたと思う、その時の私は。


 私だってそうだよ。

 これでいいの?

 こうしていれば、何かになれるの?

 私がまだ子供だからわからないっていうだけで、本当は何かにたどり着けるの?

 理解力があまりないだけで。



 その日も庭で、弟子もやってきて稽古した。

 あれはあれで胴着来ている連中からは大きな声で挨拶されている父だった。



 父とは型通りの訓練だけするわけではない。

 組手。

 突きでも蹴りでも何でもありだ。

 私は父の顎に正拳を叩き込んだ。

 はずだが、渾身の打撃、拳を受け取られた。

 ぱし、と受け止められる。

 私の正拳は大の男のその大きな手に阻まれてしまう。




 殴り合いでは、駄目だ、分が悪い。

 真弓は冷静に事実を受け入れていた。

 なんだかんだ言って強い父だった。



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