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邂逅


「キャッ......」

「......うわっ」


 足早に生垣を曲がった瞬間、何かにぶつかって数歩後ずさる。人にぶつかったことはすぐにわかった。慌てて腰を折り礼をする。


「申し訳ありません。お怪我はありませんでしたか?」


 相手は男性のようだった。どうせ誰もいないと思い、音量を抑えずに呟いたことに思い至り内心ヒヤリとしたが、男はただ挨拶を返すのみだった。


「いえ、こちらこそすみません。貴女こそ大丈夫ですか?」


 その声に顔を上げると、目の前に美しい顔があった。覗き込むように腰を屈めていたのか、思いがけず近くにあった顔にドキリと鼓動が跳ねる。


「はい。大変失礼致しました」

「いえいえ、私も前を見ていませんでしたから......。貴女もあの場から逃げてきたんですか?」

「えぇ、まぁ」


 一応は主催の一人である自分を知らないのかと訝しく思ったが、ここはその方が好都合だ。私が苦笑を返すと男はにこりと笑った。それは他人用の貼り付けた笑顔ではなくて本物に見えた気がして、またもや鼓動が跳ねる。


「よければ、共に月見でもいかがでしょう。向こうにちょうど良いベンチがあったのです」


 その言葉にやはりこの男は私を知らないのだと確信する。家主に家を紹介する客はいない。


「私でよろしければ。喜んで」


 最善の行動は、断って広間に戻ることだっただろう。しかし私は後悔しそうな道を、間違いを選ぶと決めたのだ。

 生垣の間を抜けていくと、少し開けた場所に出る。さながら迷路の中の小部屋といった風情のその場所には一脚のベンチと小さな噴水があった。


「どうぞ、お手を」


 男の手を借りてベンチに腰掛けると、男も隣に座る。改めて見てもやはり綺麗な顔をした男だった。歳の頃は私より少し上か同じくらいに見える。くっきりとした眉、大きな瞳にスッと通った鼻筋、花弁のような唇。月明かりに照らされた男性にしては少し長い髪は明るい栗色。あまりに整ったその顔はいっそ女性にすら......と、そこまで考えてふと自分も相手の顔に覚えがないことに思い至った。時を遡ったとはいえ、ここまで美しい顔を忘れるとは考えにくい。招待客ならば見たことくらいはあってもいいはずなのに。


「そう見つめられると照れてしまいます」


 男に言われてハッと目を逸らす。


「い、いえ。その、あの、申し訳ありません」


 見惚れていた。その事実が信じられなかった。私は89歳のお婆ちゃまなのよ、と自分に言い聞かせるがまるで説得力がない。そう、あの一歩を踏み出した時からだ。何かを脱ぎ捨てたかのように突然にこれまでの自分が遠くなった。まるで17歳の自分が89歳の時を思い出しているような違和感。動揺が隠せていない自分を自覚して更に動揺していると、男がふっと空を見上げて呟いた。


「月が綺麗ですよ。私の顔より空を見てみてください」


 言われて見上げると、なるほど今日は満月だった。噴水が月明かりを反射してキラリと輝く。パーティの喧騒もここまでは届かない。静寂の中で月を見上げていると穏やかな気分になってきた。今ばかりは隣に人がいることも気にならない。


「......本当。とても綺麗だわ」

「......はい。不思議ですね、景色を見て美しいと感じるのが酷く久しぶりな気がします」

「ああ、そういえば私もです。空なんて、長らく見上げていなかった気がする......」


 そのまま静かな時が流れた。人といるのに話さなくて良いというのはとても楽だったが、何故だか一抹の寂しさも感じる。心地良いこの時間が永遠に続けば良いのにとさえ思ったが、それは叶わない。今頃は私がいないことにも気付かれているだろう。月を見ていた瞳はいつしか噴水に移り、男の横顔に移っていた。


「......お名前を、伺ってもよろしいかしら」


 不意に思い出して尋ねると男は寂しげに笑った。


「............月が隠れてしまいましたね」

「......え?」


 見上げると、確かに月は雲で覆われたのか、見えなくなっていた。


「もう少し共に居たかったのですが、言い訳がなくなってしまった。私はお先に失礼いたします」


 咄嗟に呼び止めようとしたが、言葉が出てこなかった。呼び止めてどうするつもりなのだと思ったからだ。私がそうして何も言えずにいるうちに、彼の姿は夜闇の中に消えていた。


「彼は、誰だったのかしら......」


 私が名前を聞いてしまったから消えたのだとしたら、やはり彼は招待客ではなかったのだろう。もちろん招待状の確認はしているが、こっそり忍び込むこともできなくはない。規模が大きくなればそれだけ部外者も紛れ込む。そう珍しいことではない。


「シュウメイ!」


 突然に名前を呼ばれびくりとする。顔を上げると噴水の向こうに両親がいた。近くにはルエンも控えている。


「......見つかっちゃったか」


 自分を呼んだ声色からして明らかに怒っている父親と、失望と悲嘆を混ぜたような顔でこちらを見る母親、それに困惑した顔で立っているルエンと向き合った私は早くもパーティを抜け出したことを後悔したのだった。



 それから1ヶ月、何事もなく過ぎていった。もとより貴族のご令嬢にやるべきことなどそうないのだ。午前中は習い事、午後には本を読み、刺繍をして、人によっては茶会を開く。


「これではいけないわ」


 ちょうど読み終えた本をバタンと閉じて呟く。控えていたルエンが何事かと顔を上げた。


「ルエン」

「はい、お嬢様」

「出掛けるわ」

「……お出掛け、でございますか……?」

「街へ行くわ。支度してちょうだい」

「は、はい!」



 かくして、ルエンを連れ立って街へ出た私は途方に暮れていた。驚くべきか呆れるべきか、私は89年もこの国で暮らしていながらこうして街へ来たのは初めてだったのだ。もちろん仕事として来ることはあったが、いつだって大勢の護衛が付いていた。


「お嬢様、どちらへ参りますか?」


 そう尋ねるルエンの声は心なしか弾んでいる。彼女は私に付き合って常に屋敷で控えている立場だ。彼女は街へ出てみたかったのだな、と今更ながら思う。


「ルエンはどこへ行きたい?」

「私、でございますか……?」


 キョトンと聞き返すルエンが可愛らしかった。ポカポカと暖かい陽気はお出掛け日和で、物珍しい街並みは心を浮き立たせる。


「ええ、いつものお礼に、好きなものを買ってあげるわ」


 しばらく呆けてから、ルエンはパァっと顔を輝かせた。その年相応な顔に、ひ孫のことを思い出す。17歳の自分がひ孫のことを懐かしく思っているのがおかしかった。


「あっ……えっと、その、私が欲しい…………あぁ!ありがとうございますお嬢様!」

「ルエン慌てなくても大丈夫よ。今日中に決められなかったらまた明日も来ましょう」

「いえ、そんな。あぁ、どうしましょう」

「ほら、あそこのお店とかどうかしら。見てきたらいかが?」


 たまたま通りかかった服飾店を示してそう言うと、ルエンは頬を上気させながらショーウィンドウを見に行く。今だ。ルエンが目を離している隙に近くの路地にすっと移動する。心の中でルエンに謝りながら、私は初めての裏路地へ向かった。

 ドキドキと胸が高鳴る。引き返せと理性が叫ぶ。それに背を向けてぐんぐんと足を動かした。道に迷うことも、危険があることも、もしかすれば命さえ危ういことも理解していた。それでも。このままでは小さな反抗期で終わってしまう。後悔を重ねたその先に虚しさ以外の何かがあるのなら、私はそれが欲しいのだ。この人生に消えない傷を付けたいのだ。

 

 そのままどれだけ歩いただろうか。たぶんそれほど歩いていない。それでも舗装の悪い細い道、歩き慣れない靴、動きにくい服に私は早くも息が上がっていた。ルエンは追ってきてはいない。薄暗い通りに面している店は多くないがどれも怪しげで、胸中は不安でいっぱいだ。どこかで休みたかった。何度目かの角を曲がると、そこは店の裏手のようだった。空の酒瓶が入った箱が積み上げられており、その横には。


「ベンチ……」


 求め続けた座れる場所に腰を下ろす。ホッと息をつくと同時に冷静さも戻ってきた。


「逃げてきてしまったわ……」


 じきに家から人が探しに来るだろうか。すぐに見つかるかもしれない。「はぐれた」と言い訳しようと考えて、自嘲した。ここまでしておいて、まだ『正しさ』を失うのが怖いのだ。間違えることを恐怖している。でも、今だけは一人だ。『正しさ』を『間違い』を糾弾する者はいない。心中に渦巻く不安は相変わらずだったが、一人の気楽さに私は思わず微笑んでいた。


「また会いましたね、月の君」

「え?」


 思いがけず至近距離で聞こえたからかうような声に顔を向けると、美しい顔があった。忘れもしない、1月前パーティを抜け出した日に会ったあの顔だ。だが、信じられない。あの日の紳士的な空気はどこにもなく、そこにいるのは庶民然とした青年だった。服装も質素なものだ。


「あの……貴方は……」

「おや、お忘れですか?」

「いえ、いえそうではなく!なぜ、このような場所に……」

「その言葉そっくりそのままお返ししますよ。ここは貴女のような方が来る場所じゃない。道にでも迷われましたか?」

「それは……」

「それは?」


 その通りです。送っていただけますか。と言おうかと思った。しかし私はまだ何もしていない。これではただの、世間知らずの迷子。問いかけるような男の視線に私は思わず、笑っていた。虚しかった。くだらなかった。なんてささやかな反抗だろう。何も変わらない。


「なんででしょうね。若返って舞い上がってしまっていたのかしら。何をしているのでしょうね、本当に……私は……」


 胸を締めているのはただただ果てしない後悔だった。くだらないことをした、くだらない自分。後悔の先にもやはり虚しさしかなかったのか。


「また、逃げてきたんですか?」

「えぇ、まぁ。そんなところよ」

「なら、俺と逃げるか?」


 男の口調がガラリと変わった。驚いて顔を上げると真剣な強い光を湛えた瞳がこちらを見返している。雰囲気も、無害な庶民然としていたのが、今はまるで野生の獣のようだ。身の危険を感じるべきなのだろう、走って逃げるべきなのだろう。だが、今の私は半ば自棄になっていた。


「それが、本当の貴方なの?」


 その言葉が意外だったのだろう。男はクスリと笑った。


「どれがよろしいですか?」

紳士風に。

「え?」

「どれが本当だと、貴女は嬉しいですか?」

庶民風に。

「……嬉しい?」

「聞き方を変えようか。君はどの俺が好き?」

強く気高い、獣のように。

 男はまるで、服を変えるような気軽さで雰囲気を自在に変えてみせた。


「私は……嬉しい、です。どの、貴方でも」


 口に出して、気がついた。そう、私は嬉しかったのだ。何もない、間違えている私に、「逃げるか」と言ってくれたことが。あの日もそうだった。貴女も、と。肯定された気がしたのだ。


「……なら、俺が一番楽なやつで」


 そう言った彼の雰囲気は、決して無害な庶民ではなく、でも獣という程に他を寄せ付けないものでもない。男は自立した青年として相応しい雰囲気を纏っていた。


「さて、どうする?表通りまで送ろうか?家まで送ろうか?……それとも、駆け落ちするか」


 冗談めかして付け加える。


「そうですね。とりあえず、お名前が知りたいですわ」


 男は目を丸くして、吹き出した。


「ははは、名前か。何者かでもなく、帰りたいでもなく。そうか名前。名前にそれほどの意味があるとも思えないんだがな……じゃあ…………シャオン、で」

「シャオン様……申し遅れました。私はシュウメイと申します」

「ああ、けど覚えなくていいよ。もう会うこともないだろうからな。俺も忘れる……さて、表通りまで送ろう」


 そう言って先に立って歩き出した彼に、何か言いたいことがある気がして、でも結局口に出すことはできないまま、私も彼の背を追って立ち上がった。歩いたのは驚くほど短い時間だった。どうやら私はくねくねと角を曲がりながら、表通りの近くを彷徨っていたらしい。


「ほら、ここを真っ直ぐ出れば、表通りだ。そこまで行けば誰かお前を探してる奴がいるだろ」


 貴人である自分に対して使われるざっくばらんな口調がなんだか新鮮だった。


「ありがとうございます」

「うん」


 彼に背を向け、表通りへ向かおうとした私はそこで足を止めて振り向いた。もう一つくらい後悔が増えたって構わないと思ったのだ。


「あの、私は……またお会いしたいと思います。ですから、覚えておきますね。シャオン様」


 それだけ言うと今度こそ背を向けて歩き出す。私の舞い上がった後悔はもうしばらく続きそうだった。

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