後悔の始まり
暗闇の中、薄く目を開ける。ほぅと息をついて確かめる。
まだ生きていたのか。
私はもう間も無く死ぬだろう。ベッドの傍らでこくりこくりと舟を漕ぐ侍女の気配を感じる。主観的にも客観的にも幸せな人生を生きてきた。後悔がないように、幸せになれるように、ただそれだけを考えて、その時その時にできる最善の決断をしてきたはずだ。バタバタと階下から音が聞こえた。息子と孫の夫婦が帰ってきたのだろう。
ゆっくりと瞳を動かすと、視界の端で扉が開くのが見えた。びくりと、舟を漕いでいた侍女も目を覚ます。ベッドの周囲に集まるのは心配げな顔をした家族。長男は間に合わなかったらしい、次男と孫とその妻と、彼らに見送られて私は息を引き取る。
視界が霞んできた。呼吸はもうずっと苦しい。
人が見れば理想的な最期と言うだろう。私はもう90を目前にしていて、夫も既に他界している。大往生だ。なのにどうして......
どうしてこんなにも虚しいのだろうか。
何一つ後悔がないはずの私の幸福な人生は、ただ虚しさに包まれて閉じたのだった。
部屋に差し込む一筋の光が瞼を透かす。薄く目を開けると、見覚えのある天井が見えた。
まだ生きていた......?
一瞬そう考えるも、違和感に襲われる。
「息が......苦しくない」
声に出せば、その声の若さに驚いた。寝具の下から手を出せば、そこにあるのはしわくちゃの寂れた手ではなく瑞々しく張った肌だ。ゆっくりと体を起こすと体は驚くほどにすんなりと動いた。
改めて部屋を見回すと、そこは懐かしの生家、それも自室であった。右手にはバルコニーに続く大きなガラス戸にグリーンのカーテン、左手にはドレッサーと大きなクローゼット、見慣れた朝の光景だ。しかしもう何十年も前に両親は亡くなり、今は兄の息子である甥が当主となっている。この部屋が当時のままで残っているはずがない。
「まさか......時が、戻ったというの......?」
軽やかに動く体に内心胸が高鳴るのを感じながら私はベッドを下りると小走りでドレッサーに向かい、鏡を覗き込んだ。果たして、そこには若かりし日の自分の姿がある。白髪の混じらないツヤのある赤毛がサラリと流れ落ち、肌は透き通るように白い。繁々と鏡を覗き込んでいるとコンコンとノック音がした。思わず弾かれたように振り返ると扉の向こうから呼びかける声がある。
「シュウメイお嬢様〜朝でございますよ〜」
その声に頭の奥がジンと痺れた。
「......ルエン」
私がその名を呟くのとガチャリと扉が開かれるのが同時だった。扉の向こうにいたメイドはまずベッドに目をやってからすぐにこちらに気づき、にこりと笑った。
「おはようございますお嬢様。本日はお早いご起床でございますね」
「あ......え、えぇ。おはようルエン」
ルエンは当時の私付きのメイドだ。茶色の髪をきれいにお団子にまとめたその姿は記憶のままだ。彼女は私が20歳の頃に結婚してメイドを辞めた。そして、それから程なく若くして亡くなったらしいと後になって人づてに聞いた。その彼女が今生きて目の前にいる。
「お嬢様?どうかなされましたか?」
そう言われて、思わず彼女をじっと見つめていたことに気づく。
「い、いいえ。なんでもないのよ。それよりもルエン、今日は何年の何月何日だったかしら?」
慌てて取り繕いつつ、今一番気になっていることを尋ねるとルエンは何がそんなにおかしいのかクスクスと笑い出した。
「......ふっ、うふふ......お嬢様ったら、わかっておりますよ」
「ル 、ルエン?」
まさか私が時間遡行したことを......と一瞬危惧したが、それは杞憂に終わった。
「今日は星国暦327年の9月23日、お嬢様の17歳の誕生日ですわ」
彼女のその言葉に思いがけず時を遡ったのだという実感が湧いてくる。ここは、本当に、73年前の世界なのか。ということは、1つ年下のルエンは今16歳。そんな内心の動揺を悟らせないよう、私は努めて平常心で言葉を返した。
「そうね、よくわかっているじゃない。さすがルエンね、さぁ支度をしてしまうわ。ルエンは先に行って朝食の用意をしておいてちょうだい」
「............はい。お待ちしております。失礼いたしますね」
ルエンは不満そうにするも、諦めたようにそれだけ言うと退室していった。そういえば支度を手伝うと何度も言われたのを断り続けて根負けさせたのだったな、と思い出す。ひとまず一人になれたことにホッとしつつも、今夜のことを思うと気分が沈むのだった。
目覚めてすぐの時にはまだ私は89歳の老婆の気分であったのに不思議なもので、半日も経つ頃にはあの記憶の方が夢だったのではないかとさえ思えるようになっていた。一人では着られないドレスの着付けや髪の編み込みをルエンに手伝ってもらいながらぼんやりと考える。人の自己認識とはかくも曖昧なものなのか、と。
「はい......できました。よく似合っていらっしゃいますよ、お嬢様」
しばらくしてルエンの声にふと我に帰ると目の前の鏡には着飾った自分の姿が映っていた。赤毛は美しく結い上げられているが、正面からではよく見えない。薄い緑色のドレスは身体を締め付け、病気でもないのに息苦しさを覚えたがそれはきっとドレスのせいだけでもないのだろう。
「ありがとうルエン。パーティは何時からだったかしら」
「16時開場17時開始でございます。そろそろお客様方がいらっしゃる頃合いですね」
分かりきっている開場時間をわざわざ聞くのは習慣だ。これはこれからパーティへ赴く覚悟を決める儀式のようなものだった。
「ルエンは下がっていいわ、会場へは一人で向かうから」
「はい、失礼いたします」
ルエンを見送った私はバルコニーへ続くガラス戸のすぐ脇に置いてある椅子に座る。すぐ横には小さなテーブルがあり、よくここでお茶を飲んだものだ。ガラス越しに見える景色に懐かしさが込み上げた。
「17歳......かぁ、また、やり直しなのかしら」
私は自分の誕生日が好きじゃない。誕生日には毎年パーティが開かれたからだ。年々増えていく招待客、値踏みするような視線、人との会話は酷く苦痛だった。何がそこまで嫌なのか、考えたがわからなかった。そうしていつからか考えることもやめたのだ。
「私の生は、なんだったのかしら......」
死の間際に感じた虚しさが思い起こされた。同時に本当に17歳だった頃のいつかを夢見る心境も思い出す。いつか、何のストレスもなく、幸福感に満たされて逝きたい、当時はそれが夢だったのだ。そしてそのために頑張っていたはずだった。
「......行かなくてはね」
私は頭を振って考えを追い払うと、踏ん切りをつけるように最後に一言呟いて重い腰を上げた。
1時間後、私は疲れ果てて広間の片隅に立っていた。もちろん疲れを悟らせないように背筋を伸ばし顔には微笑を張り付けている。ようやく挨拶に来る人が途切れたところだった。
幸福感に満たされて逝きたい、先程のそれが頭の片隅に引っかかっていた。私はずっと耐えてきた。社交界が嫌でも、窮屈なドレスが嫌でも。それはその日に安眠するためで、明日の朝世界を憎まないためで、自身の幸福と安寧のためであった。今を耐えるという選択がこの場の最適解であると幾度となく判断してきた。それが間違っていると思ったことはない。事実、自他共に認める幸福な人生を生きたのだから。しかし、その終わりがあの虚しさだったのなら、私は何のために頑張ったのだろうか。
何一つ間違えていないのに、その結果が不満であるのなら、「何一つ間違えていないこと」こそが間違いだったのではないか。不意にそんな考えが頭をもたげた。どうして時が戻ったのかはわからないが、今ならやり直せるのだ。
「くだらないわね......」
誰にも聞き咎められないようにポソリと呟く。何を馬鹿なことを考えている。今は誕生日パーティ。私はここの主役。抜け出せば面倒なことになるのは分かりきっている。この場の最適解はこの場に留まること。余計なことをしないこと。そう叫ぶ理性に背を向けて、私はくだらない一歩を踏み出した。
一歩が出てしまえば後は簡単だった。両親が挨拶で見ていない隙に、さりげなく、最寄りの出口に足を向ける。果てしなく遠く思えた、ほんの数メートルの距離。広間から抜ければそこは中庭に繋がっている。
外に出ると夜風がビュウと吹きつけた。視界が一気に暗くなる。月明かりだけの世界がそこにあった。私は足を止めることなく、歩き続ける。迷路のように連なる生垣の間を縫って進む。
まだ間に合う。
すぐに戻れば。
きっと後悔する。
そんな言葉が絶え間なく頭に閃いたが、それを振り解くように私は声に出して呟いた。
「後悔のない人生なんてつまらないわ」