みぞれと手帳
凍り付いた窓を見た。それは鏡のようだった。
私はそれに中指を立てた。それが私の証明だった。
私の名は、みぞれだ。
天井裏の物置、睡眠薬を一箱飲んだ。そして手首を切った。そして気が付けば病室だった。
頭痛のする母親の泣き声、慣れたような看護婦のぼやけた顔、ジンジンする右腕の点滴。ああまあそうさ、分かってたよ。どうせこうなるんだ。
「どうしてこんなことしたの!?」
馬鹿かアンタ。生きたくないからに決まってんだろ。
アンタこそ、なんでそんな当たり前みてェに生きてんだよ。
ことの発端は去年、吹雪の冬。日で言えば一月中旬といったところだ。
私にはその頃から友人なんて存在はほとんどいなかったんだが、物好きな女、雪という名の女は、私のことをずっと友達、友達といって親しくしてくれていた。
その友人が失踪した。
君たちは知っているだろうか。この世には「余命帳」という悪趣味極めたシロモノがある。
それはクラフト紙の表紙のリング式メモ帳のような見た目をしていて、中にはその人間の「余命」と、現在の「人生の価値」とその過去のログがリアルタイムで表記されている。
そう、余命が分かる。
通常、その「余命帳」は、政府やら医療機関やらにすら隠され、人生のネタバレとして厳重に保管され、そして病気やら虐待やらで、順当じゃない、かつ孤独な死に方で死にかけてる奴にだけ、静かにコッソリ渡されるモンだ。
だが私がソイツの存在を知ったのは、そんな時じゃなかった。
それは雪が消えた日だった。薄暗い、もう何処だったか忘れた部屋。机の上には、物好きだったあいつの、止まりっぱなしの小さな腕時計と、二冊の手帳が置いてあった。
それが「余命帳」だった。
雪と、そして私のものだった。
雪とみぞれだ。このくそったれクリスマスシーズンには魔法みたいな組み合わせじゃないか? ま、その素敵な魔法はとっくに溶け始めてるんだがよ。
十二月十八日。町は鬱陶しいイルミネーションどもに寄生されていた。空には星がない。雲か、霧か、はたまた汚い光りに濁されたか。
十五の冬。本来なら人生の中でも一二を争うくらいの輝かしい時間なんだろう。
だが私の「余命帳」はどうだ。無機質で単調な至極見易さに配慮した「人生の価値」のグラフは、その線を地べたに擦り付けたまま、それでも下降しているっつってんだ。ずいぶん豪華な人生だろう?
私はベランダでギターを弾く。左腕の時計は、相変わらずに止まっている。
湿った雪が降ってきた。これまたずいぶんと、親切な世界だ。
なあ、あんたもそう思うだろ。
「今日で一旦、今年の部活は終わりだね」
「うん。いやー、でもほんとに進まないよ、小説。みぞれちゃんは?」
「ううん、私も全然」
……ああ、あんたの言いたいこともわかる。笑えるだろ。だがこれが生き方ってもんなんだ。
十二月十九日。特に何もない日。週一の部活に、今日もまた顔を出していた。
相変わらずのこの雰囲気は、昔とはメンバーも場所も変わっても、相変わらずにこのままだった。それは例え、部員の一人の死が学校全体にアナウンスされたところで。
雪の失踪について、すこし話しておこうか。彼女はもともと、内気で、自分からヒトに話しかけるっていうのが苦手なタイプの奴だった。それはあいつの人生の構造のせいだ。
雪は小さいころから虐待を受けていた。それは私が雪と特別仲が良かったから知った話じゃない。
「余命帳」のもう一つの内容を言い忘れていた。「余命帳」には、その人間が死んだあと、その人生が、一体いつ転機を迎えたのかや、いつどんな感情を抱いたのか、といった内容が追加される。それはその人生を描いた雪、本人の視点から見た世界で、同時に他人の人生に対する、最大級のネタバレでもある。
雪の虐待は、こいつの母親が父親と離婚し、その鬱憤を雪にぶつけたのが始まりだったらしい。それは雪が、小学生の四年生の頃から始まっている。
珍しい話じゃないだろう。この世にある恋愛の大概は、勘違いか、詩的に書いた性欲なんだ。本物の関係なんて、無いと思って生きた方がよっぽど賢い。ま、私はそこに関しちゃ、どっちかってと、バカなんだけど。
そんなこんなで去年の吹雪の冬だ。雪が溶けて消えたのは。
理由は自殺のため。ちょうど「余命帳」にも、その失踪の日の翌日、午前一時十一分ゼロ六秒に雪の死が記されている。なにやら山で、首の動脈を二回刺して死んだらしい。叶うなら死に方じゃなくて、死ぬ瞬間のあいつの頭の中に、一体何があったのかを、知りたかった。
この辺が雪の失踪に関してのお話だ。後日、死体は警察かなんかが見つけて、その七日後に全校集会で先生が、なんかよくわからん、心にもない糞みたいな話と一緒に、雪の死をアナウンスしてた。
私にはまるでそれが、デパートのフードコーナーで流れる安っぽいステレオ並みの温度しかないように感じられたのを覚えている。それは雪とは真逆だった。
「テーマ、クリスマスって、使われすぎてむしろ難しかったね」
「うん。パーティー系にまつわるテーマだったら起承転結も書きやすいと思ったんだけど」
雪と逆といえば、こいつも逆だ。文芸部のイラストリーダーの桜。なんかよく分からないが、常に明るく、時々何言ってるか、本当に分からない。そこから皆が付けたあだ名は、死神。
「パーティーといえば、二十五日の町のパーティー、行かない?」
皆は多分、こいつの言動の不可解な不気味さから死神という名をつけたのだろう。だが私はこいつの、こういう陰キャ殺しの急な誘いをホイホイやってくる、こういう所が一番に死神だと思っている。私かって暇じゃない。第一、私にとってパーティーというものは、一人で行って一人で遊び、一人で帰ってくるような気楽なものなんだ。友達と行くなんてのはめんどくさくて考えられない。
「うん、いいよ」
……私のこういう所が嫌いだ。ヒトに近づく前に自分から自分を砕いて溶け込もうとする。雑魚い私が、本当に嫌いだ。
好きに生きる権利も、誰かを幸せにする力も持ってながら、大抵の人間の人生がこんなに無意味で、こんなに真っ白いのはなぜだろうか。それは人間が、義務と制約に吊るされてなきゃ、権利も自由も感じられない馬鹿野郎だからだろう。
二十日、学校が午前中で終わった。もうすぐ長期休暇が入ってくるからだ。ったく何が休暇だ。休みも暇もあったもんじゃねェじゃねェか。
昨日の雪は溶けて固まり、堅雪になった。踏みつけたくらいじゃ割れない、氷みたいな雪だ。あいつもこうなってくれりゃよかったんだけどな。
さて、何もすることもないし、だらだら散歩でもしようか。休暇の課題もあるっちゃあるが、この脳内環境のままでやったとこで、そのあとにゃ何ものこりゃしないだろう。
吐いた息は雲になる。もう昼過ぎだっていうのに、この気温だ。そりゃあ、みぞれも凍えるさ。
……しかし本当に何もないな、この世界は。
足跡を増やせば増やすほど、世界はどんどん狭くなっていく。私とおなじ歳のほかの人間は、一体何を考えて生きてんだろうか。どうせ一生死ぬまで働くことになるんだから、今くらいは学問もいいだろうなんて考えてんだろうか。
いいや、そんなんで元気に生きれたら、この世に「余命帳」なんてものは生まれなかったろう。
「余命帳」をポケットから出す。
私は急に、霧雪を浴びたくなった。
二年前、また冬。
こいつの人生の価値は、ここで最高を迎えていた。それは私たちの受験期。中学三年のことだ。
雪は勉強だけはできた。それこそ、学年で一二を争うほどに。そしてその時から、私は雪に引っ張られてばかりだった。
私はこんな態度をしているが、ヒトと比べりゃ、全く優れた点のない女だ。勉強もできなけりゃ走れもしない。とかく顔も特筆して良かないし、料理も裁縫も指から血が流れるだけだ。はっきり言って、この学校に入れたのなんかも、雪あってのことだったろう。
雪は私に、こと数学と英語に関して、五十音のアから、アルファベットのゼットまで、とにかく手を焼いてくれた。それこそまるで、私の分まで頑張ってくれと言わんばかりに。
この「余命帳」というものが、一体どのくらい死が近づいたときに渡されるものなのかは私には分からない。だが私は今になって、その時から雪は自分の死を自覚したうえで私を世話してくれてたんじゃないかと思っている。
自分で言うのもなんだが、雪にとって私は、本当に数少ない、それこそ私にとっての学校の友人の人数なんかよりもよっぽど数少ない、生きる理由だったんじゃないだろうか。こいつには、家庭という土台がまず無い。寝て見る夢も悪夢ばかりだっただろう。だからその次、友人という骨組みを頼った。
雪という名前にして、積もるはずの地がとうに砕かれ無くなっていたんだ。だから横から伸びてきた、心もとない柱の先に、ちょこんとしがみつくことしかできなかったんだろう。
それは何にも形容できない、こいつの人生の構造そのものらしかった。
今思えば、雪は本当に強い人間だった。溶けかかった私とは違う。本当に心の芯から固めた自分というものを持っていたんだと感じる。
私は「余命帳」を手にしただけで手首を切った。だがこいつは、存在しないと知ったうえで、その将来のための貯金をコツコツとしていたんだ。何の支えもない状態で。
雪は、私とは雪と墨のように真逆の人間だった。
雪は人生を、ただそこにあるものとして見ていたんだろう。理由や意味の上にあるものじゃなく。
雪の人生がもし、生き方、と呼ばれるものなのだとすれば、私の人生はハナから死に方といった風情だろう。
そりゃあ死神にも好かれるわけだ。
……雨が降り出した。この糞寒い中、なんで雪じゃないんだ――
「あれ、みぞれちゃん!」
――私は見上げた空を置いて、声の方へと顔を向けた。そこにいたのは、死神だった。
「あれ、桜ちゃん。どうしたの? こんなとこで」
こんなとこでも、何も、いつも同じ駅から高校に行っているんだ。たまたま会うことかってあるだろ。
死神は目を逸らし、目尻を下げた。
「ううん、なんでもない。ちょっと気分転換に。みぞれちゃんは?」
「私も。小説も課題も、全然進まなくてさ」
私は「余命帳」を持った手で、胸を抑えた。チャックの鉄と生地のナイロンが、固めた凍える指に触れる。
「……うん、そう。本当に、小説も、課題も進まないんだよね。冬休みなんてすごい短いんだから、もっと課題少なくていいと思うんだけど――」
「うん、本当に……」
桜はこちらに目線をやった。それに合わせて、私は桜から目を逸らした。もとより目を見て話す、なんてことのできる人種じゃない。この行動は、私にとって当然の行動だった。だが、それを一瞬で後悔した。
「――ねえ、それ……」
……私がギターをやってることは皆よく知ったことだろう。私の唯一といっていい特技だ。音楽をしていると、それまで知らなかったいろんな表現の名前を知ることができる。例えば、ジャカジャカとした音の連続の中で、一瞬だけ音を止める、あの演奏法。あれは音楽の用語で、ブレイクっていうんだ。
私の心臓は、ブレイクを挟んだ。
「え?」
私はまるで分裂したようだった。すべてを察し、心底焦る私と、何のことだか全く分からず、ポカンとしている私とに。
「それ……もしかして、余命帳……?」
死神は形容しがたい顔をしていた。が、その表情はすぐに解け去った。
当然だ。私の表情のがよっぽど形容しがたかったろうから。
初雪が降った。高校、初めての冬。それは初雪にしては、とても激しい雪だった。
中学二年生の、クリスマスイブの日。わたしは死神ちゃんこと、桜ちゃんのお母さんから、すこし変わったプレゼントをもらった。それは、「手紙」付きの少し小さなプレゼントボックスに入った、クラフト紙の表紙の、あまりわたしには馴染みのないメモ帳のような見た目をしたものだった。
それはわたしの「余命帳」だった。無知なわたしは、それを初めて自分の手に取ってみるまで、それの名前さえも知らなかった。
そしてその日から、わたしの日常は、真っ暗な、目に見えない水面の下で、ゆっくりと溶け始めた。
わたしは「余命帳」を受け取った。それは事実上の、死刑宣告だった。それも、ただの死神の死刑宣告なんかじゃなかった。
それはわたしの死を告げるしるしであると同時に、桜ちゃんのおかあさんの、複雑なカミングアウトでもあった。
この「余命帳」の存在を他人に伝えないこと。この「余命帳」のことは、どこの誰も知りません。あなたがあなた自身の「余命帳」を持っているという事実も、知る人はどこにもいないでしょう。
この「余命帳」は、あなたの「余命」と「幸福」を記した手帳です。何も書き込まなくても、随時勝手に更新されますので、感覚としては「端末」として見ていただいた方がいいかもしれません。
ここに記された「余命」と「幸福」は、十分なデータをもとにし、正確に測定された数値です。ここに記された「余命」は、仮にあなたが足に岩を結びつけ、湖に沈んだところで変化はしません。
しかし「幸福」の数値は変化します。これを基準に、幸福を求めてください。
この「余命帳」は、死期の近づいた人が最期まで生きる希望を失わず、後悔のない最期の時を過ごせるようにと作られたものです。
この「余命帳」を受け取ったのなら、あなたは長くは生きられないということでしょう。しかし、裏を返せば、ここに記された「余命」を使い切るまでは、あなたは何をしたって生き残るということです。
ならば幸せに生きましょう。これはあなたの人生が、あなたのものになったという証明です。
幸福を。生命を。ただ祝福を。死神より。
「……くそったれに、悪趣味だな」
吹雪は窓をガタガタ鳴らす。薄暗い屋根裏部屋は、またもや雪にまかれていた。
「私は……体中に、癌を持ってる」
死神は地面を見て笑った。そのほほえみは、底なしに残酷だった。死神はぼそぼそと呟くように言った。
「私の体は……ううん、私の家系はもともと短命の、強い強い癌家系なの。それこそ、ここまで血が続いてきたのが、不思議なくらい」
死神は胸を押さえた。その手には、ピンクの透明な、プラスチック製表紙のリング式手帳が握られていた。
それは、死神の「余命帳」だった。
「私の体は……もうとっくにカウントダウンを始めてる。私の癌は……もういろんなところに寄生している。それは、膵臓に始まって、お腹、そして血管に憑いてる。癌は私の……大動脈にいる。それは血管をふさいで、鼓動するたびに、私に雑音を聞かせる」
死神は、背中を丸めた。その背中は、あまりに小さかった。
「私の余命は、長くはない。……抗がん剤のすごいめまいと吐き気も、とっくに慣れるほどに日常になった」
死神はこっちを向いた。私はまた、目を逸らしてしまった。腕時計は、凍えている。
「けどね、みぞれちゃん。私はそれでも、いいと思うの。私はこの雑音のお蔭で、やっと自分が生きてることを知ることができた。それまでの私は、お祖母ちゃんやおじいちゃん、そして雪ちゃんを失っても何も、自分の命と何の関係もないと思って生きてきてたの。それは私からしても残酷で、まるで死神のような価値観だった」
桜の声は揺れていた。それは動揺や悲しみなんかじゃない。ただどうしていいか分からない、困惑したような、不安定な抑揚だった。
私は何も言えなかった。それはいつもの、人のいい私を演じて、相手の話を最後まで聞こう、なんて気持ちで黙っていたんじゃない。
私には、桜や雪と、一緒にいる権利はないように思えた。ただそれだけだった。
「私は本当に、死神だったのかもしれない。周りの人が、友達が、どんどん死んで、次は私の番になった。みんなの言うとおりだった。私は、死神だった」
桜は顔を手に埋めた。風には、雪が混ざり始めた。
桜には雨が降っていた。
十二月、二十一日。家。外は相当、吹雪いていた。
「そういえばお母さん、私の昔使ってたバッグってまだある?」
思い出した。あの日、あの「余命帳」を知ったあの日、あの場所には「余命帳」と腕時計のほかに、五枚の手紙があったんだ。
「うん、屋根裏の倉庫にあるわよ」
「うん、ありがと」
「みぞれ」
「うん、大丈夫。もう、死なないよ」
私は階段を上った。
トタトタトタトタ……屋根裏。
二十分かけて、やっと中学時代からの相棒だった、肩ひもの切れたリュックを見つけた。中を探すと、サイドポケットから、例の五枚が見つかった。
「どうしてこんな点数取れるの!」
お母さんは、私にテストを投げつけって言った。
「でも……でも、平均が四十点だったんだよ。いつもよりも二十点も低かったの。いつものだったら、九十点だった――」
「うるさい! そうやって言い訳ばっかり! ろくに点数も取れないで、人とばっかり比べてんじゃないわ! 情けない!」
お母さんは私を蹴り飛ばして、私の部屋を出て行った。そこには、痣のついた私と、七十六点の解答用紙が捨てられていた。
私は腕に爪を突き立てた。ほとんどまったく痛くない。それくらい私は弱かった。
また、何にも、とけなかった。
……窓の外は、不気味なほどに静かだった。重い空と、風の吹かない坂道と、遠くのあぜ道。その日、私は朝のパンを除いて、何の熱量も得られなかった。
雪はまた、固まるばかりだった。
この「余命帳」は、桜の母から雪に渡されたものだった。それも中学の二年。失踪のほぼ丸二年前だ。桜の手帳でさえ、つい先月に渡されたものだということだ。雪の死は、それだけ特別だったのだろうか。それとも逆に、桜はあと二年も、ああして苦しみ、生き続けるんだろうか。
私は一枚目の手紙を置いた。そして、二枚目を手に取った。すこしよれた、手書きの手紙だ。どうやら二枚目から四枚目まで、この手紙と同じらしい。
雪ちゃんへ。桜の母です。箱の中身は、もう見てくれましたか。それは「余命帳」といいます。雪ちゃんへの、大切な大切な、クリスマスプレゼントです。
雪ちゃんには一つ、大切なお話があります。それは、雪ちゃんにしか決められない、とてもとても、大きな決断の話です。
一枚目の、手紙【余命帳とは】という手紙には、この「余命帳」に記された「余命」は、変化しないと書いていました。
しかし、それは、間違いなのです。この「余命帳」は本人の手に渡るまで、実際は内容が確定しないのです。
これが本人の手に渡る。それまでは、第三者は、なんとなくしかその内容が分かりません。
この箱のなかには、二つの余命帳が入っています。
それは、雪ちゃんと、もう一人。みぞれちゃんの、「余命帳」です。
もう分かってしまったかもしれません。雪ちゃん。それをあなたに決めてほしいんです。
雪ちゃんとみぞれちゃん。あなたたちの「余命帳」は、生きる環境や性格が大きく異なりながらも、非常に酷似し、また、内容におかしなダブりがあるのです。
もったいぶっても仕方ありません。結論を、告げます。
雪ちゃん、あなたか、みぞれちゃん。二人のどちらかが、二年後、必ず、なくなります。そして残されたほうは、そこから、観測できる目いっぱいの、今から三年後の時点まで、ずっと価値のない人生を歩むことになるのです。
私には、それを決める権利はありません。しかし、終末の近づくあなた達に、これを渡さないことも、できないのです。
無力で、無責任な私を許してください。
そしてどうか必ず――
「必ず、後悔のないように。そう願うことしか、私には叶いません。か……」
なるほど、これは確かに、死神だ。だがもっとタチの悪い点がある。それは、自分の手で殺さないことだ。
「みぞれー! 何やってるのー? 大丈夫ー?」
お母さんの声だ。五枚目の手紙は読めなかった。
「大丈夫だって! 今降りるよ!」
そうか、どうやら、生きるしか、なさそうだな。
うっすらと、粉雪が降っている。
十二月の二十三日、冬休み前の終業式の帰り、駅。
「はあ……」
電車が来るまで三十分もある。人通りより風のが多い一番乗り場の沈黙。普段より、ずっと疲れた感覚がある。
スカートのポケットから「余命帳」を取り出す。思い返せば、桜の「余命帳」は、私たちのと見た目が違った。あれは単に、持ち歩きやすいようにそうしてあるだけなのか、それとも「余命」の残りの少なさで変わるものなのか。どっちにせよ、あの手紙は、私たちが異例だってことを言っていた。……今はそれだけで充分だ。
……雪は、私の代わりに死んだのか。もしかすると、今このベンチに座って暇してたのは、雪だったかもしれないな。
雪はなぜ、自分が消えることを選んだんだろう。まあそりゃ、口だけなら「私だってそうするよ」なんてのは簡単に言えるだろうさ。
でも、いざ実際に、自分か誰かの、大切な方を選べって言われたら、そんなの、選べないじゃないか。
もし桜のお母さんに「余命帳」を渡されたのが、雪じゃなく私だったとしたら、私は雪を残して死んだかな。
ひとつ、これは正解でも事実でもあってほしくない仮定なんだが、私は、雪は、自分より私の方がより「幸福」に見えたんじゃないかと思ってる。
よく人は、何も知らずに言うじゃないか。「虐待を受けて育った人間は虐待をする親になる」なんてのは。
人間だれしも、嫌な思い出の一つや二つあるだろう。私もその「だれしも」に含まれる人間で、私は小さいころに父親を亡くしてる。
とてもじゃないけど良い親じゃなかったし、死んだのも酒とタバコのやりすぎで、はっきり言って自業自得だった。
けど、そんな親でも親は親なんだ。父親の背中は神話となり、母親の笑顔は指標となる。よく言う話じゃないか。虐待もこれと同じだ。
親がどうあれ、子供はそれの、憧れた部分だけをよく飲み込んで育っていく。そして親を信頼する。もし子供が親をただのイチ人間としてしか見ていないなら、あんたも多分、こんな人間の話を聞くことさえもできずに、クズ野郎として「余命」を「幸福」探しに使ってただろうさ。
雪は、そこに関しちゃバカだった。雪は、親の大嫌いな部分、暴力を振るうところ、暴言を吐くところ、そして、自分のことしか考えないところを、全部かなぐり捨てて、振り切って生きてきた。
雪は、強かった。溶けかけた私とは違う。だから、私はこうして、生きている。このことだけが、雪の思っていた「幸福」の形がどんなものなのか。それを表してくれている。
雪はもう、溶けてしまった。
時計の針は、相変わらず、止まっている。
粉雪はまだ、音も立てずに降っていた。
遠くから、踏切の音がした。
やっと電車が来たらしい。それと同時に、私は電車に乗る前からうたた寝していたらしい。
雪は止んでいた。風が吹いた。
私は周りを見渡した。そこには一人の女性が立っていた。無表情で線路を見下ろしながらボーっとしている。
私はリュックをつかんで立ち上がった。そして前に出た。
女性の目線を追って、線路を見下ろす。そこには――
――そこには小さな少年が倒れていた。
左耳から、電車の音が聞こえてきた。ホームのスピーカーが騒ぎ出した。
私の心臓は、とても私のものとは思えないようなスピードでビートを刻みはじめた。
電車の音は徐々に近づいていた。
私のしたことは一つ。私は足を踏み出し、重力に身を任せた。それは、雪のと同じことだった。
少年を線路の外に振り投げる。全身に走る衝撃。そして最後に見たものは、黒いプラスチックの表紙の手帳、あの「余命帳」を無造作に握りしめた女。
雪の、母親の顔だった。
十二月、二十五日。午後の七時を回ったところ。
一昨日の少年、いや雪の弟、晴という少年は、いまだ意識不明らしい。電車の事故というよりは、母親に突き落とされたときに線路に頭をぶつけた、脳震盪のが危険だってことだ。
「すごいね、みぞれちゃん。普通そんな時、すぐに飛び降りようなんて、思ってもできないよ」
公園の広場、町のクリスマスパーティー。桜と一緒に来ている。
一昨日、私は電車に轢かれた。といっても、まともにぶつかったのは右腕だけで、その他は意識を取り戻した瞬間から普通に動いた。今はその右腕にだけ、ギプスをして歩いている。
「ふつうならね。でも、私はもうしばらく、死なないから」
桜は、目尻を下げた。口を押え、静かに笑っている。その手には、あのピンクの手帳が握られていた。
「ふふっ。そう思っても、できないものでしょ」
桜の余命は、あと半月らしい。
「ふふふっ……そうかもね」
桜が私の方をまっすぐ向いてきたせいで、私はまた、目を逸らしてしまった。
あの少年……晴の手帳は、多分あの糞親の持っていたあれだろう。これから晴は、どうなるんだうか。
それに、今になって思い返せば、本当に気兼ねなく会話ができる親しい友達は、部活の中でも桜だけだった。雪が消えた今、桜が散ってしまえば、私は今度、何のために生きていいんだろう。
「……みぞれちゃん」
桜が手を握ってきた。その手は、私のよりもずっと、生きている人の温もりがした。
「うん? 何?」
私は一瞬驚いたけど、まるでふつうの私のように返した。目を向けると、桜とばっちり目が合った。
「……ありがとう」
「え?」
「本当に……」
「……うん、私も」
……これがもし……この言葉が、もし、本当に死神の言う言葉なのだとするならば、あの世は案外、いい場所なのかもしれない。私は気づかないうちに、うつむいていた。
「……ごめん」
「……ううん」
私は桜の方を向いた。瞬間、桜は私の手を引っ張った。
「さ、行こう! 今年のクリスマスも、あと五時間しか残ってないぞ! さ、遊ぶよ! 遊べるうちにね!」
桜は私を引いて走り始めた。まったく、こっちはギプスだってのに。
「うん! ……あ、まって!」
私は空を見上げた。
「うん? ……あ! 雪!」
今年は、ホワイトクリスマスらしい。ツリーの光で、一粒一粒が輝いている。それはまるで、星のようだった。
「……さ、行こう! 桜ちゃん!」
「……うん!」
私は桜の手を引いた。さあ、幸福を、生命を、そしてなにより、祝福を、目の前の、あんたへ。
あんたたちより、生きる者たちより。