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「公爵家令嬢カーリン・グラウプナー。今ここに、私――フリッツ・ランメルツとの婚約破棄を宣言する」
煌びやかなシャンデリアの下、朗々たる声が響く。
決して張り上げたような大声ではないにも関わらず、その声は、広い会場の隅々にまで渡った。
――そう、ちょうど今、入口から入ってきたわたしの耳にも届くほどに。
扉が閉まる音を背後に聞きながら、さっぱり状況の掴めないわたしはぱちくりと目を瞬く。
本日は五年に一度開かれる学園の創立を記念したパーティーの日。学園に通う貴族の子息子女の皆々様が思い思いに着飾って、食事やダンスを楽しむ、はずなのだが……。
皆の視線の先――会場の中央では、金髪金目の美丈夫、我が国の王太子フリッツ・ランメルツが彼の婚約者であるカーリン・グラウプナーを睨み付けるようにして立っていた。
フリッツの半歩後ろには、老人のように白い髪を持つ儚げな少女が怯えるようにカーリンを見ている。彼女はこの学園ではちょっとした有名人なので、たとえ取るに足らない騎士爵家の娘だろうと名前を把握している。
レーナ・ギーセン。
この国では珍しい「治癒能力者」だ。治癒能力者とはその名の通り、怪我や傷をたちどころに治してしまう力を持つ者を指す。歴史上に稀に登場しては国の力となり、時代や国によっては聖人として崇められることもある。
特別な人間であることは間違いないレーナだが、その一点のみで有名になったのではない。彼女がこの学園の全女子生徒から注目を浴びる――もとい、顰蹙を買うようになったのは、気に入った異性に色目を使い、たとえ婚約者がいようと略奪してしまう悪癖があるためだ。
そんな彼女と王太子フリッツが共にカーリンに対峙する構図を見れば、今来たばかりのわたしでも何が起こっているのか把握できた。どうやらレーナの悪癖は、我が国の王太子にまで及んでしまったらしい。
しかし事態を把握しても、理解にはほど遠い。いや、脳が理解を拒むと言うべきか。何しろわたしの家はフリッツ王太子を支持している。ついでに言うなら、わたしの婚約者は王太子と乳兄弟で、もちろん王太子派。昨年ようやく立太子を終えて派閥闘争も落ち着きを見せてきたというのに、こんな大失態をやらかされては困る。非常に困る。
王太子の少し後ろに婚約者が立っているのを見つけたけれど、彼はわたしの方をちらりとも見ずに、王太子の背中――というより、レーナの背中を見つめていた。
……そうですか、あなたもですか。
「――では、わたくしがレーナさんをいじめて危害を加えたために、王妃には相応しくないと仰るのですわね?」
カーリンの少し苛立った声が響く。
王太子フリッツとレーナは、わたしが現状を分析している間に、カーリンがレーナをいじめていたと告発した。
その際の証拠は目撃証言のみとお粗末なもので、思わずわたしの眉根が寄った。その程度で、この会場中の人間を納得させるつもりなのか、と。
あまりにも――そう、あまりにもやる気が感じられない。
「そうだ。そして、何もそれはカーリン、お前だけではない。レーナのいじめに荷担した人間は、複数人いることが分っている」
フリッツが視線を何人かの令嬢に向けた。それがいじめへの加担者ということなのだろう。最後の方にわたしの方へも視線が投げかけられた。
はて、全く心当たりがない。と、首を傾げていたら、よく見れば他の令嬢たちも同じように困惑を表情に浮かべていた。当然だ。フリッツが視線を送った令嬢たちは皆、カーリンの友人なのだから。
カーリンはレーナの希少性と有用性をよく理解していた。王太子であるフリッツが彼女に興味津々であっても、むしろ国に繋ぎ止めるには良いこととして放置していた。友人たちにもそう言って、不必要にレーナへの敵対心を抱かないようにと諫めていた。レーナがこの国に愛想を尽かしてしまえば、他国に取り込まれる隙を作ることになる。行き過ぎた振る舞いはカーリン自身が宥めるからと、わたしたちには静観を貫くことを求めた。そしてわたしたちはそれに応えた。
レーナがいじめられていたという話がまるきり嘘だとは思わない。しかし、今フリッツが示した令嬢たちが行っていた可能性は限りなく低い。
そもそもフリッツとレーナが言っていたいじめ――教科書を破いたり、ものを隠したり、仲間外れにしたり――だなんてやることがみみっちい。わたしたちが本気でかかればその程度に収まるはずがなく、レーナの実家がなくなるぐらいのことは……ああ、いえ、そんなことを考えている場合ではないみたい。
ちょっとこれは、大変なことになってきた。いや、王太子の婚約破棄宣言だけでも充分大変なことだけど。
フリッツが後ろ側に立っている男性たちに視線を送ると、彼らは一歩前に踏みだし、各々の婚約者の名を呼んだ。
「ダニエラ・ハルツハイム伯爵令嬢。君との婚約を破棄する。君が、そんな人だとは思わなかった」
「ジビラ・ミューレン! か弱い女性に寄って集っていじめを行うなど次期侯爵夫人に相応しくない。婚約を破棄とする!」
次々と行われる婚約破棄。
わたしも、婚約破棄をされた令嬢たちも、ただただ勢いに飲まれて呆然としていた。中には驚きよりも怒りが勝ったようで、悔しげに唇を噛んでいる者もいたけれど。
ともかく、常にカーリンの傍にいるような令嬢たちは皆、婚約破棄を突き付けられた。最後に残ったのは、会場の隅に居るわたし。
カツン、カツンと靴音が鳴り、わたしの目の前に婚約者が立った。長身の彼は、わたしよりも頭一つ分以上背が高い。威圧するように見下ろされる形になり、わたしは怯んだように半歩足を引いた。
「ブランケ伯爵家長女、エルナ・ブランケ嬢」
殊更にゆっくりと、彼はわたしの名前を呼んだ。
そして――――
――そして、片膝をつき、跪いた。
……。
…………。
………………え? なんで跪いたの、この人?
困惑を表情に出さないように努めるわたしの手を、彼はごく自然な動作でするりと取る。
そうして視線をあげ、わたしを見る婚約者の瞳には、婚約破棄を宣うような雰囲気とはほど遠い熱がこもっていた。端正な唇を開き、彼は言う。
「――どうか、結婚を前提に、婚約破棄をしてください」
まるで騎士が忠誠を誓うように。愛しい人への愛を乞うように――わたしの指先にキスを落とした。
「……」
次から次へと行われる婚約破棄に、ある意味盛り上がっていた会場が水を打ったように静かになった。そう感じたのは、わたしの意識が遠くに行っていたからだろうか。それとも本当に静まり返っていたのだろうか。そんなことも分からない程、わたしは混乱していた。
しばらく黙り込んだわたしがようやく口にした言葉は、
「……は?」
だった。
だって、何かがおかしい――そう、わたしの婚約者だけ、何かが違う。まあ、何が違うかなんて明白なんだけども。
「結婚を前提に、ってどういうこと?」
婚約を破棄したいのか、したくないのかどっちなんだ。
未だ手を放さず、下からわたしを見上げてくる婚約者は、甘く蕩けるような微笑を浮かべた。
「そのままの意味だよ、俺のエルナ。親が決めた政略結婚ではなくて、俺は俺の意志でエルナに結婚を申し込みたい。だから、婚約破棄を受け入れてくれないか?」
「え、嫌よ。手続き増えるだけじゃないそんなの。何? あなた、この混乱に乗じた茶番をしに来たの?」
冷たくあしらったにもかかわらず、彼はこっちがくすぐったくなるような嬉しそうな笑みを浮かべ、もう一度、今度は手の甲に唇を押し付けた。
「うん、そうだね。こんなのは茶番だ。取るに足らない騎士爵家の娘がいじめられていようと、本来ならば王太子殿下ともあろう人が気にかけるようなことじゃない。ましてやそれを理由に婚約破棄なんて横暴が過ぎる。だから、それは口実で本心は別にある。そうは思わない、エルナ?」
全く思わない。
何しろフリッツ・ランメルツだ。自分が世界の中心だと当然信じているような、王子らしい傲慢さをその身に溢れんばかりに持っている男だ。どんなことをしたって、彼にとって「横暴」なんて単語に抵触することはないだろう。
そう言いたいのを堪えて、わたしは笑みを取り繕う。縋るような瞳で、婚約者がわたしを見上げていたからだ。それにこれは「茶番」だとこの人が言ったのなら、そうなのだろう。
「そうね。では、殿下の本心とは何なのかしら? そう言うってことは、あなたは分かっているのよね? ローラント?」
婚約者――ローラントは、慈しむような笑みを向けて、わたしの指に自分の指を絡めた。たぶん、さり気なくわたしが手を放そうとしたからだ。絶対に放さないという意志を感じる。
「もちろん、殿下たちも俺と同じだろうね。自分の口で婚姻を申し込むために、婚約破棄を決意したんだ。もしくは、つれない婚約者の嫉妬を誘おうとしたのかも。だって、そうでなくては何度考えても分からない。あんなにも杜撰な目撃証言だけで公爵家の令嬢――それも自らの後ろ盾であるグラウプナー家の令嬢を貶めようだなんて」
なるほど、どうりでやる気が感じられないわけだ。ローラントが全く手を貸していないのなら、あのお粗末な証言で堂々としていられるのにも納得が行く。ローラントが協力していたら、きっともっと確実な証拠を捏造してくるだろう。
「ローラント! お前、何を言っている? レーナをいじめた女を、まだ婚約者だと認めるのか」
フリッツ王太子殿下がつかつかと歩み寄り、ローラントの肩を掴んだ。ローラントは機嫌悪そうに眉根を寄せたけれど、すぐに表情を取り繕って立ち上がった。それでもまだわたしの手を放さない。いい加減に放してくれないものだろうか。
「殿下こそ、何を仰っているのですか? そんな理由で婚約者に愛想を尽かすわけがないじゃないですか。まあ、たとえエルナがどんな悪事を企み働こうと、俺はこの手を放しませんけど」
いや、放してくれないだろうか。
「ところで殿下。治癒能力者と王族は縁を結べないことはご存知ですか?」
「もちろん知っている。何百年前かの王族が無理に治癒能力者を娶り、その能力を搾り取り、一波乱あったせいだろう?」
一波乱どころか、あわや国が崩壊しかける大惨事に発展したとわたしは記憶している。
「だが、それは治癒能力者を非人道的に扱ったことが発端だ。大切にすれば問題ないことだろう?」
「ご冗談を、殿下。王宮の決まり事をねじ曲げることは、たとえ殿下だろうと叶いません。国王陛下となればまた話は別ですが、本気でグラウプナー公爵令嬢との婚約破棄をなさるというのなら、それもまた叶いません」
「どういうことだ?」
不可解げに眉間にしわを作るフリッツ王太子。
いや、本気で分かっていないの? こっちが「どういうこと?」って言いたいんだけど。
「殿下が王太子となれたのは、グラウプナー公爵の後押しがあったためです。今や王家に匹敵する権力を持つグラウプナー家です。ご令嬢の婚約が破棄となったら王子といえど、容赦はなさらないと思いますよ」
そして、そばに居て諫める立場にあったわたしたちも当然のことながら流れ弾を食らう。特にローラントなんて、フリッツの乳兄弟であり側近だ。グラウプナー公爵に睨まれる前にと家から追い出される可能性が高い。……そうなっても、彼はこの手を放さないつもりだろうか。
ふとフリッツと向き合っていたローラントが振り返ってわたしを見た。
「どうしたの、エルナ?」
「え?」
「エルナが手を握り返すなんて、珍しいから」
言われて、ローラントに取られて放置していた手が握られているのに気がつく。……完全に無意識だった。
「今は、いいでしょう。そんなこと」
「何言ってるの、大事件だよこれは。何かあったのエルナ?」
「今はわたしのことより殿下のことでしょう? 早く話に戻らないと、あなたに婚約破棄されたってお兄様に言うわよ」
「つまりですね、殿下。殿下がもしも本気でグラウプナー公爵令嬢との婚約を白紙にし、レーナと婚約をするなどと宣った場合、グラウプナー公爵は怒り狂い、殿下を抹殺します。物理的にか、社会的にかは分かりませんが、今のままでは居られないことは確実です。もちろん国王にもなれません。それでもこの婚約破棄は茶番ではないと言えますか?」
くるりとフリッツに視線を戻したローラントはやや早口に言う。
そんなにお兄様に報告されるのが怖いだろうか。何故かローラントはお兄様を苦手としている。優しく聡明な方なのに。
「当然だ――」
「ご、ごめんなさい、カーリン様!」
フリッツの声に被さって、可愛らしい声が響いた。
声の主は、白い髪の儚げな少女。レーナ・ギーセンだ。
彼女はカーリンに向けて、深く頭を下げていた。
「あ、あたし、嘘をつきました。カーリン様や他の方々にいじめられてなんていません。フリッツ殿下が協力をして欲しいと仰ったので、それで、嘘を……でも、これ以上の嘘はつけません……」
罪悪感に打ちのめされたといったふうに言葉尻をしぼませるレーナ。
彼女が前言を撤回したのは、このまま行くとフリッツの身が危険に晒されると知ったためか、それとも己自身に災禍が降りかかる可能性までも汲み取ったためか。
どちらにせよ、当事者たる彼女の言葉によって、今この場で起きたことは、ローラントの思惑通りに全て茶番に成り下がった。
「何を言っている、レーナ! いじめられていたのだろう? 私の前で泣いていたではないか!」
「殿下、もうやめましょう……こんなことをしても、カーリン様を傷つけるだけで、とても愛などは望めません。婚約者様からの愛を確かめたいそのお気持は分かりますが……」
レーナは眉を下げ、瞳を潤ませる。今にも泣き崩れてしまいそうな儚さだ。
さすが、何人もの令息を手玉に取ってきただけはある。堂に入った演技力と保身力だ。
「婚約者からの愛を確かめたい」とはっきり言った彼女は、どうやらローラントの用意した筋道に乗っかることに決めたらしい。
フリッツの方を説得するかに見せかけて、ローラントは初めからレーナを煽っていたみたいだ。
よく考えれば、フリッツが耳を貸さなかったからこんなことになっているのだから、今さら話を聞き入れてもらえるはずがない。狙いをレーナに定めたからこそ、ローラントは何度も口にしたであろう言葉を懇切丁寧に説明していたのだろう。フリッツではなくレーナに聞かせるために。
「待て、レーナ。何の話だ、それは」
「ごめんなさい、殿下、カーリン様……あたしも、未来の王と王妃であるお二人の仲を取り持ちたいと頑張ったつもりですが、これ以上は、もう……こんなやり方はやっぱり間違っていると思うんです。お二人できちんと話し合うべきだと、そう思うんです」
「レーナ!」
フリッツの言葉を遮って畳みかけるように言ったレーナは、「ごめんなさい」と謝罪して、わたしが入ってきた出入口とは反対側の扉から軽やかに出て行ってしまった。シャンデリアの明かりを受けて光る、雫をこぼしながら。
お見事。鮮やかな退場だ。
「殿下。今のは、どういうことですの?」
「カーリン……っ!」
レーナを追いかけようとしたフリッツをカーリンが引き止める。カーリンに腕を掴まれたフリッツは顔を引き攣らせた。
「少し、別室でお話しする必要があるようですわね。行きましょうか、フリッツ殿下」
カーリンは涼しい顔で、線は細いがそれでもそれなりに立派な男であるフリッツを引きずるようにして、わたしのすぐ後ろの扉から出て行ってしまった。
フリッツは抵抗しようと足を踏ん張っていたが、無駄な努力だ。カーリンは「怪力能力者」なのだから。
優雅な仕草でティーカップを粉砕したのを見たその日に、わたしは彼女には逆らうまいと心に決めた。下手に怒りを買ったら、うっかりで腕の一本や二本折られてしまいそうだもの。
家の後ろ盾云々の話を抜きにしても、一体どうしてカーリンを敵に回そうと思えるのか。フリッツの思考回路はさっぱり理解できない。扉の向こう側から情けない悲鳴が聞こえたが、やむなし。希有な治癒能力者・レーナがいるので多少の怪我はなんとかなるだろう。
ちなみに、カーリンがレーナの演技を見破ったのかは定かではない。もしかすると彼女が怒っているのは、フリッツがレーナに協力を頼み、無理に嘘を吐かせたことなのかもしれない。
騒ぎの中心人物たちが消え去って、あとに残されたのは、婚約破棄を突き付けた令息と突き付けられた令嬢たち。それから無関係な巻き込まれただけの学園生徒。微妙な空気が流れるこの場は、もはやお開きにしてしまう他ないだろうとローラントに視線を送ると。
「エルナ。ダンスを踊ろうか。せっかくのパーティーだからね」
空気を読まない発言が返ってきた。
楽士たちも空気を読んで演奏を止めているというのに。
「喜んで、と言うとでも? だいたいは理解したけれど、一通りの事情は説明してもらうわよ。あなたの口から、改めて」
「……分かった。残念だけど、エルナと踊るのはまたの機会にしよう」
そうして、学園創立を記念されたパーティーはなし崩し的にお開きとなった。