僕と彼女とミモザの日
夕方帰宅した時、彼女はキッチンにいて、晩ご飯の支度の真っ最中だった。
洗い物の途中らしく、シンクの前に立っている。水道から流れる水の音のせいで、どうやら僕が帰った事に気付いていないらしい。
ふと悪戯心が湧いて、僕は玄関に荷物を置くと、彼女の背中に足音を立てないようにそろそろと歩み寄った――そして両腕を伸ばし、ほっそりした身体を後ろから抱き締める。
直後、彼女は驚いたようにびくっと身体を跳ねさせ、手にしていた泡だらけのスポンジをぽろりと取り落とした。
「……も、う………」
僕の腕の中でもぞもぞと身を翻した彼女が、眉間に浅く皺を寄せ、少し咎めるような表情で僕の顔を見上げてくる。
僕は苦笑いと共に「ごめん」と謝罪して、それから「ただいま」と続けた。本気で怒っていたわけではない彼女も、それを聞いて小さく頷き、微笑んでくれる。
「今日の晩ご飯、何?」
僕が尋ねると、答えようとした彼女の唇がかすかに動いた――けれど、そこから声が発せられる事はない。
途端に彼女は眉根を寄せて困ったような顔をして。それから傍らのガスコンロの上の鍋を、白い指で示してみせる。
鍋の中身は、薄茶色の出汁で煮込まれたニンジンとタマネギとジャガイモ、それから薄切りの豚肉。
「……肉じゃが?」
少し考えてから僕が問いかけると、どうやら正解だったらしい。彼女は再び微笑してこくこく頷くと、僕の背中に両手を回してぎゅっと抱き締めてくれた。
伝わってくる体温が、なんだかとても心地良い。幸せな気持ちに包まれながら、僕も彼女の身体をそっと抱き締め返した。
部屋着に着替えて戻ると、ダイニングテーブルの上では夕食が湯気を立てていて、彼女は椅子に座って僕を待っていてくれた。
いつもなら、二人が食卓に揃ったら、いただきますと手を合わせてご飯の時間。
だけど今日はその前に。
椅子に座った僕は彼女の目の前に、帰り道に買ったものを差し出した。
「はい、お土産」
プレゼントとか、贈り物と告げるのがなんとなく恥ずかしくて、そんな言葉選びになってしまったけれど。
差し出したのはミモザの花。鮮やかな黄色をした、まん丸の綿毛のような形をした小さな花達が、上品な白い包装紙の中で優しく甘やかな香りを放っている。
彼女はぽかんと目を丸くして、眼前の花束をしばし見つめ。
それから、僕の顔へとゆっくりと視線を向け、おずおずと口を開く。
「どう、し……?」
――おそらく、どうして、と聞きたかったのだろう。
けれど彼女の喉から零れた言葉はひどく掠れていて、言葉尻は僕の耳では聞き取る事ができなかった。
彼女は、ほとんど言葉を発する事ができない。
それは声帯に疾患を抱えているわけではなく、精神的な病に由来するもの。
知り合う前の話だから、僕にもその詳細な事情は良く分からない。もともと話す事があまり得意でなかったらしいのだが、そこにある事件が追い打ちをかけて、彼女から完全に声を奪い去ったのだという。
それでも、一緒に暮らすようになってもうすぐ二年。本人が熱心に通院し、治療に励んだ甲斐があり、その症状はかなり改善した。まったく口を利けなかったのが、僕やごく一部の親しい相手に対してのみ、単語程度なら話す事が出来るようになったのだ。
「今日はミモザの日なんだって」
不思議そうな顔をしながらも、『ありがとう』という形に唇を動かして花束を受け取ってくれた彼女に、僕はそう説明する。
「イタリアの風習で。男性が女性に、日頃の感謝を込めてミモザの花を贈る日……らしい」
とはいえ、僕の説明もかなり曖昧だ。なにしろ情報源は、帰りの電車の中でなんとなく眺めていたSNSで見つけた、どこかの誰かの投稿だけなのだから。
「だから……いつも、ありがとう」
けれど、彼女に花を贈りたいと思った気持ちは本物だ。
二年前のあの日、戸惑いながらも僕の手を取ってくれた彼女に。
心の傷をゆっくりと癒やし、少しずつうちとけてくれた彼女に。
僕と一緒の時間を過ごし、たくさんの幸福をくれる彼女に。
僕の胸の中で溢れそうになっている愛情と感謝の気持ち。その一欠片だけでも伝えたいと思ったのだ。
僕の説明を聞いて納得したのかしないのか、彼女はきょとんとしたまま一つ小さく頷くと、視線を手の中の花束に落とす。
鮮やかな黄色と可愛らしい丸い形をしたミモザの花は、少し離れて見るとなんだか砂糖菓子のよう。
そんな事を考える僕の目の前で。やがて彼女は、柔らかく微笑んだ。
つぶらな瞳をゆっくりと細め、唇の両端を小さく吊り上げて。それはまるで花がほころぶような、優しく穏やかな笑顔。
「きれい……」
薄く開かれたその唇から、透きとおった声が零れる――先程のような掠れた声ではない。どこかうっとりとした響きをはらむ、とても幸せそうな呟きだった。
少し話せるようになっただけではない。この二年の間に、彼女はこうしてよく笑ってくれるようになった。
それが嬉しくて、愛おしくて――僕は急に、涙が零れそうな気分になったけれど、懸命にそれをこらえた。
そして、幸せそうに笑う彼女の姿を見つめながら、僕は願う。
彼女のゆく道が、これから先はたくさんの愛や幸福に満ちていますように、と。
FAは秋の桜子様よりいただきました。ありがとうございます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。