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冬の日の幻想

作者: 三隅治親

「彼らは神々のように、愁いを知らぬ心を保って、労苦や嘆きも知らずに暮らしていた。そして惨めな老いに襲われもせず、あらゆる災いから遠く離れて、華やかな宴の中に、いつも手足も変わらずにいて、死ぬ時はちょうど眠りにつくごとくであった」--ヘシオドス『仕事と日々』

窓越しに見える木に一枚だけ残っている、黄色く、みずみずしさを失った葉は、弱々しく風を受けている。少し暖房が効きすぎた室内ともうすぐ氷点下になるであろう屋外との気温の差は、窓硝子を曇らせる。


時折窓をかた、かたと揺らす風の冷たさを思うと、眠気を覚ますためにも空気を入れ替える方がよいという考えが頭をもたげてくる。


確かにそうだ。確かに。


二学期の期末試験の答案を手にした僕たちには、目の前で回答の説明をしている西原先生の声に耳を傾けるゆとりはない。冬休みに入れば予備校の冬期講習が待っているし、年が明ければすぐにセンター試験だ。


一人でも風邪をひいていれば、湿度の足りない教室の中に多数の感染者が出ることだろう。それに、今年はインフルエンザも猛威を振るっているらしい。朝、家を出るときにテレビのニュースでどこかの県の聞いたことのない市の小学校が学級閉鎖になったという話題を耳にしたばかりだ。僕たちは風邪をひいてはいけないのだ。


確かにそうだ。


今日だって、富久さんが欠席している。この一年間、無遅刻無欠席だった彼女が顔を見せないのだから、風邪をひいたか、インフルエンザになったのだろう。


ここは西原先生に頼んで、窓を少しだけ開けてもらおう。


問題は誰が手を挙げるかだ。


西原先生のお気に入りの清村君は、教室の後ろの席で左手を頬にあてて目を閉じている。人一倍気の利く香田さんは欠席だし、残りも眠気をこらえるのに懸命な顔ばかりだ。


こうなれば、僕が手を挙げるしかないだろう。これも学級委員長の務めだ。西原先生の話もそろそろ一段落するだろう。そうしたらおもむろに手を挙げて、お願いするだけだ。


「だから、今度のセンター試験ではね、この問題、古代社会における牧畜に関係する問題というのがですね、出題さえるだろう、と」


「西原先生、すみません」


「ん、どうした?」


「窓、開けてもいいですか? 教室がちょっと暑くなってて、空気を入れ替えた方がいいかなと思って…」


「ああ、確かにそうだね、そうだ。清村君、そこのね、窓を少し開けてくれませんか」


やはり西原先生は物分かりがいい。福岡先生のように授業中は質問を含めて一切の私語を禁止する先生もいるから、西原先生の授業中でよかった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


世界史の試験では学年で二位以下になったことがないという清村慎吾が教室の窓をすべて開け終えようとしたとき、教室の扉が開いた。


「……西原先生、ちょっとよろしいですか……」


「どうしたました、道岡先生……」


「ちょっと、こちらへ……」


「分かりました……君たち、授業中に済まないけど、ちょっと待っててくれ」


西原清三は、授業時間は一分も無駄にはしないと公言してはばからない。その彼にしてみれば、授業を中断して廊下に出るなど、論外というべきだろう。


先ほどまで眠気に覆われていた教室は、道岡と西原の二人が廊下で何を話しているかに興味を奪われた。

「何だろうね、みっちゃん? どうしたのかな?」


「授業が中断して、西原さん、教室に戻って来る時怒ってなきゃいいけど」


「道岡先生、久しぶりに顔を見た」


生徒たちの予想に反して、五分後に教室に戻って来た西原の顔は青ざめており、心なしか膝は震えていた。


口の中が乾いているのか、声を出そうとしても上手く息を吐きだすことが出来ないようで、西原は三度ほど咳払いした。


いつもは鷹揚で緊張感とは無縁の西原の様子は、生徒たちに、何か嫌な予感を与えるものだった。


数秒ほど教室の後方の扉を見ていた西原は、もう一度咳払いをして、口を開いた。


ようやく出たのは、普段の西原とは全く違う、上ずり、震える声だった。


「皆さん……残念な…残念なお知らせがあります……」


教室の視線は、西原の口元に集中した。


「その……富久さんが……富久かな恵さんが……富久さんが……」


西原の瞼が軽く痙攣した。


「富久さんがですね……亡くなられました……」


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


道岡先生、確か今年で定年のはずだったな。でも、どうして西原先生を呼びに来たのだろう。あと二十分もすれば授業が終わって昼休みなのに。しかも、期末試験後の特別授業期間だ。今日は西原先生の授業が終われば、僕たち三年生は終わりだ。


そういえば、富久さん、今日はどうして休んだのかな。


期末試験の前だったか初日だったか、富久さんに漢字の読み方を聞かれて、「かいり」と教えてあげたら、お礼だというので、キャンディをもらったのだった。


あのキャンディは家に持って帰って自分の部屋に置いてあるけれど、今日戻ったら舐めよう。清村君が窓を開けてくれたおかげで空気の入れ替えは出来た。でも、僕も少し喉ががらっぽい。センター試験まであと一か月だ。ここで風邪をひいてしまってはいけないから、勉強中も喉を潤さなければならない。


あの部屋は目の前が緑道だから見晴らしはよいけれど、特に夜中になると冷え込むのは困ったものだ。今日、家に戻ったら母さんに膝掛用の毛布を出してもらおう。


ああ、西原先生が戻って来た。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


西原が富久の訃報を伝えると、教室は一瞬呼吸が止まった。


「富久さんが亡くなった」という西原の話は、誰の耳にも達していた。しかし、「トミヒササンガナクナッタ」という音を耳にしてはいたものの、西原が伝えた富久の訃報を、誰も信じようとしなかった。いや、誰もが、予期せぬ訃報を受け入れることを拒んだのだ。


教室の外では、窓に吹き付ける風が次第に強くなっていた。


「西原先生……窓を閉めてもいいですか?」


清村の問いかけに、西原の瞳の焦点が合わさった。


「ああ、清村君、お願いします、窓」


窓を閉め終えた清村が席に戻るのを見て、クラスの雰囲気をいつも明るくする香田芙美子が手を挙げた。


「西原先生、それ、どういうことですか? かな恵が亡くなったって、何のことですか?」


香田の質問はいつも直接的で鋭い。


「私もですね、今、道岡先生からお話を伺ったのですけど……どうも、今朝お亡くなりになったみたいで……」


「事故ですか?」


「香田さん、今、私もよく情報が分からないんで……」


「分からないって、どういうことですか…」


「授業が終わったら担任の山岸先生が説明に来るので、皆さん下校しないで、教室で待機していてください」


西原の注意を受けずとも、授業後に教室から帰る生徒はいなかっただろう。


誰もが、突然与えられた予期せぬ一報に当惑し、事態を把握しきれていなかった。


教室は深い沈黙に覆われた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


そういえば、葬式に出るのはひいおばあ様の時以来だから二年ぶりだ。あの時も冬だった。確か、前の日から雪が降っていて、告別式が終わった後に履いていた靴がとても濡れていた気がする。


ひいおばあ様はもうすぐ百歳だったし、十年近く入院していたから、言い方は悪いが大往生だったろう。

でも、富久さんはどうだろう。僕らと同じ十八歳だ。


僕らは、まだ十八歳だ!


もちろん十八年も生きてこられたのはありがたいことだ。大怪我も大病もなく、健康でいられたのはありがたい限りだ。


でも、僕らは、まだ十八歳だ!


これから大学に入って色々な勉強をして、アルバイトをして、好きな人と付き合って、友だちとあちこちに旅行して、そして仕事をして、結婚をして、僕たちにはやりたいこと、出来ることが無限にあるんだ。


それなのに、どうしてだろう。どうして、富久さんは僕たちを置いて行ってしまったのだろう。どうして、僕たちは富久さんと一緒に卒業することさえ出来ないのだろう。


どうして!僕らは、まだ十八歳なのに!


どうして!どうして!どうして!


どうしてなのだろう……!


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


告別式には、学年全員が揃っていた。


学年主任であり富久かな恵の担任でもあった山岸太一が、告別式での作法を説明している。


厚い鉛色の雲に覆われた葬儀場の気温は氷点下に達し、天気予報では午後からは雪が降るという。


富久かな恵の訃報が伝えられた直後から、生徒と保護者の間に動揺が広がった。


同級生の不慮の死は、多感な少年と少女に大きな衝撃を与えるには十分だった。それとともに、富久かな恵の死が事故によるのか病気のためかが明らかにされなかったことは、保護者の間で様々な憶測を呼んだ。


二学期の終業式の直前という時期に保護者も交えた臨時の学年集会が開かれ、校長以下教職員が三年生に対して「スクールカウンセラーにもお願いしているので、不安に思うこと、心のケアが必要なことがあれば遠慮なく相談するように」と呼びかけたことも、保護者の猜疑心を増幅させた。


「富久さんのお嬢さん、残念なことになりましたね」


「うちの子、かな恵ちゃんと仲が良かったから、とてもショックを受けているのよ」


「そうよね、何せ突然の話だったから……」


「あんなに元気そうだったのに、本当に残念ね」


「本当にそうね、急なことだったわね」


「かな恵さん、どうして亡くなったかご存じ?」


「山岸先生も校長先生も、何も言ってなかったわ」


「ご両親があまり詮索されたくないみたいよ。だから、学校にもあまり言ってないみたい」


「そうなの? 何があったのか、気になるわ……」


「本当に。何か悪いことがあったんじゃなければいいけれど、ねぇ?」


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


亡くなった人の顔は、誰もが同じなのだろうか。


ひいおばあ様の顔は、苦しそうな皺がいくつも深く刻み込まれていた。


母さんは、ひいおばあ様は最後の数年間は点滴の針を刺す場所もなくなったと言っていたから、大往生とはいえ壮絶な最期だったのだろう。


さっき見た富久さんの顔も、苦しそうだった。


目も口も閉じられているはずなのに、何故か僕には目も口もしっかりと開けられているように見えたのだ。いや、しっかりと開けられているのではない。何かを訴え、何かを言おうとして、目は見開いたままで、口も開けられたままだったのだ。


そうすると、やはり富久さんは病気や事故ではなく、誰かが言っていたように、自ら命を絶ったのだろうか。


富久さんは、受験で相当苦しんでいたらしい。確か、富久さんの家は病院で、ご両親は医学部に進学してもらいたいと考えていたそうだ。


でも、富久さんは僕と同じ文系のクラスにいた。だから、彼女は医学部に進む気はないのだと思っていた。


僕だって、父さんは理工系に進学するのを期待していたけど、挑戦したいこと、勉強したいことがあったから、文系に進むことにした。きっと、富久さんも同じ気持ちだったんだと思う。


それは、僕が知っている富久さんは富久さんの全てではない。この一年間、クラスにいた彼女しか知らない。だから、富久さんがどんな気持ちで進路を決めたか、僕には本当のことが分からない。


だけど、彼女は僕にキャンディをくれたんだ。


あの、「乖離」の読み方を教えたときに、お礼だと言って、キャンディをくれたんだ。


どうして、これから命を絶とうとする人が、「乖離」の読み方を教わろうとするのだろう。「かいり」だろうと「かくり」だろうと、「乖離」なんて言葉は、その後、全く必要ないじゃないか。


それとも、僕たち同級生を安心させようとして、勉強に打ち込む姿を見せていたのだろうか。


いや、違う。そうじゃない。


彼女は、昨日も、今日も、明日も、そしてこれからも、毎日を生き抜こうとしていたんだ。


ご家族が詳細な話をしないからといって、僕たちがあれこれと言うのは、違う。僕たちは、富久さんが亡くなったこと、この事実だけを受け止めなければいけないのだ。


もし、僕たちが富久さんのことを大切に思っているなら、彼女の死そのものを受け入れなければならないのだ。


理由はどうでもいい。


もう、彼女は、いないのだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


窓越しに見える木の葉は、今年も色づき、一枚ずつ風に流されて行く。


窓の形も木の姿も、かつてとは異なる。


そして、級友の死を悲しんだ同級生たちは、それぞれの道を歩み、日々の生活を送っている。


少年と少女に深く刻印された富久かな恵の最期も、今では数多い永遠の別れの中の一つとなった。


だが、時間という名の砂の上に記された一つの思い出がどれほど薄れ行くとしても、彼ら、彼女らは失った友のことを決して忘れてはいない。


落ち行く枯葉を目にするとき、あたかも冬の日の幻想のように、富久かな恵の姿が思い返されるのである。

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