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Refrain the Summer

作者: 葉泉 大和

 九月も終わりに近づいているというのに、夏を彷彿とさせる蒸し暑い日々が続いていた。

 扉を開けば、そこは夏と同じむわっとした空気が広がっており、じわりじわりと僕という存在を照らしていく。


 この世界で僕達は――、否、僕はまだ夏に置いて行かれてしまっている。


 僕は目の前に広がる景色が信じられなかった。この季節外れの暑さに頭でもやられてしまったのだろうか。それとも、もう真昼間だというのにこんな時間に起きてしまったから、白昼夢でも見ているのだろうか。

 家の扉を開けてから数秒も経っていないというのに、体中から滝の如く水分が流れ出す。この暑さのせいか、頭が朦朧として世界が不確かになってくる。まるで僕という存在が、汗と共に現実から外へ外へと追い出されていくようだ。


 目の前の夏を感じさせる景色から、意識を反らすように僕は目を閉じる。けれど、僕を刺激するのは、蝉の鳴き声、照り返す太陽、口の中に広がる汗の塩っぽさ――、まさに夏という存在そのものが、より五感に鋭く介入して来た。


 けれど、それ以上に僕に夏を追随させるもの。


 それは――、


「元気? 良かったら遊びに行かない?」


 この夏この町から去ったはずの君が、僕の目の前にいることだった。


 ***


 僕には幼稚園から高校二年の一学期までずっと同じクラスだった幼馴染がいた。


 その幼馴染の名前は――、羽川奈緒。


 奈緒の母親と僕の母親は何でも小学生の頃からの腐れ縁で、僕らを生んでからもその仲は変わらなかった。母親達は、僕と奈緒を連れて、しょっちゅうお互いの家でお茶をしたり、互いに車を出し合って隣町の大型ショッピングモールにも出かけたりした。

 僕と奈緒は、兄弟のように長い時間を共に過ごしたのだ。だから、性別の違いはあったけれど、僕と奈緒が自然と仲が良くなるのは当然のことだった。たぶん、一番仲のいい人物は誰かと言われたら、僕は羽川奈緒の名前を上げるだろう。


 しかし、奈緒はこの夏、何も言わずに僕の前から突然去って行った。


 奈緒が去ったのは、父親の転勤が理由だったそうだ。

 奈緒のおじさんは、この田舎町から離れ、数百キロも離れた東京で仕事をするようになった。そのことから、奈緒も奈緒のおばさんも東京に行かなければならなくなった。向こうで家が見つかるまでは、東京に住む奈緒のおじさんの妹――つまり奈緒にとっては叔母の家に住むと聞いた。

 奈緒の引っ越しを知らなかった僕は、母さんに初めて聞いた時、天地がひっくり返るほどショックを受けた。その現実が信じられず、僕は無我夢中に奈緒の家まで走っていた。しかし、そこは母親の言う通り、あんなにも馴れ親しんだ温もりは既になく、もぬけの殻となっていた。


 奈緒が本当に僕の前からいなくなったというショックを抱えながら、気付かぬうちに暦の上では夏が終わりを迎えてしまった。季節も移ろおうとしているのに、僕の心は夏に置かれたままだ。


 もう奈緒に会うことは出来ない。そう思っていた。


 なのに――。


「ほんっと、この町の風景って昔から変わらないよね」


 その東京に引っ越したはずの羽川奈緒が、僕の前を歩いている。


 突然の出来事に、僕は理解が追い付いていなかった。

 目の前にいる奈緒は、果たして本物の奈緒なのだろうか。確かに奈緒は東京に引っ越しをしたはずだ。その受け入れがたく、認めづらい現実を、僕は何度も何度も確かめた。


 だだっ広い田んぼ道を先に歩く奈緒の背中を、僕は見つめる。


 奈緒の歩き方は、いつも陽気で、楽し気で――見ている僕の方まで、何故だか楽しい気分にさせてくる。その歩き方は今も変わらず幼い頃と同じで、まさしく一緒に時間を過ごした奈緒そのものの歩き方だった。


「――覚えてる? この道、昔から一緒に通ったよね。畑仕事しているおじさんに、いつも声を掛けてもらってさ。無邪気に手を振ってたなぁ」


 それに僕と奈緒しか知らないはずの想い出を、その口は語っている。


 ならば、本物だと認めよう。

 しかし、そうしたら新たな疑問が生まれる。


 どうして奈緒はこの田舎町に戻って来たのだろうか。忘れ物をしてしまったとかだろうか。いや、仮にそうだとしても、わざわざ僕の前に来る理由が分からない。


 今日は三連休、その初めの日。朝一番に新幹線にでも乗れば、ここにいたとしても不思議ではない。

 けれど、東京からこの町に来るには、相当なお金が掛かるはずだ。それに体力も時間も掛かるというのに、奈緒をこんな田舎に来させる理由があるのだろうか。


「ねぇ、蒼平、聞いてる?」


 突如、僕の頭の中に、少しだけ尖った声が割り込んでくる。


 その声に、足りない頭をフル回転させていた僕はハッとした。見れば、奈緒は頬を膨らませながら、こちらを見ている。


 昔からの癖だ。自分の話を聞いていないと、いつも拗ねた表情を見せる。幼稚園の頃から変わらない。そして、僕も考え事をしてしまうと、奈緒に呼び掛けられるまで自分の世界に閉じこもってしまう癖がある。


 だから、僕は、


「う、うん。聞いてるよ。えっと、幼稚園の頃、この道でおばさんにもらったお菓子の話だよね?」


 いつものように奈緒の機嫌を損ねないように、先ほどまでの話題を要約して言葉を紡ぐ。


「ふーん、ちゃんと聞いてるなら良いけど」


 すると、奈緒は膨れた頬を元に戻し、再び話を始めた。


 見慣れた仕草――、もう疑いようがない。目の前にいるのは、僕が知っている羽川奈緒だ。いくつもの時間を一緒に過ごした、僕の大切な友達だ。


「今はなくなっちゃったけどさ。おじさんが作った野菜を、ここで小さくおばさんが売ってたんだよね……。おばさんからもらったお菓子、結構好きだったんだ。色んな種類をくれてさ」

「うん、僕も好きだった。それで、奈緒か僕の家で一緒に食べて……」

「そうそう。で、必ず蒼平が我慢出来なくなって、帰る途中でつまみ食いをするんだよね!」

「そ、それは僕じゃない! あ、そうだ。奈緒が無理やり僕の口に入れ込んで、蒼平が食べたなら私もーって言って食べたんじゃないか」

「えー、そんな昔のことは知らなーい」

「おかげで僕が怒られたんだぞ! 今更だけど謝罪を要求する!」

「そんな十年以上前の話は、時効ですぅ!」

「あ、ちょ――」


 奈緒はくすくすと笑いながら、何千往復もした田んぼ道を走り出す。走ることが苦手な僕は、呆れるように肩を落とし、変わらないペースで歩いていく。


 そして、ある程度距離が開くと、奈緒は立ち止まり、


「蒼平ーっ! 今度こっち行こーっ!」


 大きな声で僕に語り掛ける。目立つように手を振る奈緒に、僕も了承と言わんばかりに手を大きく上げる。


 昔からそうだ。

 奈緒がどこに行こうとしているのか分からないまま、いつも先を行く奈緒の背中を、僕は淡々とついていくだけだ。そして、奈緒は優しいから、振り返り、僕がちゃんと付いてきているか言葉を投げかける。自分勝手に聞こえるその言葉の裏には、奈緒の後ろにただ付いていく僕が退屈していないのか気に掛けてくれていることも知っている。


「早く早くぅ!」

「分かったよ!」


 ――けれど、奈緒の心配はいつも杞憂に過ぎない。


 僕は、こうして奈緒と一緒に歩く時間を退屈だと思ったことは、たったの一度もなかったからだ。


 ***


 奈緒は突然去ったあの日のことを一度も語らない。まるで東京に引っ越したことなんてなかったかのように振る舞っていた。そのあまりの自然な振る舞いに、本当は奈緒はいなくなってなんかいないで、ずっとこの町にいたのではないかとさえ思ってしまう。


 これまで奈緒が向かった場所全てに、僕たちの想い出がぎっしりと詰まっていた。

 色々と楽しかった過去が思い出され、まるで昔に戻ったような錯覚に陥ってしまうのも致し方ないというものだ。


 今だって、奈緒と小学生の頃によく遊んだ川にまで来ていた。川を越えた先には、よく一緒に探検をした山が聳え立っている。


 あの頃、僕達の両親は山や川など危険が潜む自然の中で遊ぶことを禁止した。でも、好奇心旺盛な幼い僕達は、親の目を盗んで構わずによく遊んだ。子供ながらに、いや、子供だからこそ与えられた決まり事を破る時の、ドキドキとワクワクを享受していたのだ。もちろん、その全ては奈緒が先導していて、僕はただ鴨の子供のようにその後ろを付いていくだけだった。

 きっとあの頃の僕達の世界は輝いていた。水面に反射する光が宝石のように見え、山に生る木の実は特別なご馳走だと感じられるほど、純粋な心で生きていた。


 しかし、当然ながら、遊び終わった僕達に待っているのは、両親達による説教だった。服の所々が濡れたり汚れたりしていたら、バレるのも当たり前だろう。

 それでも懲りずに、再び果敢に探検に行った。


 けれど、気付けば僕達は探検に行くことはなくなった。互いに魔法が解けたように、パタリと外に出なくなってしまったのだ。


「――すっごい冷たいよ! 蒼平も手入れてみなよ!」


 そんな過去などなかったかのように、奈緒は無邪気に川で戯れていた。


 陽気にはしゃぐ奈緒の声を耳に、岸でしゃがみ込んでいる僕は川面を見つめていた。隣に座る奈緒は嬉々と顔を輝かせていて、僕も僅かに口角を上げている。

 そして、奈緒の言う通り、僕は水を掬うように川の中に両手を入れた。あの時と変わらない水の冷たさが、僕を包んでいく。両手で掬った水の中には、僕一人の顔しか映されていなかった。


「でさ! あの時の蒼平ってば、魚を捕まえられずに泣いてたよね。ううん、そもそも水に浸かることに五分以上掛かっててさ。私、内心笑いを堪えるのに必死だったんだよ」

「なっ! そんなことない!」


 高らかな声を上げる奈緒に、僕は両手の水を川に戻して反論する。


 しかし、すぐにここで過ごした時のことが、頭の中に鮮明に蘇ってしまった。

 確かにそうだ。川に入ることに慣れていなかった僕は、浅瀬に浸かることさえもオドオドとしていた。それでも、奈緒を一人にしたくなくて――、奈緒と離れ離れになるのが怖くて、ありったけの勇気を振り絞って川の中に入っていった。

 その時の光景が、突然雷が落ちたようにぴしゃりと思い出された。


「いや、そんなことないわけでもないけど……」


 僕は先ほどの反論を濁すように、口ごもった。その時抱いた感情については、伝えない。

 奈緒は僕の言葉に満足したように、「やっぱりねー」と笑みを零していた。


「でもさ」


 安心しきって隣で笑う奈緒に、僕は口を開くと、


「それを言うなら、あの時の奈緒だって笑いもんだったよね。石と間違って蛙を掴んで、慌てた挙句、背中から川に落ちてさ」

「きゃー! そのことは言わないでよ!」


 僕の言葉に、奈緒は大げさに耳を塞ぐ。心なしか、顔が真っ赤になっている。


 僕と奈緒はお互いに親の言いつけを破った共犯者だ。それなのに、奈緒だけ安心圏で僕のことをからかうのは不公平だろう。僕の思いつく奈緒の失態も語らなければ、共犯者として対等とは言えない。


「それにさ。川に流した笹船を上級生の人に拾われちゃって、一時学校の有名人になったこともあったよね。確か笹船に書かれてた奈緒の秘密は――」


 この川で遊んでいた幼い二人の子供の姿を瞳に映しながら、僕は語り続ける。


 不思議だ。今まで思い出すことも出来なかった過去の日々が、まるでついさっき体験したかのように頭の中に押し寄せる。今なら昔失くしたお気に入りのキーホルダーを見つけることだって出来る――、そんな根拠のない自信が湧いてくるほど、僕の頭の中は冴えていた。


「もういいってば! 蒼平の意地悪っ!」

「うわ、冷たっ!」


 奈緒はそう言うと、川の水を僕に掛けてきた。過去の失態を掘り起こされて、照れているのだろう。


「お返――」


 僕も昔のように、奈緒に水を掛けようとする。しかし、その手は止まった。


 高校二年生という思春期真っ最中の僕は、奈緒に水を掛ければどうなるか、予想出来ないほど子供ではない。僕はそんな不純な心をもって奈緒と接したくはなかったし、そんな目で奈緒のことを見たくはなかった。


 そう。もう僕らは小学生のように、純粋で無邪気にはいられないのだ。


 動きが止まった僕を見て、奈緒も思い当たることがあったのか、一度だけふっと寂しそうに笑みを浮かべると、


「――ごめん、はしゃぎすぎちゃったよね」


 舌を出しながら立ち上がった。


 その仕草に胸が締め付けられるような感覚に苛まれると、僕は思わず隣にいる奈緒を見つめた。

 奈緒の表情は、逆光のせいでよく見えない。けれど、僕のことを視界に入れないで、ズボンに付いた汚れを懸命に払っていることだけは分かる。


 居たたまれなくなった僕は立ち上がると、


「あのさ、奈緒――」

「あの山ももう一回冒険したかったけど、今日はいいや。暑くなって来たし、建物の中に涼みに行こっか」


 しかし、僕が言いたかった言葉は不自然に遮られ、奈緒は川原から離れていった。


 いつからだろう。お互いに余計な意識をしあって、必要以上に距離を開けるようになってしまっていた。

 成長する過程の弊害だから、仕方ない部分はある。

 けれど、大切な友達と少しずつズレが生じ、離れていくのは正直きつかった。そして、心だけでなく、実際に離れたらどれほど後悔するか、僕は身をもって体験している。あの時のことを思い出し、自然と拳を握っていた。


 開いていく距離を少しでも縮めたくて、僕は走って奈緒の背中を追いかけた。


 ***


「足達、高校どうするの?」


 あの日も、夏だった。


 少しずつ大人になっていく僕達は、あれほど近かったはずの互いの距離感を、いつの間にか掴めなくなっていた。特に中学校に入学してからは、それが顕著だった。

 いつしか当たり前のように互いを苗字で呼び合うようになり、同じ教室にいながらも必要最低限のことしか話さないようになっていた。小学校の時はあんなにも一緒の時間を遊んで過ごしたというのに、この時の僕達は遊びに出かけるなんて一年に一回でもあれば奇跡に近い状態だった。親同士が遊びに行く時だって、一緒に行くことは珍しかった。

 そうなったのには、深い理由はない。周りの目や本能が、僕らをそうさせていた。


 だから、この時、町内の図書館でたまたま顔を合わせた奈緒が僕の隣の席に座り、ましてや僕に話しかけて来るのは予想外だった。


「な、は、羽川」


 僕はしどろもどろになりながら、奈緒の苗字を言った。この時の僕は緊張で声が上擦っていたと思う。


 ちらちらと奈緒の様子を窺いながら、何を言うべきか考える。奈緒はこの図書館の中から見つけた本を読んでいた。しかし、それと同時、僕に対して意識を傾けてくれているようだった。


 奈緒は僕を自然の中に連れていく活発な面を持ちながら、その一方で読書をして空想の世界に耽ることも好きだった。けれど、成長した奈緒が、その内の一面を僕に見せることはもうない。


 僕は一度咳払いをすると、


「えっと、僕は近くの高校にするつもり。どうも電車で毎日通うってことを考えると……」

「あはは、蒼平っぽいね」


 図書館の中だからか、奈緒は本で口元を隠しながら小さく笑みを零した。


 その瞬間、僕の頭は真っ白になった。上手く言葉を返すことが出来ない。自分でも驚くほど心臓が高鳴り始めたのが分かる。


「……いい、の?」


 ようやく喉を震わし、言葉を紡ぐ。


「うん?」

「……名前。中学に入った時、これからは苗字で呼ぼうって――」

「あ。……えっと、その。……うん、もういいかなって。二年近く蒼平のこと、苗字で呼び続けたけど、やっぱ慣れなかった。蒼平もそうでしょ?」

「え、えっと、まぁ」


 奈緒の言う通りだ。

 先ほども言い間違えそうになったばかりだ。十年近く名前で呼んで来たのに、いきなり呼び方を変えることに慣れるほど、当時の僕は割り切れていなかった。


 僕にとって羽川奈緒は奈緒なのだ。


「それに、やっぱ私にとって足達蒼平は蒼平だからさ」

「――っ」


 僕の考えていたことが、奈緒の口から飛び出していく。


 ずっと僕と奈緒は同じことを考えていたのだ。

 僕らは違和感を抱えながら、けれど、その心を押し留めて、ピエロになって互いに接し合っていた。その歪な関係に疑問を持ちつつも、この時まで何も言わなかったのは、周りの目があったからだ。


 言葉を発さずに自分の考えの世界に入り込んだ僕に、奈緒はしびれを切らしたのか、自分の鞄の中から教科書を取り出すと、僕の目の前に開き、


「それより、私も同じ高校受験するからさ! 今度、勉強教えてよ! 蒼平は頭が良い事だけが取り柄なんだからさ」

「その言い方、やけに棘がある気がするんだけど……」

「気にしない気にしない」

「それに受験するなら今から勉強しといた方が……」

「気にしない気にしない」


 奈緒は朗らかに笑いながら、広げた教科書を無視して、図書館で見つけた本に再び目を落とし始めた。読書に集中する奈緒を見て、僕は頭を抑えたくなった。奈緒は気分屋だ。好きな時に好きなことをする――そんな性分だった。

 けれど、当時の奈緒は、ちゃんと僕が勉強を教え始めれば、真面目に勉強をしてくれた。


 この時から、僕と奈緒の間に出来ていた溝は縮まった。けれど、昔のように限りなく零になることはなかった。どこか遠慮に似た空気が漂っていて、互いにとって丁度いい距離感を探り合っていたのだ。

 それでも僕は、再び奈緒と名前を呼び合えるようになっただけで満足していた。


 ――そんな過去の日が、図書館独特の本の匂いに包まれると同時に、脳裏に蘇った。


 僕は懐かしさに笑みを漏らした。あれが二年も前だとは信じられなかった。


 町内の図書館は何も変わっていなかった。中学の頃から、否、僕が生まれる前からずっと同じ内装と外観をしている。

 この図書館も、僕と同じように時の流れに置いて行かれているようだった。


 そんな図書館にどことなく親近感を覚えていた一方で、奈緒はというと、あの日々のように本を探そうと必死にコーナーを探し歩いていた。どこのコーナーにどのジャンルがあるのか覚えているのだろう、奈緒の足取りに迷いはなかった。そして、お目当ての本を見つけたのか、一冊の本を手に取り、その場に立ちながらペラペラとページを捲っていく。奈緒の横顔は真剣そのものだった。


「そういえばさ。あの時、奈緒が教えてくれた本に助けられたよ」

「え?」


 唐突に話題を振られた奈緒は、本から顔を上げて、不思議そうに僕のことを見つめている。何を言われているのか分からない、と奈緒の表情は語っている。


 どこか勝ち誇った気分になり、僕はくすくすと笑いを零すと、


「僕は勉強ばかりして、物語の主人公に感情移入するのが苦手だったんだ。でも、奈緒が面白可笑しく、自分の好きな小説について語ってくれてさ。たまたまそれが受験のテストに出たの憶えてる?」

「ああ、そうだったね。でも、私が教えなくても、蒼平なら大丈夫だったよ」

「ううん。あの時奈緒が教えてくれたから、動揺することもなかったんだ」


 受験当日、一人でテストを受けていても、不安に思うことはなかった。問題文を読んでいくと、奈緒と一緒に勉強した日々が思い出され、なんだかテストを受けている気はせず、日常の延長線くらいにしか感じていなかった。

 結果、僕は本番のテストで自己最高点を叩き出した。


 きっと僕一人で勉強をしていたら、ここまで出来なかった。

 奈緒は僕に勉強を教えてもらったと言うけれど、実際は逆だ。僕は色々なことを奈緒に教えてもらっていた。


「だから、今更だけどありがとう」


 僕は自分の胸の内を正直に告げた。


 すると、奈緒はびくんと肩を上げたと思うと、勢いよく本を閉じ、そのまま乱暴に本棚に戻した。心なしか、奈緒の顔は赤く染まり上がっている。


「……っ。そ、それを言うなら、たくさん教えてもらった私の方がお礼を言うべきだってーの! そ、それよりさ、次! 早く次行こう! 今日の本当の目的は、次の場所にあるんだから!」


 そして、早口でまくし立てると奈緒は、足を大きく使いながら図書館を飛び出していった。


 ようやく奈緒がわざわざ東京からこの町に戻って来た理由が分かるのだ。

 僕は奈緒に置いて行かれないように、早歩きで図書館を後にした。


 ***


 ――教室の扉を開く。


 すると、いつも一番先に僕の目に入るのは、奈緒が使っている窓際の席だ。いつも僕よりも先に学校に到着している奈緒は、僕が教室に入ると、軽く手を振ってくれた。僕はそれに応えるように軽く手を上げる。それが、僕らの挨拶だった。


 けれど、もうその当たり前の景色を見ることは叶わない。夏休みが終わり二学期が始まってから、その席には誰も座らなくなったのだ。一つだけ空いた席は、ぽっかりと空いた僕の心を映しているようだった。

 その空いた席を見る度、僕は虚無感に襲われていた。


 そして、いつも答えの出ることのない自問自答が、僕を苛んだ。

 どうして一言も言わずに、僕の前から去ったのか。友達だと思っていたのは僕だけだったのか――、と。


 けれど、今日は違った。


 いなくなったはずの席の持ち主が、他の席に目をくれることなく、真っ直ぐに一人待ち続けた机に向かったのだ。黙々と主人を待ち続けた机は、忠犬ハチ公を彷彿とさせる。


 現実では果たすことの出来なかった、忠犬ハチ公と主人の感動的な再会の場面だ。


 二度と見ることが叶わないと思っていた画に、やはりこの席は奈緒の席だ、と感慨深く思う。


「あー、やっぱりここにあった」


 僕の心境をまるで知らない奈緒は、机の中を覗き込んで軽々しい声音で言うと、お目当てのものを自分の鞄の中に入れ始めた。

 小学生の頃から、奈緒は教科書などを持って帰るのを面倒臭がり、置き勉するのが常だった。けれど、まさか高校生になってからも続けているとは思わなかった。


 ここに来て、奈緒がせっかくの休日を使ってまでこの町に来た理由が、ようやく分かった。


 そうか。奈緒はこの忘れた教科書を持ち帰るために、今日この町に戻って来たのか。


 でも、疑問に残ることもある。

 たったそれだけのために東京から戻って来る必要があるのだろうか。他にももっと良い方法があったはずだ。


 例えば――。


「わざわざ奈緒が来なくたって、僕に言ってくれれば届けたのに……」

「えー、いいって。さすがにそれは申し訳ないよ。それに、さ」


 奈緒は言葉を区切って、目を細めた。その表情は優しく、温かく、どこか儚かった。


 そして、奈緒は窓の外を見つめながら、ふっと微笑むと、


「なんかこの景色が見たくなっちゃって」


 この景色に溶け込んでなくなりそうなほど、弱々しい声音で言った。


 今までに見たことのない奈緒の深刻な表情に、僕の胸は締め付けられる。

 本当にこれで終わりになるのだ。ここで奈緒と別れたら、また互いに別々の場所で過ごさなければならない。

 これから先、僕と奈緒はそう何度も容易く会うことは出来なくなるだろう。心が願っても、物理的な距離が許諾してくれない。


 窓の外を見下ろす奈緒は、夕焼けに混ざって、そのまま僕の手が届かない明日へと消えてしまいそうだ。


 僕の心が、何かを伝えなければならないと急かす。僕の胸を突き破って奈緒の元まで行ってしまいそうなほど、僕の心臓は高鳴りを上げている。


 けれど、何を言うことがあるだろうか。

 僕がこの場で何を言っても、奈緒が僕の元から去っていくのは変わらない。ただ奈緒を困らせるだけだ。


 長い沈黙が、世界を支配していく。本当は時なんて流れていないのではないかと錯覚してしまうほど、互いに動くことはしない。


 奈緒の小さな背中が、今僕の目の前にある。手を伸ばせば、届く距離だ。けれど、奈緒が東京に行ってしまってから、僕の心は先に進まない。今だって、僕以外の第三者が進めてくれるのを待っている。


 僕はいつの間にか下を向いていた。何度も見慣れた上履きが、僕の視界に入っている。

 こんな短い距離ですら、僕は自ら行動を起こすことは出来ないのだ。なら、東京という遠距離に奈緒が再び行ってしまったら、余計に僕は動くは出来ない。


 そして、長い沈黙に終止符を打つように、僕の上履きに影が差し込んだ。僕は影の方向に視線を上げる。


「――さて、これでおしまい! 今日は一日私に付き合ってくれてありがとう」


 いつの間にか、奈緒は窓際の自席から離れていた。


 一歩、二歩と僕の近くまで歩き、そのまま何も言わずに僕の隣を横切っていった。そして、教室の外へ出ようとする。


 その時、僕の視界に奈緒の席が映り込んだ。先ほどまで持ち主が触れていた机だったが、もうその席に持ち主が座ることは永遠にないのだ。いつしか別の誰かが座り、前の主人のことなど、初めからいなかったかのように忘れ去られてしまう。


 奈緒がいないことが当たり前の世界なら――。


「――あの、さっ!」


 気付けば、心の衝動に任せ、振り返りざまに声を上げていた。無意識ながら、僕はようやく動くことが出来た。


 この世界に奈緒を留めたくて、奈緒の右手首を掴んでいる。全く僕らしくない行動だ。掴んだ奈緒の手首は、僕が強く握ってしまえば折れてしまうのではないかと思うほど、細かった。


 振り返った奈緒と目が合う。


 奈緒は目を見開いて、突然の僕の行動に何を言えばいいのか迷いあぐねているようだった。奈緒の顔は、今まで僕が奈緒と過ごした中で、一番真っ赤に染め上がっていた。きっと夕焼けのせいだけじゃない。


「あ、ご、ごめん……っ!」


 我に返った僕は、急いで奈緒の手首から手を離した。奈緒は解放された右手首に左手を添え、顔元まで近づける。奈緒の視線は、どういうつもりかと僕を問いただしているようだ。


 当然だろう。僕自身もどうして奈緒の手首を掴んだのか分からないのだ。


 僕は自分がしでかした過ちに気付くと、奈緒から視線を逸らすように下を向いた。そして、そのままこの場から離れようと、歩き出そうとする。


 その時、ふっと柔かな吐息が漏れる音がした。その音に僕の足は止まる。ゆっくりと視線を上げると、


「ごめん、蒼平。最後にもう一か所行っておきたい場所があるんだけど、いい?」


 少女のようにあどけない笑みを浮かべる奈緒がいた。

 今までずっと近くにいたというのに、この純粋な笑顔を見るのは、なんだかとても久し振りに感じる。


「う、うん」


 僕は弾む心臓を抑えながら言った。


 校舎の中はもう薄暗くなっており、夏の陽は沈みかけていた。


 ***


 すっかり陽も沈み切り、僕と奈緒は暗くなった道を歩いていた。この町は街灯も数百メートル単位でしか設置されていないほどの田舎だから、陽が沈んでしまうと少し歩くのが躊躇われる。


 けれど、何度も歩いたこの道は、目を閉じていたって前に進める。


 僕と奈緒の間に会話はなかった。お互いに何を言うべきか迷いあぐねているようだった。

 それでもこの時間を僕は不快に思うことはなかった。先を行く奈緒が心配そうに、ついて来る僕に向けて視線を送る。昔と変わらない。


 そして、無言で歩き続けたまま、僕と奈緒は目的地――否、中継地点である駅まで辿り着いた。

 無人の改札を通り過ぎ、階段を昇る。やはり夜も遅くなって来たからか、電車を利用する人の数は少ない。


「電車を使うってことは、隣町?」

「そ。ちょっと買わないといけないものがあるんだ。あそこならあるかなぁって。まぁ、今日無理して行くこともなかったんだけど、せっかくだからね」

「あー、あの大型ショッピングモールだよね。でも、大丈夫かな?」

「うん? 大丈夫って?」


 僕の問いかけに、奈緒は首を傾げる。


「……え?」


 本気できょとんと首を傾げている奈緒に、僕は戸惑ってしまった。

 東京に行ってしまった奈緒だとしても、いくらなんでも大型商業施設に対するこの町周辺の重宝さを忘れるはずがないだろう。


「ほら、今日は九月の連休の初日でしょ。セールとか開催してて、この時間でもまだ混んでるんじゃないかな」


 階段を昇ってホームに立った僕は、闇と同化する線路の先を見つめながら言った。

 そう、今日は連休の初日だ。隣町の大型ショッピングモールは基本夜十一時まで営業している。その中には飲食店やアミューズメント施設も併設されているから、陽が沈んだとしても賑わっているはずだ。むしろこれからが本番だと言ってもいいかもしれない。


 無理してまで必要のないもののために、わざわざ混んでいる時間に行く必要はないはずだ。


 しかし、僕の心配とは裏腹に、奈緒はふっと柔らかく息を漏らすと、


「あはは、蒼平は面白いことを言うね。そんな先の心配してたら、いくら心臓があっても持たないよ」

「え?」


 僕の息が止まる。まるで鈍器のように、奈緒の言葉は僕の心臓を思い切り殴りつけた。


 奈緒の今の話しぶり、それは……。


 僕はゆっくりと先の見えない闇から奈緒へと視線を移す。


 奈緒は悪戯をした子供を見るような、そんな目つきを伴っていた。


 そして、奈緒はゆっくりと口を開き、


「今日は八月の平日。まだ九月でもないし、私たちの夏休みは明日まで……でしょ?」


 衝撃の事実が僕の耳を貫き通す。


 僕は今日という一日を振り返る。確かに今日は一度も日付を確認していない。目を覚ましてすぐに奈緒に連れ回されたからだ。

 けれど、今日が八月な訳がない。奈緒がいなくなった夏を、僕はずっとずっと引き摺って生きていたのだから。


「は、八月って……え、えっと……正確には、八月何日……だっけ……?」


 急速に喉が渇いていくのを感じながら、僕は奈緒に問いかける。

 奈緒は怪訝と心配の入り混じった視線を、僕に当てている。それでも、僕は真剣に奈緒を見つめ返し、奈緒の返答を待った。奈緒の言葉を待っている間、止まることなく汗が溢れ流れていた。


 この喉の渇きも、尋常ではない汗の量も、暑さだけが原因じゃない。


「――、今日は八月三十日だよ」


 奈緒の真剣な声音が、残酷に現実を叩きつけて来た。


 八月三十日。それは、奈緒がいなくなる前の日だ。


 そうだ。段々と僕は思い出して来た。


 僕が記憶している八月三十日――その日も確かに奈緒が僕の家に訪れてきた。昼の時のように「良かったら遊びに行かない?」と、不安げな表情で僕を誘った。

 けれど、僕はその誘いを断った。あと数日すればどうせ学校で会えるのに、休日にまで会う必要はない――、そう思ってしまったのだ。


 この日が奈緒と一緒に過ごせる最後の日だと知らずに――。


 そして、その日の僕は何をするでもなく、ただただ惰眠を貪ってしまった。その日以降、僕の心は夏に囚われている。


 今僕が置かれている状況を、はっきりと分かってしまった。

 なぜ去ったはずの奈緒が目の前にいるのか――、それは僕の夢が見せている幻だからだ。


 普通の人ならば、わざわざ忘れ物を取りに東京からこんな田舎町まで来る訳がない。しかし、僕はその当然の事実に気付かないフリをして、現実だと思い込んで八月三十日という幻の時間を過ごした。

 

 きっと、現実の八月三十日でも、東京へと出立する最後の日を奈緒は僕と一緒に過ごしたかったに違いない。

 奈緒ならこうするだろう――、そう易々と想像出来るほど現実味に溢れていた。


 これは、僕自身が拒んだ、あり得たはずの夢のような時間だ。


「蒼平、大丈夫? 体調悪いなら、もう帰る……?」


 いつの間にか僕はしゃがみ込んでしまっていたようだ。僕のことを心配した奈緒の声が、頭上から降りかかる。僕の肩に置かれた奈緒の手は、夢とは思えないほどリアルで、不安に微かに震えていた。僕は小さく首を振って応えることしか出来ない。


 声にならなかった。申し訳なさで胸がいっぱいだった。


 ――あの日、奈緒の想いを踏み躙ったことへの後悔。


 この感情が、夏に取り残された僕が抱き続けたものだ。


 この思いのせいで、奈緒がいなくなった一か月ほどの間、どれほど苦しんだだろうか。

 何をするにしても無気力で、心の底から何かを楽しむということが出来なかった。


 そして、夢だと気付いてしまった僕は、ある選択肢が頭の中に鮮明に思い浮かぶ。


「……な、お」

「何、蒼平?」


 僕の掠れた声を、奈緒は真っ直ぐに受け止めてくれた。


 これは夢だ。僕がここで奈緒に謝れば、きっと目を覚ました僕は、胸をすっきりとさせて清々しく生きていける。

 夏に縛られていた僕の心が、ようやく解放されるチャンスなのだ。


「――僕」


 僕は縋るように奈緒の顔を見る。夢の中の奈緒は真剣に耳を傾けてくれている。あの日、僕は奈緒のことを裏切ったというのに、目の前にいる奈緒は何事もなかったかのように変わらない。


 当然だ。これは夢なのだから。


 だから、ここで全てを終わらせよう。


 今目の前にいる奈緒に懺悔することで、ようやく僕は前に進むことが出来る。


「僕、は……」


 ホームのアナウンスが鳴り渡ることで、僕の絞り出すようなか弱い声はかき消される。どうやら次の電車が近づいて来ているようだ。


「ごめん、今の言葉聞こえなかった。もう一度言ってもらえる?」


 奈緒に悪いことなんて全くないというのに、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。


 十七年間接し続けた、優しい奈緒そのものだ。


 その顔を見て、僕はまた自分自身に嫌気が差し込んだ。


 僕は息を呑み込むと、


「……やっぱり体調が悪いみたい。僕はここで帰るよ」


 無理やり笑顔を作って、奈緒に言った。


 仮にここで僕が謝ったとして、けれど、それはただ僕だけが満足するだけに過ぎない。現実世界の奈緒が受けた傷を癒すことは出来ないのだ。僕が口にして語ろうとした言葉は、ただの自己満足に等しかった。


 夢の中でさえも、また僕は最悪の選択をしてしまうところだった。


 奈緒は何か言いたそうに――、実際喉まで言葉を出しかけていたが、それらを全て抑え込むと、


「……私が無理に付き回したからだよね。ごめんね」

「ううん、奈緒のせいじゃないよ。体調管理がうまく出来なかった――僕のせいだ。僕のことは気にしないで、奈緒は買い物に行ってよ。欲しいものがあるんでしょ?」

「――あ」


 奈緒の掠れる息をおいて僕は奈緒から離れると、帰路に着こうとした。


 ここで別れなければならない。いつまでも甘い夢に浸っていてはいけない。きっとここで奈緒と離れれば、夢から覚めるはずだ。


「あの、さ。実は私……、今日で」


 口ごもる奈緒の、その続きの言葉を僕は予想出来ていた。


 夢だというのに、なんとリアルなんだろうか。僕が知っている奈緒は、きっとこういう風に口ごもるだろう。周りの人を気遣うのは得意なのに、人に甘えることを知らない性格――、それが羽川奈緒だ。


 奈緒が乗らなければならない電車の汽笛の音が、寂しいホームに鳴り響く。なんとなく分かる。あの電車が、終わりの合図だ。電車がこのホームを離れた時、この夢は終わる。


「ほら、早く行かないと遅れるよ」


 僕は奈緒の口から、あの言葉を聞かないように先を促す。


 何故なら、この日、本当は僕らは一緒の時間を過ごしていなかったのだ。

 ここで僕だけが自分の望むようにしてしまえば、本物の奈緒に寂しい思いを抱かせ続けてしまうだろう。そして、夏から解放された僕は、いつしか奈緒のことを忘れ、この町でのうのうと生き続けていく。そんな未来は、いやだ。


 奈緒は渋々電車に向かって歩いていく。僕は奈緒の背中を静かに見送る。その背中は今まで見たこともないほど、小さく見えた。


 でも、僕には何も出来ない。


 夢の中でとはいえ、こうして本来なかったはずの最後の日を一緒に過ごせただけでも、弱い僕には十分すぎて身に余る幸せだ。


 奈緒が電車に足を踏み入れた途端、


「今日は奈緒と一緒に過ごせて本当に楽しかった」


 せめて今日感じた純粋な思いを、目の前にいる奈緒に伝えた。


 奈緒は驚いたように、反射的にこちらに顔を向ける。今の言葉が本心だと伝わるように、僕は大きく笑みを作った。


「う、うん! 私も、楽しかった」


 奈緒は破顔させながら、一筋の涙を流す。


 そして、暫しの別れを告げるため、どちらともなく手を上げると、それを合図にしたかのように電車の扉が閉まった。


 きっと奈緒は、大型商業施設にはこの後行かないだろう。僕と一緒でないならば、そのまま東京に向うはずだ。ここから先、奈緒がどこをどう経由して、東京に行くかは分からない。


 現実の八月三十一日に、奈緒は既にこの町から去ってしまっているのだから。


「奈緒!」


 僕は去り行く電車に向かって声を上げる。僕の声が響くと同時、奈緒は電車の扉に貼り付き、僕のことを見つめる。その顔は、心配そうで、寂しそうで、けれどどこか期待に満ちているようだった。


 僕はにこりと笑うと、暗闇に向って去っていく電車を追う。電車はゆっくりと進んで、徐々にスピードを上げていく。その距離は離れていくばかりだが、それでも駆け出さずにはいられない。


 電車の扉にいた奈緒だったが、はっとして進行方向と逆の車両に駆け込み、一番後端の窓から顔を出す。


「蒼平!」


 僕の名前を呼ぶ奈緒の声が、確かに耳に届いた。

 まだ僕達は互いの声が届く距離にいる。

 何か言わなければ。でも、何を言えばいいのか。


 言うことも決まっていないというのに、僕は大きく息を吸い、声を張り上げる準備をしていた。


 そうしながら、まるで走馬燈のように、とある日の一場面が掘り起こされた。


 両親と一緒に、小学校低学年の奈緒が泣きじゃくりながら駅のホームに立っている。僕も両親と一緒に見送る形で立っていた。確かその年は、夏休みの間、奈緒が東京の叔母の家に遊びに行った年だ。でも、幼い奈緒が僕と離れたくないとずっと泣いていた。

 その泣き続ける奈緒を見ながら、幼心にどうにかその泣き顔を笑顔に変えてあげたいと思った。


 ――だから、珍しく僕から約束したのだ。


 勇気を出して交わした約束は、結局果たされることはなかったが、ずっと泣いていた奈緒を笑顔にすることが出来た。


 そんな昔の一幕が今の状況に重なり、ふっと僕の口角が上がった。


 これから言うことは、きっと何にも意味がない。奈緒の心には残らず、この夏の夜空に溶け込んで無に帰すのだろう。


 それでも、僕は、


「僕が逢いに行くから!」


 自分自身に誓いを立てるように、昔と同じ約束を、声を大にして叫んだ。

 奈緒は目を見開いた。僕は言葉を続ける。


「夏が終わったら、必ず!」


 あの日よりも更に付け加えた約束を、口にする。


 奈緒は今まで僕に東京へ引っ越すことを隠していた。確かに当時の僕は知らずに、奈緒に騙されていた。けれど、あの夏を越えてここにいる今の僕は、その秘密を知っている。


 奈緒は何でと言いたいように目を大きく広げていた。何を言おうか、決めあぐねるように口をパクパクと開かせる。


 しかし、奈緒は心を落ち着けるように一度だけ深く息を吸い込むと、


「うん、ありがとう! 約束ぅーっ!」


 夜空を割らんばかりに、大きく叫んだ。


 闇夜に溶け込んだ電車を手を振って見送ると、僕は力なく腕を下ろした。


 今の電車が最終電車だったようで、ホームの電気が消え、僕の世界は暗闇に染まっていく。現実だったら、まだまだ電車は動いている時間だ。それなのに営業の終わりを告げるように灯りが消えたということは、予想通りここで夢が終わり、現実に戻らなければならないということだ。


「……」


 僕は心の中で、現実のことを思う。


 あの夏の終わりが迫った日に、僕の世界から奈緒が突然いなくなったことを受け入れられなかった弱い僕は、今までずっと塞ぎ込んでしまっていた。時が巡り、夏から秋へと季節が移ろおうとしている中、僕だけはあの夏に置いて行かれたままだった。


 ずっとどうすれば真っ暗な世界から先へ進めるのか、分からなかった。ただ奈緒が僕の前に来てくれて、昔のように外の世界へと引っ張り出してくれることを願っていた。


 だけど、もう大丈夫。

 僕は自分自身の力で、明日へ進むことが出来る。


「――うん、約束だ」


 また逢いに行くという約束は、現実の奈緒とは実際に交わしていない。唯一この夢を見ている僕だけが、知っている約束。けれど、目が覚めた時、ふっと僕の中で解けてなくなってしまう可能性のある約束。


 今交わした約束は、そんな不確かで曖昧な約束だ。


 自ら動くことの出来ない僕は、こういう約束事がなければ進むことは出来ない。

 だから、目が覚めたら、僕はこの約束を実行しに行こう。


 僕は意識が急速に世界から離れていく感覚を味わいながら、


「――この夏が終わったら逢いに行くよ」


 意識が現実に戻った時この記憶がなくなっていないように、奈緒と交わした約束を、もう一度口にした。


 ***


 九月も終わりに近付けば、さすがに夏の身も心も焦がすような時期は過ぎ、秋の心地よい涼しさが世界を包んでいる。


 しかし、私は季節の移り変わりに馴染んでいなかった。

 あの時あの瞬間――、まだ私の心はあの夏に置いて行かれていた。目が覚めるまでの私だったなら。


 今日目を覚ました私の心は、なぜかすっきりとしていた。確かに昨夜眠る前は抱いていたはずのモヤモヤとした感情は、今やその片鱗さえ感じさせない。今まで取れなかった胸の中のしこりが取れたような、そんな清々しい気分だ。


 その原因は何なのだろうか。

 けれど、私は自問自答しながら、すでに答えに至っていた。そんなの決まっている。先ほどまで見ていた夢のおかげだ。


 私には幼馴染がいた。その幼馴染の男の子の名前は、足達蒼平。


 昔から蒼平はずっと私の後ろに付いてきていて、その従順する様はまるで弟のようで、私は放っておくことが出来なかった。


 徐々に大人に近づいた私たちは、互いに交わらない別々の道を選ぶことも出来た。実際、そうなりかけた。けど、結局私たちはそれを選ばなかった。

 いつも家族のように隣にいたのだ。距離を開けることの方が耐えられなかった。昔から仲良しだった私たちは、ずっと一緒にあの町で過ごすのだと信じて疑わなかった。


 しかし、私は蒼平を裏切った。


 父親の転勤で仕方がないとは言え、私はあの町から離れ、何も言わずに蒼平の前から去ったのだ。


 いや、正確に言えば、東京に向かう前日に私は蒼平の家を訪れた。けれど、蒼平は私の誘いを断ったのだ。あの時の私はショックを受けたが、冷静になって考えれば、あと数日すれば学校で顔を合わせるはずなのにわざわざ会う必要もないだろう。

 結局、前もって私がすべてを正直に話していれば、後悔を抱くことはなかったのだ。


 いつもそうだった。私は自分の想いを伝えるのが少し苦手だ。自由奔放に行動するくせに、上手く言葉を使って話すことは出来ない。本をよく読むのも、上手く言葉を話せないことが理由だ。それに、蒼平が何も言わずに私の後について来るから、甘えていたのだと思う。


 つまり、今回も何も言わずに蒼平の前を去っても大丈夫だと思っていたのだ。


 けれど、そんなことはなかった。

 いつも蒼平のことが気がかりで、この数週間気が気でなかった。それによって、上手く東京の生活にも馴染むことは出来なかった。これは私の甘い考えが生み出した罰なのだ。


 だから、先ほど見た夢を夢だと認識した時、私は清算するチャンスだと思った。


 夢の中で蒼平を裏切った日に戻ることが出来た私は、早速蒼平を誘い、二人の思い出が溢れる場所ばかり回った。そして、私は本当に幼く純粋だった、あの頃の少女のような振る舞いをした。


 しかし、結局私の口からは東京に引っ越すことは言えなかった。


 このまま何も言えずに、再び蒼平の前から去らなければいけない。せめて蒼平に悲しい思いをさせないようにと、笑顔で別れようと思っていた時だった。


 蒼平は私の名前をはっきりと呼んで、ある約束を交わしてくれた。

 その約束の内容は、蒼平がまた私に逢いに来てくれるというものだ。夢の中で私が切望していたからか、それとも蒼平だから何も言わなくても私の引っ越しを勘づいていたのか――、それは分からないが、とにかく夢の中で私は蒼平と約束を交わした。


 夢の中で起こった出来事だというのに、まるで現実で交わし合ったかのように、私の心臓は高鳴っている。いつまでもこの余韻に浸っていたい。けれど、今日は九月の連休の初日――、あまりぼうっとしていても時間がもったいないだけだ。


 先週、部屋が決まるまで一時的に過ごしていた叔母の家から、今のマンションに引っ越して来たのだから、その片付けをしなければならない。

 私の部屋は寝るためのベッドと、机、そして大量に積まれた段ボール箱によって埋め尽くされている。


 ひとまず私は寝ぼけまなこを擦りながら、リビングに入っていった。すると、お母さんが誰かと電話をしていた。その口調は友達に話すように、親しみの籠った声音だ。しかし、丁度話を切り上げるタイミングだったのか、お母さんは別れの挨拶を軽くすまして電話から耳を離した。


「おはよう」


 そのタイミングを見計らって、私はお母さんに挨拶をする。


「あらあら。奈緒ちゃん、ちゃんと洗面所で顔と髪を整えなさいよ。女の子なんだから」


 お母さんは私のことをニヤニヤと見つめながら言う。いつもと様子が違うお母さんに、私はあえて口を挟むことはしなかった。

 それから私はご飯を食べてから、頭の中を切り替える意味でも、お母さんの言う通りに洗面所で身だしなみを整えた。


 そして、私は意を決して部屋の片付けをすることにした。しかし、連休の初日ということもあって、面倒くさいものは後回しにしてしまう私は、段ボール箱を一箱だけ開け終えると、いつの間にか読書に耽っていた。東京で若者の間で流行しているという小説を手にし、机の上で物語の世界に入り込んでいた。


 しばらく読み進めて、私は本から目を上げた。部屋の中に温かな日差しが窓から差し込んでいる。そろそろ部屋の換気をしておきたい。本に栞を挟んで机の上に置くと、私は窓に近づいた。


 窓の外の景色は、今まで私が暮らしていた田舎町とは違っていた。東京はたくさんのビルや建物によって景色が遮られている。街の中を歩く人々も、どこか忙しなさそうだ。


 ――けれど、変わらないものもある。


 窓を開くと、身を委ねたくなるような風が私を優しく撫でつけた。私は髪を抑えながら、空を見上げる。

 東京で見る空も、故郷で見た空も、その青さは変わらない。


 今頃、蒼平は何をしているのだろうか。蒼平のことだから、昼の真っただ中でも寝ているかもしれない。

 そう思うと、不思議と笑いが込み上げて来た。そして、そのまま笑みを湛えながら、今日見た夢のことを思い出す。


「また逢いに行くから! 夏が終わったら、必ず!」


 夢の中で交わした約束が、はっきりと彼の声で思い出される。


 そう約束した蒼平の顔が、幼い頃の蒼平の顔と一致して、懐かしさで胸がいっぱいだった。

 ちなみに、幼い時に交わしたその約束は果たされることはなかった。当然だ。田舎暮らしの小学生が、そう易々と東京に来れる訳がない。


 けれど、今回の夢では、本当に蒼平が私に会いに来てくれるのでは、と思わせてくれるほど力強く約束を交わしてくれた。


 それが今日ならいいのに――、と思うけれど、そんな物語のハッピーエンドみたいな奇跡は起こらない。そもそもこの夢の中だけで交わされた約束を、蒼平が知るはずないのだ。


 だから、私は気長に待とう。

 何か月でも、何年でも、いつか大人になった蒼平が、ふと私のことを思い出して逢いに来てくれるという未来を。


 そんな思いを馳せながら、私は自宅のマンションから秋空を眺めていた。


「さて、と――部屋の片付けでも再開しようかな」


 最後に伸びをすると、私は散らかった部屋に体を向けた。この状態では、蒼平はおろか、東京で友達が来たとしても迎え入れることは出来ない。


 その時、部屋の中にインタホーンが鳴り響いた。

 お母さんが対応してくれるだろうと思い、私は玄関に向かうことはしなかった。

 暫しの静寂が家の中を包み、再びインターホンが鳴る。お母さんは家にいないようだった。


 どうやら私が出るしかないようだ。お母さんの言う通り、身だしなみを整えておいてよかった。知らない人と一瞬顔を合わせるだけとは言え、寝ぐせが立った髪では、さすがに年頃の女の子として恥ずかしい。


 そんなことを考えながら、私は自分の部屋を出て、スリッパの音をパタパタと鳴らして廊下を歩く。


 そして、玄関の扉を開けると、


「はーい、どちらさ――」


 目の前に立っている人物に思わず声を失った。


 緊張した面持ちをしていた彼は、私の顔を見ると、その表情を安堵へと変え、


「久しぶり、奈緒。約束を守りに来たよ」


 そう言う蒼平の背中の遥か上空には、澄んだ空にいくつもの雲が鱗のように広がっていた。


 ――それは、夏の終わりを告げる、秋の空模様だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 描写に対する配慮が隅々まで行き渡っていて、とてもハイレベルな小説だと思いました。 作者さんの小説の構成の練り方と心理描写や情景描写が一段と優れていると思ったので本当に見習いたいと思いました…
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