〈第七章:奴らに深き眠りを〉
浅尾が出掛けた先は、ロッサナだった。
だが、マニアックなビデオを借りる目的で訪れたわけではない。
彼はズボンのポケットに手を突っ込み、そこに入れた指輪の箱を確認する。
それから、おもむろに店のドアを開けた。
レジカウンターに目をやると、前回と同じく定庭がいた。
定庭は浅尾の顔を見てギョッとした表情になったが、すぐに手元へと視線を落とした。
浅尾は、顔を伏せた定庭の視線が、一瞬だけカウンター奥にある扉へ向けられたのを見逃さなかった。
扉の向こうは、たぶん事務室か何かになっているのだろうと浅尾は推察した。
店内を見回した浅尾は、他に客がいないのを確認した。
それから彼は、真っ直ぐレジカウンターへ向かった。
「やあ店長さん、この前はどうも」
軽い調子で話し掛けると、定庭は無言で顔を上げた。
浅尾は言葉を続ける。
「あの時は、連れの青年が失礼なことを言ってすみませんでしたね」
「いや、別に」
ぶっきらぼうに、定庭が言う。
「ところで、ちょっと見てほしい物があるんですよ」
「見てほしい物?」
「ええ、これなんですけどね」
そう言って浅尾はポケットから箱を取り出し、蓋を開けた。
「あなたなら、何か分かりますよね」
「そ、それは……」
ダイヤの指輪を目にして、定庭の顔色が瞬時に変わった。
その激しい動揺は、浅尾の推理を裏付けるに値するものだった。
「なるほど、やはり分かりましたか」
「な、何のことだ」
定庭は平静を装ったが、その目が明らかに泳いでいる。
「今さら芝居をしても無駄ですよ。こちらは全てお見通しです」
「何を言っているんだ。俺は何も知らんぞ。こんな物、俺は関係無い」
半ばキレ気味に言って、定庭はパッと顔を背けた。
「へえ、そうですか」
「だ、だけどお前、そんな物、どこで手に入れたんだ」
すぐに定庭は視線を戻し、尋ねてきた。
「関係が無いにしては、興味があるんですね」
「そ、それはだな」
アタフタした態度になりながら、定庭は言葉を探した。
「まあ、いいでしょう」
助け舟を出すような形で、浅尾が言う。
「僕の質問に答えてくれたら、あなたの疑問にも答えますよ」
「質問?」
「この指輪、本来の持ち主は、いったい誰なんですか」
「何だと?」
「質問が聞こえなかったのなら、もう一度、繰り返しますよ。でも、そうではないですよね、たぶん。僕の質問、ちゃんと聞こえましたよね」
「持ち主なんて、知らん」
「そうですか。じゃあ仕方が無いですね」
浅尾は淡々と告げ、指輪を箱に戻した。
「あ、いや、それは」
物欲しそうな目で、定庭は箱を追った。
「それなら、もう用事は無いので帰ります。失礼しました」
浅尾は定庭に背を向け、振り返らずに言葉を付け加えた。
「ああ、それと奥の部屋にいる人にも、よろしくお伝えください」
「むっ!」
一瞬にして、定庭の顔が引きつった。
浅尾は箱をポケットに入れ、店を出ようとした。
その時、背後でレジカウンター奥の扉が開く音がした。
続いて、定庭とは別の声が響いてきた。
「おい、待て」
その声に、浅尾はゆっくりと振り向いた。
事務室にいた三人の男達が、姿を現していた。
全員がスーツ姿で、一人は小柄、一人は肥満体、一人は中肉中背で目が吊り上がった男だ。
三人は厳しい顔付きで、レジカウンターから外へ出てきた。
「うーむ、三人もいるとは、ちょっと予想外だったな」
浅尾は頭をかきながら、つぶやいた。
奥の部屋に定庭の仲間が潜んでいるのは予想していたが、その人数までは分からなかったのだ。
「そのダイヤを持っているからには、帰らせるわけにはいかないな」
目の吊り上がった男が、刺々しい声で言った。
「もう僕は何の用事も無いんですけどね、奇矢納興業の皆さん」
浅尾はすまし顔で言葉を返した。
「何だと」
三人が一瞬、たじろいだ。
「俺達が何者なのか、知っているのか」
「初対面ですけど、それぐらいは分かりますよ。いかにも悪そうな顔付きだ」
「言うじゃないか。だったら、ますます帰ってもらうわけにはいかないな」
吊り目の男が、腕組みをする。
「何となく予想は出来ますが、一応は聞きましょう。そちらの用事は何ですか」
「ダイヤを渡せ」
「ああ、やはりね」
浅尾は、うなずいた。
「分かっていたのか。それなら話が早い。渡してもらおう」
「いえいえ、そちらの要求は予想通りでしたが、承諾はしかねますね」
「こいつ、なめた口を」
小柄な男がいきり立ったが、吊り目の男が右手で抑えた。
どうやら、三人の中では、吊り目男がリーダー格のようだ。
「つまり、我々にダイヤを渡す気が無いってことか」
「あなた達が持ち主なら、喜んでお渡ししますよ。でも、違いますよね。この指輪は、宝石店“ガイガン”から盗まれたものだ」
「そこまで知っているのか」
「当たりでしたか。それは良かった。僕の勘も捨てたものじゃない」
浅尾は微笑した。
「てめえ、ふざけやがって」
今度は肥満体が怒鳴った。
「こうなると、ただダイヤを渡してもらうだけでは済みそうにないな。お前は色々と知りすぎた」
「邪魔者は始末する気ですか」
「なるほど、勘はいいらしい」
「どうせ素直にダイヤを渡していても、殺すつもりだったでしょうに」
「勘は素晴らしいが、こっちの方はどうだろうな」
吊り目の男は、右拳を左手で包み込み、ポキポキと音を鳴らした。
「分かりやすい挑発だこと」
浅尾が肩をすくめる。
「僕は一応、平和主義者なんですけどね。しかし今逃げても、どうせ後で戦わなきゃいけなくなるんでしょうね」
「戦うも何も、すぐに眠らせてやるぜ。それも永遠にな」
そう言って、吊り目の男は胸ポケットからカイザーナックルを取り出し、右手に装着した。
その後ろで、小柄な男と肥満体がいずれも懐から匕首を取り出した。
「こちらは一人、そちらは三人なのに、さらに武器まで使いますか」
「卑怯とでも言いたいのか。言いたけりゃ、あの世で言いな」
「いいえ、そんなことは言いませんよ。ただ、これはポール・バーホーベン監督の映画じゃないんでね」
「どういう意味だ?」
「悪党は最後までのさばることなく、ちゃんと退治されるってことです」
浅尾は悠然と言った。
「ふざけたことを。兄貴、こいつは俺がやるぜ」
小柄男が匕首を構えた。
「出来れば勘弁してもらいたいんですけどね」
そう言いながら、浅尾はビデオ棚の方へ後退するという行動を取った。
「いきなり逃げ腰かよ」
「どう考えてもらっても結構」
浅尾は、ガラス窓に面した列に入った。
「食らえっ!」
小柄な男が走ってきて、匕首を持った右腕を突き出した。
「食らわないっ」
浅尾は棚からビデオを一本抜き取り、それで相手の右腕を外に受け流した。
ビデオケースの中身が、カタカタと小さく鳴る。
浅尾は手にしたビデオにチラッと目をやり、それが『ダークマン』だと気付いた。
「おっと、これはマズい」
浅尾がつぶやく。
「すみません、ちょっと問題があるので、待ってもらえますか。ビデオを別の物と交換したいんですけど」
「ふざけんなよ、このっ」
男が再び匕首で突いて来た。
「ふざけてませんよ」
浅尾はビデオで内に受け流し、そのままガラス窓に相手の腕を押し当てた。
「いててっ」
男は右手を引き、打った箇所を左手で押さえた。
その隙にすかさず、浅尾は『ダークマン』を棚に戻し、『ダークマン2』と『ダークマン3』を抜き出した。
「さあ、二作目と三作目なら、損傷してもそれほど心が痛まない」
浅尾は、ビデオを両手に一本ずつ持った。
「どけっ、俺がやってやる」
肥満男が小柄男を押し退け、前に出た。
キエエッと甲高い声を発して、肥満男は左手に持った匕首を突いて来た。
「へえ、体型の割に機敏だ」
浅尾は体を右にかわしつつ、左手のビデオでドスを下に受け流す。
同時に、右手のビデオで相手の手首を横から叩き付けた。
バシッと良い音がする。
「いてっ」
肥満男が顔を歪めた。
「その顔、ちょっとだけ『ダークマン』の悪役のラリー・ドレイクに似てるな」
浅尾は真顔で言った。
「黙れ!」
肥満男は匕首を逆手に持ち替え、大上段に振り下ろした。
いや、振り下ろそうとしたが、その動きは完了しなかった。
浅尾は素早く一歩踏み込み、左手のビデオで相手の腕を跳ね上げ、右手のビデオを肥満男の顔面に思い切り押し当てた。
「ふぎゃっ」
潰れた蛙のような声を上げ、肥満男がタタタと後ろへ下がる。
「おい、今度は二人で同時にやるぞ」
小柄男が肩をいからせ、肥満男に話し掛けた。
「行くぞ」
「よしっ」
だが、その作戦は実行されなかった。
二人が同時に襲い掛かるには、列の幅が狭すぎたのである。
同時に踏み出そうとして、小柄男と肥満男はそのことに気付いた。
「なるほど、そこなら一人ずつしか攻撃できないと考えて、移動したのか」
吊り目男が、二人の後ろから言った。
「ご想像にお任せしましょう」
浅尾は答えた。
「だが、残念ながら、それは浅知恵だな。おい、隣の列から反対側へ回り込め。挟み撃ちにするぞ」
吊り目男は、小柄男と肥満男に指示を出した。
「その手があったか。うーむ、そこまでは考えてなかったな」
とぼけた顔で、浅尾が言う。
「馬鹿め、絶対に殺してやるからな」
小柄男と肥満男は、隣の列へと走り込んだ。
同時に、吊り目男が動いた。
「はあっ!」
掛け声を発し、吊り目男が浅尾を襲う。
浅尾は、二本のビデオを吊り目男に投げ付けた。
「こんな物っ」
吊り目男は両手で荒々しく叩き落とす。
その間に浅尾は素早く後ずさり、列の一番奥まで移動した。
すなわち、奥の壁とガラス壁が交わる角の部分を、背負うような状態になったわけだ。
小柄男と肥満男は、隣の列を通って奥の通路へ行き、浅尾の左サイドへ回り込む形になった。
だが、彼らはいきなり浅尾に襲い掛からず、リーダーの指示を待った。
吊り目男は余裕の笑みを浮かべ、ゆっくりと浅尾に近付いた。
「ふっ、わざわざ自分から追い詰められるとはな。作戦が失敗に終わって、どうにもならなくなったか」
「そりゃあ、そっちが言う通り、僕は馬鹿だからね」
浅尾は、落ち着き払って言った。
左側に二人の敵、正面にも敵、そして右と後ろは壁に囲まれているのだ。
追い詰められていると考えるのが、普通だろう。
ただし、浅尾は普通ではない。
そして実際、彼は追い詰められたわけでもない。
「お前ら、行けっ」
吊り目男は指示を出し、自らも右ストレートを浅尾の顔面へと放った。
すぐさま浅尾の左から、小柄男が匕首を腹へと突き出してきた。
「甘いね」
浅尾は頭を低くして吊り目男のパンチをかわした。
同時に、小柄男の突き出した腕を自分の手前に左の掌底で捌いた。
そして左に一歩踏み込み、右の貫手で小柄男の喉を鋭く突いた。
「ぎひっ!」
小柄男は喉を押さえながら、弾けるように後ろへ下がった。
息つく暇も無く、吊り目男が右フックを放ってきた。
それに続いて、肥満男が匕首を中段に突いて来た。
浅尾は体を反らし、左の手刀で吊り目のパンチを内に捌いた。
そして右手で、肥満男の手首を掴んだ。
そのまま彼は肥満男の腕を引き込みながら、左に大きく踏み出す。
そして左の手刀を水平に構え、首筋へ強く打ち込んだ。
「きゅっ!」
妙な裏声を発し、肥満男は床にうつ伏せとなって卒倒した。
浅尾が相手では、厚い脂肪も鎧としては不充分だったようだ。
「くそっ」
吊り目男は舌打ちし、左ジャブと右ストレートを連続して打ってきた。
シュッシュッと、男が短く息を切る。
浅尾は左へ体重移動してジャブをかわし、一歩踏み込んで右肘でストレートパンチを外に捌いた。
そして、その捌いた肘を軸にして、右の裏拳を吊り目男のこめかみに決めた。
パシンッ。
小気味良い音が店内に響く。
「うぐっ」
吊り目男は脳髄を激しく刺激され、体を揺らす。
両膝がカクッと折れ、彼は気絶した。
「テエッッッ!」
小柄男が奇声を上げ、倒れた肥満男の背中を踏み付けて、浅尾の左サイドから勢い良く飛び込んで来た。
そして、匕首を顔面に突き刺そうと伸ばしてきた。
浅尾は、跳躍してきた小柄男の突きを、左の裏拳で上に受け流した。
そして、がら空きの右胸部に縦拳を突き上げた。
確かな手応え。
「ぐわっ」
小柄男の体が大きくのけぞる。
目を大きく見開き、充血を示す。
「むうっっっ……」
男の口から、だらしなく涎が垂れ落ちた。
そして彼は気を失い、バッタリと崩れ落ちた。
「馬鹿でも意外にやれるもんだね」
三人を退治し、浅尾は飄々と独り言を口にした。
それから彼は吊り目男の体をまたぎ、レジカウンターへ向かった。
そこには、青ざめた顔をしている定庭の姿があった。
「さて、どうする、店長さん」
「そ、そんなはずが。あの三人を相手にして、あっさりとやっつけるなんて」
定庭は狼狽する。
「四人目になるかどうかは、そちら次第だよ」
「く、くそおおっ」
定庭はヤケになったかのように、声を張り上げた。
「やる気かな?」
だが、定庭は戦おうとしたのではなかった。
彼は浅尾の横をすり抜け、店外へ逃げ出そうとした。
もちろん、そんなことをを浅尾が許すはずもない。
「逃げちゃいけないね」
浅尾は右足を定庭の方へ大きく踏み出し、相手の足を引っ掛けた。
同時に浅尾は、定庭の右腕を自分の右腕で巻き込むようにしつつ、相手の手首を自分の左手で下から掴んだ。
そして定庭の走る勢いを利用し、引っ掛けた足を大きく刈った。
「うおっ」
定庭の体は、前方へとつんのめる。
浅尾は掴んだ手を離さず、自分も体を右へ捻りながら倒れ込んだ。
ドスンッ。
両者の体が床を鳴らす。
だが、二つの音は意味がまるで違う。
一方は受け身を取った音、もう一方はダメージを受けた音だ。
「ぐっ」
胸を床に圧迫され、定庭が小さくうめく。
浅尾は間髪入れず、うつ伏せで倒れた定庭の右腕を逆関節に絞り上げた。
「いたたたたっ!」
定庭の顔が苦痛に歪んだ。
「このまま力を加えれば、確実に腕が折れるぞ。外してほしかったら、僕の質問に答えるんだな」
「知らん、俺は何も知らんぞ」
定庭は意地を張った。
「ほう、何も知らないというのか」
「知っていても、お前に喋ることなんて何も無い」
「そうかな」
浅尾は両手に力を込め、さらに強く定庭の右腕を捻り上げた。
「ぐおっ、わ、分かった、何でも喋る」
定庭の意地は、あっけなく崩れた。
「よし。では最初に、この店について聞くとしよう。ここは奇矢納興業の店だな」
「あ、ああ。皆浜社長が実質的なオーナーだ。だが、俺は組織の正式な構成員じゃないんだ。彼らに脅されて、仕方なく店長をやってるだけだ」
「今さら無駄な逃げ口上はやめろ。まあいい、では次に、先程見せたダイヤの指輪についてだ。あれは、この前の宝石窃盗事件で盗まれたものだな」
「そ、そうだ」
「盗んだのは、奇矢納興業の連中だな。そして、その盗品は全て、ロッサナに置かれていた」
「ああ」
「なぜ、この店に保管していたんだ」
「事務所に持ち帰るつもりだったが、ちょっとドジをやらかして、警察のマークが厳しくなったと社長が感じたんだ」
定庭は、自分がドジをやらかしたことは言わなかった。
「それで、ほとぼりが冷めるまで、しばらくロッサナで隠しておくことになった」
「なるほどな」
「しかし今朝、確認作業をしていたら、ダイヤの指輪が無くなっていることに気付いた。さっきの指輪だ。きっと帆足が持ち出したんだろう。それ以外に考えられない」
助かりたい一心からか、定庭は聞かれてもいないことまでベラベラと喋った。
「その帆足は、どうしているんだ」
浅尾が聞く。
「さあ、知らない。専務にでも捕まっているんじゃないのか」
「専務というのは、世羅間のことか」
「ああ」
「帆足にダイヤのありかを吐かせて、その後は始末するつもりだな」
「それは、そうなるだろうな」
「アイドルに熱を上げただけで、命を落とすことになるとはな。可哀想な奴だ」
浅尾は、同じアイドル好きとして帆足に同情した。
「おい、もう質問は終わったのか。だったら離してくれ」
定庭が苦しそうに言った。
「いや、最後にもう一つだけ聞きたいことがある。この店は奇矢納興業にとって、どういう場所なんだ?」
「質問の意味が分からん」
「これほどマニアックすぎる品揃えは、普通のレンタルビデオ店としての営業を考えているとは思えない。きっと、何か裏があるんだろう」
「そんなものは無い。ここは普通に商売をしているビデオ店だ」
「つまらない嘘をつくと、ためにならないぞ」
浅尾は両手に力を加える素振りで脅す。
「ほ、本当だ。皆浜社長はB級映画やカルト映画が大好きなんだ。だから個人的な趣味として、この店を営業しているんだ」
「だったら、ジョン・カーペンター監督の特集を組んだり、ここの品揃えを決めたりしているのも、全て皆浜の意向なのか」
「そうだ、社長が全て決めている。他の誰も口出しは出来ない。この店に関しては、儲けは度外視なんだ」
「いい趣味じゃないか。悪党じゃなかったら、仲良くなれそうだ」
「なあ、もういいだろう」
「そうだな、もう充分に語ってもらった。感謝するよ」
浅尾は、定庭から両手を離した。
「ふうっ」
大きく息を吐き、定庭は右肩を押さえた。
「僕は、約束を守る主義だ。だから、安心させておいて殺すような、卑怯な真似はしない」
上半身を起こした定庭の背中に右手を軽く当て、浅尾はそう話し掛けた。
「ただ、しばらく眠ってもらう」
「眠る?」
定庭が首を横に向けた時、浅尾は右掌底で定庭の背中をグッと押し込んだ。
「ひっ!」
定庭は瞬間的にピンと海老反りになり、そして気を失った。
浅尾は定庭の体を床に横たえてから、立ち上がった。
「もしも帆足が指輪のありかを吐いたら、いよいよ亜里ちゃんの身が危険だな。さて、どうするか……」
浅尾は思案した。
その時、彼のズボンの後ろポケットから、『カンニング・モンキー/天中拳』の日本版主題歌のメロディーが流れてきた。
携帯電話の着信メロディーが、それに設定されているのだ。
浅尾は携帯を取り出した。
「もしもし」
「あっ、浅尾さん、覚えてる?」
それが室輪エミの声だということは、すぐに分かった。
短い言葉でも、溢れんばかりの色香が伝わってくる。
「室輪さんですね。ええ、覚えてますよ、もちろん」
浅尾は、定庭から少し離れる。
「ずっと連絡が来るのを期待して待ってたのよ。なのに、メールも電話もして来ないんだから」
やや拗ねたようにエミが言う。
「すみません、色々とありまして。連絡する気持ちはあったんですけど、なかなか出来なかったんです」
「本当?無視されているのかと思って、落ち込んでいたのよ」
「いえ、エミさんを無視するなんて、とんでもない。ところで今日は、どうしたんですか」
「実は、亜里のことで急ぎの話があるの」
「急ぎの話?何ですか」
「電話じゃ言えないわ。かなり重大な話だから。ねえ、今どこにいるの?お店?」
「いえ、ちょっと外出中です」
「もし都合が悪くなかったら、私のマンションに来てくれないかしら」
「えっ、室輪さんのマンションですか」
浅尾の声が上ずった。
「都合はどうかしら」
「いえ、別に都合は悪くないんですけど。でも、あまり遠い所まで行くわけにはいかないんです」
「そんなに遠くないのよ。段手商店街から車で五分ぐらいの場所だから、近いでしょ。それじゃあ決まりね。今からメールで詳しい場所の説明を送るわね。よろしく」
重大な話がある割には軽い調子で、エミは電話を切った。
浅尾は沈黙し、携帯の液晶画面を眺めた。
ちなみに待ち受け画像は、烈風正拳突きを見舞う闘将ダイモスだ。
「だけど、車で五分ぐらいだから近いと言われても」
眼鏡のフレームを触りながら、浅尾はつぶやいた。
「僕、車の免許を持ってないんだよなあ」