〈第五章:招かれざる客〉
翌日。
雨は昨夜の内に止み、晴れ渡る空とギラギラ輝く太陽が戻ってきた。
『猫目小僧』のTシャツを来た浅尾は、任世館で丸椅子に座っていた。
彼はクーラーという文明の利器に感謝しつつ、穏やかな時間を過ごしている。
店内にはBGMとして、ザ・ワイルドワンズの『青空のある限り』が流れている。
そんな午後一時頃、意外な訪問者が現われた。
「こんにちは、浅尾さん」
その女性客は、軽く会釈して微笑んだ。
「えっ、どうしてここに?」
浅尾は驚き、思わず椅子から立ち上がった。
訪問者は詩出井亜里だった。
この前とは違い、普段着なのだろう、Tシャツにジーンズというラフな服装だ。
彼女は一人ではなく、信郎も一緒だった。
「亜里がこの前の礼を言いたいらしいんで、連れて来たんだよ」
信郎が不愉快そうに言った。
「この前って、ミニコンサートの?」
「ああ、ストーカー男を追い払っただろ。その礼が言いたいんだと。そんなことで、わざわざ会いに行く必要は無いって言ったんだけどな」
「そんな言い方は失礼よ」
たしなめるように亜里が言う。
信郎の方が年上なのだが、中身は亜里の方が大人のようだ。
「いや、言い方はともかく、僕も信郎君と同じ意見ですよ」
浅尾が亜里に話し掛けた。
「礼を言うためだけに、アイドルがこんな店に足を運ぶ必要なんて無いんですよ。今は他にお客さんがいないからいいものの、ファンに見つかったりしたら大変です」
「でも、あの時はあまりにビックリしてしまって、ちゃんとお礼を言わないままで帰ってしまったので。本当に、ありがとうございました」
亜里は、丁寧に頭を下げた。
「いやいや、警護を任された以上、当然のことですよ。それにアイドルオタクとしては、アイドルを守るのが使命ですからね」
浅尾は恐縮した。
同時に、ここまで律儀な態度を取る亜里に、ますます好感を抱いた。
勘違いしては困るが、それは恋愛感情ではなく、ファンとしての好感だ。
浅尾は、アイドルに対して本気で恋心を抱かないというルールを、自分の中で勝手に定めている。
「それと、今日はもう一つ用事があって来たんです」
亜里はニッコリ笑って言った。
「実は、浅尾さんに会ってみたいという人がいるんです」
「ちょっと、前置きが長いわよ。外は暑いんだから、早く紹介してくれなきゃ」
店の外から粘るような声が響き、一人の女性がロングヘアーをなびかせながら入ってきた。
タイトな紺のミニスカートに、ざっくりと胸元の開いたブラウスという格好だ。
顔立ちはクッキリとしていて、少しキツめの美人という感じである。
年は三十代前半といったところだろうか。
ミニスカートから伸びる生足が、なまめかしい。
「颯爽と登場するイメージだったのに、亜里の前置きが長いから、なんか調子が狂っちゃったわ」
その女性は、妖艶な眼差しを向けながら文句を言った。
厚みのある唇が、官能的に動く。
「ごめんなさい、エミさん」
「やだ、こっちは冗談で言ってるんだから、本気で謝らないでよ。まるで悪者みたいじゃない」
カラカラと笑いながら、エミと呼ばれた女が亜里に歩み寄った。
「あの、もしかして、室輪エミ(むろわ・えみ)さんですか?」
浅尾が質問を投げ掛けた。
ただし、彼は相手が誰なのか既に分かっており、それは確認のための作業に過ぎない。
「ええ、そうよ」
エミは芝居じみた動きで髪をかきあげながら、うなずいた。
「ああ、やっぱり。お会いできて光栄です。グラビアで活躍していた頃から、ずっと見ていました」
浅尾は、頬を緩ませる。
彼が言った通り、室輪エミはグラビア系アイドルとして芸能界にデビューしたタレントである。
現在はグラビアの仕事を卒業し、バラエティー番組を中心に活動している。
「グラビアで活躍していた頃なんて、随分と昔に思えるわ。私が最も輝いていた時期ね。最近は完全にバラエティー番組のイジられキャラになっちゃったけど」
エミは、自虐的なことを笑顔で口にした。
「だけど、ドラマにも出演しているじゃないですか。最近まで放送していた刑事ドラマ『ビバ!港南署』の婦人警官役は良かったですよ。ドラマ自体も『あいつがトラブル』みたいで好きでしたし」
「あら、それは嬉しい言葉だわ」
「おい、オッサン、どうして普通に会話を進めてるんだよ」
信郎が呆れたように言った。
「どうしてって、何のことだい?」
浅尾には、信郎の言葉の意味が理解できなかった。
「何の目的でエミさんがここに来たのか、不思議に思わないのか」
「ああ、そうか。そういえば」
「実は、エミさんとは前から親しくさせてもらっていて、私にとっては芸能界のお姉さんみたいな存在なんです。何でも話せるっていうか」
亜里が説明を始めた。
「それで、この前の事件のことも、エミさんに話したんです。そうしたら、エミさんが浅尾さんにすごく興味を持って、会ってみたいって言い出したんです」
「わざわざ会うほどの男でもないって言ったんだけどな」
信郎が、馬鹿にするような目を浅尾に向けた。
「ということは、信郎君も室輪さんと知り合いなのかい」
「ああ、亜里に紹介してもらって、ちょっとだけな」
「だけど室輪さん、興味と言われても、これといって特に何も無いですよ。僕は単なるオタクです」
浅尾が言う。
「そんなことないでしょう」
エミがアヒル口を開き、意味ありげな視線を送った。
「聞いたわよ。あなた、タチの悪いファンを、ジャッキー・チェンみたいに退治したんでしょ」
「ジャッキー・チェンですか」
浅尾は戸惑いの表情を浮かべる。
「亜里ちゃんが、そんな風に言っていまししたか」
「ええ、見た目は全く強そうに見えないのに、すごく強くてビックリしたって。それで是非とも会いたいと思って、彼女に連れてきてもらったの」
「そうか、室輪さんは確か、格闘技をやってらっしゃるんですよね」
浅尾は思い出して言った。
「へえ、そんなことまで知ってるの」
「もちろんですよ。確かキックボクシングですよね」
「エミさんはすごく強いんですよ。痴漢を撃退したこともあるんです」
亜里が言う。
「物騒な時代だから、自分の身は自分で守らないとね」
エミが言う。
「亜里も何か格闘技を始めたら?また変なファンにでも襲われたら困るでしょう。いつも浅尾さんに守ってもらうわけにはいかないんだし」
「でもアタシ、運動神経が鈍いから」
「簡単な護身術なら、何とかなるんじゃないの。そうだ、浅尾さん、そういうのって何か無い?」
エミが、何気無く浅尾の腕を触りながら尋ねた。
「そういうのって、護身術ですか」
ボディータッチに緊張しながら、浅尾が問い返した。
「ええ、亜里みたいに弱い子でも、簡単に出来るようなやつが」
「僕のやっている拳法は、あまり一般向けではないので」
「どういう流派なの?少林拳とか、酔拳とか、色々あるでしょ」
「言っても分からないと思いますけど、大進拳というマイナーな拳法です」
「へえ。それって、いつ頃から始めたの?わざわざ中国まで言って学んだの?どういう特徴がある武術なの?」
エミは悩ましげな眼差しで浅尾を見つめ、矢継ぎ早に質問した。
「エミさん、本当に興味津々なのね」
亜里が、軽く驚いた様子で言った。
「そりゃそうよ。私、強い男が好きだもの。それも未知の格闘技となれば、なおさらよ。ねえ浅尾さん、良かったら携帯の番号とメールアドレスを交換しない?」
「えっ?」
浅尾は狼狽する。
「色々と、詳しい話も聞きたいし。それぐらい、別に構わないでしょ」
まるで誘惑するように、エミは浅尾を見つめたまま唇を舐めた。
「エミさん、やめた方がいいですって。こんなオタクにそんなことを教えたら、ロクなことになりませんよ」
信郎が顔をしかめて言った。
「おいおい、それは心外だな。僕は紳士的なオタクなんだぞ」
浅尾は静かに抗議し、それからエミに視線を戻した。
「とは言え室輪さん、僕みたいな人間と携帯番号やメールアドレスを交換するのは、やはり行き過ぎではないかと思いますが」
「あら、どうして?嫌なの?」
「いえ、滅相も無い。やぶさかではありませんが」
浅尾は、あまりに積極的なエミの態度に、困った表情を見せた。
そういった女性からのアプローチに、全く慣れていないのだ。
彼は多くのオタクと同じく、自他共に認める「モテない君」なのだ。
「だけど本当に、亜里が言ったように、あまり強そうには見えないわよね」
エミは、浅尾の全身を見回した。
「見えないだけじゃなくて、実際、僕はそんなに強くないんですよ」
「またまた、謙遜しちゃって」
「いや、そんな奴、強くないぞ!」
店の入り口から、大きな声が響いてきた。
反射的に、浅尾達が視線を向ける。
すると、そこには見覚えのある男が立っていた。
「お前、あの時の」
信郎が指差したその男は、ミニコンサートの日に現れた自称・亜里の恋人だ。
パンチパーマの男は仁王立ちになり、強気な態度で言った。
「あの時は油断していたから、やられただけだ。そんな奴に、俺が負けるはずは無い。亜里の愛のパワーを持つ、この俺がな」
「何を言ってやがる、この馬鹿が」
信郎は冷めた口調で言った。
「そんなことよりも」
浅尾が口を開いた。
「ここが良く分かりましたね。と言うか、なぜ来たんです。私に何か用ですか?あの時の仕返しをしたいとか?」
「俺は亜里を追い掛けてきたんだよ。お前なんかに用は無い。店から出てくるのを待っていたが、なかなか出て来ないから入ってきただけだ」
「浅尾のオッサンにビビって、亜里が外に出てくるまで待とうとしたんだろ」
信郎が挑発的な物言いをした。
「違う。余計な奴に、俺と亜里の邪魔をされたくなかっただけだ」
「邪魔者ですみませんね、帆足さん」
浅尾が淡々と言った。
「ど、どうして俺の名前を?」
途端に、男が焦った様子を見せた。
「オタクは無駄に知識が豊富なんですよ、帆足さん」
「くそっ、ふざけやがって。だからって何なんだよ。俺の名前が分かったからって、どうだって言うんだ」
帆足が平静を取り繕おうとするが、瞬きの多さに慌てぶりが出ている。
「いえ、名前を知ったからといって、どうということはありませんよ」
対照的に、浅尾は落ち着き払って言葉を告げる。
「ところで、御用は何ですか」
「ええい、今日はこれを亜里に渡しに来ただけなんだよ」
帆足はヤケクソ気味に言って、ズボンのポケットから木製の箱を取り出した。
掌サイズの立方体で、ピンクのリボンで蓋が封じられている。
「亜里、俺からのプレゼントだ。受け取ってくれ。俺の愛の深さが、これで分かるはずだ」
「えっ……」
たじろぐ亜里に帆足は近付き、強引に箱を押し付けた。
「何やってんだよ」
信郎は眉を釣り上げ、亜里と帆足の間に割って入った。
「まだ懲りてないのか。亜里は迷惑してるんだよ」
「これは俺と亜里の問題だ。部外者がとやかく言うな」
帆足は、ファイティングポーズを取ろうとした。
だが、浅尾が一歩前に出たのを目の端に捉えた瞬間、逃げ腰になった。
「い、いいか。今日はプレゼントを渡しに来ただけだ。お前とケンカしに来たわけじゃねえぞ」
帆足は浅尾を見ながら、そう言った。
「僕だってケンカする気は無いですよ。ただ、幾つか聞きたいことはありますけど」
「お前に話すことなんて、何も無いぞ。もう行くからな。だけど、俺はビビってるわけじゃねえぞ。今度会ったら、ただじゃおかないからな」
そう言うが早いか、帆足は脱兎の如く店から走り去った。
「おい、待て」
すぐに信郎が後を追って店を出た。
しかし店先でキョロキョロと辺りを見回した彼は、首をかしげながら、すぐに戻ってきた。
「どこにもいないぞ、あいつ。逃げ足だけは異常に速いな」
「サイボーグ009みたいに、加速装置でも内蔵されているんですかね」
浅尾は、すました顔で冗談を飛ばした。
「ビビってるわけじゃないと言っておきながら、さっさと逃げ出しやがって。あの野郎、明らかに浅尾のオッサンにビビってるじゃねえか」
「そんなに怖がらなくてもいいのに。こう見えても僕は、初代メフィラス星人に匹敵するほどの紳士なのになあ」
浅尾は残念そうに言う。
「ねえ、あの男は何者?」
エミが浅尾に尋ねた。
「あれは、亜里ちゃんのファンの成れの果てですよ。自分が亜里ちゃんの恋人だと思い込んでいるんです」
浅尾が説明した。
「ああ、あれがそうなの。いわゆる痛いファンって奴ね。というより、ストーカーかしら」
「どっちでもいいさ、とにかくクソ野郎には違いない」
信郎は顔を紅潮させた。
「あの、このプレゼント……」
亜里がおずおずと、浅尾達に箱を見せた。
「どうしましょうか、これ」
「開けてみれば?」
エミは、悪戯っぽく口にした。
「でも、ちょっと怖いし、それに気持ち悪いし」
「そりゃそうだな。何が入ってるか分かりゃしないぜ。どっかに捨てちまえよ」
信郎が言う。
「いや、そんなに嫌悪するような物は入っていないんじゃないかな」
じっと箱を見つめていた浅尾は、信郎とは異なる意見を口にした。
「なぜだよ、オッサン?」
「彼は確かに真っ当な人物とは言えないが、少なくとも亜里ちゃんに対する気持ちは真剣のようだからね。亜里ちゃんを傷付けるつもりは全く無いだろうし、妙な物を渡すとは思えない」
「それは、どうだろうな」
信郎は同意しない。
「箱のサイズからして、僕は宝飾品のような物ではないかと推理しているんだが」
「ほら、開けちゃいなさいって」
エミがそそのかす。
「でも、中身が何であれ、やっぱり気持ち悪いし」
「だったら、俺が預かっておく」
信郎は、無造作に箱を掴んだ。
「あの野郎、どうせまた近い内に、亜里に会いに来るだろう。その時に、突き返してやるよ」
「そうですか、それも一つの案ですね。では、信郎君に任せましょう」
「それにしても、この店まで追い掛けて来るとは思わなかったぜ」
「こんな場所まで来るぐらいですから、亜里ちゃんの住まいの方にも現れているんじゃないですか?確か、実家を離れて、こっちで一人暮らしをしているんですよね。大丈夫ですか」
浅尾は亜里に問い掛けた。
「もしかすると、来ているのかもしれません」
「来ているのかも、というと?」
質問を重ねる浅尾。
「あの人が押し掛けて来るんじゃないかと思うと怖くて、しばらくマンションには戻っていないんです」
「だけど、それじゃあ住まいはどうしているんです?実家は宮城県のはずですから、そこから通うわけにもいかないでしょう。ホテル暮らしだと、お金も大変でしょうし」
「ええ、まあ。でも大丈夫です」
亜里は明確に答えず、伏し目がちに信郎を見た。
すると、それに気付いた信郎は、不自然に視線を反らした。
だが、そういうことに鈍感な浅尾は、その態度の意味するところに全く気付いていないのであった。