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オタクドラゴン電光石火  作者: 古川ムウ
1/10

〈第一章:普通じゃない〉

 「スターボーは、宇宙から来た三人組のアイドルグループなんだ」

 浅尾丹外あさお・たんがいは『ハートブレイク太陽族』というレコードのジャケットを指差し、屈託の無い笑顔で言った。

 「いや、もちろん実際に宇宙から来たわけではなく、そういう設定で1982年にデビューしたんだけどね。しかも実際は女の子なのに、性別不明というコンセプトだったので無理に男っぽい歌い方をさせられていた。だけど松本隆と細野晴臣という大物コンビが手掛けたファースト・シングルの『ハートブレイク太陽族』が全く売れず、セカンド・シングルではガラリとイメチェンして、普通の可愛いアイドル路線になったんだ」


 「どうでもいいんだよ、そんなことは」

 長い講釈に付き合わされた江角信郎えすみ・のぶろうは、不機嫌そうに言った。

 その隣では、彼の父・江角仁正えすみ・にんせいが、ニヤニヤと笑っている。


 「この俺がスターボーについて、何か尋ねたか?」

 信郎は憮然とした表情で浅尾に言った。

 確かに、彼はそれについて質問したわけではない。


 ただし断っておくが、浅尾は何の前触れも無く、いきなり“宇宙三銃士”ことスターボーの説明を始めたわけではない。

 それだと、完全に頭のおかしな奴になってしまう。

 浅尾は少し変わったところのある男だが、そこまで異常ではない。

 少し時間を遡り、経過を説明しよう。


 ***


 そこは、段手だんて商店街の中にあるレコード店“任世館にんせいかん”だ。

 CDショップではなく、レコードだけを取り扱う店である。

 任世館の大きさは約二十坪で、縦に長い作りになっている。


 店のドアを入って正面の奥に、支払いをするためのレジカウンターがある。

 店の両サイドとレジカウンターの前方に、商品が陳列されている。

 あまり飾り気があるとは言えない、地味な内装の店だ。

 その任世館の店長が、浅尾丹外である。

 他に店員はおらず、浅尾が一人で営業している。


 浅尾は三十七歳で独身、身長一六三センチで体重は五十七キロ。

 丸顔で、目は細くて少し垂れ気味だ。

 今日の服装は、白と茶色のチェックの半袖シャツに、カーキ色のジーンズだ。

 頭は縮れ毛の短髪で、寝癖が付いて後ろがピンと跳ねている。

 彼は黒縁の眼鏡を掛けているが、柄の部分はゴムバンドになっている。

 いわゆる「眼鏡バンド」と呼ばれるシロモノだが、最近では、ほとんど見掛けることが無い。

 オシャレには興味の無い浅尾だが、それは唯一、こだわっている部分だ。


 任世館はアイドル歌謡とグループ・サウンズの品揃えが豊富で、商品の九割はそのジャンルで占められている。

 それは浅尾の趣味によるものだ。

 彼は世間一般で言うところの、オタクに分類される人種である。

 はっきり言って非常にマニアックな店だが、段手商店街には馴染んでいる。

 なぜなら、段手商店街はオタクの溜まり場だからだ。

 いや、厳密には、

 「オタクの溜まり場を目指している」

 と言った方がいいだろう。

 もっと詳しく言うと、

 「商店街の会長が、オタクの溜まり場にしたがっている」

 ということになる。

 その会長というのが、江角仁正である。


 五十八歳の江角が会長に就任したのは、今から三年前のことだ。

 その頃の段手商店街は、不況の上に近所の大手スーパーに客を奪われ、すっかり活気が無くなっていた。

 赤字続きで営業を辞めざるを得なくなった店主も多く、シャッターが閉まったままの店舗が目立つようになっていた。

 何とか商店街に賑わいを取り戻そうとした江角が目を付けたのが、オタク文化である。

 「秋葉原はオタクで盛り上がっている。ウチもオタクを呼び込めばいい」

 と、彼は考えたのだ。

 まあ、安易で短絡的と言われても仕方の無い考えではある。

 しかし、ともかく江角は行動を開始し、オタクが集まるような店を商店街に呼び込もうと東奔西走した。


 浅尾が任世館を始めたのも、知人を通じて江角に誘われたからだ。

 「オタクを呼ぶには、店主もオタクでなければいけない」

 というのが、江角の考え方だった。

 その考えはどうなのかと思いつつも、浅尾は江角に好感を持っている。

 ただし、

 「秋葉原に対抗して、この商店街の名前を夏葉原に変えよう」

 と江角が言い出した時には、さすがに反対したが。


 江角の努力の甲斐あって、任世館の他にも多くの店が開業し、着実にオタクが集まるようになってきている。

 オタクと一口に言っても、そのジャンルは多岐に渡っている。

 だが、江角はアニメオタクも鉄道オタクもアイドルオタクも、あらゆるオタクを呼び込みたいと考えている。

 ようするに、欲張りで節操が無いのだ。


 とは言っても、江角は単に商売だけを考えて、オタクのスピリットを全く理解しないような男ではない。

 彼自身、グループ・サウンズに関してはオタクと言えるほどの男である。

 若い頃は、ザ・ゴールデン・カップスのエディ藩に憧れてギターを始めたそうだ。

 ただし、Fのコードが弾けなくて断念したらしい。

 ちなみに好きなGSの曲は、ザ・ダイナマイツの『恋はもうたくさん』と、ザ・ジェノバの『サハリンの灯は消えず』だ。

 かつて浅尾が江角からベスト5を聞かされた時に、その二曲を一位に挙げていた。

 どうしても、一曲には絞り込めなかったらしい。

 ともかく、そのように本人もオタク心を持っている人物だからこそ、浅尾は江角に好感を抱いているのだ。


 ***


 その日、いつものように浅尾が任世館を営業していると、江角が現れた。

 午後一時を過ぎた頃で、他に客はいなかった。


 「よお浅尾君、頑張ってるかね」

 かりゆしウェアに身を包んだ江角が、陽気なノリで声を掛けた。

 夏場の江角は、かりゆしウェアが定番ファッションとなる。

 まだ六月下旬だから、例年よりは少し早めの衣替えだ。

 口髭を生やした濃い顔立ちと相まって、見た目は観光地のインチキなコーディネーターのようだ。

 「店内はクーラーがあるから涼しくていいねえ。今日は特に暑くて、ちょっと歩いただけでも汗びっしょりだよ」

 江角はハンカチで顔を拭った。

 六月だというのに、先週から真夏のような暑さが続いており、その日の最高気温は三十度を超えていた。


 「会長、またレコード探しですか」

 浅尾が言葉を返した。

 江角が店に来るのは、そう珍しいことではない。

 GSのレコードを探しに、ちょくちょく訪れるのだ。

 それだけでなく、浅尾もGSが好きなので、趣味の合う者同士で喋りたいという目的で来ることもある。

 「いや、今日は違うんだ。こいつを紹介しておこうと思ってね」

 そう言って江角は、店の入り口で鼻ピアスをいじっている茶髪の青年に目を向けた。


 「おい信郎、そんな所で突っ立っていないで、入ってきなさい」

 江角に言われて、青年はいかにも面倒そうな表情で店に入った。

 青年は鼻だけでなく、右の耳にもピアスを飾っている。

 「浅尾君、こいつは私の息子の信郎だ」

 そう言われても、信郎は浅尾の方を向こうとはしなかった。

 スカジャンのポケットに手を突っ込んだまま、斜め下に反抗的な視線を落としている。


 「会長には、息子さんがいたんですね」

 浅尾が小さく驚いた。

 商店街に来て随分と経つが、江角に子供がいるとは全く知らなかったのだ。

 改めて浅尾は、信郎の顔を見た。

 細くクッキリした眉、切れ長の目、スッと通った鼻筋、薄い唇。

 かなりの男前と言っていい。

 どうやら、父親似ではないようだ。


 「そうなんだよ、息子がいたんだ。地方の大学へ進学して、長く家には戻っていなかったんだ」

 江角が言った。

 「そうだったんですか。ということは、卒業して戻ってきたんですか」

 「いや、中退したんだよ」

 江角は渋い顔をした。

 「しかも理由は、大学がつまらないからだとか。困ったものだ」

 「あんな三流大学、そもそも行きたくて行ったわけじゃねえんだよ」

 信郎が初めて口を開いた。

 「親父が大学だけは出ておけと言うから、仕方なく行っただけだ。でも、予想以上に何の意味も無いから辞めたんだよ」


 「それじゃあ、何か他に、やりたいことでもあったのかい」

 浅尾が尋ねた。

 すると信郎ではなく、江角が返答した。

 「それならまだ理解できるんだが、大学を辞めても何もせずにブラブラしているだけなんだよ。それで、だったら商店街の仕事を手伝えと言ったんだ」

 「なるほど、そうなんですか。それで実家に戻ってきたわけですね」

 「ところが違うんだ。こいつが同居を嫌がってね。この近くにアパートを借りて、そこに住んでいるんだ。徳民荘とくたみそうって知ってるかい。あそこだ」

 「ああ、あのアパートですか」

 徳民荘は、商店街から北東へ徒歩五分ほどの場所にある二階建てのアパートである。

 家賃は八万円で、間取りは1Kだ。

 江角の家からだと、徒歩十分ほどの距離になる。


 「ところで商店街の仕事って、具体的に何をしてもらうんですか?」

 「まずは商店街の現状を理解させて、それから何をさせるか決めようと思っている」

 「へえ、そうなんですか」

 浅尾は「出来の悪い子ほど可愛い」という言葉を思い出したが、口には出さなかった。

 信郎は暇を持て余したのか、店内のレコードを適当に眺め始めた。

 「それにしても、今時、レコードなんて売れるのかよ。しかも、聞いたことも無い歌手ばかりだし」

 彼は馬鹿にするように、そう口にした。

 「そんなに捨てたもんじゃないよ。僕のようにマニアックな人も大勢いるからね」

 浅尾は怒ることも無く言った。

 「それにしても訳の分からねえ歌手がいるもんだ。何だよ、スターボーって」

 そう言って信郎は、『ハートブレイク太陽族』のレコードを手に取った。


 ここで冒頭の浅尾のセリフ、

 「スターボーは、宇宙から来た三人組のアイドルグループなんだ」

 に繋がるのである。


 ***


 「スターボーが何者かなんて、誰も聞いてないだろ」

 信郎はレコードを手にしたまま、浅尾を睨んだ。

 「信郎君が『何だよ、スターボーって』と言ったから、僕としては親切のつもりだったんだけど」

 「独り言みたいなモンだ。説明は求めてねえんだよ。別にスターボーとやらに興味は無いし」

 そう言って信郎は、レコードを無造作に棚へ戻した。

 「そうか、出過ぎた真似をして失礼。僕の悪い癖なんだ」

 浅尾は額をピシャリと叩いた。


 「親父、本当に、こんな奴に任せる気なのか」

 信郎は浅尾の言葉を無視するかのように、江角に話し掛けた。

 「ははっ、お前は浅尾君を良く知らないから不安なだけだ。大丈夫さ、むしろ浅尾君だからこそ頼むんだ」

 「あの、何のことです?」

 浅尾には、二人の会話の意味が理解できなかった。


 「いや、実は今日来たのは、息子を紹介するためだけではないんだ。ちょっと浅尾君に頼みたい仕事があってね」

 「仕事ですか?」

 「君は詩出井有里しでい・ありって子を知ってるかい」

 「それって、あのアイドルの詩出井亜里ちゃんのことですか」

 浅尾の声が、やや上ずった。

 「やはり知っているか。まだマイナーだが、浅尾君なら知っているかとは思ったが。さすがだな」

 「もちろん知っています。詩出井亜里ちゃんといえば、『元気な有里が世界を救う』のキャッチフレーズでデビューしたハツラツ系アイドルじゃないですか。最近だと、CSのアイドル応援番組『ガンガン夢中スタジオ』にもゲスト出演していましたね」

 「いや、そんなに詳しくは知らないが」

 江角は、勢い良く語る浅尾に戸惑った様子を見せた。

 しかし、そんなことは気にせず、さらに浅尾の言葉は続く。

 「そりゃあ一年前にデビューしたばかりですから、全国的な知名度はまだまだですけど、これから伸びる素質は感じさせてくれるアイドルですよ。インディーズで発売したデビューシングルの『明日のハートキャッチ』も、なかなかいい曲ですよ」

 「もういいだろ、余計なお喋りは」

 信郎は蔑むような視線を向け、浅尾の語りを制止した。


 「おっと、また喋りすぎたかな。それで会長、その亜里ちゃんが、どうかしましたか」

 「彼女が歌のキャンペーン活動で、段手商店街に来るんだよ。今週の土曜、噴水広場でミニコンサートをやることが、急に決まったんだ」

 「本当ですか。あの亜里ちゃんが、こんな場所に来るなんて」

 「こんな場所ってね、浅尾君」

 江角は苦笑いを浮かべた。

 「いや失敬。でも、急に決まったというのは、どういう経緯なんですか」

 「実は彼女、私が古くから付き合っている知人の娘なんだ。そういう関係で、突然の開催が決まったんだ」

 「すごいじゃないですか、亜里ちゃんと知り合いなんて。どうして今まで言ってくれなかったんですか」

 「私も最近まで知らなかったんだよ。信郎から教えてもらって、初めて知ったんだ」

 「信郎君から?そうか、君も実はアイドルオタクなんだね」

 浅尾は、ニヤニヤしながら言った。


 「馬鹿を言うな、そんなんじゃねえよ」

 信郎はキッパリと否定した。

 「たまたま以前から、亜里と知り合いだっただけだ。父親同士の繋がりは、後から分かったんだよ」

 「亜里って、呼び捨てなのかい。どういう関係だい、君と亜里ちゃんは」

 「うるせえな」

 信郎は面倒そうに顔をしかめる。

 「まだ俺が大学へ行ってた頃に、デビュー前の彼女と知り合ったんだよ。そんなこと、どうでもいいじゃねえか。なあ親父、早く本題に入れよ」

 「ああ、そうだな。それで浅尾君、君への頼みなんだがね」

 「そうか、そういう話でしたね」

 浅尾は小さくうなずく。

 彼はアイドルが来ることに興奮して、すっかり話の本筋を忘れていた。


 「実は亜里ちゃんのマネージャーから聞いたんだが、面倒なことが起きているらしい。最近になって、タチの悪いファンが現れるようになったらしくてね」

 「タチの悪いファンですか。と言うと、ずっと付きまとって、ストーカー状態になっているとか?」

 「いや、ストーカーというほどではないらしいんだが、どうやら自分が亜里ちゃんと相思相愛だと勘違いしているらしくて、イベント会場に現れては周囲の迷惑を考えず彼女に呼び掛け、他のファンを怖がらせているらしい」

 「それって、もはやストーカーと言っていいと思うんですけど」

 浅尾は冷静に指摘する。

 「それにしても困った奴ですね。警察に相談したらどうですか」

 「それが事務所としては、売り出し中のアイドルが警察沙汰になるのは出来るだけ避けたいという意向もあるらしい」

 「なるほど。まあ、分からないではありませんが」

 「とにかく、その男に亜里ちゃんが不安を感じているらしい。今度のイベントにも来るだろうし、何か問題を起こす可能性もある。それで、君に彼女の警護を頼みたいんだ」

 江角は言った。


 イベントは土曜日だから、普通の店なら営業があるだろう。

 だが、任世館は土曜と日曜が休みだ。

 商売をやる気が無いと思われても仕方が無いような店だが、それが浅尾の営業方針だ。

 今のところ、それでも一応は営業が成り立っている。

 まあ、決して大きく儲かってはいないが。


 「ボディーガードですか。喜んで引き受けますよ」

 浅尾は、こともなげに言った。

 「アイドルを怖がらせる奴は許しておけませんからね。任せてください。シティーハンターばりに亜里ちゃんを守ってみせます」

 「任せてくださいとは、笑わせるぜ」

 信郎が鼻で笑った。

 「ただのオタクに、ボディーガードなんて無理に決まってるだろ」 

 「浅尾君、息子はずっとそう言っているんだよ。君では無理だとね」

 「親父、言ってるだろ、俺がガードするって。なぜ、こんな奴に任せるんだ。もし相手が襲ってきたら、どうするつもりなんだよ」

 「どうするとは?」

 「簡単に叩きのめされちまうぞ」

 「そう思うのなら、試してみればいいじゃないか」

 江角は含み笑いを浮かべた。


 「試すって、どういう意味だよ、親父」

 「ちょっと浅尾君を殴ってみればいい」

 「会長、勘弁してくださいよ」

 浅尾は呆れた様子で言った。

 「つい先日も、会長が不良の高校生を挑発して、僕を殴るようけしかけるという出来事があったばかりじゃないですか」

 「まあまあ、いいじゃないか」

 江角は悪びれた様子も無く笑う。

 彼にとっては軽い悪戯心のつもりなのだが、平和主義者を自称する浅尾にとっては迷惑この上ない。


 「親父、馬鹿じゃないのか。俺は学生時代、少しだがボクシングをかじっていたんだぞ。こんな貧弱な奴、五秒もあればノックアウトしちまうぞ」

 信郎は、浅尾の腕に目をやった。

 見るからにフニャフニャで、貧弱そうな両腕だ。

 「だから、殴ってみろって」

 江角は顎をしゃくる。

 「やれやれ、困った人ですね、会長は」

 浅尾は、ため息をついた。

 「信郎君、仕方が無いので殴ってもらえますか。どうやら、そうしないと会長が終わらせてくれないようなので」

 そう言って、浅尾は信郎に正対した。

 「馬鹿なこと言ってんじゃねえぞ、オッサン。怪我してえのかよ」

 信郎は煙たい顔をする。

 「さあ、早く」

 江角が嬉しそうに息子を挑発する。


 「まさか信郎、今さら怖くなったとは言わないだろうな?」

 「気持ち悪いな、何なんだよ」

 信郎は戸惑いながら、ややヤケ気味で言った。

 「良く分からねえけど、とにかく殴ればいいんだな」

 信郎は浅尾に近付き、軽く頬に当たる程度に手加減して左のパンチを出した。

 「ほれっ」

 しかし、信郎の狙い通りには行かなかった。

 パンチを打った瞬間、信郎の左腕はポンと勢い良く跳ね上がった。

 浅尾が素早く右腕で払い上げたのだ。

 同時に、浅尾は信郎の鼻先をかすめるように左の掌底を突き上げていた。


 ヒュッ。

 空気を切る音がする。


 掌底とは読んで字の如く、掌の底の部分を使う手法だ。

 ここで言う“手法”とは、戦う際の手の形を意味している。


 続けて浅尾は、右の正拳を信郎の脇腹へ、左の縦拳と右の貫手を胸部へ、左の手刀を首筋へ、全て寸止めで矢継ぎ早に放った。

 正拳は握った拳で攻撃する手法で、その拳を親指が天を向くように九十度回転させると縦拳になる。

 貫手とは、手を開いて指を揃え、その指先で攻撃する手法。

 手刀は同じく手を開いて指を揃えるが、小指の方の側面を使って攻撃する。


 わずか一秒。

 最初のパンチを払いのけ、浅尾が連続攻撃を完了させるまでに要した秒数が、それである。


 信郎は目を点にして、立ち尽くしていた。

 彼には、眼前で何が起きたのか、正確に理解できていなかった。

 ただ、浅尾の腕が驚異的なスピードで動いたことと、突き刺すような風が顔に触れたことだけは分かった。


 「もういいでしょう、こんな感じで」

 浅尾は眼鏡バンドのズレを直した。

 彼は江角に言ったつもりだったのだが、信郎は自分がコケにされたと感じたらしい。

 「このっ」

 カッとなった信郎の表情が変わった。

 今度は殴り倒すつもりで、彼は強い右フックを浅尾の脇腹へ放った。

 よそ見をしている浅尾には、確実に命中するはずだった。

 だが。


 浅尾はよそ見をしたまま、左手で信郎の右パンチを下に払い落とした。

 ほぼ同時に、彼は右の掌底を相手の胸板へと当てた。

 そっと優しく触れたように、信郎には見えた。

 いや、厳密に言うと、彼には浅尾の動きが見えていなかった。

 ただ、軽く掌が当たったような感触だけはあった。

 あくまでも、軽くである。

 しかし掌が触れた瞬間、信郎の体に強烈な重圧が掛かった。


 「ぐわっ!」

 思わず、信郎は声を発した。

 巨漢力士の突き押しでも受けたかのように、彼の体は大きく後ろへ弾き飛ばされた。

 信郎は後ろ走りをすることで、転倒を何とか避けようとした。

 体の制御を失った彼は、江角に背中から抱きかかえられるようにして止まった。


 「信郎、これで分かったか」

 息子がやられているというのに、江角は歯を剥き出して笑った。

 「いやあ信郎君、申し訳ない」

 浅尾が、顔の前で両手を合わせた。

 「咄嗟のことだったので、思わず当ててしまった。それでも、かなり力は加減したつもりだけど」

 「……」

 信郎は口をあんぐりさせたままで、しばし沈黙した。

 江角が離れても、同じポーズのままで静止している。


 「おい信郎、どうした?」

 何度か瞬きをしてから、ようやく信郎は言葉を発した。

 「何だ、今のは?」

 信郎は目を大きく開き、自分の胸と浅尾を交互に見比べた。

 「アンタ、何者だよ?」

 「ははっ、彼は大進拳の使い手なんだ」

 浅尾ではなく、江角が返答した。

 「大進拳?なんだ、そりゃ」

 「中国拳法だ」

 「カンフーかよ」

 「まあ世間一般では、そういう言い方になるのかな。出来れば、そこはクンフーと言ってほしいけどね」

 浅尾が言う。


 「どっちでもいいじゃねえか、そんなの。それより、もっと詳しく教えろよ」

 信郎が早口で尋ねる。

 「浅尾君は日本に渡って来た中国人の師匠の下に付いて、十二年間に渡って、みっちりと教わったそうだ」

 また江角が喋る。

 「それだけじゃ説明になってないぞ。大進拳ってのは、どういう武術なんだ?酔拳や太極拳とは違うのか」

 「いや、そう言われると……」

 江角は困った表情になった。

 得意げに語ったものの、実は詳しいことは良く知らないのである。

 「なあ、浅尾君」

 江角は助けを求めるように、浅尾を見た。

 「なあ、と言われても」

 浅尾は苦笑した。


 ***


 大進拳は、袁大申ユエン・ダーシェンという人物が創始した中国拳法だ。

 袁大申の弟子の石文シー・ウェンは二十年間の修行の後、日本にやって来た。

 そして、その石文の弟子となったのが、浅尾である。

 浅尾が石文から聞かされた話では、袁大申は清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀から八極拳を学び、それと他の武術を組み合わせ、独自の改良を加えることによって大進拳を編み出したらしい。

 ただし、石文は浅尾に対して、

 「どうだ、うさん臭い話だろう」

 と笑いながら説明していた。

 なので、浅尾はそれが本当のことなのかどうか、良く分からないままでいる。


 そもそも、その逸話を袁大申が語ったのかどうかも怪しいと、浅尾は思っている。

 ひょっとすると、石文が勝手に創作したのかもしれない。

 浅尾は長く修行を積む中で、石文がそういうホラ話をしても不思議ではない人だと感じた。

 ありすぎるぐらいに、茶目っ気のある人だったのだ。

 何しろ、修行の初日に、

 「大進拳を利用してアクションスターになったら、主演作にはワシも出演させろ」

 と笑いながら言ったような師匠なのだ。


 しかし、例え話が怪しくても、大進拳という武術そのものは、まがいものではない。

 大進拳は、骨を砕いたり肉を裂いたりするのではなく、急所に確実な打撃を当てることを狙う拳法だ。

 腕力の強さよりも、正確に当てること、鋭く技を繰り出すことが重視される。

 八極拳が大進拳のベースになっているが、異なる点は多い。

 足技が皆無に等しいのは、八極拳との違いの一つだ。

 相手を引っ掛けたり防御したりするために足を使うことはあっても、蹴りは使わない。


 また、八極拳で良く使われる当て身技や肘打ちが、大進拳には無い。

 その一方で、関節技や投げ技の種類が多くなっている。

 元からその傾向はあったのだが、石文が来日してから柔道や合気道などの動きも取り入れたため、さらにバリエーションは増えた。

 伝統を守り、武術を変えずに受け継ぐことを重視する武芸者もいるだろう。

 だが、石文は

 「新しいもの、良いものは積極的に取り入れていこう」

 と考えるタイプの人間だ。

 だから、浅尾の学んだ大進拳は、正確には「石文式大進拳」と呼ぶべきかもしれない。


 石文が中国に戻ることになったため、浅尾は彼の下での修業を終えた。

 師匠に付いて中国に渡るという選択肢もあったが、浅尾はそれを選ばなかった。

 浅尾自身が望まなかったというよりも、 「そろそろお前も、一本立ちしてもいい頃だろう」

 と石文が言ったことが、日本に残った大きな理由だ。

 どのようにして浅尾が石文と知り合ったのか、石文がどのような人物なのかという詳しい説明を始めると長くなるし、この物語にとって大して重要な事柄ではないので、割愛させていただく。


 ***


 浅尾は、そういう詳しいことを信郎に説明しようとはしなかった。

 アイドルやGSに関しては喋りすぎる癖のある浅尾だが、武術に関しては別だった。

 「大進拳は、中国武術の一つです。酔拳や太極拳とは全く違いますよ。もっとマイナーです」

 そう語るに留めた。

 「とにかく、浅尾君は中国武術の達人ということだよ」

 江角は、誤魔化すように早口で信郎に告げた。


 「そんな奴が、なぜレコード店なんかやってるんだ?それも完全にオタク趣味に走っているし」

 「大進拳を探究するのも、アイドルやGSを究めるのも、僕にとっては同じ類のことなんですよ」

 「同じじゃないだろ」

 信郎は言った。

 しかし、浅尾は本当に、そのように考えているのだ。


 そもそも、浅尾がアイドルやGSに興味を持つようになったのは、大進拳を始めるより前のことだ。

 そして大進拳の修行の間も、その一方でオタク趣味の探究は行われていた。

 師匠の石文も、

 「修行に集中しろ」

 などと叱ることはしなかった。

 むしろ、様々な物に興味を持つのは良いことだと、奨励する姿勢を示した。

 何しろ石文自身も、日本の特撮ヒーロー物にハマったぐらい、オタク的な部分の強い人物なのだ。

 彼は『仮面ライダー・スーパー1』の主人公が中国拳法を使うと知った時に、

 「なぜ自分に武術指導をさせてくれなかったのか」

 と本気で悔しがったほどだ。

 結局、浅尾は修行を始める前より、始めてからの方がオタク度数は大幅にアップした。


 「全く、訳の分からない奴だな。アンタ、何者なんだ?」

 半ば呆れたように、信郎が尋ねた。

 その問いに、浅尾は落ち着き払って答えた。

 「ただのオタクですよ」


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