第2話
登場人物の視点が、上から目線なのは、そういう世界、時代背景という事で、平にご容赦ください。
決して、台湾の人を貶める意図はありません。
「台湾で亡くなられた宮様」が、横須賀で封切りされる初日、しかも第1回上映の場に、村山幸恵の姿はあった。
何としても、第1回上映を見たい、と幸恵は、それこそ北白川宮提督にまで、おねだりして、海兵隊員用に確保された予約席を取ったのである。
(念のために書くが、海兵隊員用に確保された予約席を、海兵隊員が第三者に譲ることは認められている。
そうしないと、海兵隊員が家族等のために席を予約するのもダメになるからである。)
毎度のこと、と言っても良かったが、北白川宮提督は、半ば呆れながら、父代わりとして、可愛い幸恵のために予約席を取ってくれた。
(こういったことがあるから、幸恵のご落胤説が、世間から中々消えないのである。)
幸恵は、嬉々として観客席の一角に座っていた。
「台湾で亡くなられた宮様」の冒頭の場面は、下関条約締結の場面だった。
伊藤博文と李鴻章が、下関条約を締結し、台湾が日本に割譲される。
条約締結の場から退出した李鴻章は、随員に対して言い放つ。
「親の為なら、子は犠牲になって当然。台湾には、清の犠牲になってもらう」
幸恵は、カチンと来た。
映画の描写なのは、幸恵自身にも分かってはいる。
だが、台湾を子どものように愛おしんでいるのなら、親が子どもに愛情を注ぐように、清は台湾開発等の為に尽力すべきだったのではないか。
しかし、実際の清国は、ろくに台湾開発に尽力しなかったではないか。
次の場面が、長谷川一夫演じる小松宮殿下が、台湾平定を明治天皇陛下から命ぜられる場面だった。
(ちなみに、明治天皇陛下は、声だけの出演で、姿が映画上は出てこない。)
明治天皇陛下は、小松宮殿下に、勅語を賜る。
「台湾は、我が日本に、清国から託された子どものようなものである。台湾は、まだまだ成長の過程にあるのだ。日本は、台湾の成長を助けねばならない。成長過程の台湾の住民は、日本の支配に入ることに反抗するだろうが、慈父が反抗的な子どもに対処する如く、台湾の住民に対処してほしい」
その勅語に対して、小松宮殿下は、力強く肯く等して承る。
その次の場面が、李香蘭演ずる架空のヒロインが、台南市で日常生活を送っている場面だった。
ヒロインは、北京から派遣された下級官僚の娘で(映画の描写上は、ぼかされているが、父親は、西太后と光緒帝の争いの中で処世に失敗して、台湾に左遷されたらしいこと、ヒロインは、そのために婚約破棄されて、両親と共に台湾に来たことが仄めかされる。)、台南市を散歩している。
そして、台湾人の男性と知り合い、台湾語の表記法を教えられ、自分も台湾語を学ぼうとする。
この辺りで、ようやく幸恵は、この映画の違和感に気づいた。
登場人物が、それぞれ自分の言葉をしゃべっている。
李鴻章やヒロインは、北京語を話すし、明治天皇陛下や小松宮殿下は、日本語を話していて、台湾人の男性は、台湾語を話している。
(細かいことを言えば、ヒロインが台湾語を理解しないことに気づいて、台湾人の男性は、話す言葉を途中から台湾語から北京語に切り替えて話すが。)
映画の観客に分かるように、日本語以外の言語を、登場人物が話す際には、日本語の字幕が流れる。
実際の世界だったら、当然の話だが、映画の世界では、これは異例と言ってよい。
登場人物は、基本的に同じ言語を話すのが当然だからだ。
何で、こんなことをしたのだ。
幸恵は、そのヒロインと台湾人の男性が会話する場面に、長谷川一夫が出ていなかったこともあり、急に気になってしまった。
この映画には、文部省の後援が入っている、つまり、日本政府の息が掛かっている。
幸恵は、更に考えを巡らせた。
何か政治的な意図が秘められているのではないか。
ちなみに、横須賀の映画館で、この映画が上映される際に、海兵隊員専用席がある理由は、第3話で明らかにします。
(ちょっと、そこまで描けませんでした。)
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