TS100ものがたり 07:魔法の公衆便所
ある北海道の観光地。冬の間は真冬日が続き、気温も氷点下10度を下回るこの極寒の地に一つの公衆トイレがあった。空は凍てつき、成層圏まで貫くような青さ。アスファルトの道路は凍り付きまるでスケートリンクのようだった。路面の雪は除雪され路肩に積まれているが、それ以外のところは真っ白な雪原が広がっている。この時期、多くの観光地は閉鎖され、道路なども所々春まで通行止めになる。完全にオフシーズンにもかかわらず、俺は北海道までやってきた。
動機はたいしたことではない。大学時代から付き合っていた彼女と別れたからだ。思いっきり何もないところで気分転換をしたかった。
今、俺が止めた駐車場も一台の車もない。少し先に白いコンクリートの展望台があるが、そこまでの道も雪に埋もれてとてもたどり着けなそうであった。冷たい横風が、顔に突き刺さる。とても展望台まで雪をかき分けていく気分にもなれなかったが、すぐに車に戻っても仕方がない。
暫く何もない雪原と、恐らくその先に広がっているであろう大海原の波の音を聞きながら立っていた。辛いとか美しいとか、そういう感情は余裕があって初めて感じられるものだ。ただひたすら寒くそして苦しい。車に戻ろうかと思ったが、寒い中立っていたせいか、尿意が襲ってきた。幸い駐車場にはログハウス風の公衆トイレがあった。凍結した路面で転ばないようにしながらそのトイレに向かう。
さすが雪国のトイレだけあって、入り口は扉で閉ざされている。本州のような吹曝しの建物では水道管も何もかも凍り付いてしまうのだろう。横開きの扉を開くと中は薄暗くほんわりと暖かい。そしてトイレ特有の強い芳香剤の匂いが漂ってくる。
目の前に、恐らく障碍者用のトイレ。左右に開かれた二つ入り口があり、恐らくどちらかが男性用、もう片方が女性用なのは間違いなかった。しかしなぜかそれを示す看板が見当たらずどちらがどちらか分からない。確率としては二分の一だ。どうせ誰もいるわけがないと思い、左の方のトイレを身を乗り出してのぞき込んでみる。個室の扉が並んでいるのが見える。危ない、危ない。こちらが女性用のようだ。慌てて首を引っ込めると、反対側のトイレの入り口の扉をくぐった。
入り口を入って右に曲がると…、あれ?左右両サイドに二つずつ個室が並んでいる。そして小便器は見当たらない。
まずい、こっちが女子トイレか!!と分かり慌てて引き返そうとするが、バタン!とまるで閉じ込めるかのように目の前の木製の扉が閉まる。風のせいだろうと思い押したり引いたりしたがびくともしない。仕舞に体当たりをしてみたが頑丈な扉はびくともしなかった。
やばい、閉じ込められた。これが男子トイレならまだしも、あろうことか女子トイレだ。何とか脱出しなくては…。室内を見まわすが窓のようなものはない。天井近くに排気口があるだけだ。暖房設備のおかげで辛うじて暖かいのが唯一の救いだった。
室内をぐるりと一周した後再び扉に体当たりをしてみるがびくともしない。まるで鉄の金庫のようだ。なんでこんな目に会うのだろうとただでさえ気が重いのにさらに悲しくなっていると、視界がぼんやりとしてきた。眼鏡が温度差で曇っているのかと思い眼鏡を外してみるが、どうもそうではないらしい。室内全体に霧のようなものが充満している。まさか火事!?室内を見まわすと天井の排気口のような部分から霧のようなものが吹きだしている。焦げ臭いにおいはないので、恐らく火事ではないのだろうが、どんどん室内が靄のようなもので満たされていく。
ドアを蹴ったり叩いたりしたが糠に釘。こうなったらケータイで助けを呼んで事情を説明するしかない。しかしどこに電話をすればいいんだ?北海道に知り合いなどいないし…。とにかく消防か警察だ。スマホの画面をタッチしていると、次第に視点が合わなくなってきた。ダメだ、意識まで朦朧としてきた。体全体の神経に力が入らなくなってきた。手からスマホが滑り落ちて床のタイルにたたきつけられる。拾おうとしたが、体のバランスを崩し床に倒れ込んでしまう。泥酔したときのように、体のバランスが上手く保てない。
なにか有毒ガスのようなものが蔓延しているのだろうか…。吐き気もするし、腹…とくに下腹部が痛い。最後の力を振り絞ってスマホに手を延ばそうとするが、そのままピンク色のタイルの上で意識を失った。
「大丈夫ですか?」
遠くから女性の声が聞こえる。そして肩のあたりを揺らす。目が痛い。何度も瞬きをしながら目を開けてみる。明るい光がとても眩しい。目の前に女性のシルエットだけが辛うじて見える。
ここは?いったいなにをしているのだ?
目を光に慣らしながら呼吸を整える。芳香剤の臭い…。トイレ?そうか、女子トイレに閉じ込められて、変な霧に包まれて…。
体全体はまだ麻痺しているような、力の入らない違和感が全体を包んでいた。頭を動かすと、何かが顔の周りにまとわりつく。払いのけようにも、まだ両腕の力が入らなかった。
咳払いをして喉の詰まりを解消しようとする。一応生きていることは間違いないようだ。誰かが助けてくれたのだろうか…。
やっと光に慣れてきた。時々目の前に入る黒い糸のようなものを首を振って払いのけながら中腰でこちらを見ている女性をみた。ぼんやりとしているのは、メガネがないからだ。どこかに落ちていないかと床を探すと、私の動作から察したのか、彼女が私の眼鏡を差し出した。
まだ受け取れるだけの力はなく、彼女が顔にかけてくれた。
倒れたときにフレームが曲がったのか、メガネが今一つ顔に合っていない。すこしずり落ちるように鼻にかかっている。やっと力の戻ってきた右手で眼鏡を少し上にあげる。
クリアーになった視界で目の前の女性を見る。彼女は警察の制服を着ている。チョッキには北海道警の文字。あぁ、警察官か…。誰かが倒れているところを見つけて通報してくれたのだろうか。どう思われただろう。女子トイレに侵入した変質者だと思われているのだろうか。それはそれでいい。とにかく命が助かったのだ…。
また眼鏡がずり落ちるので上にあげる。それよりさっきから目の前にかかる黒い糸はなんなのだろう。手で払いのけるとその糸は頭皮から垂れ下がっていることがわかった。それも一本や二本ではない。髪の毛のような大量の糸が垂れ下がって顔全体を覆っている。
慌てて引っ張ってみるが間違いなくそれは頭皮と繋がっている。両手を後頭部にやって髪を掴んでみると、髪の毛が肩のあたりまで伸びていることがわかった。
そんなはずはない。今まで耳にかかるほどの長さもなく、今までの人生で長髪など試したこともない。それが一瞬でこんなに伸びてしまうなんて…。いや、一瞬で?気を失っていたのだから一瞬だったのかは分からない。しかし数日だってこんなに伸びはしない。最低でも半年はかかるだろう。
「いま…、いつ?」なんとか掠れる声で尋ねた。何度咳払いをしても声が裏返り、甲高い声になってしまう。
「今は午後3時過ぎよ」彼女は自分の腕時計を見て教えてくれる。
3時?確か、トイレに入ったのは昼過ぎ。長く見積もっても2時間程度しかたっていないはずだ。そう、日付は?
「今日は、何日?」何度咳ばらいをしても声が治らない。それどころか、より澄んだ甲高い声になる。
「1月15日よ」
やっぱり、時間も日付も間違いがない。半年近くこのトイレで気を失っていたわけではなさそうだ。それもそうだ。いくらなんでも発見されるだろうし、そんな長期間意識がなかったら死んでいるだろう。
しかし喉の調子がおかしい。手を喉にあててみる。なんなのだろう。言葉では言い表せない違和感がある。柔らかいというか、細いというか、いつもと違う気がする。
一体どうしたというのだろう。まだ夢を見ているのだろうか。それともこれは天国?天国には警官の制服を着た天使がいるのだろうか?
鼻水が出てきたので手で拭う。その時、ふっと自分の指先が目に止まる。爪が小さい?掌を目の前で広げてみるが、爪が小さく指が長く細い。確かに元々指は細い方で女のような手ではあったが、今では女のようではなく女の手としか見えない。左手も見てみるが全く同じだ。こすり合わせたり開いたり握ったりするが、自分の意志で動く間違いなく自分の手だ。
どういうことだ?長い髪、甲高い声、細く長い指…。
「気が付いた?」目の前の警官がにんまりとして言った。
「どうして?」喉の絡みがとれた声は澄んだソプラノだった。
「このトイレ、防犯用に特別に開発されたものなの。入り口の赤外線センサーで男女を判別して、女性でないと女子トイレの扉が開かないようになっているの」
私の不思議そうな顔を察して彼女は続ける。
「でもあなたは女子トイレに入れたでしょ。それは多分、清掃の時に入り口を開けたままにしておいたからね。ただこのトイレの凄い点はもう一つ防犯システムがついているところ。女性しか扉を開けなくても、そのすぐ後ろをついて行って侵入する人がいるかもしれないでしょ。その時にあなたの体験した防犯システムが作動するわけ」
さっき、トイレに閉じ込められたときのことを思い出す。扉にぶつかっても蹴ってもびくともしなかった。
「侵入した男性を閉じ込めて、あるガスを充満させて無力化するの。このシステムが作動すると自動的に警察にも通報されるわ」
そんなハイテクトイレが、恐らくこんな誰も使わない駐車場の一角にあるというのも凄い話だ。まぁ、広大な北海道。なにか起きても都会のようにすぐ警察が駆けつけられるわけではないからかもしれないが、はっきり言って無駄としか思えない。
いや、それよりも問題は無力化…の点である。髪を長くし、声を高くし、指を長くするのが無力化?
私ははっと気が付き、両手を股間に持っていく。ブカブカになったジーンズの上から股間を押さえても、何の凹凸もなくぺたりと股間に触れてしまう。そう、男性自身の感覚が一切失われているのだ。竿も金玉も、何もかも。代わりに股間の間に、割けた皮膚を撫でるようなむず痒い違和感がある。
絶望的な表情で彼女の方を見る。
「おちついて、大丈夫だから」彼女は私の細い肩に手を当てて言う。「男性としての能力が奪われただけじゃなくて、きちんと女性としての能力が与えられているから。勿論、体のサイクルが落ち着くまでは、妊娠は控えた方がいいけど…」
え?妊娠?女性としての能力?下腹部の喪失感だけではなく違和感。それもまだ続いている下腹部の痛みは、体の内部でも大きな変化が起きていることを示していた。ただ去勢されただけじゃなく、本当の女性になったということ?そんなこと、できるわけがない。
「ところができるのよ」彼女は私の疑問を見越して答える。「最近の科学の進歩は凄いわね。むしろ魔法といっていいぐらい」
「そんな、だって、まさか…」頭の中が混乱して言葉がまとまらない。ただ男に取って一番大切なものが失われていることは、自分の感覚と細い指が押さえる触感から疑いようもなかった。
「ここだってきちんと大きくなっているはずよ」彼女の手が肩から私の胸へと延びる。優しく押し上げるように私の胸を掴む。今まででは絶対感じられない感覚。そう、胸を押し上げられる感覚が全身を貫く。
びくっとして後退しようとするが壁のタイルに阻まれる。確かにさっきから胸に違和感があった。なにか引っ張られるような、余計なものが付着しているような感覚だった。しかしそれ以外の変化のため、そちらまで気が回らなかったのだ。しかし今掴まれたことで、全身の神経がそちらに集中してしまった。
自分の体を見下ろすが、厚着のうえ服がブカブカなので外からは胸の膨らみは分からない。しかし自分の体は、両胸にある重量をはっきりと感じていた。
胸がある、男性器がない、そして股間には…。さっきまでの髪や指や声のことなど遊びのような現実が次々と私を襲う。世の中には髪が長く、指が細く、声の高い男性はいる。しかしペニスがなく、子宮があり、乳房を持った男性などいるわけがない。いたとしたらそれは男性ではなく女性だ。
「さぁ、いつまでもトイレで座っているわけにはいかないわ。手伝ってあげるから起き上がれる?」
彼女は私の腕を掴み肩に回す。さすが女性警官。体も大きく女性にしては逞しい。しかしよく考えると、自分が小さくなっただけなのかもしれない。
体の力も入るようになり、彼女の力も借りて何とか立ち上がった。二本足で立つと、全体の体のバランスの変化を痛感した。まず服が今にも脱げそうなぐらいにブカブカだ。その一方で臀部は膨らみ、なんとかそれがジーンズが脱げるのを食い止めている。胸の重みも立ち上がったことでより強く感じる。袖は捲らないと手の出ないぐらいの長さで、10センチ以上体が縮んだのではないかと思う。足の裾も引きずっていた。そして靴も大人の靴を履いた子供のようにブカブカであった。
トイレの鏡を見て息を止めた。女性警官の肩を借りて立つ、奇妙な人物が写っていた。髪は長いがまるで寝起きか幽霊のようにボサボサ。その中にある小さい顔は、驚いた表情でこちらを見ている。間違いなく女性的な丸い角の少ない顔だったが、眉は太く顔の血色は悪く野暮ったい。そして何よりもおかしいのは服装だった。彼女の細い体は誰の目にも明らかだったが、その上に全く体に合っていない男物の服を着ているものだから、男装どころか、まるで道化のような奇怪さがあった。
警官の方から手を離し、片手でズボンを押さえながら鏡の前に歩く。より近くで対峙すると、中々顔のパーツが整った美人であることがわかった。そして何処となく自分に似ている。口元を触ると、はらはらと最後まで残っていた男性だったときの剛毛が抜け落ちた。
「自分の顔は今後嫌と言うほどみることになるんだから、早くいくわよ」警官は私の腕を掴む。
「今後って…」まさに鏡のなかの女性の声と考えればぴったりの高い声で言う。「元にはもどれないってこと!?」
「勿論よ。今の技術じゃ、男性を女性にすることはできても、女性は男性にすることはできないんですって。理由はわたしにはよく分からないけど、人間の原型は元々女性で、原型に戻すのはできても、それを違う方向に成長させるのは難しいってことみたいね」
理屈などどうでもよかった。とにかく男に戻れないということが強く頭に響き渡る。まるで空気が抜けたように、へなへなとそのまま鏡の前に座り込んだ。
「ほら、どうしたの!?」
「だって…、一生この姿なんて…」なぜか感情が止まらなくなり、目から涙があふれ出てきた。
「大丈夫よ。きちんとサポートしてあげるから。それに、世の中の半分は女なのよ」
それは女として生まれたから言えることだろう。ただ間違えて女子トイレに入っただけで、どうしてこんな目に会わなければならないのだ。今までの人生と男性としての人生に対する死刑判決に等しい。
「ほら、立ち上がって!」
彼女は脱力した私の手を肩に回し立ち上がらせる。一体これからどうなるのだろう。まるで廃人のように彼女に引っ張られて歩き出す。さっきまで鉄のようにしまっていた扉は、いとも簡単に開いた。もう1枚、出入口の扉を開くと、大地のはてに沈みかける夕日が見えた。澄み渡る夕暮れ時の空とどこまでも続く白銀の大地が寒々しい。
駐車場に停めてあったパトカーから男性警官が出てくる。近くに来ると随分大きく感じたが、女性からすれば男性はこのくらいの大きさに見えるということだろう。彼は広い肩を私に向け、軽々と私を背負いあげた。男性の固く広い肩が、とても逞しく思えた。
パトカーの後部座席に乗せされると、その横に女性警官が座り、男性警官は運転席に座った。これからどうなるのだろう。一抹の不安を感じながら、地平のはてまで続く白銀の大地の景色を見た。反射した窓に自分の顔が写る。これからあと何十年もこの顔と付き合ってくのだろうか。
動き出した景色を見ながら、小さな涙を浮かべた。
おしまい