明日の天気は雨のち晴れでしょう
雨だ。
昼過ぎから急に空が昏くなったから、そんな気はしていたけど。
さてどうしようか。
優里奈は高校の昇降口で小さくため息をついた。
朝のうちはよく晴れていて雨なんて降りそうになかったから、傘なんて持ってきていない。しかし駅まではだいぶ距離があるから走るのは困難だし、かといって西の空は真っ暗だから雨が止むのを待つのも現実的ではない。
周りを見渡せば、みんな折りたたみ傘を広げて下校していく。
「天気予報、見とけばよかったな」
朝はいつもバタバタして、そんなものを見ている暇はない。そのことを悔やんだ。
職員室に置き傘とか、ないかな。
そう思って校舎に引き返そうとしたとき。
「…傘、ないの?」
聞き覚えの無い声に振り向く。
「…俺、大きいのと折りたたみあるから。貸そうか?」
ぼそぼそと聞き取りにくい声でしゃべるのは、優里奈と同じクラスのはずの男子。
「え、と…水野?」
疑問形になったのは、ほとんどというか全くしゃべったことが無いから。それは優里奈に限ったことではなくて、もう夏だというのにクラスの全員がそうである。
ひたすらに地味で存在感が無くて、悪気はないけど名前すら忘れかけるような子。
「…ん」
水野は優里奈に大きいほうの傘を差しだした。
「えと…」
「……」
折りたたみのほうでいいよ、と言おうと思ったが、どうにも会話がしにくい。無言で差し出され続ける傘を、優里奈はそっと受け取った。
「じゃ」
水野が折りたたみを差して昇降口を出る。その動作は素早くて、ありがとうの一言も言えないうちに姿は見えなくなった。
◆◇
夜の間に雨は上がり、次の朝にはからりと晴れた。
機能の反省を生かして今日は天気予報を確認する。降水確率0%。
「行ってきます!」
借りた傘を持って、優里奈はどたばたと家を出た。
今日はちゃんとお礼を言おう。そう思って意気揚々と傘を持ってきたが、電車の中で傘を持っている人はいない。
「今日は快晴だもんな…」
優里奈が持っているのは男物だし大きいし、人のものであることはちょっと考えれば明白だ。でも、なんとなく恥ずかしくなって、傘をそっと背中に隠した。
それでも、友人は当たり前のように傘の存在に気づく。
「優里奈ぁ、今日晴れだよ?なんで傘もってんの?」
「あ…えと、昨日ひとに借りてさ。返そうと思って」
なんとなく、水野に借りたとは言えなかった。うっそなんであんな地味男に!?と詮索されるのが目に見えている。
「そっかー、でもラッキーだったね、傘二つ持ってる人いて!」
「う、うん。ほんとに助かった」
それ以上詮索されることはなく、友人と一緒に登校する。
昇降口についてから、優里奈ははた、と一瞬立ち止まった。
(この傘、どうやって返そう…)
教室に持っていくわけにはいかないし、ここで水野を待つのも憚られる。
少し悩んでから、優里奈は傘を傘立てにえいやっと差した。
(教室でお礼言おう)
そう思ったから。
しかし、それは意外にハードルが高いミッションであることを、優里奈はほどなく痛感した。
はじめて水野の姿を目で追ってみて、その生態に唖然とする。
(…そりゃ空気にもなるわ!)
休み時間はいつも一人、しかも教室の角の席で。授業中は一切発言せず、昼休みはふらりと教室の外へ出ていく。掃除の時間はそこそこ真面目に、だが目に付くほど真面目ではない様子で埃を掃く。忘れ物などもしないから先生の目にも止まらない。驚くほどの空気感で、彼は学校生活を送っていた。
(――て、やばい、学校終わる!)
気づけば残りは終礼のみとなっていた。
声をかける勇気が出ないまま。
(仕方ない、帰りに昇降口で待ち伏せして――て、あ)
無理だ、今日は部活がある。
しかし、このまま何も言わないわけにはいかない。が、話しかけられない。
(そうだ…)
話しかけられなくても、お礼は言えるではないか。
優里奈は急いでペンを走らせた。
『昨日は傘、ありがとうございました。助かりました。傘は傘立てに置いてあります 松原』
うん、完璧。
メモ用紙を折りたたみ、下駄箱に入れておく。
一日もやもやしていた気持ちがようやくすっきりして、優里奈はるんるんと部活へ向かった。
次の日の朝、優里奈の下駄箱には小さなメモが入っていた。
開けてみると、思ったより丁寧な字が並んでいる。
『傘、受け取りました。わざわざありがとう。役に立ててよかったです 水野』
それはたった一行だが、思いがけず心に響いた。
そして、本当に何となく、これで終わりにしたくなくなった。
『傘、なんで二つも持ってたの?』
そう書いたメモを、また下駄箱に忍ばせる。
『折りたたみ傘はいつも学校に置いてあるんだ』
翌日の朝、律儀に返ってきたメモににんまりとする。
『まめだなあ、私も見習おうかな。もしかして、ちゃんとハンカチとかティッシュ持ってる系男子?』
『持ってるよ。忘れたら貸そうか?』
そんななんでもない内容ばかり、毎日書き連ねる。
優里奈が夕方メモを置き、優里奈より早く来る水野が朝メモを置く。それが当たり前になっていった。
晴れた日の昼はいつも中庭で日向ぼっこしていること。趣味は読書とピアノ。それとテニス。テニスはわざわざ郊外のスクールに通っていること。人と話すのが苦手で、うまく友達を作れないこと。でも一人がさみしいわけじゃなくて、それなりに学校生活を楽しめていること。
知らなかったいろんなことが、一つずつわかっていく。
優里奈もいろんなことを書いた。部活は水泳部で、勉強は嫌い。でも社会のはるえちゃん先生の授業だけは好き。猫を飼ってる。今朝妹と大喧嘩したこと、駅前に新しくできたカラオケに行ってきたこと。
楽しかったことや辛かったこと、なんでも書いた。いろんな自分を知ってほしかった。
(――好き、だなあ)
そんな風に、思い始めたのはいつ頃だっただろう。
教室では一切話さない。手を振ったりすらしない。でもそれはお互い避けているわけじゃなくて、その距離感が落ち着くからだった。
(告白、しようかな)
向こうがどう思っているかはわからない。
でも、文通とはいえこうして毎日話せているのだから。脈なしではないと信じたい。
渡す手紙はいつも授業中に書くのが日課だったが、その日ばかりは家で書き上げた。
いつもみたいな髪の切れ端ではなく、かわいいとっておきの便箋で。
何回も何回も下書きしてようやく完成したラブレターを鞄に入れ、優里奈は家を出た。
その日はあいにくの雨で、色とりどりの傘が学校までの道を彩る。
必然と、優里奈は初めて話した時のことを思いだした。あの日以来、声は聞いていない。
もしも。彼女になれたなら。
(あの時の声を、もう一度聞けるのかな…)
そんな妄想をして、一人で赤くなる。
(いやいや、向こうがどう思ってるかなんてわかんないから!)
どきどきとはやる胸をおさえて昇降口をくぐる。
だが、今日は珍しくいつものメモが無かった。
(……あれ?)
まだ来ていないのかと思ったが、彼の傘はちゃんと傘立てにある。
(――忙しかったのかな?)
首をかしげながら、教室へと向かった。
そして、教室にたどり着いてすぐ、メモが無かった理由が判明した。
「お!!噂の彼女がお出ましだ!」
優里奈が入るなり声を上げたのはクラスで一番目立つ男子たちで、なぜだか教室全体が落ち着きがない。
「…何?」
そういって男子たちのほうを見て、
この騒ぎの中心が彼であることに気が付いた。
水野の席は男子たちに囲まれ、彼の表情も困ったような、焦ったようなそれである。
「あんたたち、何?なんで水野の席にいるの?」
いつもだったら絶対に関わらないのに。
嫌な予感しかしない。
「いやー、この地味な水野のさ!告白を手伝ってやろうと思ってさ~」
「…告白?」
どきりとした。そんな、まさか。
「今朝さ、見ちゃったんだよな。こいつが松原の下駄箱にこれ、入れようとしてるとこ」
ひらひらと示したのは、いつもと同じメモ用紙だった。
男子たちが中身を開く。
「『松原さん、今日の昼、中庭に来てもらえませんか』って。コレ、どう考えても告白だろー?」
今日は雨だしわざわざ中庭まで行くの大変だからさ、教室で話したらって言ってたんだよ。
そう言う男子の顔は明らかに面白がっているそれで、水野を面白半分にからかっているのが明白だった。
「さ、水野!愛しの松原ちゃんも来たことだし、いつ始めてくれても構わないぜ?」
「……」
水野はずっと黙っている。
人と話すのが苦手な彼が、この状況が平気なわけがなかった。
そんな彼のことが見ていられなくて、やめて、そう反駁しようと口を開く。
だが、優里奈は自分で思うよりもこの状況に恐怖を感じていた。思うように声が出ない。
何も、言えない。
「――松原さん」
「!」
聞くのが二度目のその声は、覚えていたものより少しだけトーンが高かった。
「…ごめんね。こんなことに巻き込んで。迷惑だよね」
「……め、」
迷惑なんかじゃない。そう言いたいのに、声が出ない。
「…そんな困った顔、させるつもりじゃなくて。ごめん」
そう言う彼のほうが、困ったような笑いを浮かべる。
違う、違うの。君のことが迷惑なんじゃない。
声を出そうともがく。
だが、優里奈がしゃべるより先に、水野がぽつりと言った。
「……大丈夫、わかってるよ」
それはすごく寂しそうで。
「…みんな、期待して集まってくれるのに悪いけど。彼女は、俺みたいなやつと釣り合う人じゃないから」
付き合うことはないよ、と静かに笑った。
「あちゃー、残念だったな!失恋パーティーでもするか!」
そういって肩を組む男子はやっぱり面白がっていて、それでも水野はその手を振り払うことはしなかった。
それは緊張のせいでも怖がっているのでもなくて、優しいからだ。人づきあいが苦手のくせに、必死に空気を読んでいるんだ。
それがわかるくらいには、優里奈は彼と親しくて。
それがわかるのは、この教室で優里奈だけで。
優里奈のかばんには、精一杯のオシャレをした便箋が入っていて。
このまま怖がっていたら、この便箋はもう役目を果たせなくなるだろうことが、
もっと言うなら、メモの消費だってぐんと少なくなるだろうことが。
わからないほど優里奈は馬鹿じゃない。
今頑張らなくて、いつ頑張る?
「――水野!」
ありったけの勇気を振り絞って、叫ぶ。
彼は驚いたように振り返った。
好き、
その言葉は少しだけかすれて、それでもちゃんと伝わったことが優里奈には分かった。
今度はさみしそうじゃない笑顔。
優里奈は水野に駆け寄って抱き着いた。
さっきまでしつこく振っていた雨はいつの間にか上がって、雲の切れ間には太陽がのぞいていた。
いい天気に、なりそうだった。