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近親愛シリーズ

はがゆいおわり

作者: 氷見野

※この小説には、近親愛要素・不道徳な描写が含まれておりますので、苦手な方はご注意ください。

 ひとたび吐き出せば、その人の言葉はあまやかな匂いを伴いながら放浪する。まろやかな香りに誘引され、砂糖水の海に飛び込みもがく蟻のようなわたしは、その人の言葉と眼の直線的な情に浸り、ただ溺れるしか術がないことを思い知る。


 兄は昔からそうなのだ。


 よく出来た人だ、妹の目線から見ても彼は否定しようのない才人である。ごくごく普通のありふれた一般家庭に生まれ落ちるには場所も時代も間違えたのではとこちらの気が引けるほど、外に秀で中に恵あり、多大なる魅力を兼ね備えた人間だ。


 中学、高校、大学、そして就職と順当に人生を歩んできた兄とは違い、やじろべえの均衡を保つためだけに存在するかのようにして、わたしは凡庸な女である。天秤の傾きを一定に保つのが神の指先の為す業であるとするのなら、せめて同じ数だけの天物をわたしにもお与えくださればよいものを、そうではなく、一方が秀でているのなら一方はより一層平凡に、兄と妹を対義語の体現として世に孵したのである。


 しかしながらそれは、兄というファクターあっての意義であり、わたし自身はこの凡庸な質も月日も、さして不満に思うこともなく過ごしてきた。小学校高学年には兄との差を痛感し、中学に上がってからは反抗的な態度も取ったことだろう。しかし一年ほど棘を撒き散らしてからは落ち着いて、中学二年、三年、高校と進むうちに「兄は兄、わたしはわたし」とタフな精神で乗り越えた。コンプレックスと向き合い、自分らしさを取り戻すという強靭な根性は、天物のうちのひとつであったのかもしれない。


 兄と妹の仲も、悪くはなかった。むしろ良好であり、周囲からの羨望を一心に浴びながら、わたしは成長した。ところが兄といえば、これといって特筆すべき点もなく、どこの雑踏でも見かけるような、大衆に埋もれてしまう凡庸な妹の存在を嘆かれることの方が多かったという。すると兄は決まって次のようなことをのたまった。


「お前はそのままがいいんだ」


 兄を追いかけようという意思はとうに潰えていたのに、それでも兄が、縋るような眼をしながらわたしを日々肯定するので、嗚呼、兄は寂しいのだと漠然とした核心を得た。あらゆる寵愛を受ける兄が、それらオアシスに目もくれず砂漠をひたすら突き抜けては喉の渇きで打ちひしがれているのも、ただ一時の水では満ち足りないからだ。兄が欲しがっているのは水でもなければ、瑞々しいオアシスの泉でもない。


 彼は旅の道連れを恋うている。それを、わたしに求めている。


 ともに渇き、ともに飢えを耐え忍ぶ連れが、彼には必要なのだ。こと人からの好意を集めることには長けている兄の、稚拙な承認欲求を知るのは妹であるわたしが最初であり、おそらく最後であるのだった。

 雨ざらしの仔犬のような表情をする乏しい兄など、周囲の誰も知りはしない。わたしは強い自尊心と征服欲による恍惚を覚えたが、わたしたち兄妹の心の在り処が、あるべき枠から逸脱しているのだと気がついた日、わたしは兄から逃げ出した。


 ──家を出て、もう五年になるだろうか。


 わたしは明日、結婚する。二十五になり、職場恋愛を経て伴侶を捜し当てた。「この人だ」根拠のないそれに突き動かされるように──あるいは、何者かに追われているかのように性急に、結婚を決めた。交際期間、たった三ヶ月。世間体は、わたしを「行き遅れないよう必死な女」とし軽蔑するだろう。どうせすぐに離婚する、そんな心無い謗りも受けた。だが、今、必要だった。わたしは逃走劇に幕を下ろさなければならないからだ。


 わたしに年月が重なれば、比例するように兄もまた齢を重ねるのだ。しかし兄はわたしと違い、特定の恋人を作ることもなければ、いまだ見合い話を蹴り続けている有り様だという。今日、実家に呼ばれたのは、五年ぶりの帰省という名目で兄を説得するためである。三十を過ぎ、ますます男として匂い立つように磨かれていく兄も、わたしと同様に両親を安心させてあげる努力はするべきだと、強く、彼に言い聞かせなければならない。


「そこから、入るなよ」


 夜十時。


 盛大な兄妹喧嘩を想定したのか、思う存分やれという意味合いで、わたしと兄は二人きりだった。人前では明るく頼もしい兄の、濁る泥のような声色を聞いたのは、おそらくわたしが実家を出ると打ち明けたその日以来である。

 ノックをし、ドアを開け放ってすぐに、刃物を突きつけるような鋭い声が飛ぶ。わたしは慄き、立ち竦み、中で背を向けたまま止まるよう脅迫するその人をじっと凝視する。


「ちゃんと祝ってやりたいんだ」

「兄さん」

「だから、入るな」


 寂寞たる沈黙がわたしたちを包囲している。わたしは、右手でぎゅうっと二の腕を握り、兄からの脅迫じみた懇願を一言一句脳へと刻んだ。逃げ出したわたしへの罰だと思ったのだ。日に日に、兄からのあまやかな言葉がいとおしくてたまらなくなった。「あいしている」言外に含まれる真実が、常軌を逸しているとしてもいとおしかった。


 兄の名誉のために誓って言うが、彼はわたしに何もしちゃいない。触れるとしてもそれは家族の領域を超えるものでは決してなく、わたしたちは互いを縛りながらも、外の世界をしかと見据えてきた。現実や常識と、相対しない日などついぞなかった。


 結婚という道に後悔もない。「この人だ」確かにそう感じたのだ。ただ、「この人を愛するだろう」とまでは思えなかっただけで。


「もう、どうすることもできない」兄の独白が沈黙に重く落ちる。


 そう、そうだ。わたしたちはどうすることもできない。どうにもならない。どうしようもなく、たとえこの感情を後生大事に抱えていたとしても、幸せな終極など未来永劫訪れない。自覚があるから逃げ出したのだし、自覚があるから突き放している。わたしたちはこんなときでさえ冷めたリアリストであり、ニヒリズムに浸り愉悦できるような特別な人種でもない。


 呼吸をすると、ひゅっと音が鳴る。自分が泣いてしまっているのだと気づいて、慌ててノブを引いた。鼻の奥が刺激で炙られ、声がひっくり返りそうなのをどうにか堪えた。


「おやすみなさい」


 結局、両親の言いつけも守れず、兄の空虚を埋めることもできずに、わたしは扉を閉めた。がちゃり、と金具がはまる音が、わたしたち以外誰もいない家中に響き渡ったかのような錯覚がした。頑丈ではないのに、頑強でもないのに、わたしと兄を隔てる壁はどんな鉄よりも丈夫で、重厚だ。しかしそうでなければならないだろう、だってわたしたちは、生まれた瞬間から変え難いアイデンティティによって、その後も生かされてきたのだから。


「兄さん」


 両足から力が抜けた。へたり、とくたびれる雑草のようにその場に雪崩れ、声もなく、泣いた。


 あいしているよと口にしたら、それが妹としてなのか、痛みの果ての情なのか区別すらつけられなくなるようで、わたしはそれに蓋をすることにした。今なら、幼い頃、兄からもらった無意味な小石を宝箱にしまい込んだように、鍵をかけて飾っておけるだろう。


 優れた兄と、劣る妹。

 始めに依存し、縛ることを覚えた悪い子は、どちらか。

 

 

 

 がちゃり、と金属が擦れる音がした。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして、一条 灯夜と申します。 作品、拝読させて頂きました。 まず、文章が美しいですね。 やや古風な雰囲気もありますが、自分はこのぐらいのものも好きです。 あらすじに『字数を抑え目…
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