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序文


終わりが目前に迫っているという感覚に襲われることが多くなった。


年齢を重ねるにつれて時間はますます早く過ぎていく。学校を出て仕事なんかをするようになると、特にそうだ。何もわかっちゃいないのに色んな事を知ったような気になって、新しいことを発見しようとする努力もせずに、毎日を繰り返しの作業みたいに過ごすようになるからかもしれない。ただ恐らく、そうしなければ日々の退屈な仕事に心が耐えられないのだろう。毎日同じ道を歩き、同じ建物に入り、同じ顔ぶれに挨拶をすれば、そこには同じ仕事が待っていて、それを同じようにウンザリしながらやっている。いちいち立ち止まってそんな自分を客観的に評価できるほど、人間は強くなれないし、そんな立派に生きていく事はできない。いわゆる、目を背けたくなるような現実、というのは、他ならない、自分の事だ。


終わりの感覚は、自分の可能性が狭まってきている事の実感でもあるのかもしれない。

若い頃は何にでもなれる気がしていた。映画監督にも、脚本家にも、俳優にも、ミュージシャンにも、小説家にも、漫画家にも、大学教授にも、誰かにとっての最愛の伴侶にも、何にでもなれると思っていた。たぶん、本当に可能性は無限にあった。ただ、可能性に限りが無いからこそ、どこに行けばいいのかさっぱりわからず、結局身動き取れずに苦しみもがいていたようにも思う。今となっては、年齢的にも体力的にも、できる事はかなり限られてきた。何かに情熱を注ぐ、という事もだんだん無くなってきた。そもそも、なにかを「好きだ」と思うことが、少なくなってきた。可能性は、どんどん狭まっているような気がしている。


そんな俺の事を知ることで誰かが得をするとは思えない。俺が思っていることは、日々この世に生きる誰もが思っているような、そんなくだらない事で、誰かに話す必要なんて全然無いのかもしれない。

ただ最近、人間の存在やコミュニケーションって、水の波紋のような一種の現象に過ぎないのかな、と思うようになった。その現象自体はどこまでもニュートラルなもので、「良い」とか「悪い」とか、そういう区別はつけられないもののような気がする。現象は、「起こる」か、「起こらない」か、そのどちらかなのだ。だったら、ちょっとそういう現象を起こしてみないことには、せっかく生まれたのに、なんだか損なような気がする。だから、俺の話を聞いて欲しい。


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