09. Mekong River in Bankok
良い女だ。
素直にそれは認めざるを得ない。漆のような滑らかな光沢を放つ黒髪に、珊瑚の砂浜を思わせる白い肌。それに艶かしい真っ赤な唇。大気汚染の進むバンコクでないのなら、俺はその美をゆっくりと堪能できただろう。
「リウ、と呼べば良いのか?」
「そう。あなたはシナガワと呼べば良いのかしら? それともソンマイ? 沢山名前があるのね、どれにしようか迷うわ」
中国語訛りのないアメリカ英語発音だ。英才教育でも受けたのか、それとも生まれがアメリカなのか?
メコン川に面したレストランの野外スペースは貸し切りだ。磨き上げられた木の格子の床には無数のパラソルが立てられ、その下には木製のテーブルと椅子が寂しそうに客を待っている。
メコン川はいつも通りの茶色。船舶が撒き散らす重油の臭いが濃密で鼻が痛い。リウは気にはならないのか、澄ました顔をしていた。
彼女の後ろには黒背広の男が二人立っている。南国の気候にその格好ではきついだろう。二人の鼻の頭には汗がいっぱいだ。
目間麗しいレディー・リウは細やかなフリルのついた白いワンピースを来ている。身繕いに余念がない。金箔の散らされたネイルアートは絵画のようだ。
それに引き換え、俺はTシャツと黒のカーゴパンツ。サンダル履きで腕時計すらしていない。随分とレディーを失望させただろう。
女だったら女と先に言え、ファック野郎。
「さあさあ、機嫌を直してくれるかしら?」
つくづく神経を刺激する女だ。思わず笑ってしまった。パラソルの下に笑い声がぶちまけられる。二人の護衛が俺の動きに反応したのか、身を動かした。
俺はテーブルに肘をついて乱れた髪をかきあげ、見上げるようにして言った。テーブル板が腕に張り付き不快だった。
「で、金は持ってきたんだろうな?」
凪ぐような風が川から吹き、彼女の髪をさらりと宙にさらう。だが、彼女は顔を動かそうともしない。
「いいえ」
とんだ狐だ。涼しい顔をしているのが気に障る。彼女のアバターを思い出した。模様のような笑顔。現実もそうだとは。
「なら、帰るぜ。まったく何をしに来やがったのか。自分の金も洗浄できない癖に、演出だけは立派だ。恐れ入ったよ、お嬢ちゃん」
席を引いた俺を呼び止めるかと思えば彼女は笑った。背を向け、手を振って去ろうとした時に、彼女はようやく口を開いた。
「金は振り込んでおいたわ」
「何時?」
「今、よ」
携帯を取り出し、口座状態を確認しようと画面をタッチする。
「あなたの口座じゃないわ」
思わず舌打ちをした。
しまった。舌打ちをしてしまった。ここはVR空間じゃない。自分の感情を表情を出すのは最低のプレーヤーのやる事だ。
「ヤワラー通りの老人。あなたのパトロンに15万ドル送っておいたから。この前言っていた報酬よ」
「どうやって知った?」
振り返ってリウを見据えるが、彼女は俺の方を向こうともしない。頭の中でデータベースを探りまわる。どこから彼女は俺の事を調べた?
「さあ。と言ってもわかるでしょうね。ディエンよ。彼、中国系でしょ?彼の中国語はわかりにくかったけれど、随分とおしゃべりなのね」
「ほお」
「全部喋ったわ。全部。ある事ない事。全て。あなたの人間関係は脆いのね。よく行くバーのマスターにも聞いてみたわ。彼はあなたに随分ご執心だった。笑えるわね」
鈴を転がすような声だ。するりと耳の穴から毒を流し込まれた気分だ。
心に冷や汗が滲み出すが、表情を変えるのを何とか踏みとどまる。相手は一気に畳み掛けてきているだけだ。
デタラメで話を見えなくして、この場は一旦立ち去る。
「そうか。マスターのケツの穴が固かったと愚痴をこぼしたが、そこまでは聞かれてないんだな」
「それは聞いていないわね?」
「おかしい。15万ドル借りる為に、マスターのケツの穴を掘ったんだがな? どうして、そこまで聞いていない?」
信じるも何もこいつとは初対面。彼女の言葉を額面通り受け取る必要はない。こっちが会話の主導権を取ってしまう。嘘でも何でも、全部うやむやにして、ここを去る。裏取りはその後だ。
「わかったぞ。ヤワラーのおっさんは金を二重取りしたわけか。笑いが止まらないだろうな。しかしな。リウ、振り込む前に確認はしろよ。頼むぜ、お嬢ちゃん。金の扱いに慣れてないんじゃないのか? 洗浄の仕方を知らないだけじゃなく、扱い方すら知らないとは恐れ入るぜ」
だが、レディー・リウは表情を変えようともしない。薄笑いを浮かべたままだ。淀んだ水に浮かんだ睡蓮のようだ。花びら一つ動かせていない。
「そもそも、振り込みの目的はそこじゃないわ」
「……」
会話の中で攻守がめまぐるしく入れ替わる。相手のカードが読み切れない。サプライズ・アタックを食った時点でこっちは不利だ。どうやって逃げ切る?
「テロリストから受け取った金を、そのまま振り込んでやったのよ。ヤワラーの、あなたの、パトロンに。ほら、日本でテロがあったでしょ? それで円暴落があったじゃない?」
「……これは、これは」
「わざわざFATF加盟国に口座をつくってね。CIAと日本警視庁にも通報しておいたわ」
こいつ。
犬歯を剥いて睨みつけたが、彼女は平然とした声音で俺の方を振り向いた。
「宿に帰っても無駄よ。あなたの部屋にヘロインが積まれているから。ディエンも今頃、逮捕されているはず。残念ね。友達が連れて行かれて」
タイの警察は滅茶苦茶だ。金を積むと彼らの法規は直ぐに変わる。ディエンを助けるつもりもないが、俺が警察に捕まれば、身の覚えのない罪状が積まれてゆく事だろう。
「シナガワ。あなたは私の奴隷よ」
勝ち誇ったような顔をしていた。彼女の俺を見る視線は死にかけの猫を見るそれだ。
「あんたをぶっ殺してやりたいね」
笑いながら言った。滑稽だろうが、これぐらいしかできない。彼女は俺の横を通り過ぎた。俺の事を一顧にだにしない。護衛の鋭い視線が俺に突き刺さっている。彼女に手を出せば、その瞬間に俺が殺される事だろう。
「さあ、レディーに恥をかかせるものではないわ。行くわよ。シナガワ」
【Supplement】
物語中での設定や背景の説明。
【メコン川】
・メコン川の位置(主人公とリウが会談した場所周辺):Google Map
https://maps.google.co.jp/?ll=13.731214,100.518594&spn=0.03802,0.066047&t=m&z=15&brcurrent=3,0x0:0x0,1
・メコン川の風景(主人公とリウが会談した場所周辺):Google Map
https://maps.google.co.jp/?ll=13.729547,100.512779&spn=0.009505,0.016512&t=m&z=17&brcurrent=3,0x0:0x0,1&layer=c&cbll=13.729119,100.513122&cbp=12,0,,0,0&photoid=po-34020870
【FATF】
・要するにマネーロンダリング取り締まりを行おうという集まり。
これも加盟国していない国があるので、リウはわざわざ騒ぎを大きくする為に、
そこの口座を作って振り込んでいる。
ヤワラー老人をテロ共犯者として捜査、尋問される事を狙っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/マネーロンダリングに関する金融活動作業部会
【タイ警察汚職】
主人公がタイの警察は滅茶苦茶と言い切っている。
汚職や買収は当たり前になっており、これは物語舞台も共通である。
・タイの警察汚職事件の記事
http://www.lookthai.com/jp/info/tplmasserking.HTM
・タイの警察汚職事件の記事
http://blogs.yahoo.co.jp/ozzy3376/38905968.html