30. Connected Underground
ダイブ中はVRシステムにより快感中枢を刺激される。
脳はそこでの体験、つまり仮想空間上での体験は快楽を与えてくれると誤った学習をしてしまう。これでVR運営企業は爆発的に市場を広げる事ができた。
そのシステムを構築したのがマイルズ。彼はVR運営企業に入り、技術部門の最高責任者まで登り詰めた。
「ダニエル。その錠剤を飲んでしまえ」
「わかったよ」
ダニエルは手にした錠剤を指先でつついていたが、覚悟を決めて飲み込んだ。
それは麻薬のようなもので、脳内物質の分泌を促進させる。
快感を感じる脳内物質をデタラメに放出させ、仮想空間上での刺激を無効してしまうのが目的だ。
神経が身体から剥がされ、マイルズの用意した部屋へと投じされる。感覚はVRサーバーから電子信号として脳に送られ、その情報に基づいて脳は作動を始める。
「来たぞ。マイルズ」
ダニエルはどういった態度をとったものか悩んでいるようだ。動きに落ち着きが無い。所在なげに片足を、残った足に絡ませている。
「やあ、シナガワ、それにダニエルも。会えて嬉しいよ」
マイルズはスマートに手を差し出した。ダニエルがおずおずと手を伸ばすと、有無を言わさないように手を掴んで握手した。洗練された動き。もう片方の手で手の甲を包んで上下に動かす。
「ハイ、ブロー。元気にしていたか? ダニエルの事はいつも気になっていたよ」
柔和な笑顔。無防備な防壁なら直ぐに溶かしてしまう事だろう。握手をしている時に、固さを感じたか、俺の方に目を向けてきた。
「シナガワ、ダニエルはどうしたんだ? 何かあったのか? 」
マイルズはストレートに訊いてくる。
「彼は若い。色々考える事もある」
「そうか」
心配そうな目をダニエルに向けてはいるが、猜疑心が底にある。どうやってダニエルの心を引きずり出そうか思案しているようだ。
目線を合わす為に、腰を低くした。そして、囁くようにして喋りだす。いつもの芯の強いバリトンだと、心が逃げてしまうかも知れない。そう考えたのだろう。
「なあ、ダニエル。何があったんだ? 辛かったのか? もう、大丈夫だ」
ダニエルは目線を落としたまま。
目を合わせたら心が読み取られる。そう思っているかのようだ。
「カモーン! ダニエル」
マイルズは大袈裟に体を反らし、両手を広げた。
大きなアクションで彼の注意力を引きつけようとしている。閉じている心を開かせるのは手間がかかる。
声に強弱を付け、心の隙間に潜り込む。その機会を窺っている。
「ヘイ、ダニーボーイ。ガッツを出せ。ブラックパワーはどこへ消えた?」
肩に置かれた手。ダニエルはそこに目をやりながら、口を開こうか迷っている。
どうしたものか判断できないようだ。
「マイルズ、今は精神的に疲労している。放っておいてやれ」
「シナガワ? 彼は知っているのか?」
「ああ、それで悩んでいるんだろうな」
「そうか」
「俺がラッシュアウトを起こした時に聞いてしまったようだ」
マイルズは色々と計算しているようだ。
「とにかく、立ったままもなんだ。椅子に座ってくれ」
座るとクッションの潰れる感触がし、高級革の渋みのある匂いがした。表面は柔らかく、まるで身体を包み込むかのようだ。
ダニエルが両膝を閉じて座っているのを緊張のサインととったのだろう。マイルズはダニエルの両膝を手を置いた。積極的なスキンシップで緊張感を解いてゆく。
「どうしたんだ、ダニエル? もっとリラックスしろ。そうそう、背もたれに背を引っ付けるんだ。身体を開かないと物事はポジティブに考えられないぞ」
姿勢を開かせ、今の状態が友好的だと認識しやすい状況を作る。マイルズは手を抜かない。副交感神経が彼の操り糸だ。
俺は言葉を差し込む。
自分の仕事にケリをつけたい。マイルズの立場がどうであろうと俺には関係ない。
「お前がニューデリーで俺に依頼した仕事。VR運営企業へのサイバーアタックの件は片付けておいたぞ」
「そうだな。シナガワ良くやってくれた。おかげで増加傾向にあった、サイバーアタックが随分と減ったよ。やはり中国だったか?」
「そうだ。今、中国では政府や軍の機密情報が公開されて、天地が入れ替わるような大騒ぎしてるだろう?」
「どうやってやった?」
「それを答える義務はない」
マイルズは笑みを浮かべて、俺の表情を読もうとしているようだ。お互い言葉で揺すっても、出てくる情報は少ない事を知っている。
俺は無視をして報告を続ける。
「とにかく、相手の首魁を潰した。今後は無いだろう。あれだけの奴はそうそう出てこない。俺が手を焼いた」
彼は目を丸くした。
「本当か?」
「相手の狙いはお前とアレだった。まさか、俺を挟んで戦争されるとはな。最期の最期まで正体がわからず苦労したよ」
「そうか」
マイルズは親指の先を擦っている。どうやら俺に聞きたい事があるらしい。彼の癖はいつの間にか、俺に尋ね事をする際のサインになっている。
「何だ?」
「なあ、日本企業が俺達と同じ事をしようと実験を繰り返している件があっただろ? 快感中枢を刺激する。あれはどうなった?」
「あれか。ディエンと言うベトナム人を焚き付けていたんだが、計画ごと潰された。タイ警察を突っ込み、実験ごと葬り去ってやる計画だったんだがな。時間も無かったから、直接潰してやったよ。その内、奴隷売買企業として報道されるだろう」
俺の言葉を聞いて、彼は安心したような顔をする。
「そうか。それを聞いて安心した。ニューデリーで依頼したサイバーアタックの件で、忘れられてしまったのかと思ったよ」
「アメリカ国籍の武器商人がコロンビアに子供を送っていた。おそらく同じような事をしているかもだ。担当していたアメリカ人はマフィアに追われている。子供の納品が滞るだろうから、他の業者に手を伸ばしているはずだ。そこを掴んでスパイを送り込め」
ロバートに売り払ったオフショア法人は、マフィアとの取引に使われていた。彼はどんな夢を見ていただろう。イタリア暴動に怒ったリウが、彼の夢を口座ごと消し飛ばしてしまった。今は生命の火まで危うい有様だ。
「コロンビアの実験は知っている。性的興奮をVR上でどうやって実現するか、実験中らしい」
満足そうに笑ってみせるマイルズ。黒々とした感情が漏れ出している。
ダニエルが居心地の悪さを感じたらしい。彼は再び背を丸めた。
「マイルズ。ダニエルをプログラム部門で雇ってやれよ」
「そうだな。それは良いアイデアだ」
「こいつはハッカーだ。経験を積んだら、さぞかし腕が立つだろう。役には立つ」
ダニエルは顔を引きつらせている。正誤判断もできない内に事が進められてゆくのに、明らかな拒絶反応を示していた。眉が情けなく下がっている。
言葉が出てくる前に封鎖してしまう。このまま放っておいたとしても、どうせ彼は考えるだけで何もしない。
俺が彼の肩に手を置くと、マイルズは嬉しそうに声をあげた。
「ダニエル。良いじゃないか。実に良い。素晴らしい。インドに来た時に俺のオフィスに訪ねてくれ。俺と俺達のスタッフは君を歓迎するぞ」
「……」
「今考えている事は、後でゆっくり考えてみろ」
ダニエルは何かを考えているようだったが、考えがまとまらないらしい。彼の背を叩いて頷かせた。
「素晴らしい! 今日は良い日だ。新しい仲間が増えた! これで黒人の更なる自由は保障されたも同じだ!」
情報交換をした後、俺達は別れる事にする。席を立ち上がるとマイルズは付け加えるように言った。
「シナガワ。コロンビアで万が一があれば、お願いするかも知れない」
昔と変わらない人好きのする笑顔だった。底に何が隠れているのやら。そんな事を考えながら、現実に戻る事にする。
【Supplement】
物語中での設定や背景の説明。
【脳内麻薬と快感神経の謎】
一般的に快楽中枢と言われているものは、ドーパミン神経系(A10神経系)と呼ばれるもの。
おおざっぱに言うと、この神経群はホルモン分泌細胞である。
簡単に脳内物質とその作用が記載されている。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/1566/zuisou_21.html
【ドーパミン神経系(A10神経系)】
中脳腹側被蓋野。
快楽という経験を作り出す部分。報酬系と呼ばれる、学習や環境への適応において
重要な役割を果たす。
GABA神経系に抑制されているが、βエンドルフィンなどを受容する事によって、
GABA神経系は抑制され、A10神経系でのドーパミン遊離を促進させる。
(ようするにハイになる。)
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/basic-chatechol.html
【主人公が飲んでいる錠剤について】
あくまでもドーパミンを出すといった単純な錠剤。覚せい剤の一種。
服用すると興奮状態になる。(いわゆるハイな状態になる)
ラッシュアウトの時に服用するという行動を主人公はしているが、
これは誤った学習が彼の脳に刻まれているからである。
過去のラッシュアウトが発生した際に、錠剤を服用し改善した事があった。
これが基になって誤った強化が行われてしまっている。
これらに因果関係はないが、彼の脳はそう思わなかった為、習慣として固着している。
スキナーの鳩の迷信行動と同様のものである。
・スキナーのハトの迷信行動の実験についての記事
概要は、ハトを箱に入れて、15秒事にエサを出し続けると、餌が出る直前に頭を上げる、
箱の中で身体を一回転させるなど、特異な行動をとる個体がみられた。
因果関係のない行動が学習された事例とされている。
http://www.komazawa-u.ac.jp/~ono/meishinfushigi.html




