03. Bar in Bangkok
「ヘーイ」
バーのカウンタードアを開けると、マスターが並んだ金歯を光らせた。なんでも、本当の歯は中国マフィアに叩き折られて、溢れる血と一緒に吐き出したのだそうだ。彼は泣きながら血の海に転がっている歯を見て、汲み取り便所の底で身をくねらせてきるウジ虫を思い出したらしい。彼の口が火を食ったみたいにデコボコになっているのはその傷痕だ。
「ソンマイ、元気にしていた?」
「マイペンライ ナー。問題ない」
カウンターの席に着く。ソンマイはここでの俺の名前。
俺は複数の国籍と複数のパスポート、それと数えきれない名前を持っている。複数の国籍は俺を限りなく無国籍にする。そして、複数の名前は俺を誰でもない、存在しないはずの人間にする。
マスターが久しぶりだと俺の腕を叩き、馴れ馴れしく肩を揉んできた。暗いカウンターに差し込んでいる明かりを受けて、金歯がいやらしく光る。緩いジャズと天井の扇風機が、南国の空気を淫猥に掻き回し、この世に沈んでいたはずの汚濁が拡散されていた。
マスターはホモだ。
手を払う。その気はない。何度言ってもこいつはこうだ。俺がいつ落ちるだろうかと、捻れた欲望に目をぎらつかせて待っている。分厚い唇からナメクジのような舌が垂れ、薄暗い照明の下で俺を誘う。
「ビールをくれ」
「オーケー。シンハー・ビールでいいわね?」
狩人の目をしていたマスターが、仕事の目に戻ってゆく。古びた冷蔵庫の置かれているのはカウンターの奥だ。歩み去る彼に合わせて、染みのついたウッドフロアーが悲鳴をあげるかのように軋む。
「良い顔をしているのね。取引がうまくいったの?」
「まあな。新しい顧客がついた。香港人らしい」
壁にかけられたテレビを見ていると、もたれかかってくるかのような声が絡み付いてきた。舌打ちをしても涼しい顔をしている。
「どれぐらい稼げたの?」
「人の財布を覗くようなまねは止めろ」
「いいじゃない」
そう言いながら、シンハー・ビールをカウンターに置いた。茶色のボトルに白ラベル。地方では氷で割ったりするので、アルコールはやや強い。ビンを手に取ろうとすると、マスターが手を絡ませてくる。ヒトデのような感触だった。
手を払うと振動で、カウンターに並べられている空ボトルが身を震わせ、甲高い音をたてた。
「殺すぞ」
「おお、怖い、怖い。同じ殺されるなら、ベッドで激しく責められて殺されたいわね」
カウンターに肘を乗せ、顔を近づけてきた。口から腐った魚の臭いがする。タイの醤油はナムプラーと呼ばれる魚醤油。こいつは特に臭いのが好きらしい。肛門性愛者にはふさわしい。
「離れろ」
ウィンクをしてくるが、歯を剥いて威嚇する。諦めたのか俺から離れていき、別の客に声をかけている。どうしようもない奴だ。
マスターの次の標的は白人だった。顔の作りからして北欧だろう。ノルウェーかスウェーデン。彼はマスターを迎えてにこやかに喋っていたが、しばらくすると露骨に顔をしかめていた。北欧人は不快そうな表情を隠そうともせず、マスターを手で追い払う。脂肪のまいた太い手から、ミルク臭いバターの臭いがしてきそうだ。
「ハイ、ソンマイ。何をしていた?」
声をかけてきたのは、ディエン。ベトナムからやって来た。中国系ベトナム人。外国人観光客相手にしがない商売をやっている。彼は口を開くと金が無いと言う。ドラッグのやり過ぎの為なのか手がいつも小刻みに震えている。哀れな負け犬。浅黒い肌からヤニの臭いがする。
「ハイ、ディエン。まあ色々だ。北の方に出張もあったからな」
「何だ?」
「奴隷だよ。少女売春の。日本企業のタイ支局の局長だとかが、女奴隷を買いに来たんだ。日本円で話ついてるのに、USドルを持ってきやがった」
ディエンがゲラゲラ笑い出した。太腿を何度も叩いている。
大阪支社からタイ支局に送金させ、それを支払にあてる。奴隷商とはそういう契約になっていた。だが、送金担当者がいらない気を利かせ、USドルにして送金をしてきた。
何度も両替すると銀行に目をつけられるかもしれない。局長の心配はそこだった。
十歳の少女を買うのを躊躇はしないが、銀行に目をつけられるのは必要以上に警戒しているようだ。もっとも、それで俺に仕事が回ってきたのだが。
「そいつから金を引っ張れるな。ええ、ソンマイ」
「ああ、そうだな。そいつ馬鹿だから、市場の五倍の値を払っていた。ビクビクしていやがったぜ。こういうのに慣れていないんだ。脅したらいくらでも金を吐き出すぞ」
「いいな。それ。クールだぜ」
ディエンは舌なめずりをした。タバコで黄色くなった歯を剥いている。
「まあな。でも、まだだ。局長ならどれぐらいの金が動かせるのか調べてからだ。せっかく食い付いてきた魚だ。慌てるな」
「ソンマイ、そう言うなよ。俺は今、金がねえんだよ」
マスターがこっちに戻ってきた。ライトを受け、気取ったポーズで腰を振っている。求愛ダンスのつもりらしい。
「おや、ディエンじゃないの」
怖気がするほど気色の悪い声だった。今日は一段とウズくらしい。いつになく粘りのある声だ。まるで喘ぎ声のようにも聞こえる。
「金が欲しけりゃ、マスターにケツの穴に突っ込んでやれよ」
「冗談だろ?」
ビールを飲みながら、笑って視線を移すと、壁に白い大きな蛾が張り付いていた。
「金がねえ、金がねえ」
ディエンが喚く。椅子から蹴落としてやりたいぐらい面倒な奴だ。
「なあ、ソンマイ。明日にでもその局長を脅そうぜ?」
「明日は予定があるんだよ」
「何だそりゃ?」
大袈裟に顔を歪ませる。彼はポケットからよれたタバコを取り出して火をつけた。俺は吐き出された煙を追い払う。
「アメリカだ、アメリカに行くんだよ。急な仕事が入ってな」
「ああ、VRかよ」
「そうだ。お前も金を稼いだら施術すれば良い。いくらでも金が稼げるぜ?」
「けっ、何だってんだ。俺の日常だ精一杯だよ」
つまらなさそうに彼はタバコの灰を床に落とす。
「そう言うな。一仕事終ったら、お前の所に連絡する。その時、金は手に入るさ」
「本当かよ?」
ディエンは嬉しそうな顔をした。ギラギラと輝く目は薬物のやり過ぎなのか充血していた。皮算用で彼の頭ははち切れるかも知れない。
馬鹿な奴だ。影で俺はほくそ笑む。
電球の周りに飛んでいた蛾が身体を焼かれて落ちてきた。
【Supplement】
物語中での設定や背景の説明。
【シンハー・ビール】
タイ国産のビール。ビア・シンとも呼ばれている。
タイでは冷蔵庫がない家庭もあり、ビールを飲む時に氷を入れる事もあるそうで、
その為、アルコール度数が高くしているらしい。
・シンハー・ビールの説明や画像
http://ja.wikipedia.org/wiki/ビア・シン
【ナンプラー】
タイ料理に行った時などに出てくる。非常に癖のある臭いがするが、
慣れるか慣れないかの問題。
・ナンプラーの説明
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%F3%A5%D7%A5%E9%A1%BC
【タイ・ニューハーフ】
タイにはニューハーフが多く、バーなのでも良く見かける。
タイ語でガトゥーイと呼ばれたりする。
・タイにニューハーフが多い理由(ブログなので、軽く読む程度。こういう見方もある)
http://crazysummy.blog9.fc2.com/blog-entry-5.html
【タイ・少女奴隷】
タイに始まった事ではないが、奴隷売買は当たり前のように行われている。
タイにも市場があり、一時はロシア人や東欧からも売られて流れてきていたらしい。
・タイ周辺諸国の少女売春についての話
http://rainbow.gr.jp/ukifune/disposablepeople3.html
・人身売買についての話
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/8ad6fddac9070e4811af9a9c399b3c00
【物語中での経済概況】
物語は今から数年後の世界を想定している。
米国は財政の悪化、それと購買力の低下で基軸通貨としてのドルの価値を
下げている状態。
また、ユーロについては、ギリシャ、スペイン、イタリアから発生している
ソブリン危機から脱出できておらず、景気は低迷したままである。
国際取引の基軸通貨はUSドルであるというのは、基本的なスタンスではあるが、
ドルの凋落が酷く、貿易などで円建ての支払いがあった場合などには、
円を保持した方がリスクが少ない。その為、対日貿易量が多い国などでは、
円に対する需要がある。(中国元も同様)
アジア共同通貨や、湾岸ディナールはまだ実現していない状態。
その為、局長が円である取引でドルを持ってくるのは、
国際的な決済を行うのであれば良いが、既に円の需要がある時に、
両替の手間まで追加してもってきたという最悪の事例。
基本的に銀行での両替などは、身分証明書などの提出が要求されるのと、
署名が残ってしまう。
他の手段としてはそのまま外貨として、預けて電子上で円に両替という方法。
しかし、米ドルに変更する際には、コルレスバンクを通して決済が行われる。
(米ドルの場合はシティーバンクか、モルガンスタンレー)
アンダーグラウンドで使用される口座上では、自分の動きを知られる事は
非常に好まれない。
会社なら普段の取引で隠し通されるが、犯罪者にとっては非常に面倒な事になる。
その為に、主人公が呼ばれたという事になる。
【おまけ:国際決済についての説明:コルレスバンク】
http://ja.wikipedia.org/wiki/コルレスバンク
http://www.boj.or.jp/paym/outline/kg73.htm/