29. Grand Bazaar In Istanbul
ダニエルの心は死にかけていた。
リウの一件が終ってからというもの、ずっと塞ぎ込んでいる。ホテルの部屋にいてもベッドの上で丸くなり、動こうともしない。
彼女に結びつけられた鎖が解けたというにも関わらず、それを喜べていないようだった。
ここはグランドバザールの入り口。ここの奥を抜けた所にVR装置が設置されている店がある。
彼は雑踏に消えてしまいそうだ。立ち止まった彼を避けるようにして、通行人が通り過ぎる。群衆の中で彼だけが孤独だった。
「シナガワ、俺は何が正しいのか分からなくなってしまった」
豪壮な門を潜ると、天井がアーチになっている通路が続いており、縦横に走る道には商店が並んでいる。窓が開けられている所もあるが、日の光は少ない。天井から吊るされた蛍光灯や、商店の照明で何とか先が見通せる。
商人や通行人の会話が、アーチに反響して空から降ってくる。空間に閉じ込められた言葉は何重にも重なり合い、個々の意味を失って、騒音になっていた。
まるで、俺達が住んでいる世界のようだ。世界の縮図がここにある。
クッションの店から呼び声がかかった。積み上げられたクッションの一番上は、暗い赤のビロードで、荒めの刺繍がされていた。
「あなた日本人? どう、クッション買わないですか?」
「要らない」
「クッション。良いですね。お土産に良いです。あなた、これで寝ると良く寝られる。良い夢見られる」
「その奥にあるのを見せてくれ」
「これですか?」
「そうだ」
店の奥にある大きめなクッションを取り出している店主を尻目に、ダニエルを小突いて先に進む。後ろから声がかけられたが、関わるつもりはない。
「シナガワ、リウは正しかったんだろうか?」
「知るか」
ダニエルは早口になっていた。行き場のない思いが暴走しているようだ。思考を言葉にするのが追いついていない。何が言いたいのか把握するのが面倒だった。
「だけど、リウはVRの秘密を知っていたんだろう? お前とマイルズが仕組んだアレ。それに抵抗していたんだろう? それを暴こうとしていたんだろう? そんな人を俺は」
「リウは優秀だ。あいつが在籍していた人民解放軍は相互監視をしていて、政府は独裁。その中で、あれだけの連中を統率していたんだ。他から疑われないようにするのも、大変だっただろう」
魚屋の生臭い空気をくぐり抜け、フルーツ・ショップでリンゴを買った。ダニエルは要らないと言って断る。赤みに偏りのあるリンゴを食べると、少しだけ鉄の味がした。
ダニエルは唇を噛み、辛そうな顔をしている。
「VRダイブ中に快感中枢を刺激して、ダイバーに依存状態を作り出していた。それも、市場戦略の為に。それをリウは暴こうとしていたんだ。全てから隠れて、全てを敵に回して。俺は、俺は、俺は最低だ」
リウは人民解放軍の中で、シンパを作っていた。彼女はVRの仕組みに気付き、誰にも気付かれないよう、世界中に暴露しようと計画していたらしい。軍や政府の後ろ盾も得られず、血気盛んな若手を細腕一つでまとめていたようだ。誰にも気付かれないようにして。俺でさえ気付かなかった。
彼女の理想がどうだったのか?
今となっては知り様もない。
「大した奴だったよ。まさか、最期の願いが他の同士達を救えとはな。思いもしなかった」
「あいつは全部の責任を一人で負ったんだ。たった一人で十字架を背負ったんだ」
手を差し伸べた時、彼女の最期の願いはこうだった。
「私や私の家族はどうでも良い。この件で同士に危害が及ばないようにして欲しい。それを約束してくれるかしら?」
「それで良いのか?」
「ええ」
そう言い終えた後、彼女は無表情に戻った。彼女から何の信号も出てこなくなり、意識は殻に閉じこもってしまったかのようだった。
果ての見えない空間で、俺達は別れた。
リンゴの芯を道端に捨てると、向かいを歩いていた男が、それを踏みつぶした。芯に残っていた種はタイルの上に散らばる。
「ダニエル。もし、リウをそのままにさせていれば、お前はずっと奴隷のままだった。それをお前は受け入れられたか?」
「わからない」
「彼女は目的の為には手段を選ばない。正義や理想というのは、全てそのようなものだ。地球の反対側に居る奴に言わせれば、今度は別の事を言う。耳を貸していたらキリが無い」
ダニエルは苛ついていた。煩悶とした怒りを俺にぶつける。
「シナガワ! お前にとって正義とは何だ?」
「そんなものは無い。幻想だ。俺に言わせれば、善だの、悪だの、馬鹿げた議論でしかない」
「お前の倫理は滅茶苦茶だ」
「答えてみろ。クローンで人間が作れたとする。いきなり工場で生産された10億人。お前は彼らを人間と扱うか?」
「……」
口車乗ってこない。俺から何かを言われるのを警戒しているらしい。
「答えられないだろう、ダニエル? お前が考えている倫理というものは、所詮、それまでの社会にあった、事柄を集めて色分けしただけなんだよ。だから、それから外れた事が起こると判断できなくなる」
彼は黙ったままだ。商人が慣れ慣れしく俺の肩を叩く。手で払ってやると、舌打ちをしていた。
「膨れ上がった人口、様々な国、宗教。民族。考え方。それに、テクノロジー。基礎からガタガタになっているのに、今まであった考えの先に解決策があると、勝手に信じ込んでいる。その場しのぎで、辻褄合わせをしているだけなのにな。その程度のものなんだよ」
現在の法や倫理などは、これまで生み出された宗教、哲学をベースにしている。それらはそれまで起こった事象がベースになっており、その上で構築されているだけ。
加速してゆく混乱、混沌。
「それに、人間の意識など、脳が作り出した錯覚に過ぎない」
人間が物理世界で行動する為に作られた内面世界。経験を通じて構築されるウェイト付けされた価値観の集合体が、勝手に一人歩きして、何が正しい、何が間違っているというのは、とても滑稽だ。
俺は言葉を続ける。
「ダニエル。お前はラッシュアウトは経験した事は無いのか?」
「まだ無い」
「そいつを経験するとお前は理解する。意識など、自分など、視覚、聴覚などの感覚を通じて構築された概念の集合体でしかない、とな」
「そんなはずは無い」
言葉すぼみになってゆく。最期の言葉は商店街の賑わいに消えていた。
「歴史も学問も皆、視覚や聴覚を通じて、お前の脳内世界に蓄積される概念でしかない。それを経験した記憶と照らし合わせて、善だの、悪だの言ってるだけだろう?」
「でも、真理はあるはずだ」
「真理? 時間を一次元でしか観測できず、六次元まである宇宙を三次元でしか知覚できないのに、どうして真理などあると言える? 制限された知覚で構築された科学は、あくまでも人間が物理世界を捕える一つの見方で、そういう意味では宗教でしかない。お前は脳が作り出した錯覚だ」
「そんな事はない。そんな……」
「眠った時、お前の意識はどうなる? 脳が損傷したり、老化したら、お前の意識はどうなる? 認識している概念の集合体がほつれてゆくと、見る間に意識は変わり、行動も変わる。それを知覚できるのは、お前以外でお前じゃない」
彼は口をつぐむ。何も言えなくなったようだ。
「今度は俺がお前に聞いてみよう」
耳に口を寄せる。
「お前は誰なんだ?」
彼は俺から去ろうとして、後ろを歩いていた男にぶつかった。罵言が浴びせられる。そいつはダニエルが黒人と見るや、トラブルになるのも面倒くさいらしく、足早にその場を去って行った。
人の流れる中で、彼は一人だけだ。口は引き結ばれている。答えを求めるつもりもない。彼の結論は彼が出せば良い。俺が口を挟む事も無い。
「ダニエル。呆然とするな。マイルズの所に行くぞ」
消沈したダニエルは黙ったままに頷くだけだ。
人ごみの中、彼の姿が見えなくなりそうだった。
【Supplement】
物語中での設定や背景の説明。
・グランドバザールの位置:Google Map
https://maps.google.co.jp/?ll=41.010864,28.96908&spn=0.00965,0.021136&t=m&z=16&brcurrent=3,0x0:0x0,1
・グランドバザールの風景:Google Map
https://maps.google.co.jp/?ll=41.011042,28.968752&spn=0.00965,0.021136&t=m&z=16&brcurrent=3,0x0:0x0,1&layer=c&cbll=41.011042,28.968752&cbp=12,0,,0,0&photoid=po-17335404
http://4travel.jp/overseas/area/europe/turkey/istabul/kankospot/10007599/pict/?page=1&sort=date
・グランドバザール動画(グロ無し)
http://www.youtube.com/watch?v=vAEjqCYNVxo
【ペンフィールド実験】
大脳皮質を刺激する事で、発生していない現実を体験するという実験についての記事。
http://www.qualia-manifesto.com/nikkei.html
【リベットについての解釈、他の実験など記載されている文章】
単なる研究ノート。別にこれが正しいという訳でもないので注意。
リベットが行った実験について詳しく書かれている。
リベットの実験というのは、様々なものがある。
・刺激から脳に電気信号として伝えられるのと、意識が知覚するのに時間差がある
・行動より前に、脳の運動野で電位が発生する
(ボタンを押す動作を行おうと、意識する前に、運動野で電位が発生した。)
プライミング効果、盲視なども記載されている。
この文章は実験以外は主観に括られた文章。
これを選んだ理由は、日本語でこのような文章があまり無い為。
http://ir.okiu.ac.jp/bitstream/2308/182/1/10_1_004.pdf
【サルでも公平というのが分かるという実験】
二匹のサルをケースに入れ、一方にキュウリを与え、一方にブドウを与える。
そうする事で、キュウリが与えられたサルは不満を現す。
http://www.wired.com/threatlevel/2012/10/monkey-anonymous/
【おまけ:四色型色覚】
普通の人間は3色しか認識できない。理由としては色を感じる錐体細胞によるもの。
これが4色を持つ人がおり、この人から見える景色というのは、
3色型色覚の人とは異なる世界になる。
PCで色を作成しても、4色型色覚の人が認知している色は作れない。
これは製造している側が4色目の認識できない為に発生しており、
製造段階で実装できない為。色弱、色盲はこの逆。
現在、当たり前と思っている世界は感覚器官に支配されており、
違う感覚器官を持つ者にとっては別に映る。(昆虫、猫などがそう)
http://gigazine.net/news/20120625-super-human-vision-tetrachromats/
【ラットで快感中枢を刺激した実験】
ラットの中隔領域に電極を挿入し、ラットがレバーを押すことで電気刺激するという実験を行ったところ、摂食や飲水もせずに押し続けるという行動がみられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/側坐核
【サルを壊す実験】
2chコピペ
まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。
ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。
餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。




