19. Den in Islamic Cairo
交渉は三日間にも及んだ。
絨毯の上でくつろいだ姿勢を取りながら、苦みばしったシャーイと呼ばれる紅茶を飲みながら言葉を闘わせる。個人的に思うのはイスラームの連中は甘党が多いようだ。糖で舌が絡まってしまうほどに、彼らは砂糖を入れていた。
俺としては、キック力のあるトルコ・コーヒーが飲みたい所だったが、交渉に参加した連中の中に、コーヒーを禁じられている奴がいたらしい。要求しても出てこなかった。
電力の供給が一定でないのか、赤みの強い電球の明かりは不安定だ。時折、強くなる光の中に埃が浮かんでは沈んでゆく。直線的なコンクリートに囲まれたこの部屋で、俺達の声だけが反響している。熱を帯びた声はこだまし、虚空の中へ消えてゆく。
部屋の隅では暗闇がこちらの様子を伺っているようだ。ハウンド犬のような顔をしたセト神がそこに隠れて、好戦的な目を輝かせているようだった。
「合意しよう。シナガワ。君のプランは我々の宗旨に合致する。悪くない。良いとは言えない取引だが」
嗄れ声で首長と思わしき男が言った。黒いターバンが印象的な、四十位の男。口が笑っているだけで、彼の背後からは俺を信用しないという黒い瘴気が漂っていた。
「あなた達と契約ができて、とても嬉しく思います」
つぶれた丸ソファーから立ち上がって握手を求めると、彼は警戒しながら手を伸ばしてきた。威圧感を与えたいのか、俺の手の平を奪うかのように乱暴な手つきだ。そのまま、手を引き抱擁をする。
慌てた相手が俺の体を突き放す。良く知り合った同士なら当たり前の動きでも、異邦人からされるのは以外だったのだろう。目を丸くしていた。不動の心も少しは動いたか?
「私達は既に友人です。同士です。ほら聞こえませんか?ゴグ・マゴクの戦乱はすぐそこです」
ハルマゲドン。最終戦争の名前を言われて黒ターバンは驚いたようだ。彼は顎を引き、俺を見据えて言った。嫌悪の色を隠そうともしない。毒つくように彼は呟く。
「お前の背後にシャイターン(サタン)に見える」
笑うしか無い。俺にシャイターン(サタン)の影を見るとは。
俺は舌を伸ばして絡み付く。彼の思念に忍び寄り、彼らの背後をとってしまう。足下から忍んでいけば、それと気付かず彼らは嵌る。
「神によって隠された救世主。マフディー。私はあなたこそが、その『待望される者』と思っているのですよ。心の底から。本当に。あなたがシャイターン(サタン)など汚らわしい言葉を使うべきではありません」
甘言で心をくすぐると、人は悪い気はしない。他の信者がいる前で、最期の審判の時にやってくる救世主。マフディーと呼ばれたなら、気分を悪くするはずもない。
繰り返される戦乱の毎日の中で、自分の信仰を何度も確かめている事だろう。
信義とは?
正義とは?
自由とは?
繰り返される自問の中で自分の場所を求めて迷う事もあるはずだ。それを明言してくれる人間を、それを肯定してくれる人間を、彼らは無意識的に探している。
テロリスト。反乱分子。平和を乱す者。
あらゆるメディアが存在を否定する。
非情、酷薄、残虐というイメージが彼らの首にかけられる。
どのようなレッテルが貼られようとも、彼らは人。そこから逸脱する事など有り得ない。
家族を殺され、娘を犯され、息子を洗脳され、全てを失った。
イスラームの民は彼らを支援するが、果てのない孤独な戦闘を繰り返す彼らの心は常に孤立している。
隠れ家に険しい目をしながらも、どこか寂しさを滲ませているのは、それが理由だ。
彼らの言葉で彼らを騙す。
異邦人なら語られる事がないだろう言葉。
その言葉は彼らにとって鉄鎖になる。自負心が強ければ強いほど、強い象徴と結びつきたがる。
だから、彼らは絡めとられる。
「イーサー(イエス)は異邦人である東方の賢者によって、誕生を祝福されました。後千年王国をもたらすであろう指導者は、極東の国から来た私が祝福いたしましょう」
終末戦争を待ち望み、聖戦を繰り返してきた聖戦士達には魅惑的な言葉だろう。理想郷の到来を、彼らは何度も心の中に思い描いただろう。
イメージ。
イメージ。
イメージ。
彼らの言葉を持って、彼らの理想を模倣する。
俺の口から発せられる言葉は、彼らの脳をファックする。
面影を求めて彷徨する魂は、俺が生み出すイメージに引きつけられる。まるで砂漠に水を求める遭難者のように。
理想郷だと?
そんなものがあるものか。
俺の言葉は聞こえても、心を横切る思考までは聞こえまい。
これからだ。これから彼らの心を覆う、無数の鎧を剥がしてゆく。
「ところで、聖戦士の皆様。交渉が終った所で、こちらで余興を用意させて頂きましたが、ご都合はいかがでしょうか?」
彼らはお互いに目配せをし始める。彼らが言葉を交わし出す前に俺は提案する。視線で気持ちは語れても、細かな意思疎通まではできないものだ。
彼らの言葉で会話をされると、俺は彼らが何を考えているのか、その過程が見えなくなってしまう。集団の意思決定をする前に、一方的に話を進める。
三日に及ぶ交渉は俺だけでなく、彼らの心をも摩耗させているはずだ。長い交渉は彼らの習慣。彼らの習慣に乗っ取って、緊張感を与えるように演出を加えている。疲労感を覚えているのは俺だけではない。
「こちらで女を用意しました。繰り返される戦乱に聖戦士達の魂もくたびれているでしょう。美しい女と夜を明かし、明日の戦いに気力を充実させるのも、戦士の務めであると思います」
逡巡の色を見せる彼ら。互いの目が相手の様子を伺っている。戒律が許すのかと、彼らの目が言っていた。俺の言葉の前に立ち止まっていた。
渡ってしまえ。
禁断の一歩を踏み出してしまえば、お前達はもう戻れなくなる。
「金髪碧眼。欧州はハンガリーから連れてきた女達です。当然、異教徒。あなた達の禁忌に触れる事もございません。もう、手配もすませており、指定さえ頂ければ、あなた達の寝間に訪れさせてみせましょう」
彼らの女性の好みを把握している訳ではない。しかし、彼らの多くは金髪碧眼を好む傾向があるようだ。彼らがよく見るメディアに登場する女性達を見ていれば、その国で好まれる女性がおのずとわかる。
「いいだろう」
探るような態度をしながらも、彼らは好奇の心を隠せない。承諾の声を聞いて、俺の心が彼らを嗤う。
閉じられた鉄扉を開ければ、赤い月がナイルの風の中で揺れている。
血の臭いが漂ってくるきそうな赤だった。
【Supplement】
物語中での設定や背景の説明。
【エジプトでの挨拶】
親しい場合には、男同士でもキスをする場合がある。
ただ、それはあくまでも文化を同じくするものであって、
異教徒、異国人の場合については、そこまで行われる事は余りない。親しければ別。
http://www.biglife21.com/manner3.html
【ゴグ・マゴクの戦乱】
要するに最終戦争の事。
キリスト教、イスラム教ではこの戦乱を超えて、救済がやってくるとされている。
・旧約聖書でのゴク・マゴク
http://chiiroba.net/MatsudaFamily/christian/GoguMagogu.htm
・コーランであるゴグ・マゴクの戦争
http://www.islamreligion.com/jp/articles/367
【マフディー】
神の命で再臨して、全世界でのイスラームの確立、公正と平和をもたらすとされている者。
神に正しく導かれた者と表現されたりもする。
スンニー、シーアなど諸派によって、誰がマフディーとなるか解釈が異なる。
主人公がこの単語を使いながらも、具体的な表現を避けたのは、
諸派によって思想の違いを明確化させてしまい、対立を起こってしまったりしない為である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ムハンマド・ムンタザル
【イスラームから見たキリスト】
旧約聖書、新約聖書もイスラームにとっては、唯一神から示された啓典である
なお、イエス・キリストについてはキリスト教とは違い、
神の子とはされておらず、予言者の位置づけ
但し、マフディーによる最終戦争時に再臨して、マフディーに加勢するとある
http://ja.wikipedia.org/wiki/イスラームにおけるイーサー
【イスラーム世界での売春】
宗教的な戒律で、売春など認められていないと思われる向きがあるが、
実際には存在している。
以下はエジプトで売春を斡旋した者が逮捕されたという記事。
http://japanese.ruvr.ru/2012_10_29/ejiputo-baishun/




