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Sympathy For The Devil  作者: 赤穂 雄哉
Stage Delhi
13/31

13. Nehru Place in New Delhi

挿絵(By みてみん)

「しまった」

VRからアウトした時に、既視感を覚えた。そうだ。俺はこの部屋でVRにインしていた覚えがある。同じ風景。同じ臭い。その記憶が重なり、収束してゆく。

 既視感は今の俺自身の存在感を喪失させてゆく。時間軸に沿った俺の経験が軸を失い、積層構造が粉々に崩れて重なってゆく。記憶されている因果の順番が狂い出した。

 意識を逸らそうとしてももう遅い。断片として格納されている記憶がランダムの再生され始める。シーケンスの乱れた走馬灯。視覚、聴覚、触覚。五感の体験がラッシュ映像のように脳内を駆け巡ってゆく。


 ラッシュアウト。


 俺は辛うじて残っている意識を総動員して、隣にいる黒人。確か、ダニエルという奴を怒鳴りつけた。

「出てゆけ!」

「何だ?」

「殺すぞ! 出てゆけ!」

 泡を食ったような顔をしている黒人。どうやら理解できていない。彼の理解の遅さに怒りを感じる。俺の意識が持たない。徐々に意識の秩序が崩壊してゆく。外側から俺という思念が無くなってゆく。俺が意識を持っているのは、後どれ位だ?


「何だよ。シナガワ?」

 隣に座っている黒人を殴りつける。誰だ? ダニエル?

 床に咳き込んで倒れた黒人を何度も蹴りつけた。彼は体を丸めて悲鳴を上げている。

 喚き散らす彼を無理に引きはがし仰向けにさせた。馬乗りになり何度も殴る。呻き声しか上げなくなった頃。俺の拳が潰れかけているのがわかった。拳の痛みすらが混乱している。忌避すべき信号が脳に警告として伝えている関わらず、思考がその処理が追いつけていない。ほどけた記憶を結ぼうとするので手一杯だからだ。

「出てゆけ!」


 黒人が転がるようにして出た行ったのを確認し、俺はポケットをまさぐる。確か、俺はポケットに薬を常備していた。自分の記憶がどこまで正しいかわからない。

 あった。確か3錠だったはず。断片と化した記憶を探る。同じような状態の時に助かった記憶がある。それにしても、


 俺は誰だ?



 記憶が安定したのは、それから三時間後。血の気を失った頭を振って、アジズの店へと戻る。もう閉店時間のようだ。積み上げられているPCパーツが棚の中で沈黙している。LEDの瞬きが網膜に届いているが、情報の嵐を整理するので擦り切れかけている脳が、それを受け取るのを拒否していた。

 奥にある扉を開くと、そこはアジズの生活空間だ。15メートル四方のコンクリートの壁にカーペットが敷き詰められている。そこにはいくつかのクッションが重ねるように置かれており、アジズとダニエルが座っていた。ダニエルの顔は血に汚れ、俺の姿を見るなりクッションを抱えて、身を小さくした。


「ハイ、ルーキー。気分はどうだ?」

 壁に寄りかかって挨拶すると、ダニエルは眉をひそめている。どうやら怯えているようだ。暴力慣れしていない。鼻で笑うとアジズが言葉を挟んできた。

「ラッシュアウトか?」

「ああ」

 壁に背を預けたままにして、床に腰を降ろす。息をするのがやっとだ。

「部屋を汚したな?」

「まあな」

「清掃員を呼ばなくちゃならない。割り増しだ」

「自分で掃除しろよ」

「この国にはカーストがあるんだよ」

 当然のようにアジズは主張する。それについてはとやかく言うつもりもない。どの世界でも階層は例外無く存在していて、言葉上の平等など何処にも見当たらない。

「わかったよ、アジズ。USドルかインディアンルピーか?」

「ウェブマネーでだ」

 散らかった記憶をまさぐる。俺にウェブマネーはあったか? あったとして、それはこの場であると言って良いのか?

 どうもまだ記憶は完全に戻りきっていないようだ。

「駄目だ。キャッシュ。USドルで」

 アジズが食い付く。弱みはそのままコストになる。

「最近、USドルは弱い。この所、対ルピーで下がりっぱなしだ。だから、レートは3パーセント増しだ」

「因業な奴だ。カルマの中でめまいを起こして死んじまえよ」

 顔をしかめて、キャッシュを投げ捨てる。深い皺を持ち上げ、アジズが笑った。干涸びた笑い声の中に欲望の色が混じっている。神棚に飾られている花輪が枯れている理由がわかったような気がした。

「どうせ、来世も同じだよ」


 食事はアジズの家で取る事にした。料金が取られるが、今から食いに行くだけの余裕が俺にはない。

 カレーとライスが入ったステンレス製の丸い容器が届けられ、その中にはカレーとインティカ米と呼ばれる長い米が入っていた。

 ダニエルはスプーンを使って食べているが、アジズと俺は手で食べる。指先が熱いが、香辛料の臭いにあてられて、食欲が先に立つ。煮崩れした羊の肉が胃壁に染み入るようだ。それをダニエルは獣を見るような目をして眺めている。


「シナガワ、この黒人はインドは初めてなのか?」

「自分の国から出た事もなかったんだろうな。表を出ている時にキョロキョロしてやがったよ」

 ダニエルは聞こえないような振りをして、窓の外を眺めた。そこには月が空に横たわっている。自分の国で見る月も、異国の空で見る月も同じものだ。だが、今のダニエルには違うものに見えているのかも知れない。

 殴られた事を憤懣に思っているのか、ダニエルは一言も口をきこうとしない。圧倒的で一方的な暴力は始めてだったのか、何度も口内にできた傷を舌先で確かめている。

「そういや。マイルズの奴もデリーに来ていた。シナガワ、奴とはもう会ったのか?」

「マイルズ? あいつが来ているのか?」

「ああ、この数日前にふらりとやって来て、お前と同じようにVRにダイブしていたよ」

「そうか」

「ここの物価が高くなったとこぼしていたさ。あいつはお前とは違って、愛想がいいな。そこの坊主も見習うべきだ」

 マイルズというのは、アメリカ国籍を持った黒人で、バイオベンチャー企業に勤めていた技術者だ。笑いを絶やさない男で、誰からも好かれていた。

 彼は俺に付きまとった。周りの皆が止めておけと忠告をしていたらしいが、耳を貸さなかった。

「マイルズか」

 俺は指に着いたカレーを舐めとった。爪の間にはカレーが挟まっている。


【Supplement】

 物語中での設定や背景の説明。


【インド式昼食デリバリー:ダッバーワーラー】

 記事は昼食専用配達システム。

 物語中にある個別注文ができるかは不明。

 ただ、デリー・ムンバイ間産業大動脈構想が稼働しているなら、

 こういうビジネスは絶対にあるはずと想定。

http://dailynewsagency.com/2011/05/28/dabbawallah/


【ウェブマネーについて】

 各通貨に対してウェブマネーはレートを持っており、それは各通貨間レートと

 等しいものとなっている。

 また、企業取引などが行われている為、先物やオプションなどのデリバティブも

 存在する。

 先物などは本来予約買い付けだったものが、取引量が増えてしまっており、

 実質先物と機能してしまっている。株式、為替と同様の計算式を用いて理論価格が

 計算され、アービトラージが行われている。

 為替市場に上場しているのではなく、ネットとVR間にマーケットが形成されている。

 国境がない所にマーケットが存在し、既存マーケットに上場すらしていない為、

 金融商品取引法の対象外。(議論はされている。)

 中途半端な状態だが、投機対象となっている。


【ラッシュアウトについて】

 ゲシュタルト崩壊を酷くしたようなもの。

 認知情報処理過程において、記憶の連鎖で意味付けさせられている情報処理系が、

 本来生まれて持った器官とは異なる所から刺激を送り続けている事で不協和を起こしていると

 言われている。

 この状態になった時、感覚器官から得られた情報は個別情報として存在しているだけで、

 それらを紐付ける意味が失われている。よって処理系は、感覚器官から刺激を受けても

 認知処理が行われないという状態。

 認知が正常にできなくなっている為、めまい、吐き気などの外部症状を伴う事もある。

 VRでは感覚器官のすり替えをしているだけなので、自我をVR上で持ってきている訳ではない。

 自我は脳内に留まり続けて存在しており、あくまでも感覚器官がネット上にあるという状態が

 この舞台でのVR。

 この物語では人間の心というのを科学的に捕えきれていない。

 また、数値化する事でさえ成功していない。

 人工知能はノイマンの檻に閉じ込められたままでフレーム問題も糸口が見つかっていない。


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