~艶紅ノ節~ (三)
雅史の異変を目の当たりにした紗霧は、雅史の話し相手となることを理由に、屋敷に留まることを申し出た。それには当主も覿面に顔色を変えたが、医者としての仕事は一切しないという条件で、渋々紗霧の逗留を承諾したのだった。
その時紗霧は、当主が出した診察時の立会いをしないという文句に引っ掛かりを感じて、月村の診察を覗くことを決意する。何か当主にとって隠したいこと、疚しい事があると感じたからだ。これは医者としてというよりも、女の勘に近いものだった。
しかし周雅たちの力を借り、上手く雅史の部屋の窓まで辿り着いた頃には、既に月村の診察は終わっており、衿を直す雅史に説明をしている頃合だった。
「――経過は悪くありません。まだ暫くは、自宅での養生が必要ですが、直ぐに良くなるでしょう」
月村医師は医療器具を片付けながら、静かに話した。
「…薬の量も、減らしておきます」
不意に言われて、雅史は少し眉を上げる。何故、自分にそんなことを言うのか、分からなかったからだ。薬はいつもサヤが運んでくれているし、そもそも薬自体を雅史が手にするのは服用直前だけなのである。
視線が月村とぶつかると、小さな笑みを返された。まるで心の内の疑問を全て見透かされた気分になって、訊ねるどころか、その予想に反発したい気分になった雅史は、直ぐに顔を逸らして着衣を整えると、椅子から立ち上がろうとする。
確かに、食後や就寝前に飲む薬の量が以前に増して多く、雅史は気分が悪かった。もとより薬物の類に対して抵抗を持っていた雅史にとって、毎食後の薬の量が増えたことは拷問に近く、正直言うと月村の言葉は嬉しいものがあった。
勿論、処方に対して嫌な顔を見せたつもりはなかったが、どうやら月村には分かっていたようだ。自分の内側を覗かれた気分がして、雅史の心は複雑な心境に在った。
「今日の診察はこれで終わりです。どうぞ、お休み下さい」
いつものように、盆に用意されていた水と薬包を出され、雅史は黙って手を伸ばす。薬を飲み終えると、雅史は椅子に深く腰掛けた。
雅史は静かに目を閉じる。導かれるように、引き込まれるように身を委ねていく。段々と月村の声が志雅のものに聞こえ優しい気持ちになる。
雅史の意識は遂に手放された。
力の抜けた雅史の体を受け止めた月村は、慣れた様子で雅史を布団に寝かしつけ、部屋を後にする。
その一部始終を窓の外で窺っていた紗霧は、扉と鍵が掛けられても、暫くその場を動けずに居た。
音のみで判断した室内の様子から導き出した答えの信憑性を考え、紗霧は志雅にどう伝えるべきか悩む。雅恭たち兄弟はこのことを知っているのだろうか。そして何よりも、月村がこのような行動を取る理由に、紗霧は考えを巡らせていく。
窓の外で紗霧が頭を悩ませている頃、雅史は夢の中で、兄や若葉、そして想像の叔母と共に時間を過ごしていた。
陽だまりの中、あまりにも柔らかな空気に包まれていて宙に漂う雲にでもなった気分である。
しかし一筋の光が天を走り、一瞬にしてその場を黒雲に覆われる。激しい雨が降り頻り、傍に居た兄たちの姿を溶かして行く。雅史は急いで手を伸ばしたが、その手は届くことなく、兄たちの姿は消えてしまう。次第に雨は赤味を帯びて足元に広がった。
哀しみと恐ろしさに声も出せない中で、叫びたい気持ちから雅史は飛び起きた。夢であったことにほっとしながら、手に残る生々しい感触に震えた。頬を伝う涙を拭いもせず、雅史は弱弱しい足取りで机に向かう。そして引き出しから組紐の鍵を取り出し、胸の前で握り締めた。
――せめて母さんだけは、助け出さなければ……。
「こっちです。さ、早く」
雅史は若葉の手を取り、牢の扉から彼女を出した。
蔵から出ると、雅史は真っ直ぐに裏口を目指す。そしてなるべく早急に、屋敷の敷地から出ようと考えていた。家の者達が寝静まるのを待ったが、夜の見回りがある。それに見つかっては元も子もない。第一、雅史には先の一件で監視の目が強くなっている。部屋に居ないことが知れるのも時間の問題だろう。追っ手が来る前に、せめて身を隠せる裏山に入りたいと雅史は思っていた。
夜道に光は無く、小さな懐中電灯の明かりだけを頼りに、雅史は走り続ける。決して、若葉の腕を離すことはなく、時折振り返りながら夜道を突き進む。雑草の生い茂るその道は、雅史の腕を、脚を、頬を、まるで引き止めるかのように触れては傷を付ける。時には、足元に伸びた木の根や枯葉、湿った土が、雅史の行く手を阻むかのように足を取る。それでも、胸の痛みと朦朧とする意識を叱咤しながら、雅史はただただ走り続けたのであった。
暫く獣道を走った雅史と若葉が行き着いた先は、小さな山小屋であった。
入り口に鍵は掛かっておらず、長い間使われていない様子である。小屋の中は埃とカビ臭さを含んだ空気が漂い、天井や隅には蜘蛛の巣が掛かっている。それでも外で一夜明かすよりは、ずっと安全な筈だ。幸いにも、今夜はそれ程寒くはなく、火を起こさずとも過ごせる。雅史は夜着の上に羽織っていた着物を脱ぐと、若葉に歩み寄った。
「母さんは、此処に居て下さい。外の様子は、僕が見ていますから」
ぼんやりと格子戸の外を見上げている若葉に声を掛け、雅史は入り口の戸に手を伸ばした。返事を聞けるなどとは思っても居なかったが、それでも実際にこのような対応を受けると、寂しさが胸を駆け抜ける。以前のように接してくれとは言わないけれど、それでも平生の姿に戻って欲しいと、願わずには居られなかった。
木戸を閉め、外壁伝いに腰を下ろすと、雅史は空を見上げる。今宵の月は既に西へ沈み掛け、星の瞬きだけが見える。しかしそれも木々に囲われた限りある一面だけで、雅史の周りには闇に近い暗がりであった。
虫の声も、風の音も聞こえない深い深い静寂。
ふと、自分の首筋に手を伸ばすと、指先から脈動が伝わり雅史の脳裏に先日の一件が呼び起こされる。
徐々に失われて行く音。それに伴い大きくなって行く自らの鼓動。酸素を渇望する全身の叫びと、薄れて行く意識。体中の細胞が活動を止め、眠り始める気配に漂いながら、ただ首筋から伝わってくる若葉の体温を感じていた。今でも思い出せる。直前に見た瞳が、ひどく優しかったのを。
閉じた瞼の向こうで、若葉がどのような表情を見せていたのか、雅史は知らない。自分の頬に零された一滴の涙。その冷たさだけが、今の雅史を支えていた。
「…母さん…」
膝を抱えて、雅史は応えの無い言葉を呟く。それは夜風に流され、木々のざわめきに掻き消される。後には虫の音だけが響いている。
雅史は知らぬ内に、袖口を濡らしていた。
いつの間にかまどろんでいた。
何処からか人の声が聞こえ、雅史は顔を上げる。周囲を見回しながら耳を欹てる。そして小屋を振り返ると雅史は急いで中に居る若葉の元へ走り寄った。
若葉は土間の辺りで横になっていたが、雅史が声を掛けるとゆっくりと身を起こした。しかしその腕を引き上げる前に、雅史の耳には自分達を捜す声が入り、雅史は独りで小屋の外に向かった。自分の耳が確かならば、捜す者達の中に兄が居る。兄たちなら、自分の話を聞いてくれるかも知れない。そうすれば、若葉だけでも逃がすことが出来るかも知れない。たとえ見つかっても、自分だけならばまだ若葉を逃がす方法はある。雅史は思い切って木戸を開けた。
しかし運悪く、雅史が声のする方へ向かおうとした直後、その背に声が掛けられた。振り返ると其処には、家人を連れた家令の姿が在った。
「お捜し致しましたよ。御館様も心配なさっておいでです。さ、我々と一緒にお戻り頂きましょう」
相変わらず感情の窺えない声音で家令が言うと、控えていた家人達が雅史の腕を掴む。元より逃げる気はなかった雅史だが、彼が相手では話を聞いて貰うことは不可能だ。
それならば自分が囮となってこの場から離れた方が賢明だろう。
彼は必ず自分を追う筈であるから。
雅史は隙を見て再び走り始めた。
そして案の定、家令は雅史を捕まえるために家人達に追わせる。
だがその一方で、後から来た者たちに小屋を捜すように命じていた。
「止めて下さいっ!」
雅史は掴まれた腕を振り払うのを止めて、小屋に向かう男達に向かって叫んだ。必死に声を張り上げるが、まるで聞く様子を見せない男達に、雅史は絶望を感じる。
それでも何度も何度も、雅史は制止の声を上げ続けた。
このまま喉が潰れても構わないと思いながら、何度も、何度も。
そんな雅史の眼の前に、若葉が姿を見せた。手を縛られ、両脇を家の者達に抑えられながら、若葉は小屋から静かに出て来たのである。抵抗する素振りも見せず、相変わらずぼんやりとしているように雅史の眼には映った。
しかし、連れ出されて近付いて来た若葉と目が合った瞬間、雅史はその眼が正気であることに気付く。
真っ直ぐと自分に注がれる視線は以前のような優しいものではなかったが、確かに若葉は正気の様子で家人達に捕らえられていた。
「…母さん…?」
「…いくら月の明かりがあるとしても、夜の散歩は感心できませんわ。雅史さん」
にっこりと微笑まれ、まるで全ての音を奪われたように、雅史の耳には若葉の声しか響かなかった。
「所詮、子供のお遊びでしょう」
全身を氷柱で射抜かれた気分だった。何を言われたのか直ぐには理解できず、呆然とするばかりだ。
ようやく理解できると、雅史は耳の奥でこだまする若葉の声に、言葉に、まるで吸い取られてしまったかの様に体中の力が抜けていくのを感じ、そして地面に崩れた。
「…僕は、何に縋って生きて行けば良いのですか…」