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吟於霄  作者: 智郷樹華
本編
8/14

~艶紅ノ節~ (二)

 数日が経ち、雅史の強固な姿勢に折れたのか、父である当主は遂に紗霧を呼び戻す決断をした。

 このことには雅恭たちの言葉もあったが、何よりも月村医師本人の口添えがあってのことだった。

 しかしそれらは全て伏せられ、表面的には父親が息子の我侭に譲歩した形となっていた。

 そんな背景もあり、紗霧は屋敷に呼び出された時、長男が帰ってきたのかと思った。でなければ、裏があるとしか考えられない。そのうえ診察の為でないと言われれば疑うなという方が無理だ。

 雅史の部屋に通されても、紗霧の疑念は晴れなかった。

 当の雅史が自分を見た時、驚いた表情を見せたからである。

「どうして、先生が…?」

「サヤを見に来られたそうです。御館様からお許しは頂いておりますが、長居はご遠慮下さいませ、嶋田先生」

 雅史の問いに答えたのは、紗霧を案内した家令である。そしてお茶を置くと、一礼して室を出て行った。

 紗霧は一先ず居住まいを正して、雅史の前に座すことにした。

「……サヤを知っているのですか?」

 雅史は素直な口調で疑問を口にしていた。当然な質問である。これまで一度たりとも、そのことに触れたことはなかったのだから。

 出来ることなら、触れずにいたかったことでもある。

 紗霧はにわかに眉を顰め、視線を逸らした。微かな舌打ちさえも聞こえてきそうだが、それでも口元には笑みを浮かべて、雅史の問いに答える。

「彼女は、私の妹の異母妹にあたる」

 言葉の端に引っかかりを感じて、雅史は微かに眉根を動かした。

 しかし紗霧は意味あり気な視線を残しただけで、口を閉じる。これ以上は詮索するな・と言うことらしい。

 自分の物差しで測ってはならないことくらい、雅史にも解ってはいるが、それでも血の繋がりに意味を見出したいと思う気持ちは抑え難かった。

「――ところで、その首の包帯は何だ?」

「あ、これは…少し……。それよりも、兄さんは元気ですか?」

「在原には、連絡をした。だがまだ返事は来ていない」

「そうですか……」

「何か伝言があれば、伝えておこう」

「いえ、少し気になっただけですから」

 雅史は先日父から聞いた言葉を思い出す。

 兄は家には一言も連絡を入れていないという。

 一体兄は、今何処に居るのだろうか。

「――そう言えば、裏庭の楓の木は伐ってしまったんだな」

「え…? どうして、それを?」

 不意に振られた話題に、雅史は疑問を覚える。

 裏の楓と言えば、屋敷内に一本だけしかなかった木で、紗霧がこの家に出入りした頃には既に伐られていた筈だ。

「あ……まあ、雅恭たちに聞けば知れてしまうことだから言うが、私は幼い頃、在原家の屋敷で数日過ごしたことがあるんだ」

「話を聞いても、良いですか?」

 紗霧は、じっと雅史の瞳を見つめた。

 深淵たる双眸の奥に見える微かな光を雅史の正気であると信じ、紗霧はゆっくりと口を開いた。

「……あれは、君が生まれる以前の話だ。私が在原家を初めて訪れたのは、雪の降り頻る寒い日のことだった。私は母に手を引かれ、屋敷の門を潜った。…その頃は、先代である君の祖父が御当主であったが、既にお父上は事業を確立し、後継者として周囲からの信望も篤かった。だが、私と母が在原家を訪ねたのは、お父上に会うためではない。母の友人である在原ミヤビ――君たちの叔母に当たる人物に会うためだった。正確には、私の叔母・ミツコさんを介してミヤビさんと会い、ミヤビさんの助力を願ったというのが本当だ。そして二人の力を借りて、母は鴫原の家から出ようとしていた」

 紗霧は重い記憶を脳裏に甦らせながら、瞳を閉じる。

 伏せた睫が微かに揺れて、再び瞼が開かれた時には、紗霧の視線は窓の外に向けられていた。

 雅史はその淡々として語られる昔話に、妙な息苦しさを覚えながら耳を傾けた。

「…当時私は何のために在原家に来ているのか解らず、単に、母の友人宅に滞在する旅行か何かと思っていた。そしてそこで、君の兄たちと出会った」

「ユキナリ兄さんと、ナリチカ兄さん…?」

「そうだ。二人が私の遊び相手をしてくれたんだ。歳も近かったし、私も男勝りなところがあったから、話が合ったというのもある。だがそれよりも、私たちを繋げていたのは二人の叔母であるミヤビさんの力が一番だったと思う。丁度その頃、君のお父上は新しい奥さんを迎えたばかりで、兄弟の面倒は先代の妻――君の祖母とミヤビさんが、見ていた。きっと、ミヤビさんに母親の面影と重ねていたんだろう。かくいう私も、母には甘えられない寂しさをミヤビさんに救ってもらっていた口だ」

 次第に視線が和らぎ、紗霧の口調も穏やかになっていたことに雅史は気付く。

 薄く口許に浮かんだ笑みが、とても安らかな表情を見せており、雅史は寸分の驚きを覚えながら、紗霧を見ていた。その記憶が紗霧にとって、決して苦いものではないことをその姿は物語っていたのである。

 しかし一度目を伏せると、紗霧の眉間には深い皺が刻まれていた。

「その後、私と母は桑折コオリ家で世話になることとなり、在原家を後にした。それからしばらくは、桑折の家で暮らしていたんだ。前ほどではないにしろ、決して不自由なものではなかったよ。何よりも、母がよく笑っていたからな、あの頃は……。だがそれも長くは続かず、私は鴫原シマバラの家に引き取られることになった。皮肉なことに、その日も雪が降る冬の日のことだったな。……それから私は鴫原家の人間として医師を目指すことになる。鴫原の家に入った時には既に、ミツコさんは他所に嫁がれていたし、在原家との関係は破綻に近い状態だった。理由は…知らなかったが、正直私はそれよりも、自分が鴫原家に認められることに躍起になっていて、在原家のことを気に掛ける余裕はなかった。その後君の兄たちと再会し、幼少の思い出を甦らせ、今に至る」

 紗霧は薄く口許に笑みを浮かべて、雅史を見る。その視線は普段とは異なり、どこか哀切にも似た雰囲気を漂わせ、鋭さよりも柔らかさを感じさせる。

 雅史は、何か口にしようと思ったが、声にはならず唇だけが微かに震えただけだった。

「…やはり、血縁者なだけある」

 ふと、紗霧が雅史の頬に触れて呟いた。

「君の眼は、ミヤビさんによく似ている。淡い色の虹彩も、優しい眼差しも……」

 これ程の至近距離から紗霧に見つめられるのは初めてで、雅史は驚きを隠せなかったが、紗霧の視線が自分を通して別の人物に向けられているものだと分かると、気恥ずかしさよりもその人物に対する微かな羨望さえ覚えた。

 自分の叔母に当たる人物であり、志雅や雅恭にも慕われ、そして紗霧にとって特別な存在である、ミヤビという名の女性。会ってみたいと思う反面、自分に似ていると言われ、どこか親しみを感じる。

 しかし雅史の胸の中には、小さな不安も芽生えていた。それは自分が心から尊敬する兄・志雅も、紗霧と同じ気持ちで自分を見ていたのではないかという途方も無い考えだった。

 雅史自身、何故そのような考えが浮かんだのか解らず、不思議に感じていた。

「…すまない。昔の話をしていたせいか、君がミヤビさんに見えてしまう。会えないと理解しているのに……」

「どうして、会えないのですか?」

 雅史の掠れた声が口から零れると、紗霧は反対に驚いた表情を見せた。

「聞いてないのか? ミヤビさんは既に亡くなっている」

 何と無く予想をしていたことであったせいか、雅史はあまり驚いた表情を見せなかった。否、実際は表情を大きく変えられるほどの力が、雅史には無かったのである。感情の起伏も、まるで薄く、ぼんやりとしているように見える。そのため紗霧には、雅史がミヤビのことを知らなかったことよりも、雅史の体調の方に関心が向いていた。

「大丈夫か? 具合が悪いのなら、今日はこの辺で――」

「待って下さい」

 紗霧が話を止めて腰を浮かす。すると雅史は、その腕を掴み引き止めた。

 正確には、紗霧が体温を測ろうと伸ばした手に、雅史の手が触れた程度なのだが、雅史の必至の様相に、紗霧は再び椅子に腰掛ける。

 それを見止めた雅史は、小さく息を吐いて頬を緩ませた。

「まだ、大丈夫ですから…。もう少し、聞かせて下さい」

「君がそう言うのなら…」

 触れた掌から感じた体温に、僅かに眉根を寄せながらも、紗霧は雅史の言うことを聞いた。それは、今までには見せなかった、雅史を甘やかす一面だ。

 雅史は弱く微笑みを返し、感謝の言葉を口にする。しかしそれも、蚊の飛ぶような小さな声で、紗霧は益々不安を募らせていく。初めて雅史を診た時でさえ、これほど脆弱な様子ではなかった。だからこそ、できるだけ長く雅史の様子を見ようと、この場に残ったのかも知れない。

 その時ふと、雅恭が言った言葉が脳裏に浮かび、紗霧は言葉に含まれた真意をようやく理解した。「雅史の様子がおかしい」この言葉は間違いなく、病的な理由を指すものではなかったのだ。雅史の体調の変化が、身体を蝕む何かが、雅恭にはおぼろげにでも見えていたのだろう。だからこそ、自分に診察を依頼してきたのだ。

 唐突に、紗霧は雅史の身体を診る使命感のようなものを覚えた。

「――で、何が聞きたいんだ?」

 なるべく不自然にならぬよう努めながら、紗霧は雅史の手首に手を伸ばす。

――脈はまだ、正常な範囲だ。

「…僕の、叔母に当たる方の話を…。どのような方だったのか、もう少し聞かせて下さい」

「ミヤビさんのことは、私よりも君の兄上たちに聞いた方が正確だと思うが…。私の見解でも構わないか?」

 コクリと、雅史は頷きを返す。

「そうだな…。外見は、先にも言ったが、君に似ている。眼差しが特に。何年も前の記憶であるから信用に欠くと思うが、それでもミヤビさんは美しい人だった。いつも笑顔を絶やさず、柔らかな印象を持っていた。それによくぼんやりとしている人で、一緒に走り回っていたというよりも、私たちが遊んでいるのを側で見ていることが多かった。そしてとても思慮深い人で、言葉も優しく、周囲の人からも大変慕われていた。いつだったか、私たちが座敷で遊んでいたときに、不注意から花器を割ってしまったことがあったんだが、その時ミヤビさんは、私たちを頭から叱ることなどせず、理由を聞いてくれた。そのお蔭で厳しく叱られることもなく済んだ。先代御当主を始め、家人の方達は皆ミヤビさんには弱くてね。使用人の中にも、ミヤビさんに助けられた者は多かったと聞いた。それだけ、聡明な人物でもあったということなんだろう」

 雅史は紗霧の語る雅という女性を脳裏で想像する。そして聞けば聞くほど、実際の叔母に会いたいと思い、同時に残念だと思う。

 もしこの場に叔母が居たならば、自分にどんな言葉を告げただろう。どんな風に、今の在原家を思うことだろう。そう考えるたびに、雅への想いは膨らんでいった。

 雅史が雅へ想いを馳せているとき、紗霧は雅史の表面上の容態を診察していた。顔色を始め、脈拍や体温、眼の充血などを見ながら、紗霧は雅史の体調変化の理由を探り続けた。しかし、次第に瞼を閉じている間隔が長くなり、雅史の意識が朦朧とし始めたことに気付き、一層頭を悩ませる。その様子が、まるで強い睡魔に襲われているかのように見えたからだ。これでは病気というより、睡眠薬の服用による症状のようにも見える。

「大丈夫か…?」

 気になって声を掛けてみると、雅史は瞼を閉じたまま、小さく唇を動かす。

「…僕も、お会い、したかった…」

 消え入るように呟かれたその言葉は、ほとんど寝言に近い状態で、そのまま雅史は眠りに着いてしまった。この様子は、幼子がお話の途中で眠ってしまうのと大差無い。

「…雅史君…?」

 もう一度声を掛けてみたものの、やはり返されるのは静かな寝息であった。

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