表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
吟於霄  作者: 智郷樹華
本編
6/14

~瓊簪ノ節~ (三)

「雅史の様子がおかしい」

 唐突にそう切り出したのは周雅チカマサであった。

 室内に居た雅恭ナリチカ雅匡マサタダが振り向くと、周雅は後ろ手に障子戸を閉め、秀麗な眉を歪めている。今夜は周雅が訪ねた日なのだが、どうやら部屋で何かあったようだ。

 二人が話を聞くと、周雅は頼まれた書物を届けるために多少約束の時間からは前後したものの、新しい主治医の月村が部屋を出た後、頃合を見計らい部屋へ向かったという。しかし行ってみると室内に明かりは無く、返事も無い。何度か声を掛けたものの、仕方なく周雅は一度引き返すことにした。そして再度夕食後に訪ねてみたが、またしても室内は暗がりの中。無駄と承知で声を掛けてみれば、今度は夢うつつで対応に出たという。

「――前は、そんなことはなかった。話の途中で寝入ることなんて以ての外だ。雅史は、決してそんな奴じゃなかった」

 どこか苛立たし気に言い捨てて、周雅は窓辺に腰掛けた。

 確かに、以前の雅史ならば約束を忘れることなどせず、むしろ自分達の方が忙しさに忘れてしまうことが多かった。そして何よりも、屋敷内に独りで居る時間の長い雅史は、兄たちの話を楽しみにしている様子で、話し始めればなかなか放してくれない程だった。

 そんな雅史が、話の途中で眠ってしまうというのは余程のことだ。いくら身体が弱っているとは言え、礼を失する態度は取らない人柄であっただけに、周雅も異変を感じたらしい。無論、それは雅恭や雅匡にとっても同じである。それぞれが出向いた時に受けた雅史の印象が、周雅のそれに近かい覚えがあった。

「確かに、最近の雅史は意識の薄い感じがするな……」

「アレは、体調の所為に思えないんだが、二人はどう思う?」

「俺は、雅史にも色々あったようだし、心労から来ていると思う。周雅兄は?」

「俺も最初はそう思っていたんだが、どうも違う気がする。恭兄はどう考えているんだ?」

「二人の間。心労も考えられるが、他の要因もあるだろう」

「雅恭兄の言う他の要因って、何?」

「新しい医者。そうだろ、恭兄?」

 周雅の推察に、雅恭は黙って肯きを返した。



 兄たちが自分の様子を気に掛けている頃、雅史は必死に机の中を漁っていた。雅史の推測が正しければ、蔵の鍵を自分は持っている筈なのである。

 以前――長兄が家を出る時に、雅史は二本の鍵が結わえられた組紐を手渡された。その鍵には確かに、鶴の紋様と梅の紋様がそれぞれに刻まれていた。貰った当初に、その細工の美しさに惹かれて何度も見ていたから、間違い無い。

 そして若葉の食事はいつも執事が持って行くということと、執事の腰から下げている鍵束の一つに、それと同じ紋様の鍵が付いていたことの二つを合わせれば、おそらく雅史の考えは外れていないだろう。

「――あった…!」

 引き出しの奥の小箱の中に、其れはあった。

 組紐の両端に結わえられた二本の鍵は、雅史の記憶通りの姿である。翼を広げる鶴と梅の花。雅史は鍵を両手で強く握り締めた。

 そして次の日の夜、雅史は食事を片付けに来たサヤが廊下を遠ざかって行く足音を聞くと、布団から出た。

 決行は今夜。他には考えられなかった。

 急いで窓辺に寄り、窓を開ける。吹き込む夜風の冷たさに身が引締まる思いを感じながら、雅史は意を決して窓から庭へと降り立った。裸足の足にヒンヤリとした土の感触が広がり身を竦めるが、直ぐに気を取り直して雅史は目的の場所へ向かった。



「――こんなところに居たのか、二人ともっ」

 廊下から慌しい足音を響かせてやって来た雅匡は、障子戸を開け放つと、室内に居た二人の兄に事態を報せた。

「大変なことになった、雅史が部屋に居ない!」

「何だと!?」

「家の者には聞いたのか?」

 驚きに声を上げる周雅を制し、雅恭は冷静に事態を受け止めて雅匡に部屋の様子を尋ね始める。

「食事はサヤが持って行っているし、その時は確かに居たそうだから、ここ数分の間に、抜け出したようなんだ。鍵は時間通りに返されていて、入り口の鍵も閉まっていた」

「ということは、雅史は窓から出たというのか…?」

「じゃあ、早く捜しに出ないと――」

「待て。闇雲に出て行っても、家の者達に見つかる。これは、俺たちで何とかした方が雅史の為にも良いだろう。雅史が向かった先に、少し心当たりがある。俺はそっちに向かう。周雅と雅匡は、一先ず他の者達に事態がばれないように、何とか隠し通してくれ」

「解った」

「こっちは任せてくれ。雅史を頼む、恭兄」

 三人は部屋を出て、それぞれ別方向に向かった。

 周雅と雅匡は離れへと続く渡り廊下へ向かい、雅恭は北廊下へと向かう。

 今日は運良く父親の帰りが遅い。しかし薬の時間までに雅史を見つけなければ、いくら二人が頑張ろうとも、執事に見つかってしまうのは必至だ。そうなれば今よりもずっと厳しい監視下に雅史が置かれるのは眼に見えている。何としても、時間前に雅史を部屋に戻さなくてはならない。雅恭は、ただ一心に奥屋敷を目指した。




 奥屋敷の一角に在る蔵の前に辿り着いた雅史は、握り締めていた鍵を扉に掛けられた南京錠の鍵穴に差し入れた。

 右に回すとカチリと音を立てて、鍵が外れる。

 雅史は一度深呼吸をして、重い扉を引き開く。

 中からかび臭い空気が流れてきて思わず顔を逸らすが、雅史はゆっくりと中の様子を窺った。

 明かりは外から差し込む月明かりだけ。奇しくもこの日は、満月であった。

――この中に、あの人が居る。

 雅史は兄から聞いた情報を頼りに、母・若葉の姿を蔵の中に探した。

 一階には古箪笥や柳行李が並べられており、薄暗く、人の気配など無い。雅史は壁際に階段を見つけ、二階に上ってみた。梯子のように急な階段を上がると、和箪笥と棚が見え、一階の様子と変わらないと思う。しかし、上り切ったところで雅史の目に飛び込んで来たのは、木格子で区切られた座敷牢のような一間であった。その中に、若葉の姿を認めた雅史は、急ぎ格子の前に駆け寄った。


「…母さん…っ」


 雅史は不思議なくらい自然に、その言葉を口にした。

 木製の格子から覗いた母の姿は、高窓から差し込む月明かりに照らされて、妖艶さを際立たせていた。そして何よりも、若葉の格好に雅史は目を逸らしたくなった。

 崩れた帯と、乱れた襟元。整えられていた黒髪は乱雑に解け、結い紐だけが、かろうじて若葉の頭に見て取れる。はだけた裾から覗く白い足首と膝から太腿に至る脚線から、かつて口付けを交わした一刻が呼び起こされ、雅史は胸に痛みを覚えるが、軽く頭を振ってその残像を払い、今度ははっきりと、若葉を呼ぶ。

「母さん、助けに来ました。…母さん」

 おもむろに若葉は首だけを動かし、格子の前に立つ雅史の方を向いた。その眼に自分が映っているか定かではないが、それでも雅史は自分の呼び掛けに応えてくれたことに、頬を緩める。

 焦点の合わない、光の薄いその眼が、何を見ているのか知らぬ内に、雅史は鍵穴に鍵を差し込んだ。

 錆付いた音を立てて、鍵が外される。牢の格子戸を開き、声を掛けるが、若葉はまた外を見上げ始めていた。

「…母さん?」

 雅史は微かな不安を覚えて、牢の中に踏み込む。

「何を、見て居るのですか?」

 努めて優しく、声を抑えて訊ねてみる。答えは無い。

 雅史は一歩、若葉に近付く。

 相変わらずぼんやりとして座り込んでいる若葉の側に膝を付き、もう一度声を掛ける。しかしやはり応えは無い。雅史が近くに来たことに気付く素振りも見せず、若葉は外を見上げ続けていた。月影でも見えるのだろうかと、雅史も倣ってみるものの、高窓の枠から窺えるのは、一欠片の夜空だけ。星の輝きがせめてもの救いで、木々の姿さえ認めることはできない。雅史には見えない何かを、若葉は見ているのかも知れない。

 普段ならそのような姿も愛らしく思われるのだが、今は家の者たちに気付かれる前に、若葉を此処から出さなければならない。そのために、雅史は来たのだから。

 雅史はもう一度、声を掛ける。今度は少し首を傾け、若葉の視界に入るように身体を寄せ、そして若葉の肩に手を乗せる。その瞬間――

「――っ!!」

 強い力で腕を払われ、そのまま肩を掴まれる。突然の出来事に驚いている間に、雅史は若葉に押し倒されていた。

 激しく床に叩きつけられ、後頭部に鈍い痛みが走る。同時に肩に乗せられた腕から体重を掛けられ、押さえ込まれる。雅史は頭と肩、背中の痛みに顔を顰めた。腹部には片膝を乗せられ、身を起こすこともできない。

 息苦しさも伴い、雅史が口から息を吐くと、頭上から小さな笑い声が零れた。

 雅史はそれを単なる気のせいだと思いたかった。しかし見上げた先に在る若葉の表情は、小さく笑っていた。

 月明かりにも眩しい妖艶な唇は、笑みの形に歪められ、白い頬は上気したようにほんのりと染まっている。

 けれども、何故だかその顔が雅史には泣いているように見え、息苦しさよりも、強い哀しみを覚えた。

 雅史の視線からその感情を感じ取ったのか、若葉は一瞬眼を見開き、次いで感情を押し殺したかのように、冷たい視線を雅史に注ぐ。そして指先に力を込めた。



 若葉の顔を見上げながら、雅史は身体の力を抜き、瞳をゆっくりと閉じる。

 心は決まった。

 それまでの恐怖心などどこかへ去ってしまったように、気持ちは穏やかになる。

 意識が遠のき始め、よいよかと思った瞬間、頬にひんやりとした感覚が広がった。

 雅史の頬を伝い、耳の辺りまで流れたそれが涙であると知ったのは、瞼を開いたその前に、影を帯びてこちらを見下ろす若葉の目に浮かぶ雫が、眼に入ったからである。

 雅史は自分の上で涙を流す若葉を見詰めながら、首に伸ばされた小さな震える手にそっと触れ、そして言った。

「母さん…。…あなたになら、この命も惜しくはありません」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ