~瓊簪ノ節~ (二)
紗霧が解雇され屋敷から出された後、雅史の元に新しい医師が父に伴われてやって来た。
月村という名のその男は、紗霧ほどではないにしろ、歳若く整った顔立ちをしていた。
けれども雅史に向けてくる視線には、何か陰のような裏を含んだものが窺え、表情も作り物染みた薄い笑みが浮かべられていた。
そのことに雅史は嫌な気がしたが、父の決定事項に反抗することもできず、月村医師の診察を受ける他なかった。そして言葉を交わす内に、始めのころ感じていた嫌な感じは懐かしい気持ちに隠されて行った。
何故なら月村の放つ空気が、長兄のそれに似ていたからである。
また、月村の視線の中に時折見られる柔らかいものを見つけた雅史は、以前の医者とは違う人物であることに、少し安堵していた。
寡黙で、自分の役目を忠実にこなしていく。変に詮索しようとすることもなく、診察が終わると直ぐに部屋を出て行くので、助かると言えば助かる相手である。
ただ一つ難を言うとすれば、薬の量が増えたことくらいだ。その他は、紗霧の診療と何ら変わりはなかった。少なくとも雅史には、月村の姿はそのように映っていた。
それから数日の間、雅史はずっと独りで部屋の中に居た。
何するでもなく、ぼんやりと外を眺め続けた。晴れの日も雨の日も、ずっと窓辺に腰掛けて空を見上げていた。
始めの頃は、何かと理由を付けて部屋の外に出ようとしたが、自分に許されたのは離れの一角のみで、それも目付け役を伴ったものだ。毎日決まった時間にやってくる月村医師と家令の老人、それから身の回りの世話をするサヤとしか、雅史は会うことができない日々を送っていた。
そんな或る日の夜、雅史の身に異変が起きた。
体中から力が抜けて眩暈を覚えた瞬間、意識を失った。
直前に感じたものはどこか眠気に似た感覚で、ひどく安らぎを覚えた。しかし意識を保つことのできないその波に呑まれ、雅史は崩れたその場所で、身体を丸め込んでいった。
どれ程の時間、そうしていたのか分からないが、雅史を気付かせたのは来訪者の声だった。
それは直ぐ上の兄・雅匡である。
雅匡は夕食後、庭を伝い雅史の部屋にやって来たのだ。そして何度か声を掛けた後、僅かに開いていた窓から室内を窺った雅匡の目に飛び込んで来たものは、畳の上でうずくまる弟の姿であった。
「――雅史っ!」
窓枠に脚を掛け中に入り直ぐ様駆け寄って声を掛けるが、返答は無い。険しく眉根を寄せ、額には玉の汗が滲んでいる。顔色も、室内灯に照らされているだけでも、蒼白として生気が少ないのが分かる。まるで蝋のように白い肌が、血の色を忘れて白く発光しているかのようだ。そして触れた身体は氷のように冷たく、雅匡は不安に駆られた。顔を近付けて呼吸を確かめると小さな息遣いが感じ取れ、微かだが、雅史はその唇を震わせて言葉を口にした。
「…兄、さん…」
雅匡はそれが雅史の応えだと思い、もう一度声を掛ける。
「雅史、大丈夫か。俺が分かるか、雅史」
「…兄さん…?」
「そうだ。お前の兄だ。分かるんだな、雅史」
雅史の肩を揺するようにしながら、雅匡は声を掛ける。今度は、言葉ではなく肯きを返された。薄くではあるが、雅史の瞼も開き、その眼には自分の姿が映っている。
雅匡はようやく安堵の息を吐くが、雅史の方はまだどこかぼんやりとしている。こちらの声に応えてはくれるが、条件反射とでもいうのか、ちゃんと頭脳を通して出された応えではないような感が強い。再び困惑の色を浮かべて、雅匡は支えるように雅史の背中に手を伸ばす。腕に掛かる雅史の身体は、とても軽く感じられた。
紗霧が解雇され、雅史の新しい主治医として入った男に、雅匡はまだ会ったことが無い。兄である雅恭と周雅が遠目に見たというのを聞いたくらいで、名前も覚えてはいなかった。しかし雅史がこのような状態であるのならば、呼ばない訳にはいかない。自分が窓から入ったことも忘れ、雅匡は連絡を取るため人を呼ぼうとした。だが声を上げる前に、雅匡の腕を雅史が掴んだ。
「…兄さん…」
微かな声に呼ばれて雅匡が顔を向けると、雅史は小さく首を振った。
それが人を呼ぶなという意思表示だと気付き、雅匡は口を閉じる。すると険しかった雅史の眉が解かれ、ほんの少し、口許に笑みが浮かべられた。
雅匡は少し気に掛かってはいたが、雅史の体を持ち上げると、窓辺の椅子に座らせた。
夜風を受けた雅史は、心地よさそうに瞼を閉じて呼吸を整える。それを傍らで見詰めながら、雅匡は雅史の回復を待った。
どうしてこんなことになったのか、若し雅史が理由をしっているのなら、教えて欲しい。その為に自分は部屋に来たのだから。雅恭も周雅も、心配している。そして紗霧も、雅史の様子を気に掛けているのだということを、雅匡は雅史に伝えたかった。
「…兄さん、どうして此処に…?」
気分が戻ったのか、雅匡の方に視線を注ぎそう尋ねた。
「お前が突然倒れたって聞いて帰ってきたんだが、部屋には通してもらえなくて、窓から入らせてもらった。雅恭兄も周雅兄も心配している。何かあったのか、雅史」
兄の問い掛けに答えが見付けられず、雅史は口を閉じる。理由は解っている。否、解っているつもりであった。しかしそれを口に出来る程、雅史は強くなかった。
「…嶋田先生が辞められて、新しい医者になったそうだが、そいつとは上手くいっているのか?」
黙り込んだ雅史に、雅匡は話題を変える。雅史にとって、今回の件は辛いことに他ならないのだと考えたのである。
「…はい」
「そうか。体の方はどうなんだ。親父に聞いても何も教えてくれないし、家の奴らは皆、知らない・の一点張り。実際、体調は良くないのか?」
「……。少し気が滅入ってしまって。でも、直ぐに良くなると月村先生は仰っていました」
「ツキムラ…? それが新しい医者の名前か?」
「はい。子供の頃の先生に比べれば、良い先生です」
「それは良かった。…お前には辛いかも知れないが、親父の怒りはまだ続きそうなんだ。俺たちともなかなか会おうとしないし、お前と会うことを禁じている。雅恭兄がなんとか話をしようとしてくれているが、望みは薄そうだ。でも、俺たちがお前の兄であることに変わりは無い。何か力になれることがあれば、遠慮なく言えよ」
「ありがとう、兄さん」
雅匡は柔らかく微笑んで、雅史の肩に手を乗せる。兄の温もりが伝わり、雅史はぎこちなく微笑みを返した。
「――お前さえ良ければ、雅恭兄たちとも会わないか?」
「…だけど、父さんが許していないのに、大丈夫?」
「心配は要らない。勿論、表立ってという訳にはいかないから、今日みたく窓からってことになると思うんだが……」
「でも、もし見つかってしまったら兄さんたちにも迷惑が」
「何時でもってことじゃないし、見つかったらその時はその時。俺たちのことは心配するな。上手く立ち回って見せる」
「兄さん…」
「お前自身は、どうなんだ? 嫌か?」
雅史は首を振った。嫌な筈は無い。むしろ嬉しい申し出である。
この部屋から滅多な事では出られない身となり、離れの敷地ですら自由にならない状態では、気に掛かることばかりが頭に浮かび、悩むことしかできない。今だって、兄の顔を実際に見ることができてどれ程嬉しかったことか。いくら月村の診療が不快でなくとも、自分を囲む環境を変えられるのならば変えたい・というのが本心である。
再び雅匡に尋ねられ、雅史は逡巡した後、兄の申し出を受けた。
その日を境に、雅史の部屋には三人の兄たちが交代で部屋を訪れるようになった。無論、窓からの人目を忍ぶ訪れではあったが雅史の心は、ずっと軽くなっていた。
しかし、それも若葉の近況を聞くまでの短い間に過ぎない。
雅史が胸中で燻っていた事柄を次兄・雅恭に尋ねた時から、その穏やかな時間は全て塗り替えられていったのである。
意を決して、なるべく怪しまれぬようにとして雅史が聞くと、兄の口からは母の姿をここのところ見ていないと返された。
あまりのことに、雅史は一瞬気を失いかけた。それからというもの、若葉の身が気になって眠ることもできなくなり、雅史は兄に会う度詳細を訊ねるのであった。
そんな或る日の夜のこと、不意に自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、雅史は目を覚ました。瞼を開けると見慣れた天井が見え、体にはきちんと布団が掛けられている。まだはっきりとしない意識の中で目を動かし、辺りを見回す。するとまた、声が聞こえた。
「……雅史。聞こえるか、雅史」
ようやく身体にも力が入るようになり、身を起こして声のした方を向く。すると枕元の窓に、人影が在った。
「…兄さん…?」
窓辺に近寄り、確認するように呼び掛ける。応えを待ち、窓を開けると、其処に立っていたのは次兄の雅恭であった。外から直接来たのか、雅恭は外套を纏ったままの姿である。
「悪いな、眠っていたのか?」
「少し……」
雅恭の問いに答えたものの、雅史には自分がいつ眠りについたのか、確かな記憶がなかった。
「顔色が悪いな…。大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。どうぞ、上がって下さい」
雅恭が部屋に入れるようにと窓から離れようとしたが、その前に呼び止められる。
「いや、手短に済ますから、そのままで聞いてくれ。お前が気にしていた若葉――母さんのことだが、どうやら今は奥屋敷の蔵の方に居るようだ」
「蔵…?」
「ああ。お前は知らないかもしれないが、母屋から北廊下を渡った所に在る奥屋敷の一角で――本当に大丈夫か、雅史」
雅史の顔色が変わったことに気付いた雅恭は、それが病からくるものだと思い、話を止める。しかし雅史の頭では、若葉が蔵に閉じ込められていることだけが廻っていた。
「雅史、一先ず横になって居た方が良いだろう。また明日にでも来るから、今日のところはゆっくり休め」
雅恭に促され、雅史は小さく頷きを返して窓から離れた。
その背を見送ると雅恭は外側から窓を閉め、裏庭を通って玄関へと向かう。雅史の様子を思うと、その場を離れ難いものがあったが、あまり長く居ては返って身体に障ると考えた結果の行動であった。