~瓊簪ノ節~ (一)
夢の崩れる音がした。
音という音が全て吸い込まれるような感覚で、耳が痛む。
想像していたよりもずっと静かで、ずっと怜悧な音。雅史は暫くその音に包まれていた。
めまぐるしく変わり行く光景に、雅史は意識が流されるのを感じて必至にそれから抗おうとする。両手を握り締め、爪が掌に食い込んで血が滲もうとも、その痛みから現実であることを確認することの方が、余程怖かった。
自分が今、家人の男達に両腕を捕らえられて、自室に戻されているという事実と、そうなった発端の出来事を、思い出すことができなくなる程に、雅史を苦しめるものがあった。それは、雅史の目の前で父が発した言葉。
「若葉を捕らえろっ!」
途端に、雅史は自分の口にした言葉が災いを呼んだことに気付いた。
それも、自分だけでなく想い人にまで及んだことを確信したのである。
父への諫言も虚しく、自分の声は荒々しく怒りに満ちた父の声に掻き消され、同時に雅史は座敷から引き摺り出されていた。
その横を父に呼び出された家人達が行き交い、中には自分の世話係であるサヤも居た。
サヤとは一瞬だけ目が合ったが、直ぐに父の居る座敷へと消えて行った。
何が起こるのか雅史には想像も出来ず、自室に入れられても直ぐにまた、部屋から出ようとした。
しかし――
「御館様の命により、お部屋に鍵を掛けさせて頂きます」
能面のような顔をした家令が、儀礼的に頭を下げてそう告げた。
その直ぐ後ろでは、工具箱を片手にやって来た男衆が戸の辺りで仕事を始めている。
雅史は言葉が出せなかった。声も、まるで吸い取られたかのように発することが出来ず、呆然として佇むばかりだ。
「これからは、御食事も係りの者が参ります故、お部屋にてゆっくり養生なさって下さい」
雅史を寝屋に押し込め、執事は室から出て行く。こちらの質問には一切答えようとはせず、まるで聞こえてもいない素振りを見せた。
それが平然と行われたことに、雅史は困惑を隠せない。
自分の取った行動はこのような仕打ちを受けるに値するものであったのか。
それが、自分の知らない外界の規律なのかと、心から思う。屋敷の中で十数年を過ごしてきた頭では、そう考えるだけで精一杯であった。
雅史が自室に戻されていた頃、紗霧の元にも連絡が入った。
それは客室に来るようにとの言付けで、急ぎの用件であるとだけ付け加えられていた。
紗霧は突然の呼び出しに困惑してはいたが、それを表に出すことはなく、通された客間で当主を待った。
始めは、雅史の容態に何かあったのかと思って来たのだが、どうもそれとは別の件による呼び出してあるらしい。紗霧は思い当たる節を幾つか考えて、口にすべき答えを考えて居た。
暫くして外廊下から室内に入って来た当主は、開口一番に紗霧の解雇を言い渡した。
「…今、何と仰られたのですか…?」
「おや、聞こえませんでしたか。雅史の診察はもう結構ですと言ったのです」
あまりにも穏やかな口調で告げられ、紗霧は頭が真っ白になる。
意味はなんとか拾えたが、理由が解らない。そのようなことを告げられる心当たりは、紗霧にはなかった。
「…何故ですか。私の診察に、何か不手際があったとでも?」
「いいえ、そういう訳ではありません。雅史には別の医者を付けることにした。それだけです」
「私の腕に対するものでなければ、納得が行きません」
「……。そうですね。確かに先生のお蔭で、雅史は大分良くなりました。弓の腕も上達し、屋敷内だけでなく、外をも歩き回れる程に」
小さな溜息の後、当主の顔から笑みが消えた。
「人と接することの苦手であった雅史が、家人を始め、私の妻に対しても臆することが無くなる程に、成長しました」
紗霧は、当主の云わんとしていることに気付いた。当主の言葉は間違いなく、雅史と若葉の件を指している。
「…それならば何故、別の方を…」
「雅史の為です。先生のお蔭で、雅史は変わった。それなら新しい先生が来ても大丈夫でしょう。雅史の世界を広めて行くには、良い機会なのですよ」
尤もらしい言い分に、紗霧は言葉に詰まる。これ以上、自分が留まることを求めては、かえって怪しまれるというもの。しかし雅史を放って出て行くには、紗霧の気持ちが許さなかった。もとより紗霧は、自分の言が雅史を焚き付けておきながら、顛末を見届けずに屋敷を去るのはどうかと考えていたため、雅史の若葉に対する気持ちが何らかの結末を迎えるまでは、屋敷に残って居たかった。
「後任の先生には、私から書類を渡しておきます。これまで本当にお世話になりました。少しですが御礼として……」
「そのようなものは結構です」
紗霧は自分でも驚くほどに、はっきりと声を上げた。
「私は、このように中途半端な状態で患者を投げ出したくはありません。まだ体調も万全とは――」
「それは解っております。ですから、医者には診せます」
「ならばどうして、私では駄目なのですか。理由をお聞きするまで、下がることはできません」
「実に、仕事熱心な方だ」
「いいえ、これは当然のことです。私に非が無いと仰って下さるのならば、医師を変える理由を教えて頂きたい。何故、私では駄目なのです。御子息の後ろ盾があるからですか?」
紗霧は勢いに任せて、胸の内に蟠っていた疑問までをも口にしていた。すると当主は、一層厳しい目付きで紗霧を見返した。
「……相変わらず、賢しい人間を送って来よる……」
嘲りを含んだ声音は、忌々しげな視線と共に、紗霧へと向けられた。
刹那、ざわざわと鳥肌に似た感覚が足元から全身へと襲った。
「シマダと名乗って居るが、シマバラの娘であろう?」
確信めいた口調に、紗霧の喉が鳴る。自分の素性がばれていると、瞬時に悟った。
眼の前で口許を歪めてこちらを見ている在原家当主に、身元が割れてしまっている。このままでは自分達のことが知れるのも時間の問題だ。直ぐに話題を変えなければ。何か、当主の気を引くような話題を。
「あの家の女共はいつも分を弁えず、楯突いて来る。まぁ、女に限ったことでは無いか。アレも、鴫原の者だったからな。…まったく…嫌なことを思い出させる……」
紗霧は震える指先を握り締め、視線に力を入れた。
「…そう。その眼だ。私から雅を奪って行った男の眼。この手で抉り取ってやりたくなる。…お前は、奴の血縁者か?」
息苦しさを覚えながら、紗霧は口を開く。
「…私は、シマバラ ソウイチ氏の血を引いています」
「そうか、惣壱の。では、チドリの娘か…お前が……」
紗霧の身体に、悪寒に似た震えが走った。
聞きたくない衝動に駆られ、話を変えようとする。しかし上手く言葉が出ない。声さえも、自分の感情に反しているかのようだ。
「何を驚いている。単純なことではないか。十数年前、この家に頼ってきた千鳥のことを話しているだけだ。それに、今のお前なら解るだろう? 鴫原の家に入ったお前ならば。千鳥が一人で桑折の家に行けた術は無い。まして鴫原の家から逃げ出せた筈も、追っ手から逃れられた筈もな。全て、他の力があってこそ成されたことだ」
喉の奥で噛み締めるような、狡猾さを露わにした笑いを向けられ、紗霧は顔を歪めた。
記憶なら、ある。
幼い頃に見たであろうそれは、記憶と呼ぶにはあまりにも不確かで、断片的なものばかりだが、それでも鮮明に浮かぶ映像がある。脳裏にこだまする声がある。懐かしさと、悲しさを併せ持つ過去の時間。紗霧はうろ覚えな記憶を振り払うように、頭を振った。
しかしその行動を愉しむ様な声音が響く。
「…憶えて居るようだな、お前の頭は」
自身の額を指差し、悪辣な笑みを見せてくる在原家当主に、紗霧は眉根をきつく寄せることしかできず、奥歯を噛締める。
「流石は鴫原の縁者だ。記憶力は良いと見える…否、千鳥の血を引いているならば当然か。千鳥も嫌に賢しい女で、やたらと記憶力が良かったからな。医家の嫁となるには十分すぎる程の素質を持った女であった。お前を見ていると、私でもそれを実感するくらいだ。――…そう言えば、千鳥は息災か?」
「…私の口から、そのことを聞きたいのですか?」
「おお、そうだった。千鳥は十年前に他界したのであったな……。年を取ると、どうも記憶が鈍る」
わざとらしい口振りで言ってのけた当主の口許には、相も変わらず人を小馬鹿にした嘲笑を浮かべている。
悔しい気持ちで、紗霧の握り締められた拳は震えていた。
「…だが、覚えていることもある…。恩を仇で返した人間の名は、決して忘れはしない」
在原家当主は声を低め、下から睨みつけるような視線で、紗霧を見つめた。その視線に含まれた鋭い感情に、紗霧は恐怖を覚える。初めて実感した、激しい憎悪から成る殺気。肉体的ではない、精神への絶対的な恐怖が、紗霧の思考を止める。鼓動は早鐘のように打ち続け、息苦しさを伴う。嫌な汗が背中を伝い、指先が冷えていく。紗霧の身体は、まるで縫い付けられたように動けなくなっていた。
「――御館様。お医者の先生がお見えになられました」
突然、障子戸の向こう側から声が掛かり、室内の空気が一変する。そのお蔭で、紗霧はやっと呼吸ができるようになった。自分でも気付かずに、息を止めていたのだ。
「分かった、私が出よう。お前は、嶋田先生を玄関までお送りしなさい」
「かしこまりました」
在原家当主は、障子戸を開けて外廊下に膝を付いている、家人・サヤにそう言付けた。既に顔は平生の当主の顔だ。
「――嶋田先生。今までご苦労様でした。では、私はこれで」
振り返った当主は、薄く笑みを浮かべて紗霧に一礼した。その微笑みは、勝利を確信したようにも見える。先刻の恐怖から解放されながら、紗霧は愕然とした。
――しまった。
当初の目的を果たすことなく、時間切れを迎えたのだと、当主の微笑みから理解する。
当主に軽くあしらわれたのだ。過去の話など本当は何の意味も持たず、自分がその話から逃れようと思案したと同様に、当主もまた、解雇の理由の話を逸らすために過去の話を持ち出したに過ぎない。
「玄関まで、お送り致します」
当主が出て行った後室内に入って来たサヤは、畳の上に置かれていた鞄や荷物を手にし、紗霧の側へやって来た。仕方無しにサヤの先導に続いて、紗霧は唇を噛み締める。この結果は、自分の慢心が生んだものだろうか。それともただ、当主の力に及ばなかっただけなのか。何れにしろ、在原家の長男である志雅に、この事態を知らせなければならない。紗霧は考えながら、外廊下を玄関へ向けて進む。
冷えた夜風が吹きぬけ、夏の終わりを感じた。