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吟於霄  作者: 智郷樹華
本編
3/14

~蝉櫛ノ節~ (三)


※今回は話の都合上、若干長めになっております。

 その日を境に、雅史は射場へ一日に向かう回数が増えた。

 こんな時には、自分の身の置かれた状況が良かったと思う。雅史は病弱を理由に、他の同年代の者たちとは違い、自宅学習の形を取っていたのである。それは父が決めたことでもあった。

つまり、雅史は屋敷の外に出ることがめったに無かったのである。特別な外出用件が無ければ、敷地内からは出ない。それが、幼少期から続く雅史の生活であった。

 だがこの生活は、彼女――雅史の胸中を騒がせる人物にも言えることだった。

 在原家に入った彼女も、一日を屋敷内で過ごす。それは僅かながら、雅史を悩ませていた。

 自室を出れば顔を合わせて当然。食事時など会わずにいることは不可能だ。それゆえに、雅史の懊悩が晴れることはなかった。


 そんなある日の晩、雅史はふと目を覚ました。体を包む微かな火照りと気だるさ、そして喉の渇きを覚えて、身を起こした。

 水を飲みがてら夜風にでも当たろうと、寝室を出る。

 障子戸をあけると、涼しい空気が室内に流れ込んだ。

 雅史は半分だけ開けたまま、廊下に出た。

 母屋へ向かい台所で水を口にした帰り、雅史の耳に、聞き慣れない音が聞こえた。

 一瞬だけのそれに、聞き違いかとも思ったが、廊下に出るとそれが声だと判った。

 耳に残る異様な色を含んだ声音に、雅史は足を止める。

 聞き覚えがある。だがどこで聞いたのか、誰のものなのか判らない。

 記憶にある誰かの、声。それは確かだ。 

 何故判らないのか。それは微かな音でしかないからだろう。

 木の葉のざわめきに紛れる程の、儚い音だからだ。

 しかし、どうも躰をざわつかせる。耳から脳へ、脳から脊髄へと伝わり、芯を焦がす。

 疑念への探究心と、奇妙な好奇心とが、心を沸き立たせる。そして惹かれるままに、雅史の足は方向を変えた。


 足音を忍ばせ、耳を澄まし、着実に音源へ近付いていく。

 冷えた夜風は、上気する雅史にとっては心地良く、確かに目的の場所へと導いた。

 ピタリと、板廊下の続く一角で、雅史の歩みが止まった。

 声が、聞こえる。

 掠れて、吐息を含み、時折漏れる甘い響き。切れ切れに生まれては空気を伝って身体を包む、魔性の音。

 その音―声が発せられている一室に、雅史の眼は釘付けになった。

 仄明かりの中で揺らめく二つの影。重なり合い、単調な衣擦れの音を奏でて蠢く物体。それを目にした瞬間、雅史の脳裏に言葉が浮かぶ。

 この部屋の主は誰か。母屋の最奥。屋敷内の通が集約される場所。この部屋で過ごせる者は誰か―――

 

 そこで雅史の思考は止まった。否、止められた。

 

 感極まった、甲高い声が、雅史の芯を鷲掴みにしたのだ。

 ぞわりと全身の毛が逆立ち、雅史は鞭打たれたように駆け出していた。

 一刻も早く、この場所から離れたい。身を苛む空気から逃れたい。音の聞こえない所へ。声の届かない所へ。一刻も早く。

 それらの思いが雅史を突き動かしていた。そして一心に廊下を駆け抜け、指先に触れた障子戸を開く。急ぎ、戸を閉めると、雅史は合わせた桟を伝って畳の上に座り込んだ。

 暗がりの中で、震える両肩を抱いて夜着を握り締める。

 寒い訳ではない。だが全身は痙攣するように震え続けた。

 指先に力を込めると、食い込む爪が滾る血流を戒め、息を吐く唇からは熱が放出される。荒い呼吸を繰り返し、小さく丸めた身体を一層きつく縮こまらせる。

 耳の奥でこだまするアノ音を振り払うように頭を振るが、消えるどころかなお強く鳴り響き、雅史を悩ませた。



 翌日、雅史は一睡もできずに朝を迎えた。

 瞼は重く、身体も鉛のようだ。しかし、瞳を閉じるとあの映像が浮かび、雅史を苦しめる。

 残像はやがて想像と交わり、形を変えて一枚絵と成る。

 自身の中で構成されていくそれは、事実と妄想とが混在し、遂には雅史の内側を侵し始めた。

 自分の姿が浅ましく、穢れたモノのように思えた雅史は、どうにか正気を保とうと水を浴び続けた。  兄たちが不審に思って度々浴室の前に立ったが、気のない返事しかできず、一層困惑の念を深めることになった。

 しかし、雅史は今、兄たちにさえ姿を晒せずにいる。当然、母の前にも。いつかの一件よりも深い部分で、この出来事は雅史を苛んだ。


 幾日かが過ぎ、精神的に弱り果てていた雅史は、まるで夢遊病患者のように、母屋の一角へ向かって歩いていた。

 薄い夜着でも冷えた空気が快く感じられる程に、雅史の身体は熱を帯び、浮遊感さえ漂わせている。

 ぼんやりとした顔は頬を朱に染め、艶めいた美しさを放つ。おぼつかない足取りは、ひ弱な肢体を一層脆弱に仕立て上げ、不確かな、蜉蝣のように消え入りそうな印象を携えていた。

 身を蝕む感情に操られるようにして、雅史はそこに居た。

 あの晩と同じく、風に紛れて耳に届く音に聴き入りながら、脳裏によぎった淫らな光景に身を震わせる。

 最後に残った理性の抵抗空しく、雅史の身体は自分の意思とは関係なく動き始めていた。


――…母さん、母さん、母さん…――若葉――っ!


 はっと我に返った途端、激しい罪悪感と吐き気に見舞われて、雅史は駆け出していた。

 後悔、自責、侮蔑、嫌悪、非難、そして哀しみが、雅史の身を苦しめる。

 現実と夢の狭間から逃げ出すように、雅史はただひたすらに駆けた。

 息苦しさが一層自虐的にさせ、全ての感情を強めた。

 一心不乱に廊下を駆け抜けた雅史が転がり込んだ先は、自室ではなく、今は無人の長兄の部屋だった。

 無意識の内に、雅史は自室とは反対の位置にある離れにやって来ていたのである。そして此処は、あの部屋から一番近い、独りになれる場所でもあった。

 かつて、一日の大半を自室で過ごすしかなかった自分を気遣った兄が、部屋にあるものを見せるために、よく連れ出してくれた場所だ。

 そして案内された兄の自室には、地球儀や、見たことの無い蝶の標本や、天体の写真、光で姿を変える砂時計、万華鏡、螺鈿細工の望遠鏡。そして今現在雅史の部屋にある書物の多くは、兄から譲り受けたものだ。

 兄の部屋には、世界の全てが詰まっている。

 少なくとも、幼い雅史にとっては全てが真新しく、知識の宝庫に思えたものだ。

 懐かしさを覚えながら、薄明かりの中で雅史は兄の机に向かう。

 自分の口から漏れる荒い息遣いはいつの間にか震えており、静かな室内にやけに響く。

 憑かれたように、白い手を伸ばし、雅史は机に突っ伏した。

「…兄さん…」

 縋る想いで雅史の口から零れた言葉は、吸い込まれるようにして、夜の静寂に消えた。



 それから数日も経たない内のある晩、雅史の自室に再び若葉が訪れた。それは雅史が遂に、自室から出なくなってしまった日のことだった。

 食事の席にも出てこなかった雅史の身を案じた彼女は、入り口に置かれた手の付けられていない食事に不安を覚え、廊下から声を掛ける。やはりと言うべきか、返事はない。

 若葉は意を決して、障子戸を開いた。

「雅史さん…?」

右手を入り口の障子戸に添えたまま、明かりの点らない室内を、探るように若葉は踏み入った。そしてようやく、雅史の姿を窓際に認める。

 初めはぼんやりとしていた影は、暗がりに目が慣れるのに準じて、輪郭を露わにしてくる。

 そして眼に留めた瞬間、息を呑んだ。

 月明かりに照らし出された雅史の姿に、若葉は釘付けになる。

 神聖ささへ放つ白い肌と、たおやかな肢体。くるりと振り返った視線に、引き寄せられるようにして若葉は窓辺へ――雅史の許へ歩み寄る。

 自分を追う雅史の目を見返しながら、静かに傍らに膝を着く。やわらかな花の香りが、鼻先を流れた。

 濡れた眸が交わり、暫時二人は見詰め合う。彼の目には蠱惑的な女の姿が映り、彼女の目には魅惑的な少年の姿が映し出されていた。

 深い色合いの瞳は深淵を思わせ、鮮やかな虹彩は優美に満ちている。

 二人はどちらからとも無く、互いの距離を詰めていった。

 一度ならばほんの戯れで済む。しかし二度目は―――

 閉じていた瞼を開くと、息遣いも伝わる場所に、相手の顔があった。

 引き合うように視線を絡め、再び唇を重ねる。触れた先から熱が広がり、蕩けるような錯覚の中で、体が痛いくらいに疼くのを感じる。そして互いの求めるままに、深く口付ける。呼吸を塞ぎ、思考を凌駕して、何度も。

 若葉の後頭部に当てた雅史の手は艶やかな黒髪を手繰り、抱き締めるように引き寄せる。舌を絡め、互いの息さえも奪う口付けに、若葉は苦しげな息を漏らす。しかし雅史の肩に伸ばされた細い指は、離れることを拒むかのように、強く、襟元を握り締めていた。

 次第に雅史の腕は若葉の腰に進んでいき、一層強く抱き締めた。そしてその手が着衣に伸ばされたが、若葉は微かに身動ぎこそすれ、抗う素振りは見せなかった。むしろ、熱に浮かされ、雅史の胸に身体を預けているように見える。そこには、母という姿は微塵も無かった。


「――失礼っ」


 急に開け放たれた障子戸の外から、張りのある声が発せられた。

 弾かれたように若葉は雅史から離れ、正気を取り戻した瞳には困惑の色を浮かべている。

 即座に朱を走らせ、耳まで赤くしながら彼女は立ち上がる。襟元を両手で隠すようにして、部屋を駆けて出た。

 その背を一瞥して、声の主は眉根をきつく寄せたまま、室内に踏み込んだ。

 籠っている生温かい異様な空気を掻き消すように、声の主――紗霧は窓を開ける。

 その下で、雅史は未だ夢を漂うかのような、焦点の定まらない眼を、ゆっくりと瞬かせていた。

 次第に生じてくる自責の念に陶酔する様子で、雅史はしどけなく窓辺に寄り掛かる。その姿を眼にした紗霧は、柳眉を歪めて舌打ちを漏らした。


「これだからガキのお守りは厭なんだよ」


 紗霧の口から吐き捨てられた言葉は、どこか雅史に心地良さを覚えさせた。

「イイか、よく聞けお坊ちゃん。そんなにシたいんなら親父殿に頼んで、囲ってる者の中から一人回して貰え。お前の好みに適う女の一人や二人居るだろうからな」

「……………」

「あぁ? ハッキリ言わなきゃ解んねぇよ」

 既に口調を元に戻そうとは思っていないのか、そのまま紗霧は続けた。

「お前はいつもそうだったな。病気の兆候は言いやしない、薬の副作用も表に出さない、発作になってから初めて言いやがる。どれだけこっちの手を煩わせていたか、分かってるのか? 言わなきゃ伝わらないということを、お前のその変に賢い頭は理解してないのか? 兄貴どもに甘やかされた結果がこれかと思うと、過保護の弊害がよく解るよ」

 紗霧は辛辣な笑みを浮かべ、黙り込み俯いている雅史を見下ろした。

 乱れた着衣の襟元から覗く石膏のような白い肌に眉を顰め、自分の白衣を脱いで掛けてやる。

 言いたいことを言い終えると、苛立ちよりも痛々しさを覚え始めた。

 この姿は、確かに人を惑わす。

 自覚の無いことが、一層、問題を深刻にしているのだろう。これでは父親の気持ちが解らないでもない。 

 そう思うと、紗霧の口から自然と溜め息が零れた。

 昼間の検診時に覚えた違和感と、これまでの雅史の様子から気になって屋敷に戻ってみたのだが、よもや危惧していたことが現実になっているとは、流石の紗霧も信じられなかった。

 しかも、よりによって相手があの女性とは。何とも厄介なことに首を突っ込んでしまったものだと、頭を抱える暇もなく、紗霧はどうやって雅史を説得しようかと考えを巡らせた。


「…代わりは要らない…」


 唐突に呟かれた言葉に、紗霧は目を丸くして顔を雅史へ向ける。

 こんなにも早く、正気を取り戻すとは思っていなかった。否、今の雅史を正気と言えるのか定かではない。瞳には相変わらず虚ろな色が浮かんでいるし、身体も気だるそうにしている。そして何よりも、雅史の視線が平常のものとは思えなかった。

「あの人で無ければ、この気持ちは収まらない」

「…正気か、お前…。いくら血が繋がってなくとも、彼女は仮にもお前の母親だぞ。よく考えろっ」

「よく…? さんざん考えた結果、出した答えです。貴女の言葉でも変わることはありません」

 雅史の口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。

 紗霧はきつく眉根を寄せて、切り札とでも言うように、声を低める。

「在原の言葉でもか?」

 紗霧が言っているのは長兄のことだろう。一瞬、雅史の眼が見開かれたが、直ぐにそれは細められ、呟くほどの、小さな声で雅史は言った。

「…それでもです」

 憧れの対象でしかなかった存在が、不可蝕で侵すことのできない筈の存在が、今、指先に触れたのだ。

 在ることを眼にすることはできるのに、触れることのできないもどかしさから、やっと解放される。

 そう思うと、雅史の胸には恍惚感が生まれた。

 大きく、全てを包み込みながら、腕を伸ばしても掴むことのできなかった存在に、例外なく自分も充たされるのだと実感できる機会が、目の前に在る。

 これをやすやすと逃せるほど、雅史は無欲ではなかった。

 自分の前で嫣然と微笑みを浮かべる雅史の眼に浮かぶ、初めて見る光に紗霧は気付いた。

 狡猾とも、獰猛とも違う、獣の眼。

 言い様のないそれには、紗霧でさえ、捕らえられてしまうような強さを感じる。

 思わず震えが走り、組んでいた腕に力を籠める。

「…ならば、お前の決心とやらを見せてみろ。それができたなら、在原を説得することもできるだろうからな」

 いつもの、心の奥まで見透かすような視線を光らせて、紗霧は雅史を見据えた。それに、雅史は真摯な眼で応えた。



 翌日、朝食の後に雅史は自分の父を捕まえて、話があると切り出した。

 珍しい雅史からの申し出に、父は驚いた様子を見せたが、昼過ぎならと言って、快く自室へ通した。

 約束の時間まで、雅史は部屋に籠もり、射場にも行かず、静かに時を待った。

 窓から見える空は、雲一つ無い青天である。それを目に焼き付けて、雅史は立ち上がった。

 父の待つ座敷の前で立ち止まると、深く息を吸い込み、ゆっくりと、緊張を解すように息を吐く。

 声を掛け、返事を待って座敷に上がる。再び騒ぎ始めた鼓動に瞼を閉じながら、呼吸を整えていく。一歩、二歩と父の前に近付いていくと、足元から冷やされていくような錯覚を感じた。

 それが、やけに冷静に、雅史の面を上げさせた。

 父が何か言った気がしたが、雅史の耳には届かない。入っても抜けてしまうのだ。

 やがて雅史は、まっすぐと真摯な光を湛えた瞳で、自分の前に座す父を見つめ、口を開いた。

「父さん。貴方の妻を僕に下さい」

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