~蝉櫛ノ節~ (二)
それから数日後のある日、雅史が自室で書物を開いていると、母が訪ねてきた。
同じ屋敷内で暮らしていながらその言い方はおかしな気もするが、母屋から離れに来ることは、特に母に関しては、別の家に出向くようなものだ。
事実、彼女が直接、雅史の部屋へ来たのは初めてのことだった。
「雅史さん、いらっしゃる?」
「はい」
驚きに雅史が顔を上げると、入り口の障子戸に母の影が映っていた。
いつも通り、和装に身を包んだ彼女の姿は、色の淡いものでも鮮やかに見える。
「少し、宜しいかしら」
そう言われて、雅史が障子を開くと、母は小首を傾げてにっこりと微笑んだ。
「ちょっとそこまで、ご一緒にお散歩でもいかがかしら」
思い掛けない外出の誘いに、雅史は一瞬戸惑った。
それでも彼女の花弁のような笑みに釣られて、小さく微笑んだ雅史は、諾と応えた。
「――雅史さん。こんなに好いお天気なのに、家の中でじっとしているなんて、勿体ないでしょう?」
振り返った若葉は楽しそうに、年相応というよりも幼さを纏って笑っていた。
くるくると日傘を回し、幼子のように着物の裾を翻して歩く。時折覗く白い足首から視線を逸らし、雅史は空を仰いだ。
青々とした天空は、網膜を焼くように貫き、感情を抑え込む。息を吸い込み、肺に空気を送ると、胸中から冷えていくのが分かった。
母に付いて向かった先は、屋敷の側を流れる渓流の川岸だった。
雅史が水面の乱反射に目を細めていると、母は軽やかに石を飛び越え、岩の上に腰を下ろした。
下駄を脇に揃え置き、川水に素足を浸すと、立ち止まっていた雅史を呼んだ。
「雅史さん。こちらへいらっしゃいな。冷たくて気持ち良いわよ」
無邪気な彼女の微笑みに、雅史の胸は一度、高鳴った。
しなやかな線を描く白い脚を膝まで捲った裾から伸ばし、汗ばんだ肌に風を送るように胸元を緩め、いつもさらりと揺れる黒髪を後ろに結い上げて白いうなじを露わにしている。
その姿に、雅史はどきりとした。
頭上から注がれる熱を一身に受けながら、雅史は俯き加減で岩の傍まで行き、腰を下ろした。
風上から流れる花の香に目を伏せ、岩肌に背を預ける。時折頬を掠める川からの冷気が心地良い。
燦燦と輝く陽光に照らされ、上気していく身体は熱の放出を求めて天を仰いだ。
とそこへ、不意に日差しが陰り、雅史はうっすらと目を開けた。すると目の前には白い天蓋。薄くなった陽光に、顔を母に向けると、
「お使いなさい」
愛でるような柔らかい微笑みと共に、そっと日傘の柄を手渡された。
しかしいくら雅史でも、女物の日傘を差して平然とはしていられない。返そうと立ち上がったところ、急に身を起こしたものだから、血の気が引いて眩暈を覚え、ふらりと体勢を崩した。
雅史は反射的に腕を伸ばしたが、その身をふわりと包む腕があった。
細くたおやかな腕に支えられて、再び鼓動が騒ぎ出す。
直ぐに体を離すと、彼女の顔には気遣う表情があった。その時雅史は、自分が思っているよりもずっと、青白い顔をしていたのである。
若葉の心配を知らない雅史は小さな声で謝り、日傘を差し出す。
不思議そうに見返してくる母から視線を外し、柄から手を離そうとした刹那、左手の指先に鋭い痛みが走った。
どうやら持ち手の籐の切れ端に引っ掛けてしまったらしい。見ると中指の腹に鮮やかな血が、珠のように付いていた。
雅史が気付くが早いか、左手に影が掛かり、次の瞬間、指先から温もりが広がった。
―――っ!
雅史は刮目し、頭の中が真っ白になる。
自分の指先に触れているのが、母の――若葉の唇だと理解するのには時間が掛かった。
至極当然の如く口内に含まれ、傷口を消毒するように舌が触れ、血を吸われる。
ぞくりとするような感覚が全身を伝い、雅史は目を眇める。言葉になら無い、疼きに似た刺激に戸惑い、立ち竦んでいた。
「――深くはないようだけど、帰ったら消毒しましょうね」
雅史の左手に手を添えながら、若葉は傷口を診た。その手から逃れるように、雅史は腕を引いた。
「…ありがとうございます。すみませんが、少し気分が悪いので、僕はこれで失礼します」
それだけ口にして、雅史は踵を返した。
背中に声が掛けられるが、振り返ることはできない。痺れるような感覚に、困惑と恥ずかしさを覚えながら雅史は駆けた。
今の自分を、決して人に見られたくはない。
どんなに否定しようとも、雅史の脳裏には先刻の場面が色濃く残っている。
鮮やかな彼女の緋色が、感触が、温もりが。それを思い出そうとしている自分が、卑劣で汚い人間のようで嫌悪した。
この全ての想いを払拭したくて、どんなに苦しくとも雅史は走り続けた。
屋敷に着くと、雅史は脇目も振らずに自室へ駆け込んだ。
鼓動が激しいのは、走った所為だ。頬が紅潮しているのは、暑さに体温が上昇しているだけだ。雅史は自分にそう言い聞かせる。胸が苦しいのも、ひどく身体が疼くのも、単に急激な運動に驚いているだけだと、何度も何度も言い聞かせた。
しかし、想いは動かない。脳裏に焼きついた彼女の姿に心が騒ぎ立てている。これではまるで―――
「雅史さん、大丈夫? 嶋田先生を呼びしましょうか?」
不意に響いた声に、雅史の胸は再びドクンと脈打った。
自分を心配して追って来たのであろうその人の声に、邪な感情を呼び起こされる。震えが、足元から駆け上がった。
「……、大丈夫です」
そう返すのがやっとだった。どうかこのまま立ち去って欲しいと、雅史は思う。
鏡を見なくともどんな姿をしているのか分かる。障子戸から離れ、壁に追い詰められた格好でいる自分の表情が、どんなものであるのか、想像には容易い。だから、このまま引き返してくれ。そう願った。
雅史の祈りが通じたのか、母は心残りのある様子を声に含ませながらも、短く応えて静かな足取りで帰って行った。
影が消え、足音が遠ざかると、雅史は安堵の溜息を吐いた。