~彩紐ノ節~ (後)
次にミノリと会えることになったのは、肌寒くなった冬の或る日のことだった。
そしてそれは、ミノリのお見舞いではなくて、母さんのお見舞いに行くためのものだった。
母さんは、ミノリと一緒に暮らしているけど僕の母さんではない。
そのせいか、僕が【母さん】と呼ぶことを嫌っている。
一番上の兄さんは名前で呼ぶし、他の兄さんたちとは普通にお話しをしているから、きっと僕に理由があるのだと思う。何かはわからないけれど。
そして今日も僕は初めにごあいさつだけをして、ミノリの部屋へ向かった。
「タダシちゃん」
扉を開けると変わらない笑顔が僕を迎えてくれる。
可愛い僕の妹。
今日は窓辺の椅子に座って本を読んでいたみたいだ。
「どうしたの? 一緒にお話ししましょ」
入り口から動かない僕に、ミノリは小首を傾げて言う。小鳥のさえずりよりも鈴の音よりも愛らしくて、耳に心地好く響く声。なんだかとっても、温かくなった。
それから僕はミノリとお話しをして、一緒にお菓子を食べた。甘いお菓子がいつもよりずっと甘く感じた。
それから少しして、ミノリが思い出したように言った。
「お人形の箱が無いわ…――…タダシちゃん、きっと母様のお部屋だと思うの。取って来てもらえないかしら」
「うん、いいよ。どんな箱?」
「蒔絵の…黒い箱よ。紅い組紐が付いているわ」
「わかった。じゃあちょっと、行ってくるね」
「ありがとう、タダシちゃん」
僕はミノリのためにできることがあって、ちょっと嬉しくなりながら部屋を出る。
母さんの部屋に一人で行くのは少し勇気が必要だったけど、大丈夫だと心で唱えながら向かった。
母さんの部屋に行くと、用の済んだお手伝いさんが出てくるところで、僕は用件を話して入ることを許してもらった。中には母さんだけが、具合が悪そうに臥せっている。
昼間でも薄暗い室内はどこかひんやりとしていて、僕は早く箱を見つけて出ようと思う。
何か黒い大きなものが、その辺から手を伸ばしてきそうで、どきどきする。
そして室内を見回すと、嬉しいことに肝心の箱は直ぐに見つかった。
「…誰…? 其処にいるのは、誰…?」
箱を手にした時、突然声を掛けられて僕は思わず立ち止まってしまった。
「…あなた…。どうしてあなたが此処に居るの」
「ご、ごめんなさい。この箱を頼まれて…」
「また、私の邪魔をしに来たのね…っ」
母さんはゆっくりと身を起こすと側まで来て、僕の腕を掴んだ。
冷たい指先の爪が食い込んで、とても痛い。
「私を笑っているの? こんな姿になった私をっ!」
「い、痛いよ、母さん…っ」
「解るのよ、私には。どんなに隠したって!」
一層強く握り締められて、僕はどうしていいかわからずにただ立ち尽くしていた。
「…ミノリを連れて行く気なのね。あなたにとって邪魔ですものね、あの子は…。だけど、あなたになど渡さないわ。あの子は私の子ですもの。絶対に渡さないわ、ミヤビ!」
突然呼ばれた名前は、僕の知らないものだった。
「あの子を…たとえもう、先が望めないとしても、ミヤビ、あなたにだけは渡さないわっ!」
母さんの叫ぶ姿が怖くなって、僕は力いっぱい腕を振り払うと部屋から飛び出した。
まるで般若面のような形相で、必死になって僕の腕を握り締めていた母さん。
だけど母さんの眼には、僕では無い違う誰かが見えていたようだ。
だって、顔を歪めて口にしていた名は、僕のものじゃなかったから。
きっと他の誰かの姿に見えていたのだと思う。そうじゃなかったら、僕に母さんがあんなことを言うはずが無い。
僕は箱を抱えながら、ミノリの部屋に走り戻った。
部屋に着いてミノリの顔を見ると何だかとても安心した。
だけど同時に、母さんの言葉も思い出してしまった。
――もう先が望めない。
あの言葉はミノリのことだろう。
そう考えるとミノリの顔を見ることが出来なくなった。
「どうしたの?」
「別に、何も……」
「誤魔化しては駄目よ。私の体のこと?」
ミノリは覗きこむように首を傾げて、僕の顔を見た。
まるいその眸に、僕の困惑した顔が浮かんでいる。
「そんな深刻そうな顔をしては駄目よ。幸せが逃げちゃう」
「ミノリ……」
僕に伸ばされた手を握り締めて、僕は妹の名を呼んだ。
「どうしたの?」
「……ミノリが消えてしまいそうで、不安なんだ」
正直な気持ちを口にすると、優しい小さな笑い声が聞こえて、そっと手を握り返された。
「タダシちゃん…。私は消えないよ。今度はアナタの中で、生きるんだもの」
ミノリの声はとても静かで、顔はいつものように笑っていたけどとても冷たい。握られた手も、ちょっと痛い。
「此の体が要らなくなって燃やされた後、私は其の体で生きるの。今まで離れていた分、父様や兄様たちとお話をして、一緒に暮らすの。だから今度は、タダシちゃんがお屋敷に閉じ込められる番よ」
「…それは、どういうこと?」
「まだ、わからないかな…。でも、直ぐにわかるよ」
またにっこりと笑って、ミノリは僕の手を放した。まだじんわりと痛い。手首のあたりを見ると、少し赤くなっている。冷たい指先で触れるとそこから熱が感じられた。
なんだかいつものミノリじゃないみたい。すごく、怖い。まるであの時の母さんみたいだ。僕を【ミヤビ】と呼んだあの時の、母さんみたい。
僕の身体が震えだしそうになる頃、不意に僕を探す声が聞こえた。
「――兄様が呼んでいるわ、タダシちゃん」
「あ、もう帰る時間かな…」
僕は立ち上がって、廊下から聞こえる兄さんの呼ぶ声に応えた。そしてミノリにまたねって声を掛けて、扉を開く。
「 」
何か、ミノリが言ったような気がしたけれど、気のせいだったみたいだ。いつものようにミノリは笑って手を振っている。それに手を振り返すけど、いつもとはなんだか違う感じがする。
だけど、扉は閉まってしまい、廊下に居た兄さんに手を引かれて、僕は屋敷を出る。
玄関を出た時、伸びた影を見てふと顔を上げると、端の部屋の窓辺にミノリが見えた。きっと、またいつものように笑っている筈だ。僕の、たったひとりの妹のミノリは、そうして見送ってくれていたんだから。
夕刻の赤い空には三日月が浮かんで、わらうように僕を見下ろしていた。
「アナタの体は、もうすぐ私のもの」