~鏡匣ノ節~ (終節)
雅恭は兄・志雅が部屋を出たのを追うように、外廊下に出た。
するとそこへ、慌しく廊下を駆ける数名の足音と、喚き散らすような怒声とが飛び込んできた。
騒ぎに気付いた周雅と雅匡も廊下に出て、声の聞こえてきた方に向かうと、離れへ続く渡り廊下の辺りで声の主を見つけることが出来た。父と、そして志雅である。
「――ミヤビは渡さん!」
ただならぬ様子で発せられた言葉に、雅恭は異様さを覚える。
今、父親は何と言ったのか。叫びに近い声音で響き渡った声は、何と言ったのか。矛先は分かる。間違い無く、廊下を突き進む志雅に向けられたものだ。内容も大体は納得できる。けれど理解するには疑問が残る。何故【ミヤビ】なのか。
必至の形相でこちらへ向かって来る当主を、志雅は一瞥しただけで直ぐまた廊下を進む。
「何をしておる、奴を止めぬかっ!」
激昂して叫ぶ当主に、家人たちは戸惑いながらも志雅を止めに掛かる。
そして行く手を阻むように家人らに立ちはだかれた志雅は、眉を顰めながらその場に立ち止まった。
家人たちを払い退けることも可能だったが、この先――雅史の部屋にまで押し掛けられては面倒だと踏んだのだろう。だが、決して意志が変わった訳ではない。
その証拠に、父や雅恭の前に振り向いた志雅の表情は、こちらの様子に厭き厭きとしたものだった。
「痴れ者が! 貴様なんぞにミヤビを渡すものか。さっさと屋敷から出て行けっ!」
顔を赤らめ憤然として当主が言い放つが、志雅はそれを聞き流した。
あまりに冷静な様子の兄に、雅恭は畏れにも似た感情を抱く。姿は実兄でも、自分の知らない人物が、其処には立っているようだと。
「言われなくとも、直ぐに出て行きます。雅史を連れて」
「何だとっ! 貴様にそのようなことを許した覚えは無いっ。私の許し無く、勝手をするなっ!!」
「許しなど必要ないでしょう。貴方は既に、人として過ちを犯している。父親でも何でも無い」
息子の声が、影が、かつての男の姿に重なった。
異様な寒気が全身に広がり、目の前の光景が過日のそれに溶け込む。視線を一点に集中させている当主の身体は、小刻みに震えていた。
『…貴方は人として過ちを犯した。もう兄では無い…』
「雅史のことに口出しする権利など、貴方には一切無い」
『…ミヤビさんを引き止める権利など、貴方には無い!…』
激しい声で突きつけられた言葉が、耳の奥でこだまする。全身の血液が沸騰しそうな勢いで駆け巡り、強く荒々しい感情が胸の内で混ざり合う。どろどろとした得体の知れぬ何かが、自分を飲み込むかのように侵していく。息が荒くなり、酷い頭痛がする。
そして当主の身は、過去のある日へと遡って行く――否、寸でのところで、その身は現実に引き止められた。
「…兄…さん?」
突如響いた声は、弱々しく鳥の羽音よりも小さなものであったが、当主の耳には一本の矢の如く、その耳に届いた。
父の視線に倣い離れに目を向けると、戸を開いた横で、冷えた廊下に素足で立っているその姿に雅恭は息を呑む。
背格好や身に着けているもの、そして遠目ながらその顔立ちは、見慣れた弟に変わりは無い。ただ一点を抜かせば、それは紛れも無く雅史である。
「…兄さん…」
「どうした?」
「…万華鏡が…無いんだ…。兄さんのくれた万華鏡が……」
歩み寄る志雅の腕に手を伸ばし、心細そうに答える声もまた、雅史のもの。
「――っ!」
雅恭の横で、息を吸い込むような声にならない音が聞こえた。
それは遅れて来た紗霧が、今目の前に広がる光景に吃驚したものであった。
「あれは…誰だ…?」
「雅史だ…。さっき気付かなかったのか?」
独り言のような紗霧の問いに答えたのは、隣に佇んでいた周雅である。
周雅は雅史から視線を逸らしている雅匡を一瞥し、二人に聞こえる程度の声で続けた。
「俺と雅匡が部屋に入ったとき、雅史は頭から毛布を被って蹲っていた。声を掛けたら強い力で腕を振り払われたよ…。ああいう姿を、半狂乱って言うんだろうな…泣き叫ぶように声を上げて、まるで髪を掻き毟るように顔を上げたとき、既に雅史の髪は白くなっていた」
哀切の色とも呼べない深い色合いが周雅の瞳には浮かんでいた。
「一体あれは、どういうことだっ!?」
母屋の一室に戻り、自分の目にした事実を信じられない雅恭は、壁を叩きながら声を上げた。
「何故あんな姿に…っ! それに、親父はなんで雅史をミヤビと呼んだんだっ!?」
「後者になら、答えられる。雅恭、これを見てくれ」
続いて入って来た紗霧が、手にしていた書類を傍らの卓の上に広げた。
「――ここに書かれているのは真実だが、私が話すのは憶測も入っている。だが、確信のあることだと承知してくれて構わない。当主が口にした【ミヤビ】というのは、きっと君達の叔母であるミヤビさんのことだろう。そしてこれはあくまで私の推理だが、雅史君の母親は、ミヤビさんではないのか……」
「な…っ!?」
途方の無い紗霧の考えに、雅恭は言葉を失う。だが、それに一理あると思えるのも事実。雅史の姿に叔母・雅の面影を見たことのあるのは紗霧だけではない。
「二十年近く前、ミヤビさんはこの家から姿を消している。そのとき手を貸した人物は、シマバラ フミツグ。私の叔父に当たるその男性の名は、こう書く」
卓上の調書を数枚捲り、紗霧は紙面上に書かれたその人物の名を指で示した。
「…鴫原、史嗣…」
雅恭は突きつけられた真実に、眩暈を覚えた。
自分達の名は、それぞれ父と母の名を一字ずつ受け継ぐという在原家のしきたりに倣って付けられたものだ。他家に嫁いだとしても、それが残ることは考えられる。ならば紗霧の言っていることも、あながち嘘とは言えない。現に、調書には鴫原 史嗣と婚姻関係を結んだ女性の名は、在原 雅となっている。
「――鴫原。随分とこの家のことを探っていたようだが、欲しかった情報は得られたのか?」
不意に襖が開かれ、静かな声が響いた。見れば外套を片手にした志雅の姿が目に入る。
冷徹なほどの視線で、志雅は紗霧を見た。表情は無いに等しく、よもや表面上での質問に過ぎない。そんなことに、本心では興味が無いと志雅の態度が言っている。
紗霧はその視線に言葉を返せず、立ち尽くしていた。
すると紗霧の横から、雅恭が兄を引き止める。
「待ってくれ、兄貴」
「雅恭…。いつまでもこっちに居て良いのか? まだ学業が残っている筈だろう」
「兄貴、知っているなら教えてくれ。雅史は本当は――」
「お前が何を聞かされたか知らないが、雅史は俺たちの弟だ。それを否定したいのならそれでも構わない。だがそれなら雅史のことに口出しするな」
「在原、少しはこっちの話も……」
「これは兄弟のことだ。君には関係ない」
「いいや、関係はある。私を雅史君の主治医に推したのは貴方だ。それに雅史君が雅さんの――」
「黙れっ!」
ピシャリと言い放たれ、紗霧は口を噤む。兄のあまりの様子に、続いて入ってきた周雅も驚きを隠せない。
「それが真実であるという証拠は何処にも無い。百歩譲って、君の考えが真実であったとして、それが何だと言うんだ。雅史の現状を変えられるものだと言えるのか?」
「だが、雅史君の母親が雅さんだと言うのなら、雅史はこの家に居るべきだ。雅史君には正当な在原家の血が流れているのだから」
「だからそれが何だと言うんだ? この家に残ったところで、跡継ぎには雅恭が居る。周雅、雅匡も後継者として申し分ないだろう。雅史を残す理由にはならない」
「しかし雅さんの遺児であるなら私は恩返しをしたい」
「ふ…っ。その程度の理由か。結局君は、雅史を身代わりとしてしか見ていないのだろう? 雅史自身のことを思ってのことではないのなら、黙っていろ」
「在原……っ」
志雅から鋭い視線を向けられるが、紗霧はなおも食い下がった。ここで止めてしまったなら、この先に進むことができなくなることを、紗霧には分かっていた。
雅史を連れて行くという志雅の言葉は、必ず実行される。それを考え直させるためにはもっと言葉を交わさなければならない。雅史のことを思っているのは、紗霧とて同じだ。紗霧は志雅から視線を外さずに、言葉を探し続ける。
これまでの紗霧なら、志雅の行動を横目に自分のことだけを考えていただろう。しかし、雅史がミヤビの子であるかもしれないという考えから、紗霧は何もせずに雅史を見送ることはできなかった。それは、志雅の言う雅への恩義からかも知れないし、中途半端に患者を手放したくはないという医師としての気持ちからかもしれなかった。どちらにせよ、紗霧は雅史をこの屋敷から出したくないという意見で、志雅とは対立していた。
紗霧と同様に雅史を残したいと考えている雅恭は、何も言わずに二人の遣り取りを見ていた。だがその胸の内では、何故兄・志雅が雅史を連れて行くことに拘っているのか、その疑問の答えを兄の姿から導き出そうと思案していた。
この時部屋の片隅で佇んでいた周雅は、自分の知らない話を基に話している三人を不思議な気分で見つめていた。そんな周雅こそが、一番冷静な視点から事態を考えているとは、志雅も考えてはいなかった。そして同じように所在無さ気に室内の様子を眺めていた雅匡もまた、どうして兄たちが言い合っているのか、理解できないと言った様子を見せていた。
雅恭と紗霧が志雅の行動を止めようとしていることは、話の様子から解る。けれど何故二人がそう考えているのか、不思議にも思う。むしろ反対する理由の方が聞きたい。
周雅は再び熱を帯び始めた三人の様子に、無駄かも知れないと頭の片隅で思いつつ、自分の考えを口にする。
「俺は、志兄が雅史を連れて行くことに反対しない」
唐突に発せられた周雅の言葉に、驚いた雅恭と紗霧が振り返り何やら言おうと唇を振るわせる。それを溜息を一つ吐いて受け流し、周雅は続けた。
「あの状態の雅史を、この家で世話し続けることは不可能だ。それに二人には悪いが、この家で四六時中雅史を見続けることが可能な人物を考えれば、俺は志兄に頼むことを選ぶ」
「そうだな…。俺も周雅兄と同じ考えだ」
「雅匡まで何を言うんだ。お前たち、雅史のことが心配じゃないのか?」
「俺から言わせて貰うと、雅恭兄の方がどうかしているよ。雅史のことを考えたら、この家に居ることの方が辛い筈だ。俺たちが居ない時間の方が多いってことを、分かっているだろ? 大体、雅史の様子を見れば、誰と一緒に暮らす方が良いのか一目瞭然だろ」
雅匡の言葉に、雅恭は言い出しかけた言葉を飲み込む。
確かに、先の一件の様子を考えれば、雅史にとって誰と居ることが一番良いのか、簡単に解る。あのとき雅史は、他の誰にも目をくれず、ただ一人の人物にのみ答えていた。
だがしかし、割り切れない気持ちがあるのも確かだ。
二人の弟たちから宥められるのがまさか自分の方であるとは思っていなかったが、それでも冷静に雅史のことを考えていくと、自分の意志が弱まるのを感じる。雅史を手放すようなことはしたくないと思いつつも、それでも雅史の様子が脳裏に浮かぶ度気持ちが揺らぐ。それが解ることが、雅恭にとっては苦しかった。
隣に立っている紗霧もまた、同じ心境のようだ。
先程までの追及する強い光がその眼からは消え、戸惑いにも似た色が浮かび秀麗な眉を困惑に歪めている。もしかすると、こちらの考えの方が間違っているのかも知れない。
雅恭は気持ちを整えるように長く息を吐き、静かな声で志雅に向かった。
「…兄貴、少し考えさせてくれないか…」
短時間の内に色々とあり過ぎて、雅恭の頭は朦朧としていた。上手く考えをまとめることの出来る時間が欲しい。
「せめて今夜一晩、考えさせてくれ……頼む」
雅恭はそう言うのが精一杯で、その後兄が何と答えたのかよく聞き取れなかった。
それから数分後、雅史は白い手に円筒状の包みを抱いて、車に乗せられていた。
夜風が寒くないようにと、その身には大きな外套衣を羽織らされてはいたが、中は夜着に裸足のままである。けれども雅史の頬は何処か嬉しそうに紅潮し、手にした包みを愛おしそうに抱き続けている。そして無論、手も足も汚れてなどいなかった。
夜の闇の中を静かに走り出した車内で、雅史はふと窓の外に視線を向ける。
見えるのは深い漆黒。
志雅の腕に抱かれながら、雅史はぼんやりと視線を空に漂わせ、夢見心地で呟いた。
「…兄さん…。霄が、見たい」
物語はここで一先ず幕となります。
後日譚、別視点でのものを、機会があれば随時載せて行きたいと思います。
ここまで、ありがとうございました。