~鏡匣ノ節~ (二)
二度にわたる雅史の脱走は、そのどちらも成果を見せなかったとは言え、少なくとも雅史の身体が正常範囲であることを雅恭はじめ兄弟たちに示していた。
けれども若葉を連れ出し、家令達に連れ戻されて帰って来た雅史の様子は、明らかな変容を見せていた。虚ろな眸と力の無い動き。兄たちの声に、家人の制止が無くとも雅史は答えられる状態では無いように見受けられ、三人の兄たちは困惑した。
実際、例の如く窓を伝って部屋を訪ねた雅恭は、応答することも出来ずにただひたすら隅の方で身体を丸めている雅史の姿を目撃している。
雅史の身に、何が起きたのか。
それを訊ねることに加え、悩みの種である若葉を雅史から完全に離すことで、事態の解決を図ろうと雅恭は提案し行動に移った。――筈だった。
しかし、雅史のことを考えるのならば、先ず月村医師の対処を考えるべきであったと気付いたのは、雅匡から雅史の急変を受けた道中でのこのだ。
現段階で雅史に一番近付ける人物を、自分も周雅も警戒していた筈の者を失念していた。
たとえ先に文で伝えていたとしても、正気ではない雅史に拒否する意思表示などできたかは不明だが、それでも、紗霧が屋敷内に居ることで、自分に油断があったことは確かだった。
己を叱責しながら、雅恭は急ぎ雅史の居る離れに向かった。
「――雅恭っ」
途中の廊下で、騒ぎを聞き付けたのか、紗霧が雅恭に駆け寄ってきた。
何かを話したがっている様子だが、雅恭はそれを抑えて先を急ぐ。
「悪いが話は後にしてくれ」
「雅恭、行きながらで構わないから聞いて欲しい。今連絡が入ったんだが、在原が――」
並び歩きながら、紗霧は用件を口にする。
しかし伝えようとしていた内容は、雅恭が雅史の部屋の入り口をあけたことで、映像として目に飛び込んだ。
「兄貴…っ!?」
驚愕に目を見開く雅恭の口を衝いた言葉は、屋敷に居る筈の無い人物を呼ぶものだった。
「久し振りだな、雅恭」
「ど、どうして此処に兄貴が…?」
「雅史のことが気になってな。……少し、遅かったようだが」
今は静かに寝息を立てている弟の額に伸ばしていた手を離し、声を低めて答えると、再び戸口に佇む雅恭に視線を戻して立ち上がる。
「お前たちにも話しておくことがある。部屋を変えよう」
「話しって…。それよりも、雅史は大丈夫なのか?」
「色々とあって疲れているようだ。少し休ませてやれ」
戸に手を掛け、もう一度室内を振り返り戸を閉めると、眠る雅史を一人残して母屋に向かう。
その背に否応無く引かれて、雅恭をはじめその場にいた者たちは離れから出た。
渡り廊下を抜けた先にある、庭に面した座敷に着くと、初めに口を開いたのは雅恭であった。
「兄貴、話っていうのは一体…。それに、どうして家に?」
「話というのは雅史のことだ。だから家に来た」
「雅史のこと? 何か、重い病気でも見付かったのか?」
「……。身体のことが理由というのは、間違ってはいない」
「他にもあるのか? はっきり言ってくれよ、兄貴」
「随分と、弟思いの兄になったな、雅恭」
「はぐらかさないでくれっ!」
雅恭とは裏腹に長兄・志雅は静かに淡々と答えを口にする。その様子に雅恭が声を上げると、それを宥めるように雅匡が間に入った。
「雅恭兄、そう声を荒げなくても…。志雅兄が折角こうして帰って来てくれたんだから――」
「それは違う、雅匡。志兄は帰ってきた訳じゃない……」
兄弟の中で最初に志雅と会っていた周雅が、言い難そうに力無い声で弟の言葉を否定した。それに驚いた表情を見せたのは意外にも雅匡ただ一人である。
雅恭は舌打ちが零れそうな表情で、兄を見上げる。
「また、何処かへ行くのか…。別に兄貴の行動に口出す気は無いが、騒ぎが収まるまで暫く家に居てくれないか。親父には俺から話をするから」
「お家騒動の収拾くらい一人で出来ないか?」
「そういうことじゃないっ。雅史の身体が危ないことを紗霧から聞いていないのか? たとえ気まぐれで来たとしても、雅史を見て何も思わなかったのかよっ!」
溜息混じりで返された言葉に、雅恭は眼前に立っていた兄の胸ぐらを掴み、再び声を上げる。
「あんなに痩せて、食事も薬も安心して口に出来ないんだぞ。それに、気まで狂れてしまったらしいじゃないか…。そんな雅史のことさえ、もうどうでも良いのかよっ!?」
「……………」
「何とか言えよっ! それとも自分の捨てた家のことだから関心も無いか?」
「確かに、家のことに興味は無い。だが、雅史のことを投げたつもりは無い」
「だったら何故、雅史にあんな物を渡したっ!?」
「あんな物…?」
「奥屋敷の蔵の鍵だ。あれさえ無ければ、雅史だってあんな行動には出なかった筈だ」
「誰か蔵を使っているのか? …そういえば、あの女の姿が見えないな…。今蔵に居るのはあの女か、雅匡?」
「あ、あぁ…。若葉さんが蔵に居る」
「そうか。あの女のことだ、自分から、という訳じゃ無いだろう。…雅史との一件で押し込められたか…」
思案気に眉を顰めて呟きながら、志雅は蔵の在る奥屋敷の方へと視線を向けた。
「そうだ。親父はあの人から雅史を離すことで、事態を収拾しようとした。けど雅史は蔵の鍵を使ってあの人と逃げようとしたんだよ…。そのために山狩りまでした…っ」
「山狩り…? そんな蛮行にまで及んだのか……あの狸が」
「親父は、雅史があの鍵を使ったことに大層驚いていたよ。まさか雅史が持っているなんて、思ってもいなかったんだろう。だから、立ち入り禁止の蔵にしたんだろうからな」
雅恭は額に手を当てて俯き加減に目元を隠し、唇を噛み締めた。
口にしたことで、どれだけ理不尽なことを兄にぶつけているか、少なからず分かった。
自分でも、八つ当たりであることが解る。
けれどもこの苛立ちはどうすれば収まるのか、そして自分は一体どうすれば良いのか分からず、眩暈さえ覚えた。
自分の育った家だというのに、何が起ころうとしているのか見えない。
「――雅恭、お前の言いたいことは解った。だが、考えを変える気は無い」
はっきりとした声が頭上から響き、雅恭は顔を上げる。そこには既に自分から視線を外した兄の姿だけがあった。
「雅史を連れて行く」
「兄貴!?」
「此処に居て、雅史が幸せになれるとは思えない」
「でも、親父が許すと思うのか、志兄」
「そうだ、周雅の言う通りだ。親父に何て言う気だよ?」
「断りは入れる」
「待て、在原」
襖に手を掛けた志雅を止めたのは、それまで黙っていた紗霧であった。紗霧には、今現在の雅史の状態を見て考えるところがあった。
「何故、家から出す必要がある。それに、身体のことも――」
「身体の方は心配無いだろう。万一何かあっても、俺が診る」
「だからと言って、何も家から出すことは無いだろう」
紗霧の言葉を受けた志雅は、何か気付いた様子で襖から手を離し、紗霧に向き直る。
「…君が聞きたいのは、雅史がああなった理由か?」
志雅の核心を得た問いに、今度は紗霧が動きを止める。顎を引き、自分に向けられる感情の窺えない瞳を見返すが言葉は出ない。志雅にかかれば、さしもの紗霧も見透かされる側になるのである。我が兄ながら、考えは勿論のことその内面は未だに読めないと、雅恭は思う。
「――そんなに知りたければ君の妹にでも聞けば良い。俺の口からは、雅史の為にも言うことはできない」
「サヤが?」
志雅の言葉に、一同の視線が部屋の隅で正座していた紗霧の義妹・サヤに向けられる。
サヤは雅史の世話役でもあり、確かに今も食事などを運び雅史の部屋に入ることを許されている。何かを見ていたといても、不思議は無い。
「わ、私は……」
「サヤ。雅史のことで何かを知っているのなら、教えてくれ」
明らかに動揺した様子を見せるサヤに、雅恭が歩み寄る。
「私は、何も……」
「サヤ、本当に何も知らないのか?」
詰め寄る雅恭から逃れるように身を引いて、首を左右に振るサヤに紗霧が訊ねる。芯のある強い声音に、サヤは泣き出しそうに眉根を寄せる。顔を背け、壁際に追い詰められながらも、サヤは口を噤み続けようとした。しかし、震えながら唇を噛み締めるその姿こそが、何かを知っているのだと物語っていた。
雅史の精神を狂わせたのは何か。それが判れば、志雅を止めることもできる。雅恭はそう考えていた。
「サヤ」
再び名を呼ばれ、顔を上げると自分を見つめてくる義姉の眼とぶつかった。これまで一度たりとも見たことの無い、姉の瞳である。眼鏡の奥から、自分に注がれる一筋の光。鋭くも穏やかさを潜めた眼。その真っ直ぐな視線が、サヤの良心に触れた。
「…お、御館様が…」
小さな声で、サヤは呟くように口を割った。
「…私に、仰られたのです。雅史様を、私に下さると…」
「雅史を…? サヤ、まさかお前――」
「私はっ! 決して明かすつもりはございませんでした!」
サヤは顔を振り上げ、紗霧の言葉を否定する。
「胸の内に仕舞い、主従以外の想いなど見せぬように、これまでも、そしてこれからもお世話をしていく所存でございましたっ。…ですが…ですが御館様の御言葉に、私の心はいとも容易く崩れてしまったのでございます」
はらはらと、サヤの眦から涙が零れる。溢れる想いに言葉が誘われたのか、それとも涙に言葉が引き出されたのか、サヤは話を続けた。
「…雅史様の御側に、この私が居られるようにして下さると、御館様は仰せになられました――」
「――ですが御館様。雅史様は奥様を…」
サヤは申し難そうに言葉を濁し、主人の答えを待った。雅史の心に存在する想い人を、サヤも知っていたのである。そしてそのために、雅史が自室に臥せっていることも。
今とて、雅史の食事や薬から身の回りのことを済ませて来たばかりだ。雅史の様子は、よく分かっている。しかしそんなサヤの心配を他所に、主人は柔らかな微笑を見せた。
「あれは、単なる気の迷いに他ならん。若さ故のな…」
紫煙を吐きながら、主人は言葉を口にした。
「雅史も直ぐに気付くであろう。その気も無く、人の心を惑わすことほど罪なものは無い。雅史の為にも、このことが本心ではないことを、理解してやってくれぬか、サヤ」
とても深い、慈愛に満ちた眼差しで、雅史の居る離れを見遣るその姿に、サヤは静かに頷きを返す。
「お前なら、解ってくれると思っていた。雅史は今回のことで、心労から再び身体を患ってしまっているが、お前が側に居れば大丈夫であろう。これからも雅史を頼むぞ、サヤ」
開け放たれた障子戸の向こう―離れを望みながら主人はもう一度笑んでみせる。そしてゆっくりと、口を動かした。
「サヤ、これから雅史の身の回りはお前に任せる。それで、ひとつ頼みがあるのだが、この薬を毎晩の食事に混ぜて、持って行って欲しい」
袖口から薬包を取り出し、主人はサヤの手元に置いた。
「実は、どうやら雅史はこの薬が苦手らしくてな……。処方されても飲まずに医者の先生を困らせているらしい。だが無理に与えるというのも今は酷なことだ。聞けばこの程度なら、食事に混ぜれば薬の味も分からないということだ。どうだろう。頼めないか、サヤ?」
「かしこまりました、御館様。私も、雅史様には一日も早く良くなっていただきたいと思っております」
「そうか、良かった。――サヤ、できれば内密に頼む」
「――御館様はそう仰せになられて、その薬を私に御渡しになられました。…それから毎晩、雅史様のお食事に混ぜて御膳を運びました。私は、雅史様のそのようなお姿を人に漏らすことはできないと思い、薬はいつも胸に隠し持っておりました」
サヤの雅史を想う気持ちが無くとも、事は成されていただろう。もとよりサヤは雇われの身。それも単なる使用人ではなく、半ば人質と呼ぶような身上であった。それ故、主人の言葉に逆らうことなど到底無理な話であり、頭からサヤを非難することはできない。雅恭にも当然理解できていたからこそ、遣る瀬無い気持ちに拍車が掛かる。
「それで、一体何があった…?」
「…お医者の先生がお帰りになられた後、雅史様がお休みになっておられた所へ、御館様が部屋に来られました。雅史様のご様子をお尋ねになられたので、今はお休みになられていると申し上げました。そうしたら、此処はもう良いから、自分も休むようにと仰せになられたので、部屋を出ました。…それから少しして、雅史様のお部屋に置き忘れてしまった物に気付き、私は来た廊下を急いで戻り、離れに向かいました。…そうしたら…、そこで――…」
「何があった? お前は何を見たのだ?」
言い淀み、言葉を詰めるサヤの様子に、雅恭が詰め寄る。
「…そ、そこで私は…見て、しまったのです…御館様が、雅史様に…雅史様のお体に…」
そこまで口にして、サヤは目にした光景を思い出したのだろう。その先を、嗚咽で言葉にできなくなった。
涙も止め処無く流れ、倒れこむようにして畳に手を着く。小刻みに震えるサヤの背中に、紗霧が手を伸ばした。その一点から広がる温もりに、サヤはまたも涙を溢れさせた。
二人の姿からこれ以上は望めないと思ったのか、雅恭は今聞いた話から推測できたことを確かめるため、部屋を出ようとした。
気付けば兄の姿も無い。
もしや既に父の元へ向かったのだろうか。
ならば自分も急がなければならない。
父の言葉で、志雅が考えを変えることなどあり得ないと、雅恭は知っている。
今ここで、自分が出たとしても、変えることはできないかもしれない。
しかしそれを指を咥えて見送れるほど、雅恭も子どもではなかった。