~鏡匣ノ節~ (一)
凍てつく寒さが冷えた床から足元を伝って全身に広がる。心の臓を捕らえるかのような氷の檻は、蛇の牙が直ぐそこまで迫っていることを知らせているようだ。
かつてこの間に居た人物は、一体何を思っていたのだろう。蔵の壊れた本鍵の代わりに、扉に下げられた南京錠が内側から掛けられているのは何故か。外界と繋がる唯一の扉に掛けられた鍵もそうだ。そして扉から一番離れた隅の壁面に刻まれた、幾筋もの線は何を意味するのか。小さな格子窓から差し込む陽光も届かぬその一角で、何を考えていたのだろうか。
かじかむ指先を握り締めながら、若葉は額に拳を当てた。
――母さん、これを……。
優しい声と自分とそう変わらない―否、自分よりも細く儚げな白い手から渡されたそれは、家人に連れ戻された今でも若葉の手の中にある。ふたつの鍵。梅の花と鶴の姿が彫られた真鍮の鍵は、間違い無く、眼前に立ちはだかる檻から自分を出してくれるものだ。
「…どうしたらいいの…」
白い息と共に吐き出された言葉は、微かに震えていた。
そこへ、蔵の扉が開かれ階下から人の上ってくる足音が聞こえた。軋む音を立てて近付いてくるほの明かりに目を向けて、若葉は手元の鍵を帯の内に隠す。
初めは逆光で相手の顔は判らなかったが、格子の向こうに立ち、足元に明かりを置いた手で鍵を開けようとした時、ようやくその人物が誰であるか若葉にも見えた。
「お話しがあるのなら、このままで話して頂戴。雅恭さん」
その声に鍵を開けようとしていた手を止めると、雅恭は下ろしていた前髪を煩そうに掻き揚げ、口許に薄い笑みを浮かべた。
「お元気そうで安心しました」
「えぇ、ちゃんとお食事も運んで頂いているわ」
「そうですか…。少々お聞きしたいことがありまして、訪ねさせて頂きました」
「お父様には内緒で? ならば秘密のお話しかしら」
若葉はいつも通りのにこやかな声音を意識して応える。しかし雅恭にその態度は通じなかった。
「流石、そちらの手管も素晴らしいものをお持ちのようだ」
含みのある雅恭の言葉を受け、若葉はキッと睨み据えた。
「…裕福な暮らしだけでは、物足りませんか?」
「何ですって?」
「あなたは望み通り、父との結婚で明日の心配などせずに済む暮らしを手に入れた。それでもまだ、足りないのか・と聞いているんです。所詮、金に目が眩んだ結婚だ――」
「そうでなくては、誰がこんな家に来るというのっ!?」
若葉は顔を歪め、憎悪の灯った瞳を向けた。
「誰が、自分よりも遥かに歳のいった男の、しかも自分より年上の子供が居る家なんかに後妻としてくるというのよっ。財産目当て? 当然じゃない!この若さと美貌を持ちながら、どうして愛やなんかでこんな家に入ると思うのよっ」
「……開き直り、ですか」
「あら、当然のことを当然と言っているだけよ。今更、お綺麗な正論なんかを突き付けられたって、私は痛くも痒くもないわ」
「それは一向に構いませんが、誰彼構わず足を開くのは見逃せませんね」
「ふんっ。そんなこと言ったって、男は皆同じじゃない。考えていることは変わらないわ。あなただってそんなことを言っていながら、あの人の子供なんだから、どうせ――」
「確かに、俺もあの男の血を引いている。否定はしません。…ただ、安心しました。そこまでご理解いただけるのでしたら、これから起きることも理解していただけるでしょう」
雅恭の顔に悪辣な笑みが浮かべられた。
「あの男と同じに捉えられるのは心外ですが、この際そんなことはどうでも良い。あなたを消してでも、俺は雅史を救わなければならない」
「な――っ!」
驚愕に眼を見開き、瞬時に浮かんだ恐怖に顔を青ざめる。若葉はすぐさま壁際に後じさり、雅恭を見返した。
「…ここまでとは知らなかったわ…血は争えないわね」
また父親と重ねられ、雅恭は不愉快そうに目を細める。若葉は胸元で握り締めた指先に力を入れて続けた。
「――それから、例え私が消えたところで、あの人は決してアノ子を手放したりなんかしないわよ」
含みのある言い方で、若葉は格子を挟んでこちらを見据える雅恭に言った。
「御長男の言葉でも絶対にアノ子を外になんか出さないわ。許す筈が無いもの」
「どういう意味ですか?」
「ふふ…。頭が良い貴方達でも、解らないことがあるのね。お父様の姿を見ていて何も気付かなかったの、雅恭さん?」
「親父の行動だと…? 親父は、雅史の身体を心配し過ぎている面はあるが、それ以外は…」
「カラダねぇ…。確かにアノ子の身体を気に掛けているのは本当でしょうね。母親の二の舞いになってしまわないように、それはそれは大切に育ててこられたようだから」
「雅史の母親を知っているのか!?」
雅恭は若葉の口から出た言葉に、食い付くようにして格子に手を掛ける。その様子に若葉は一瞬だけ、眉を上げて驚いた表情を見せたが、直ぐに変わらぬ笑みを浮かべた。
「やっぱり、聞かされていないのね…可哀相に…」
「知っているのなら教えろ。…それが条件だと言うのなら、場合によっては呑んでも構わない」
「あら、そんなに躍起になることかしら。貴方の兄上は御存知のことなのに」
「兄貴が?」
「ええ。だからあの人は、御長男の勘当を認められたのよ。でなければ、家督を継ぐ人物をそう簡単に家から出すなんてありえないでしょう。何よりも、正式に在原家の嫁として認められていたのは、御長男の母君だけなのですもの」
「…なんで、そんなことまで…」
「当然でしょ。結婚相手の素性は隈なく調べさせて貰ったわ。例え、金銭私欲のための婚姻であったとしてもね」
若葉は雅恭から視線を外し、息を吐く。
「…やはりあの時、逃がしてあげれば良かった…」
風に紛れてしまうほどの小さな声で、若葉は呟いた。
意味が解らず雅恭が聞き返そうとしたところへ、慌しい足音を立てながら、雅匡が息を切らして入ってきた。
「兄貴っ、雅史の様子が――!」
「どうかしたのか?」
「今は周雅兄が付いてるけど、とにかく様子がおかしいんだ。直ぐに来てくれ」
「おかしい? ……医者に連絡は?」
「今連絡させている。だけど、アイツが出て行った時から、雅史の様子がおかしかったらしいんだよ」
「どういうことだ?」
「とにかく、直ぐに来てくれっ」
雅匡に引かれて牢を出る時、不意に背後で笑い声が聞こえた。それは先頃の若葉の笑い声に似ていた。