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吟於霄  作者: 智郷樹華
本編
1/14

~蝉櫛ノ節~ (一)

 まるで蛇のようだ。

 木上から地上を見下げて獲物を狙い、鋭い眼光を駆使して内側から支配する。

 狡猾で、残忍で、非情さを持つ生物。滑りを帯びた皮膚をくねらせた姿態は、恐怖にまさる美しさを携えて、見る眼を引く。

 ただそれが、人間のからだを持ち得ている。

 そして自身と同じ血脈の、「父」という肩書きを持っている。それだけだ。


 朝食の席で隣に座る女―妻と絶えず言葉を交わしている男を見ながら、末席に座る少年は思う。

 肉厚で脂ののった腹を恥ずかし気もなく衿の間から突き出し、箸よりも左手に持つ杯ばかり口に運ぶ男。脇息に肘を掛けて焼き魚をつつく様は、御世辞にも、行儀の良いものとは言い難い。

 それでもこの男は、家長だ。

 即ち、本をただせば公卿・大名家の血筋を引く在原サハラ家の、現当主である。そして紛れも無く、少年の実父でもあった。

 在原 雅史タダシ。在原家五男・末子の彼は、白皙の肌に端正な風貌を持つ少年である。

 一見すれば少女とも見紛う程の、ひどく線の細い印象は病床の幼少期を過ごしたためである。加えて、母親譲りの顔立ちが彼の繊細な雰囲気を作り上げていた。今でこそ少年らしさがあるものの、未だに兄たちからは可愛がられる対象となっている。しかし、それは自分に向けられたものでは無いと、当の雅史は思っていた。

 それというのも、先年、別宅で療養中であった妹が遂にその短い生涯を閉じたためである。

 名はミノリ。在原家の長女であった彼女は、雅史と年齢も近かった。

 会ったのは数える程度でしかないものの、同じ境遇の幼い妹が夭逝ようせいした事実は雅史の心に衝撃を与えた。同時に、ある思いも芽生えさせたのであった。

 けれど他の兄弟、在原家次男を筆頭とした三人の兄たちは、妹の死を悲しみこそすれ、一日として一緒に暮らしたことの無い彼女を長く偲び続けることは無かった。

 だからというのか、彼らはミノリを追うようにこの世を去った母(兄弟の内とは誰とも血の繋がりの無い女)を、憐れみはしても、葬儀の折には冷静な対応を見せた。

 形式上では母親であった女性でも、全くの赤の他人に違いない。そういう認識だった。

 そしてそれは、新たな後妻に対しても、同じであった。

 在原 若葉ワカバ。現・在原夫人は六番目の妻である。

 見目麗しく、物静かな女性だ。常に穏やかな笑みをたたえ、可憐な容姿にあどけない表情を浮かべている。そして事実、彼女は在原家長男よりも歳が若かった。

 つまり雅史の父は、自分の娘とも言える女を嫁に迎えたのである。


「雅史さん、もう宜しいの?」

 箸を置いて席を立とうとしたところへ、鈴が転がる様な甘い声音が響いた。向けば、母親と呼ぶには若過ぎる顔にこちらを窺う表情があった。

「ごちそうさまでした」

 小さく言って、雅史は部屋を出た。

 後ろ手に障子を閉め、平静を装いながら足早に自室へ向かう。

 板張りの外廊下を抜け、中庭に面した渡り廊下を行くと、雅史に宛がわれた離れが見えてくる。

 自室に転がり込むと、初めて自分が呼吸を止めていたことに気付いた。

 二度、三度と深く息を吸い込み、呼吸を整える。微かに震える指先を見て、雅史は眉根を寄せた。

――雅史さん。

 新しい母は、自分のことをそう呼ぶ。

 彼女はこれまでの母より数段若く、物腰が柔らかで、温かい。

 肩口をさらりと流れる黒髪は光を抱き、彼女が動く度にほのかな香りを放つ。

 穏やかな女性らしく、静かな足取りで屋敷内を回り、午後には縁側で読書をするのが習慣になっている。家のことは係りの者がするし、彼女の仕事といえば、主人である父の相手をすることぐらいだからだろう。忙しく動いている様相を目にしたことがない。

 傍から見れば贅沢な暮らし振りだが、若い盛りの当人にとっては、退屈に他ならないだろう。まして、いくら奥方という地位であっても、新参者では生活も楽ではない筈だ。

 それでも彼女は母親として一所懸命に、家人たちに認められようと日々努めていた。呼び方もその一つだ。

 言葉にすれば余所余所しいが、口調がそれを和らげて、親しみを感じさせる。馴れ馴れしいものよりは、余程マシだ。

 先の母となった一人は、兄弟全員を愛称で呼ぼうとしたところ、三番目の兄から反感を買ったらしい。この話は雅史が生まれる以前のことで、本人から教えて貰ったものだ。


 在原家の兄弟は、母親が異なるとも皆仲が良かった。

 そして一様に、雅史に優しかった。

 顔立ちは似ておらず、性格も内省的で身体も弱い。それでも彼らは兄弟の一員として雅史に接してくれていた。病床に臥せっていた頃も、兄たちは毎日のように訪れ、色々な話を聞かせてくれた。人と接する機会の少なかった幼少期を経ても、兄たちには何でも話せる。雅史は心から、彼らを尊敬していた。

 畳の上に転がっていた雅史は、窓辺から差し込む陽光を眩しそうに見上げ、そして身を起こす。

 美しい後妻にまだ慣れずにいる気持ちを抑え、もう一度大きく息を吸って、部屋を出た。

 向かった先は母屋を挟んで反対側にある射場。自家用のこぢんまりとした造りだが、精神を落ち着かせるには十分な場所だった。

 袴姿に身形を整え、礼を経て、的に向かう。略式の所作手順ではあるが、雅史に弓道の心を教えたのは次兄である。外に出ることの出来ない雅史でも、身体を動かせるならば、と言って、手解きをした。

 この射場自身は昔からあったようで、使われていなかったのを、兄たちが一種の遊び場として再開したのだそうだ。しかし今では、雅史のみが使用している。

「お見事」

 幾筋目かの矢を放ち、その矢が的に当たったところで、背後から声が聞こえた。

 振り返ると其処には、自分の主治医である嶋田シマダ 紗霧サギリの姿があった。

「検診のお時間です。部屋にお戻り頂きたい」

 紗霧は、微笑みながら言った。

 眼鏡の奥で光るその眼が「もう十分だろう」と言っている。

 切れ長で秀麗なその目は、いつも雅史の心を見抜くように見つめてくる。そして今も確かに、雅史の気持ちは落ち着いていた。

 一息吐いて肩の力を抜くと、弓を片付け、雅史は紗霧と共に自室へ帰った。


「体の方は、調子が良いみたいですね」

 検診が済むと、机に向かってペンを走らせながら紗霧は言った。

 着衣の衿を引きながら、雅史は黙ってそれを聞く。どうせいつも通りのことだろうと、右から左へと流した。

 紗霧は、数十代続く名門医家の娘である。淡白な人柄で、いつも冷静な対応をする。

 顔立ちは、長い髪と眼鏡で隠しているが、凛とした芯のある美しい表情を見せた。前任者とは大違いの対応だ。

 以前の主治医は老齢で癖のある人物だった。診察時の態度もそうだが、やたらと注射をする。採血、栄養剤の投与、その他様々な理由をつけては、検診の度に雅史の腕に針を刺した。

 その後、妹の発病を機に医師が替わると、雅史は、やっとあの注射地獄から解放されると、心から安堵したものだ。

 そしてやって来たのが、紗霧だった。

 しばらくは先の医師が二人を診ていたのだが、年齢を理由に、長兄が父に掛け合ったらしい。

 自分の知り合いに、優秀な医者がいる。そう言って、自身と同じ医大生だった紗霧を紹介した。

「…兄は、元気ですか?」

 不意に雅史が口にすると、紗霧は手を止めた。

「在原は、相変わらずのようですよ。伝言があるのでしたら、お伝えしましょうか?」

「いえ、そういう訳ではありません」

 柔らかく微笑まれ、雅史は顔を逸らした。いつまでも、自立できない弟だと思われては、兄に迷惑が掛かるだろう。微かに眉根を寄せて、自分の言葉を後悔した。

「…在原は、よく君のことを聞きますよ。まだ、家に帰る気にはなっていないようですけどね」

 まるで、自分の心を察したような紗霧の口振りはいつものことだったが、今日は素直な気持ちで受け止めることができた。加えて、雅史の気持ちは温かくなっていた。

 兄が自分のことを気遣っているということが、嬉しかったのだ。

 そんな雅史の様子を横目に、紗霧は小さく笑いを漏らした。

「――体調も安定しているようですから、今日のところはこれで終わりです。どうぞ、射場でも、読書でもなさって下さい」

 紗霧からの許しを得て、雅史は小さな声で挨拶をすると、着替えるために奥へ下がった。

 やはり今日も、外出は許されなかった。

 そう思いながら、雅史は袴の紐を解く。微かな苛立ちを覚えながら、乱暴に脱いだ衣類を放り投げると、どさりと畳の上に腰を下ろす。窓枠に肘を掛け、庭先に目をやると、輝石を散りばめたように光る池の姿が見えた。

 じっとそれを見ているとまるで、閉じ込められた一片の空が、ゆらゆらと漂っているように思えた。

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