「お前の代わりはいくらでもいる!」と宮廷薬師をクビになりましたが、私の薬が切れた王太子殿下が雄鶏になったそうです。今さら戻れと言われても、プリンと定時退勤は譲れません!
「お前の代わりはいくらでもいる!」と宮廷薬師をクビになりましたが、私の薬が切れた王太子殿下が雄鶏になったそうです。今さら戻れと言われても、プリンと定時退勤は譲れません!
「お前の代わりなど、掃いて捨てるほどおるわ!」
王宮調剤室に怒号が響き渡った。
宮廷薬師長エドワード伯爵が机を叩き、積み上げられていた書類が宙を舞う。
その向かいで、私――宮廷下級薬師のフィオナは、薬草をすり潰していた手を止めた。
「……掃いて捨てるほど、ですか?」
「そうだ! 薬草をすり潰して茶を淹れるだけの雑用係が、調子に乗りおって! 我が優秀な弟子たちがいれば、お前のような平民上がりの小娘など必要ない!」
伯爵の背後で、三人の見習い薬師がくすくすと笑っている。
「毎朝、殿下にハーブティーを運ぶだけでお給金をもらっているんですものねえ」
「羨ましいお仕事ですこと」
「僕らなら、もっと高級な薬を調合できますよ」
……ああ、なるほど。
この人たち、本当に何も分かっていないんだ。
私は小さくため息をついた。
「伯爵様。一応、申し上げておきますが」
「何だ!」
「セシル殿下に毎朝お出ししているお薬は、ただのハーブティーではありません。あれには私の固有魔法『調和の祝福』を込めてあります。服用が途切れますと、殿下のお身体に少々……いえ、かなり厄介なことが起きます」
「黙れ黙れ!」
伯爵は真っ赤な顔で手を振り回した。
「たかが茶に大層な名前をつけおって! お前のような下級薬師に、何ができるというのだ!」
「ですから、殿下には特殊な呪いが――」
「言い訳は聞かん! 今すぐ出て行け!」
……はい、終了。
これ以上説明しても無駄だろう。
私は着ていた麻のエプロンを外し、丁寧に畳んだ。
「かしこまりました。では、本日をもって退職いたします」
「ふん! 最初からそうしておればよいのだ!」
「ただし、殿下のお薬だけは継続していただくことを強くお勧めします。調合記録は私の机の引き出しにありますし、神官長様にも事情をお伝えしてあります。必ずご確認ください」
「必要ないと言っておる!」
「……そうですか」
私は乳鉢を綺麗に拭き、私物の薬研と道具袋を抱えた。
最後に、窓辺で育てていた小さな薬草の鉢植えも持ち上げる。
銀色の葉脈を持つ珍しい薬草――月露草。
これこそ、殿下の呪いを完全に解くために必要な最後の材料だった。
あと七日ほどで花が咲く。
そうすれば、私の『調和の祝福』と組み合わせて、呪いを根元から消し去ることができる。
私は葉をそっと撫でた。
――殿下、ごめんなさい。
毎朝、私の薬を飲みながら「今日も助かった」と笑ってくださった、あの優しい王太子殿下。
ある冬の日には、凍えた手で薬を運んだ私に、ご自分の温かい手袋をくださった。
「そなたが倒れては、余が困るからな」
そう言って微笑んでくださったことを、今でも覚えている。
本当なら、最後までお守りしたかった。
けれど、私にはもう宮廷に残る権限がない。
せめて神官長様が、薬の重要性に気づいてくださればいいのだけれど。
「それでは、失礼いたします」
私は深々と頭を下げ、調剤室を後にした。
背後から、伯爵の高笑いが聞こえてくる。
「はっはっは! これでようやく無能な平民が消えたわ!」
……あーあ。
知らないからね。
殿下のあの呪い、薬が切れたら結構すごいことになるんだけど。
それも、ちょっとやそっとの騒ぎじゃ済まない方向に。
* * *
三日後。
「ふああ……幸せ……」
私は王都の外れに借りた小さな長屋で、湯気の立つ鶏がゆを頬張っていた。
刻んだ葱と生姜をたっぷり入れ、仕上げに胡麻油をひと垂らし。
ほろほろに煮込まれた鶏肉の旨味が、疲れた身体にじんわり染み渡る。
「温かいご飯を、温かいうちに食べられるって素晴らしい……!」
宮廷にいた頃は、朝は夜明け前から薬の仕込み、昼は調剤室の雑用、夜は殿下の呪いを抑えるための研究。
徹夜も珍しくなかった。
それなのに、手柄は全部伯爵のもの。
お給金は雀の涙。
休日なんて、ほとんどなかった。
「追放って、もしかして最高のご褒美だったのでは……?」
私はしみじみと呟いた。
窓辺では、持ち帰った月露草が朝日を浴びている。
実は昨夜、私の魔力を少しずつ注いでいた月露草が、予定より早く一輪だけ花を咲かせた。
淡い銀色の花弁は、月の光を閉じ込めたように輝いていた。
おかげで、完全解呪に必要な薬はもう完成している。
ただし、呪いの核を消し去るには、私自身が殿下に直接魔法をかけなければならない。
……もっとも、私はもう宮廷薬師ではないのだけれど。
「神官長様から連絡があれば、いつでも治療に行けるんですけどねえ」
私は窓辺の小瓶を見つめた。
中には淡い金色のシロップが入っている。
これさえあれば、殿下を助けられる。
「まあ、今日はのんびりしましょう。せっかくのお休みなんですから」
私は再び鶏がゆを口に運んだ。
その瞬間。
ドガァァァンッ!!
「ひゃああっ!?」
突然、玄関の引き戸が吹き飛んだ。
木片が舞い、土埃が巻き上がる。
せっかくの静かな朝が、一瞬で台無しになった。
「フィオナァァァ!!」
飛び込んできたのは、泥だらけの近衛騎士たち。
そして、息も絶え絶えのエドワード伯爵だった。
「お、お前! こんなところにいたのか!」
「住んでるんですけど!?」
私は思わず立ち上がった。
「それよりドア! 私のドア! 今、完全に吹き飛ばしましたよね!? 弁償してください!」
「ドアなどどうでもよい! 今すぐ王宮に戻れ!」
「どうでもよくありません! 夜、寒いじゃないですか!」
「それどころではないのだ!」
伯爵は私の肩を掴もうとして、なぜか途中で手を引っ込めた。
顔色が悪い。
真っ青を通り越して、もはや土気色である。
背後の近衛騎士たちまで、ぶるぶる震えていた。
「……何があったんです?」
私が尋ねると、伯爵は震える唇を開いた。
「殿下が……」
「はい」
「セシル殿下が……!」
「はいはい」
「鳴くのだ!!」
「…………はい?」
「鳴くのだよ! コケコッコー! とな!!」
…………。
私は静かに湯呑みを置いた。
「……あちゃあ」
「『あちゃあ』ではなぁぁい!!」
伯爵が絶叫する。
「殿下の背中に七色の羽が生えたのだ! 朝の四時になると城の屋根に登り、王都中に響き渡る声で鳴かれるのだぞ!」
「四時ですか。早起きですね」
「それだけではない! 昨日は宰相の頭をつついて、カツラを毟り取られた!」
「……ぶふっ」
「笑うなぁぁぁ!」
いけない。
笑ってはいけない。
国の王太子が大変なことになっているのだから。
でも、宰相様のカツラを……。
「ふ、ふふっ……すみません。続けてください」
「今朝など、庭園でミミズを見つけて、たいそう嬉しそうに目を輝かせておられたのだ!」
「……それは重症ですね」
私は真顔に戻った。
ミミズを美味しそうに見始めたのなら、呪いはかなり進行している。
「ちなみに、殿下の羽毛はどんな具合です?」
「それはもう、艶やかで……日の光を浴びると七色に輝いて……」
「立派な雄鶏になりつつありますね」
「感心している場合かぁぁぁ!」
伯爵は頭を抱えた。
「我が優秀な弟子たちに薬を作らせたが、何を飲ませても羽毛の艶が増すばかり! ついには王宮の庭師が『あれほど見事な羽根は見たことがない』と褒め始める始末だ!」
「……どんな薬を飲ませたんです?」
「王家秘伝の強壮薬と、最高級の魔力活性薬だ!」
私は額を押さえた。
「ああ……それ、呪いの魔力まで活性化させていますね」
「なっ!?」
「七彩鳳鶏の呪詛は、体内の魔力を栄養にして成長するんです。強壮薬なんて与えたら、そりゃ羽毛も立派になりますよ」
「そ、そんな馬鹿な!」
「今ごろ、王都一番の美しい雄鶏になっているんじゃありません?」
「実際、王都の養鶏組合から『ぜひ品評会に出場していただきたい』と申し出が来ておる!」
「……ぶふっ!」
「笑うなと言っておろうがぁぁぁ!」
駄目だ。
品評会は駄目だ。
想像しただけでお腹が痛い。
私は必死に笑いを飲み込み、咳払いした。
「伯爵様。以前、私が何と申し上げたか覚えています?」
「な、何だ?」
「殿下のお薬は普通のハーブティーではない、と」
「うっ……」
「私の固有魔法で呪いを抑えている、と」
「ぐっ……」
「薬を止めると厄介なことになる、と」
「ぐぬぬ……!」
「全部、説明しようとしましたよね?」
伯爵は目を泳がせた。
「そ、それなら、もっと分かりやすく説明すればよかったではないか!」
「『黙れ黙れ』って言われましたけど?」
「…………」
「それで、殿下の呪いの正体は分かったんですか?」
「ま、魔獣化の呪いだと、神官長が……」
「正確には『七彩鳳鶏の呪詛』です。隣国の邪教徒が殿下に仕掛けたもので、次の満月までに完全解呪しないと、殿下は人間の姿に戻れなくなります」
「な、何だとぉぉ!?」
伯爵の膝ががくがくと震えた。
「満月は……あと四日しかないぞ!?」
「そうですね」
「ど、どうすればよいのだ!?」
「私、クビになりましたし」
「フィオナァァァ!!」
伯爵が床に崩れ落ちた。
「頼む! 戻ってくれ! 報酬なら望むだけ出す! 何でもする! だから殿下を元の美しいお姿に戻してくれぇぇぇ!」
私は腕を組んだ。
「そうですねえ……」
正直、宮廷には戻りたくない。
あの徹夜続きの生活に逆戻りするなんて、考えただけで胃が痛い。
でも。
毎朝、私に「無理をするな」と声をかけてくれた殿下。
寒い日に手袋をくださった殿下。
あの方が苦しんでいるなら、放っておくわけにはいかない。
……だからといって、タダ働きする気もないけれど。
「分かりました。三つ、条件があります」
「何でも言え!」
「一つ。壊したドアの修理代と、不当解雇に対する慰謝料を支払うこと」
「払う! 倍でも十倍でも払う!」
「二つ。私専用の研究室と十分な予算を用意し、今後は誰にも研究の邪魔をさせないこと。伯爵様も含めて、です」
「わ、分かった!」
「そして三つ目」
私はびしっと人差し指を立てた。
「王宮の最高級シェフが作る『極上プリン』を、毎日おやつに届けること!」
「…………は?」
「もちろん、定時退勤と週二日のお休みも必須です」
伯爵はぽかんと口を開けた。
「そ、それだけでよいのか……?」
「それだけ?」
私はにっこり笑った。
「伯爵様。美味しいプリンと十分な睡眠は、人生において最重要事項ですよ?」
「わ、分かった! 全面的に受け入れる!」
「口約束では困ります。書面にしてください」
「今ここで書く!」
伯爵は震える手で契約書を書き始めた。
私はそれを一字一句確認し、署名を済ませる。
ただし、伯爵の署名だけでは心もとないので、同行していた近衛騎士団長にも証人として署名してもらった。
「では、参りましょうか」
「おお! フィオナ!」
「ただし、その前に」
「ま、まだ何かあるのか!?」
私は床に散らばった木片を指さした。
「ドアの修理職人、ちゃんと手配してくださいね?」
* * *
王宮は、想像以上の大騒ぎになっていた。
廊下には神官や貴族たちが右往左往し、近衛騎士が必死の形相で走り回っている。
その奥から聞こえてきたのは――。
「コケェェェェッ!!」
……うん。
間違いなく殿下だ。
「フィオナ殿! よくぞお戻りに!」
神官長が涙目で駆け寄ってきた。
「申し訳ありません! あなたが残してくださった調合記録を確認しようとしたのですが、薬師長が保管庫を封鎖してしまい……!」
「やっぱりですか」
「私がもっと強く止めていれば……!」
「今は殿下の治療が先です。お話は後で伺いますね」
「は、はい!」
そのとき、廊下の向こうから三人の見習い薬師が駆け寄ってきた。
私を追放するとき、伯爵の背後で笑っていた三人だ。
「フィ、フィオナさん!」
「お願いです! 殿下を助けてください!」
「僕たち、最高級の薬を何種類も試したんです! でも、全部駄目で……!」
「そうですか」
私は静かに頷いた。
「それで、殿下の具合は?」
「そ、それが……」
一人の見習いが、おずおずと答えた。
「羽毛の健康状態だけは、完璧です……!」
「…………」
「栄養状態も良好で、翼の発育も申し分なく……!」
「…………」
「このまま成長すれば、王国史上最高の雄鶏になるかと……!」
「誰が雄鶏の品評会を目指せと言ったぁぁぁ!!」
背後で伯爵が絶叫した。
……いや、それを育てたのはあなたたちでしょうに。
私はため息をついた。
「皆さん。高級な薬が、必ずしも良い薬とは限らないんですよ」
三人は揃ってうなだれた。
「……はい」
「それに、薬草をすり潰すだけの仕事にも、ちゃんと意味があります」
「……申し訳ありませんでした」
私はそれ以上責めなかった。
今は一刻も早く、殿下を助けなければならない。
神官長に案内され、私は寝室の扉を開けた。
そして、絶句した。
豪華な天蓋付きベッド。
その天蓋の上に、金髪を逆立てた美青年がしゃがみ込んでいる。
背中からは見事な七色の翼。
腰のあたりには長く優雅な尾羽。
そして、なぜか胸を張り、片足で立っていた。
……想像以上に立派な雄鶏だった。
「……殿下?」
「コケッ!?」
殿下がこちらを向く。
「フィ、フィオナ……!?」
その瞬間、鋭かった目が大きく見開かれた。
「そなた……戻ってきてくれたのか……!」
「はい。少々お休みをいただいておりました」
「すまない……! そなたが解雇されたと知ったのは、すでに呪いが進行してからだった。余がもっと早く気づいていれば……!」
「殿下のせいではありませんよ」
「だが、余は……!」
殿下が天蓋から身を乗り出した。
バサバサッ!
「コケェッ!?」
七色の羽根が舞い散る。
……危ない。
「殿下、落ち着いてください。今はあまり羽ばたかないで」
「わ、分かった……」
殿下はしゅんと首をすくめた。
その姿が、妙に可愛らしい。
「フィオナ……」
「はい?」
「余は、もう二度とそなたに会えぬかと思った」
殿下の声が震えた。
「毎朝、そなたが薬を運んでくれるのを楽しみにしていた。なのに、突然姿が見えなくなって……」
「殿下……」
「余は、そなたに礼の一つも満足に伝えられぬまま――」
「コケェェッ!!」
…………。
感極まった殿下が、盛大に鳴いた。
部屋中が静まり返る。
殿下の顔が、みるみる赤くなった。
「……今のは忘れてくれ」
「……はい」
「絶対にだぞ」
「……努力します」
駄目だ。
笑ってはいけない。
今は治療が先だ。
私は必死に表情を引き締め、道具袋を開いた。
中から取り出したのは、小さなガラス瓶。
中には淡い金色のシロップが入っている。
「それは……?」
「月露草の花から作った解呪薬です」
私は瓶を光にかざした。
「殿下の呪いは、普通の解呪魔法では消せません。だから私はこれまで、毎朝の薬で呪いを抑えながら、完全解呪のための薬草を育てていたんです」
「……そうだったのか」
「本来なら満月の夜に咲く花なのですが、私の魔力で開花を早めました。昨夜、ようやく一輪咲いたんですよ」
「では……!」
「はい。今度こそ、完全に治せます」
殿下の瞳が潤んだ。
「フィオナ……余は、そなたにどれほど救われていたのだろうな」
「それは治ってから考えましょう。さあ、こちらへ降りてきてください」
「う、うむ……」
殿下は天蓋から降りようとした。
ところが。
「コケッ!?」
バサバサバサッ!
突然、翼が大きく広がった。
殿下の身体がふわりと浮き上がる。
「なっ!? 身体が勝手に……!」
「ああっ、殿下! 飛ばないでください!」
「余も飛びたくて飛んでいるわけではない!」
「そこの騎士様! 窓を閉めて!」
「はっ!」
近衛騎士たちが慌てて窓を閉める。
しかし、その直前。
窓の外から、一羽の雄鶏が鳴いた。
「コケコッコー!」
「コケェェェッ!!」
殿下が反射的に返事をした。
そして、勢いよく天井に頭をぶつけた。
ゴンッ!
「ぐあっ!」
「殿下ぁぁぁ!!」
神官長が悲鳴を上げる。
私は思わず頭を抱えた。
……もう。
なんで解呪するだけで、こんなに大変なの!?
「殿下! 私の声を聞いてください!」
「フィ、フィオナ……!」
「今から薬を飲んでいただきます。ですが、呪いが薬を嫌がっているので、身体が勝手に抵抗するかもしれません」
「そ、そうなのか!?」
「ですから、絶対に私から目を離さないでください」
殿下は私を見つめた。
七色の翼が、ゆっくりと動きを止める。
「……分かった」
「大丈夫です。私が必ず治します」
私は手を差し伸べた。
殿下はしばらく私を見つめていたが、やがてそっとその手を取った。
「……そなたを信じよう」
その声は、いつもの優しい王太子殿下のものだった。
私は微笑んだ。
「では、口を開けてください」
「うむ」
殿下は素直に口を開いた。
「コ、コケ……」
「鳴かなくて大丈夫ですよ」
「……すまぬ」
私は笑いながら、シロップを数滴垂らした。
そして、殿下の胸元にそっと手をかざす。
「――『調和の祝福』、完全展開」
指先から、青碧色の光が溢れた。
光は幾重もの輪となり、殿下の身体を包み込む。
「ぐっ……!」
黒い瘴気が噴き出した。
呪いが抵抗している。
私は目を閉じ、魔力を集中させた。
薬草の力と、私の魔力。
その二つが重なり合い、呪いの核へと浸透していく。
しかし。
「コケェェェェッ!!」
突然、殿下が大きく鳴いた。
黒い瘴気が一気に膨れ上がる。
「フィオナ殿!?」
神官長が叫んだ。
「呪いが暴走しています!」
「分かっています!」
私は歯を食いしばった。
七彩鳳鶏の呪詛は、宿主の魔力だけでなく、本能まで支配する。
完全解呪を阻止するため、最後の抵抗を始めたのだ。
殿下の瞳から、人間らしい光が消えかける。
「コ……コケ……!」
「殿下!」
私は殿下の両手を強く握った。
「私の声が聞こえますか!?」
「コケ……!」
「殿下! 思い出してください!」
私は必死に呼びかけた。
「毎朝、一緒にお茶を飲んだこと! 寒い日に、私に手袋をくださったこと!」
殿下の瞳が、わずかに揺れた。
「……フィ……オナ……?」
「そうです! 私はフィオナです!」
私は笑った。
「また明日も、美味しいお茶をお持ちします。だから――」
青碧色の光が、さらに強く輝く。
「ちゃんと人間に戻って、一緒に飲みましょう!」
「……ああ」
殿下の手が、私の手を握り返した。
「……約束、だ……!」
その瞬間。
――ぱきんっ!
澄んだ音が響いた。
黒い瘴気が弾け飛ぶ。
七色の羽毛が光の粒になって舞い上がり、翼も尾羽も、みるみる消えていった。
やがて光が収まったとき。
そこにいたのは、いつもの麗しい王太子殿下だった。
「……あ」
殿下が自分の手を見つめる。
「戻った……?」
「はい。もう大丈夫です」
私は微笑んだ。
「呪いは完全に消えました」
「おおおおおっ!」
部屋中に歓声が響き渡った。
「殿下が人間に戻られた!」
「奇跡だ!」
「フィオナ殿、万歳!」
神官長は涙を流し、近衛騎士たちは抱き合って喜んでいる。
エドワード伯爵に至っては、床にへたり込んだまま真っ白になっていた。
そんな中、殿下は私の手をぎゅっと握った。
「ありがとう、フィオナ」
「いえいえ。お仕事ですから」
「……そなたはいつも、そう言うな」
殿下は困ったように笑った。
「だが余は知っている。そなたが毎朝、誰よりも早く起きて薬を作っていたことも、夜遅くまで研究を続けていたことも」
「……殿下?」
「そなたが運んでくる薬は、いつも温かかった。苦いはずなのに、不思議と飲むのが楽しみだったのだ」
殿下の声が、少しだけ柔らかくなる。
「余にとって、あの朝の時間は大切なものだった」
……あら。
何だか、少し照れくさい。
「それは……ありがとうございます」
私が目を伏せると、殿下はふっと笑った。
そして、表情を一変させる。
「さて」
低い声が響いた。
「エドワード伯爵」
「ひっ!?」
伯爵が飛び上がった。
「そなたは、余の命を救っていた薬師を無能と決めつけ、説明すら聞かずに追放したそうだな?」
「そ、それは……!」
「その結果、余は城の屋根で鳴き、宰相の頭をつつき、庭のミミズを食べかけた」
「も、申し訳ございませぇぇん!」
伯爵は床に額を擦りつけた。
「しかも、そなたの弟子たちは余に強壮薬を飲ませ、羽毛を立派に育て上げたそうではないか」
「そ、それは良かれと思って……!」
「余は雄鶏の品評会に出るつもりなどない!」
「ひぃぃっ!」
「余の命だけではない。王宮の信頼まで危険にさらしたのだ。薬師長として、到底許される失態ではない」
殿下は冷ややかに言い放った。
「本日をもって、そなたを宮廷薬師長の任から解く」
「そ、そんな……!」
「今後は王立農園にて、薬草畑の雑草抜きを命じる」
「ざ、雑草抜き!?」
「何か不満か?」
伯爵が口をぱくぱくさせる。
殿下はにっこり微笑んだ。
「安心するがよい。そなたの代わりなど、掃いて捨てるほどいる」
「そ、そんなぁぁぁぁ!!」
伯爵の絶叫が響き渡った。
近衛騎士たちに両脇を抱えられ、ずるずると連行されていく。
私はその背中を見送りながら、小さく呟いた。
「……雑草も、ちゃんと見分けられるといいですね」
「何だと!?」
「いえ、何でもありません」
ちなみに後日、伯爵は薬草と雑草の区別がつかず、農園長から毎日のように叱られることになったらしい。
しかも、薬草を傷つけるたびに一から勉強し直しを命じられたとか。
……まあ、薬草をすり潰すだけの雑用係なら、簡単なお仕事でしょう?
なお、三人の見習い薬師たちも、基礎から薬学を学び直すことになった。
彼らには少し気の毒だけれど、今度こそ薬草の大切さを理解してくれるといいな。
* * *
「フィオナ」
騒ぎが落ち着いた頃、殿下が改めて私に向き直った。
「そなたに、正式に頼みがある」
「何でしょう?」
「筆頭宮廷薬師……いや、余の専属最高顧問になってほしい」
私は目を瞬かせた。
「最高顧問、ですか?」
「ああ。研究に必要な予算も設備も、望むだけ用意しよう。そなたの能力を、これ以上不当に扱わせはしない」
殿下は真剣な表情で続けた。
「ただし、余のために無理をする必要はない。休みたいときは休め。研究がしたいときは研究をすればよい」
「……本当に?」
「もちろんだ」
「定時退勤も?」
「ああ」
「週二日のお休みも?」
「当然だ」
「研究室でお茶を飲んでも?」
「好きなだけ飲むがよい」
私は少し考えた。
そして、最後の確認をする。
「……毎日の極上プリンは?」
殿下は一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「はははっ! もちろんだ! 王宮最高の料理人に、毎日違う味を作らせよう!」
「……!」
毎日違う味。
なんて素晴らしい響きだろう。
「お受けします!」
私は即答した。
「ふふっ。そなたらしいな」
殿下は嬉しそうに微笑んだ。
「では、これからもよろしく頼む」
「はい。こちらこそ!」
すると、殿下はふと真面目な顔になった。
「それから、フィオナ」
「はい?」
「今度は余が、そなたを守りたい」
「……え?」
「そなたは余の命を救ってくれた。だが、それ以上に……余は、そなたが笑っている姿を見ていたいのだ」
殿下は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「だから、もう二度と無理はさせぬ」
……あら。
何でしょう。
胸のあたりが、少しだけ温かい。
「ありがとうございます、殿下」
私は微笑んだ。
「でも、私を守るなら、一つだけお願いがあります」
「何だ?」
「おやつの時間は、絶対に邪魔しないでくださいね?」
殿下は一瞬ぽかんとしたあと、声を上げて笑った。
「はははっ! 心得た!」
こうして私は、王宮へ戻ることになった。
ただし、以前のような徹夜続きの雑用係ではない。
専用の研究室。
十分な予算。
週二日のお休み。
そして、毎日届けられる極上プリン。
……最高じゃない?
* * *
それから一週間後。
私は新しく用意された研究室で、午後のお茶を楽しんでいた。
目の前には、料理長特製のなめらかプリン。
黄金色のカラメルがつやつやと輝き、甘い香りが漂っている。
「んん~っ! 幸せ……!」
ひと口食べれば、濃厚な卵の旨味と優しい甘さが舌の上でとろける。
これよ、これ。
私が求めていた人生は。
ちなみに、新しい研究室には大きな窓があり、日当たりも抜群だ。
月露草をはじめとする珍しい薬草たちも、すくすく育っている。
研究費も十分。
助手も二人つけてもらった。
しかも、二人とも薬草が大好きな真面目な子たちで、私の研究を熱心に手伝ってくれている。
何より素晴らしいのは、夕方になればちゃんと帰れることだ。
「定時退勤って、こんなに素敵な言葉だったのね……」
私はしみじみと呟いた。
「フィオナ、いるか?」
そこへ、セシル殿下が顔を覗かせた。
「あら、殿下。どうなさいました?」
「いや、少し休憩をと思ってな」
「ちょうどよかったです。プリンがもう一つありますよ」
「そうか。では、いただこう」
殿下は向かいの椅子に腰を下ろした。
私はプリンを差し出す。
すると。
「……コクッ」
殿下の首が、小さく前後に動いた。
……ん?
「殿下?」
「何だ?」
「今、首を……」
「気のせいだ」
「でも、何だか鶏が餌をつつくみたいに……」
「気のせいだと言っておる!」
殿下の顔が真っ赤になった。
私はじっと見つめた。
「……まさか、呪いの後遺症が?」
「ない! 断じてない!」
「本当ですか?」
「本当だ!」
そのとき。
窓の外から、一羽の雄鶏が鳴いた。
「コケコッコー!」
「コケッ!?」
殿下が反射的に返事をした。
…………。
沈黙。
殿下の顔が、みるみる赤くなっていく。
私はゆっくりと湯呑みを置いた。
「……殿下」
「違う」
「まだ何も言ってませんけど」
「違うのだ!」
「……ふふっ」
「笑うな、フィオナ!」
「す、すみません……ふふふっ!」
もう駄目。
我慢できない。
私はとうとう、お腹を抱えて笑ってしまった。
殿下は真っ赤な顔でそっぽを向く。
けれど、しばらくすると、つられたように笑い始めた。
「まったく……そなたには敵わぬな」
「それはどうも」
私は涙を拭いながら、プリンをもうひと口食べた。
窓からは、穏やかな午後の日差し。
机の上には、大好きな薬草。
向かいには、少しだけ鶏の癖が残った、優しくて美しい王太子殿下。
……うん。
悪くない。
むしろ、最高の職場だ。
「ところでフィオナ」
「はい?」
「明日の午後も、こうして一緒に茶を飲めるだろうか」
殿下が少しだけ照れくさそうに尋ねた。
私はにっこり笑った。
「もちろんです。おやつの時間でしたら」
「では、約束だ」
「ただし、殿下」
「何だ?」
「プリンを食べるときは、ちゃんとスプーンを使ってくださいね?」
「使っておるわ!!」
研究室に、私の笑い声が響いた。
すると、殿下がふと真面目な顔になった。
「……フィオナ」
「はい?」
「余は、これからもずっと、そなたとこうして過ごしたいと思っている」
「……え?」
「毎日、一緒に茶を飲み、他愛もない話をして……そなたが笑う姿を、そばで見ていたい」
殿下の頬が、ほんのり赤く染まった。
「……それは、迷惑だろうか?」
私は少しだけ驚いた。
けれど、すぐに微笑んだ。
「迷惑だなんて、とんでもありません」
「本当か?」
「はい。殿下と一緒にお茶を飲む時間、私も大好きですから」
殿下の顔が、ぱっと明るくなった。
「そうか……!」
その瞬間。
「コケッ!」
嬉しさのあまり、殿下が小さく鳴いた。
…………。
「あっ」
「…………」
「……殿下?」
「今のは忘れてくれ」
「ふふっ……はい」
「絶対にだぞ!」
「努力しますね」
私は笑いながら、最後のプリンを口に運んだ。
甘くて、優しくて、幸せな味がした。
こうして、追放された下級薬師だった私は、王太子専属の最高顧問として、平和で美味しい毎日を手に入れたのでした。
ちなみに。
セシル殿下が私に求婚するのは、もう少し先のお話。
そのとき殿下が差し出した指輪の宝石が、なぜか七色に輝いていたこと。
そして、緊張した殿下が求婚の最後に、思わず小さく「コケッ」と鳴いてしまったことは――。
また、別のお話である。




