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第七話:ジャグジーと極楽の湯

 期待を胸に階段を上がりきった俺たちを出迎えたのは、一階と同様、あるいはそれ以上に濃密な静寂と、積もり積もった灰色の埃だった。

 二階の廊下は長く、左右にいくつもの扉が並んでいるが、そのすべてが蜘蛛の巣という天然の封印によって閉ざされている。窓から差し込む午後の日差しが、空気中を舞う塵を白く照らし出していた。


「……」


 隣でカエデが足を止めた。

 彼女は無言で廊下の奥を見つめ、それから足元の絨毯――かつては深紅だったであろう、今はネズミ色に変色した布地――に視線を落とした。

 杖を握る彼女の手が、小刻みに震えている。

 恐怖ではない。

 それは、自身のテリトリーに存在する「不浄」に対する、生理的な拒絶と怒りによる震えだ。


「……許せません」


 カエデが低く呟いた。


「一階をあれほど美しく蘇らせたというのに、頭上がこの有様では、画竜点睛を欠くどころの話ではありません。寝ている間に、天井の隙間から埃が降ってくるのを想像するだけで、肌が粟立ちます」

「まあ、そうだな。今日は一階のソファで寝るとしても、明日はこっちを掃除しないと……」


 俺が妥協案を出そうとした瞬間、カエデがバッと顔を上げ、俺を睨みつけた。

 その瞳には、鬼気迫る光が宿っている。


「明日? いいえ、今です。今すぐです」

「え、今から? 一階をやったばかりだぞ?」

「関係ありません。この汚れた空間を放置したままくつろぐなど、私のプライドが許しません。それに、中途半端な状態で休んでも、精神的な疲労は取れないのです」


 カエデは杖を高く掲げた。

 彼女の全身から、残った魔力を振り絞るような気迫が立ち昇る。

 大聖女改め、掃除の鬼神の降臨だ。


「天道くん、貴方はそこで見ていてください。二階全域、まとめて『浄化』します!」


 止める間もなかった。

 カエデが詠唱を開始する。


「『清浄なる水よ、我が呼びかけに応え、天井から床の果てまで、あまねく穢れを洗い流せ! 聖なる奔流!』」


 ブォン!

 空気が震え、一階の時よりもさらに巨大な水の塊が虚空に出現した。

 それは廊下の幅いっぱいに広がる大波となり、カエデの指揮に従って二階全体へと突撃していった。

 ザザザザァァァッ!

 激しい水音が響くが、床が水浸しになることはない。

 魔法の水は意思を持ったスライムのように壁や天井を這い回り、こびりついた汚れを根こそぎ剥がし取っていく。

 ドアの隙間から部屋の中へと浸入し、寝室、客室、倉庫、あらゆる空間を洗浄していく。


 俺はただ、その圧倒的な光景を眺めていた。

 魔法とは、本来魔物と戦うための力のはずだ。

 だが、彼女の手にかかれば、それは最強の清掃ツールとなる。

 数百年分の汚れが、数分で消滅していく様は圧巻としか言いようがない。


 やがて、役目を終えた水は黒く濁った球体となり、廊下の窓を突き破って外へと排出された。

 後に残ったのは、日差しを受けて輝く、磨き上げられた廊下と部屋たちだった。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


 魔法が解けた瞬間、カエデがガクッと膝をついた。

 俺は慌てて彼女を支える。


「おい、大丈夫か!?」

「……なんとか……終わらせました……」


 カエデは肩で息をしながらも、満足げに顔を上げた。


「見てください……埃ひとつ、ありません……」

「ああ、すごいよ。ピカピカだ。まだ日が高いのに、一気に片付いちまったな」

「清潔な環境のためなら、命を削る価値があります……」


 どんな価値観だ。

 だが、おかげで二階も住める状態になった。

 俺はカエデを支えて立たせた。


「とりあえず、休もうぜ。部屋も綺麗になったし」

「……いえ、その前に」


 カエデが俺の腕の中で、くん、と鼻を鳴らした。


「汗をかきました。それに、埃を被った服のまま、この清浄なベッドに横たわるのはマナー違反です」

「そう言われてもな。水浴びでもするか?」

「探しましょう。この屋敷の規模なら、必ずあるはずです。……浴室が」


 カエデの執念は底知れない。

 彼女はふらつく足取りで、しかし確固たる意志を持って歩き出した。

 俺もそれに続く。

 確かに、これだけの大掃除をした後だ。風呂に入りたいというのは俺の本心でもある。


 俺たちは二階を一通り見て回ったが、それらしい部屋はなかった。

 となると、水回りは一階に集約されている可能性が高い。

 俺たちはピカピカになった階段を降り、一階の探索漏れがないか確認することにした。


 一階の廊下。

 キッチンとは反対側の突き当たりに、まだ開けていない重厚な扉があった。

 位置的に見て、ここが最有力候補だ。


「……ここですね」

「ああ。漂ってくる空気の湿度が違う」


 俺はノブに手をかけ、ゆっくりと扉を押し開けた。

 扉が開くと同時に、中から漂ってきたのは、石鹸のような微かな香りと、清潔な石材の匂いだった。

 カエデの全体魔法がここにも届いていたのだろう。


 足を踏み入れると、そこは広々とした脱衣所だった。

 床には足触りの良い籐のマットが敷き詰められ、壁には大きな鏡と洗面台。

 棚には、先ほどの魔法で洗濯と乾燥を終えた真っ白なタオルが、ふかふかと積まれている。


「……合格です」


 カエデが棚のタオルを手に取り、顔を埋めた。

 太陽の匂いがするらしい。

 そして、彼女の視線は奥にある曇りガラスの扉に向けられた。

 本丸だ。


「開けるぞ」


 俺が引き戸を開けると、温かい空気がふわりと漏れ出してきた。

 その先に広がっていた光景に、俺は思わず口笛を吹いた。


「こいつは……たまげたな」


 そこは、個人の家の浴室というレベルを遥かに超えていた。

 総大理石造りの壁と床。

 高い天井には湯気抜きの天窓があり、澄み渡る青空が見える。

 そして中央には、大人五人が手足を伸ばしても余りある、巨大な円形の浴槽が鎮座していた。

 それはまるで、神殿の聖なる泉のようだ。


「……美しい」


 カエデが夢遊病者のように中へと進む。

 彼女は浴槽の縁に歩み寄り、そこにある操作盤を見つめた。

 複雑な魔方陣が刻まれた金属プレートに、赤と青、そして緑色の魔石が埋め込まれている。


「給湯システムのようなものでしょうか。この石……試しに魔力を通してみましょう」

「やってみてくれ。カエデの魔力、残ってるか?」

「お風呂のためなら、魂を燃やしてでも捻出します」


 カエデが指先で、赤い石に触れた。

 ほんのわずかな魔力が流れる。

 すると、浴槽の底から「ゴォッ」という低い音が響き、次の瞬間、給湯口から勢いよくお湯が噴き出した。


「出た!」

「温度も……上出来です。私が好む、少し熱めの設定になっています」


 湯気が立ち上り、浴室が一気に温かい空間へと変わる。

 石造りの冷たさが消え、極上のリラックス空間が完成していく。

 お湯が溜まるのを待つ間、俺はもう一つの気になる石――緑色の魔石を指差した。


「なあ、これは何だ? 風属性っぽいけど」

「お湯に風……? 撹拌するためでしょうか?」


 お湯がある程度溜まったところで、カエデが緑色の石を押してみた。

 ブォン!

 浴槽内が激しく振動した。

 ボコボコボコボコ!

 側面と底に配置されたノズルから、強力な気泡を含んだ水流が噴射されたのだ。

 お湯が白く泡立ち、激しく渦巻きはじめる。


「きゃっ! な、なんですかこれ! お風呂が暴れています!」

「これって……まさか、ジャグジーか!?」


 俺は歓喜の声を上げた。

 間違いない。

 日本のスーパー銭湯や高級リゾートホテルにある、泡の力で体をマッサージするあれだ。


「すげえ……変人貴族、あんた天才だ! 異世界にジャグジーを持ち込むなんて!」

「ジャグジー……? 水流マッサージ機、ということでしょうか」

「そうだ。疲れが吹き飛ぶぞ、これ。血行促進、疲労回復、リラックス効果、全部入りだ」


 俺は風呂を改めて見回す。


「よし、カエデ。一番風呂は……」

「貴方が入ってください」


 カエデが即答した。


「え、いいのか?」

「はい。まずは動作確認が必要です。それに、私は……少し準備がありますので」


 カエデは少し顔を赤らめて視線を逸らした。

 準備?

 まあ、女子には色々あるのだろう。


「分かった。じゃあ遠慮なく」

「ごゆっくり。……溺れないように気をつけてくださいね」


 カエデが脱衣所を出て行く。

 俺は一人、この神殿のような浴室に残された。

 服を脱ぎ捨てる。

 汗と泥にまみれた服とはおさらばだ。

 掛け湯をして、汗を流す。

 そして、いざ、聖なる泉へ。


 ざぶん。


 お湯が溢れる音が、静寂な浴室に響き渡る。

 肩まで沈み込む。


「……あ゛ぁ~……」


 魂が抜けるような声が出た。

 温かい。

 適温のお湯が、冷え切った体の芯まで染み渡ってくる。

 広い浴槽の中で手足を伸ばす。

 天窓を見上げれば、白い雲がゆっくりと流れていくのが見えた。

 浮遊感。

 そして、緑色のボタンを押す。


 ボコボコボコボコ!


 背中と腰に、強力なジェット水流が当たる。

 心地よい刺激。

 凝り固まった筋肉が、ゆっくりとほぐされていく。


「極楽かよ……」


 俺は天井を見上げて呟いた。

 ここは「深き森」。

 魔物が跋扈し、人が住めないと言われる未開の地。

 俺たちはそこに捨てられた、憐れな追放者。

 ……のはずだ。


 だが現実はどうだ。

 俺は今、人生で一番贅沢な風呂に入っている。

 誰にも邪魔されず、時間も気にせず、最新鋭(?)の魔導設備で癒やされている。


「ざまぁみろ、ってな」


 俺は一人、ニヤリと笑った。

 この優越感もまた、最高の入浴剤だ。


 三十分ほど堪能して、俺は風呂から上がった。

 体はポカポカで、肌はツルツルだ。

 脱衣所のタオルで体を拭き、鞄に入っていた清潔な服に着替える。

 地味な平民服だが、風呂上がりの肌には心地よい。


 リビングへ戻ると、カエデが待っていた。

 彼女は俺の顔を見るなり、少し呆れたように言った。


「随分と長風呂でしたね。ふやけて溶けてしまったかと思いました」

「いやー、最高だった。あのジャグジー、中毒性があるぞ。気をつけろ」

「……ふふ。では、私も確認してきます。汚れをすべて落とすまでは出てきませんので」


 カエデは着替えの入ったカゴを持って、軽やかな足取りで浴室へと向かった。

 その背中からは、隠しきれないウキウキとしたオーラが出ていた。

 彼女もまた、この瞬間を待ちわびていたのだ。


 俺はリビングのソファに身を投げ出した。

 カエデが清掃してくれたおかげで、革張りのソファは清潔で、ひんやりとして気持ちがいい。

 サイドテーブルには、水差しとコップが置かれていた。

 俺は水を注いで一気に飲み干す。

 冷たくて美味い。

 喉を潤すと、強烈な眠気が襲ってきた。

 清潔な服、温まった体、安全な場所。

 安眠のための条件がすべて揃っている。


「……平和だ」


 俺はクッションを抱きしめた。

 窓の外を見ると、太陽が傾き始め、空が少しずつ茜色に染まり始めていた。

 魔王? 世界平和?

 知ったことか。

 俺の守るべき世界は、この屋敷の壁の内側だけで十分だ。


 一時間ほど経っただろうか。

 うとうとしていた俺の耳に、廊下からの足音が届いた。

 リビングの扉が開く。


「……生き返りました」


 そこには、湯上がりのカエデが立っていた。

 濡れた黒髪をタオルで拭きながら、彼女は恍惚の表情を浮かべている。

 頬は蒸気で桜色に染まり、瞳は潤んでとろんとしている。

 普段の鉄仮面のような厳格さはどこへやら、年相応の少女の顔だ。

 着ているのは、シンプルな白のワンピース。

 彼女の清廉潔白なイメージそのままだ。


「長かったな。掃除でもしてたのか?」

「失礼な。髪を洗い、体を磨き、ジャグジーを堪能し、また洗い……と工程をこなしていたら時間が経っていただけです」


 カエデは俺の向かいのソファに、どサリと身を預けた。

 全身の力が抜けている。


「どうだった、ジャグジーは」

「……危険ですね。あれは」

「危険?」

「はい。人を堕落させるものです。あの泡に包まれていると、もう何もしたくなくなります。世界のことなんてどうでもよくなって、ただ一生あそこでお湯に揺られていたい……そんな危険な思想に染まりそうになりました」

「分かる。俺も危うく悟りを開くところだった」


 カエデはテーブルの上の水を飲み、ふぅ、と息を吐いた。

 その顔には、もう悲壮感はない。

 あるのは、深い満足感と、ここでの生活への確信だ。


「ねえ、天道くん」


 カエデが真剣な眼差しで俺を見た。


「私、決めました。ここに定住します」

「お、急だな」

「王都に帰りたいなんて、もう二度と言いません。あんな堅苦しい場所より、ここの方が百倍マシです。お風呂は最高ですし、部屋も綺麗になりました。それに……」


 彼女は視線を巡らせ、ピカピカに磨かれたリビングを見渡した。


「ここは、私が手入れをした私の洋館です。誰にも文句は言わせません」

「奇遇だな。俺も同じ意見だ。追い出された時はどうなるかと思ったけど、結果オーライだったな」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。

 窓の外はすっかり美しい夕焼け空になっていた。


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