第三十六話:最高の昼寝と、終わらない幸福
翌朝。
俺は、小鳥のさえずりではなく、ざわざわとした人の声で目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日は爽やかだが、外の空気は熱気を帯びている。
なんだろう。また魔物でも出たのか?
いや、殺気はない。むしろ、もっと暑苦しい、ポジティブな感情の圧を感じる。
「……うるさいなあ」
俺はベッドから這い出し、二階の窓からそっと外を覗いた。
そして、即座にカーテンを閉めた。
見なかったことにしよう。
うん、あれは夢だ。
だって、屋敷の正門から森の入り口まで、びっしりと人の行列ができていたのだから。
「おはようございます、天道くん」
部屋のドアがノックされ、カエデが入ってきた。
彼女はすでに着替えを済ませ、パリッとしたエプロンをつけている。その表情は、いつになく晴れやかだ。
「カエデ、外のあれ、何?」
「市民の皆さんですね。魔王を退け、勇者を追い払った『街の守り神』に、感謝を伝えに来たそうですよ」
「……帰ってもらってくれ」
俺は布団を頭から被った。
感謝されるのは悪い気はしないが、人混みは苦手だ。
それに、あんな数千人の相手をしていたら、日が暮れてしまう。
「そう言うと思って、セレスさんとレイナさんが対応しています。貢ぎ物……いえ、差し入れの食料だけ受け取って、丁重にお引き取り願っています」
「さすが、有能だな」
俺は布団から顔を出した。
食料だけ受け取る。素晴らしい判断だ。
これなら、当分の間は買い物に行かなくても食卓が潤うだろう。
「ですが、お一人だけ、どうしても会いたいという方がいまして」
「誰?」
「ギルドマスターです。それと、フロンティアの市長さんも一緒です」
嫌な予感がする。
役人が二人揃ってやってくるなんて、面倒ごとの匂いしかしない。
だが、ギルドマスターには世話になっているし、無視するわけにもいかないだろう。
「……分かった。着替えたら降りる」
◇
一階のリビングには、緊張した面持ちの男性二人が座っていた。
一人はお馴染みのギルドマスター。もう一人は、恰幅の良い中年男性で、質の良さそうな服を着ている。あれが市長だろう。
二人は俺が姿を見せると、弾かれたように立ち上がり、深々と頭を下げた。
「天道様! この度は、街をお救いいただき、誠にありがとうございました!」
「市長のバーンズと申します! 貴方様の偉業、市民を代表して心より感謝申し上げます!」
大声だ。
俺は耳を塞ぎながら、ソファに座るよう促した。
カエデがお茶を出すと、二人は恐縮しながら口をつける。
「で、用件は? ただのお礼なら、受け取ったよ」
俺が単刀直入に切り出すと、市長は汗を拭きながら、分厚い羊皮紙の束をテーブルに置いた。
「実は……折り入ってのお願いがございます」
「なんだ?」
「単刀直入に申し上げます。天道様に、このフロンティアを中心とした新国家の『王』になっていただきたいのです」
ブーッ!
俺は飲んでいたお茶を噴き出しそうになった。
カエデがすかさずタオルを差し出してくれる。
「……は? 王?」
「はい。王都が消滅し、女王陛下も崩御されました。王国は実質的に崩壊しています」
市長は真剣な眼差しで語り始めた。
王都の消滅により、中央の統治機能は失われた。
地方領主たちは混乱し、すでに独立の動きを見せている場所もあるという。
このフロンティアも、いつまでも死んだ国の法に従っているわけにはいかない。
自衛のため、そして今後の発展のために、独立宣言をする必要がある。
「ですが、ただ独立すると言っても、求心力がありません。民をまとめ、外敵に睨みを利かせる強力な指導者が必要です」
「そこで、魔王すら退けた天道様に白羽の矢が立った、というわけですか」
カエデが冷静に補足する。
市長は激しく頷いた。
「その通りです! 貴方様ならば、誰もが納得します! どうか、我々の王となり、この地を導いてください!」
市長とギルドマスターが、再び頭を下げる。
熱烈な勧誘だ。
普通の人間なら、舞い上がって引き受けるかもしれない。
一国の王になれるのだ。権力も、財産も、名誉も思いのままだ。
だが。
俺は即答した。
「断る」
二人が顔を上げる。
信じられない、といった表情だ。
「な、なぜですか!? 条件ならいくらでも……!」
「王様なんて、一番不自由な仕事だろ。パスだ」
俺はきっぱりと言い放った。
王になるということは、朝から晩まで公務に追われ、堅苦しい服を着て、山のような書類にサインをし、退屈な会議に出席し続けるということだ。
昼寝の時間なんて取れるわけがない。
美味しいご飯をゆっくり味わう時間もなくなるかもしれない。
そんなの、拷問と同じだ。
「俺がここに来たのは、のんびりとした生活を送るためだ。苦労を背負い込むためじゃない」
「そ、そこをなんとか! 貴方様がいなければ、この街は他の領主に攻め込まれるかもしれません!」
「攻めてきたら追い払うよ。俺の庭に入ってきたらな」
俺の態度は頑なだった。
王なんて絶対に嫌だ。
たとえ全世界を敵に回しても、俺の安眠権だけは譲れない。
そこから、長い長い攻防戦が始まった。
市長たちは泣き落とし、脅し(効かない)、利益誘導、あらゆる手段で俺を説得しようとする。
俺はそれを「面倒くさい」「眠い」「興味ない」の三単語で鉄壁の防御する。
カエデは横で、面白そうにその様子を眺めながら、時々お茶のおかわりを入れている。
一時間後。
疲れ果てた市長が、妥協案を提示してきた。
「……分かりました。実務を強いるのは諦めます」
「最初からそう言ってくれ」
「ですが、象徴としての『名前』だけは貸してください! 対外的な抑止力として、貴方様がこの地にいるという事実が必要なのです!」
要するに、看板になれということか。
それくらいなら、まあ、減るもんじゃないし。
「名前だけならいいぞ。でも、責任は一切持たないからな」
「はい、結構です! 政治的な実務は、フロンティアの議会で行います!」
「俺の生活を邪魔しないこと」
「お約束します! 屋敷の不可侵権を永久に保証します!」
「美味しいものは優先的に回すこと」
「最高級品を献上させていただきます!」
交渉成立だ。
俺は「フロンティア名誉市民」兼「街の守り神(特級顧問)」という、やたらと仰々しい肩書きを手に入れた。
義務はゼロ。権利は無限大。
我ながら、素晴らしい。
「ありがとうございます! これで街は安泰です!」
市長は涙ぐみながら、俺の手を握りしめた。
彼らにとっても、実務に口を出さない最強の用心棒というのは、扱いやすい存在なのかもしれない。
Win-Winというやつだ。
◇
数日後。
フロンティアの中央広場にて、記念式典が行われた。
俺たちの活躍(?)と、新しい街の門出を祝う祭りだ。
俺は出席を拒否したが、カエデに「美味しい屋台が出るそうですよ」と釣られ、渋々参加することになった。
広場は人で埋め尽くされていた。
俺たちが壇上に上がると、割れんばかりの歓声が上がる。
少し気恥ずかしい。
市長が長い演説をした後、広場の中央にかけられていた白い布が取り払われた。
「ここに、我らが守り神、天道アタル様の像を建立する!」
現れたのは、金色の銅像だった。
しかし、そのポーズが問題だった。
剣を掲げているわけでも、魔法を放っているわけでもない。
ソファに深く沈み込み、だらしなく手足を投げ出して、気持ちよさそうに寝ている姿だった。
「……おい」
俺は市長を睨んだ。
なんだあれは。
再現度が高すぎるだろ。
寝顔の、少し口が開いているところまで忠実に彫り込まれている。
「いやあ、天道様といえばこのお姿ですので! 『安らぎの象徴』として、職人が徹夜で仕上げました!」
市長は満面の笑みだ。
会場からも「かわいいー!」「ご利益ありそう!」という声が上がる。
ご利益なんてあるわけがない。あるとしたら、よく眠れるようになるとか、その程度だ。
「ふふっ、素敵ですね」
カエデが口元を押さえて笑っている。
「天道くんの特徴をよく捉えています。これは名所になりますよ」
「カエデ、笑い事じゃないぞ。これじゃあ俺、ただの怠け者みたいじゃないか」
「事実でしょう?」
「うっ……」
反論できない。
セレスも像を見上げて、感心したように頷いている。
「素晴らしい……。主殿の『静』の力が表現されています。敵を前にしても動じない、王者の風格です」
いや、ただ寝てるだけだから。深読みしすぎだから。
「ねえねえ、あの像の膝の上、ボクの特等席にしていい?」
レイナが尻尾を振って聞いてくる。
「ダメだ。鳥のフンとか落ちてくるぞ」
「えー」
こうして、俺の意思とは関係なく、俺の寝姿は街のシンボルとして永遠に残ることになってしまった。
まあ、本人が働く必要がないなら、銅像くらい働かせておけばいいか。
俺はそう割り切って、差し入れられた焼き鳥を頬張った。
◇
午後。
俺は庭に出て、お気に入りの場所に向かった。
二本の巨木の間に吊るされた、特製のハンモックだ。
レイナが森から集めてきた、最高級の獣毛と絹で織られた布を使っている。
一度乗れば、雲の上にいるような浮遊感と、包み込まれるような安心感を得られる、最強のリラックス空間だ。
俺はハンモックに身を預け、ゆっくりと揺られた。
木漏れ日が顔に落ち、心地よい風が髪を撫でる。
遠くから、セレスと子供たちの掛け声が聞こえる。
キッチンからは、カエデが夕食の仕込みをする包丁の音がリズムよく聞こえてくる。
素晴らしい。
俺はこの生活から、この上ない満足感を得ていた。
少し前までは、教室の喧騒の中で、誰にも邪魔されないように机に突っ伏していた。
息を潜め、目立たないように、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
それがどうだ。
今は、こんなに広い空の下で、堂々と寝転がっていられる。
誰に遠慮することもなく、自分の時間を生きている。
「……変われば変わるもんだな」
俺は独りごちた。
追放された時は、どうなることかと思ったが。
結果オーライだ。
いや、最高の結果だ。
「天道くん」
カエデが庭に出てきた。
手にはお盆を持ち、その上には冷えたフルーツ水が入ったグラスが二つ乗っている。
彼女はハンモックの横にあるテーブルにそれを置くと、隣の椅子に腰掛けた。
「お疲れ様です。休憩ですか?」
「ああ。人生の休憩中だ」
「ふふっ、貴方の休憩は長すぎますけどね」
カエデは楽しそうに笑う。
彼女もまた、この生活を心から楽しんでいるようだ。
かつての「歩く校則」のような張り詰めた空気は消え、今は年相応の柔らかい表情をしている。
「でも、本当に運が良かったですね」
カエデが空を見上げて言った。
「貴方のスキルのおかげで、私たちはここまで来られました。もし、あの時、貴方が違うスキルを持っていたら……私たちは今頃、どうなっていたでしょう」
野垂れ死んでいたかもしれない。
あるいは、他の人々と同じように、苦労して働いていたかもしれない。
少なくとも、こんな風に昼間からハンモックで揺られていることはなかっただろう。
「そうだな。運が良かった」
俺はグラスを手に取り、一口飲んだ。
冷たくて、甘酸っぱい味が染み渡る。
「でも、運だけじゃないさ」
俺は言った。
「え?」
「運が良くても、それを活かせるかどうかは別だ。この屋敷を綺麗にしたのはカエデだし、畑を作ったのはセレスだし、食材を見つけてくるのはレイナだ」
俺一人だったら、広い屋敷を持て余して、ゴミ屋敷にしてしまっていただろう。
食料だって、適当な木の実を食べて飢えを凌いでいたかもしれない。
この快適な生活は、彼女たちがいてこそ成り立っている。
「俺は、運良く君たちと出会えた。それが一番の『幸運』だよ」
少しキザだったかな。
俺が照れ隠しに視線を逸らすと、カエデは顔を赤らめて、嬉しそうに微笑んだ。
「……もう。口が上手くなりましたね」
「本心だよ」
カエデは照れくさそうに咳払いを一つして、話題を変えた。
「そういえば、さっきギルドから連絡がありました。また新しい食材が見つかったそうですよ。『カカオ』に似た実だとか」
「カカオ? ってことは……」
「はい。チョコレートが作れるかもしれません」
チョコレート。
甘くて、ほろ苦くて、とろけるような黒いお菓子。
この世界に来てから、ずっと食べていなかった味だ。
「それは……急いで確保しないとな」
「ふふっ、レイナさんがもう取りに向かっています。夕食の後には、デザートとして出せるかもしれません」
最高だ。
楽しみがまた一つ増えた。
今日はカレーを食べて、お風呂に入って、その後に特製チョコレートを食べる。
王様でも味わえない贅沢だ。
風が強く吹いた。
庭の木々がざわめき、木の葉が舞う。
その風に乗って、遠くからセレスの声が聞こえた。
『主殿ー! 今日の稽古、終わりましたー!』
森の方からは、レイナの声もする。
『アタルー! すごいの見つけたよー!』
仲間たちが帰ってくる。
この、俺たちの居場所に。
「……賑やかになりそうですね」
カエデが立ち上がる。
「夕食の準備に戻ります。今日は豚の角煮と、ポテトサラダにする予定ですが、いいですか?」
「文句なしだ。手伝うよ」
「あら、珍しい。雨が降りますよ?」
「味見係としてな」
「もう……。期待していますよ、味見係さん」
カエデはクスクスと笑いながら、屋敷の方へと歩いていった。
俺はハンモックの上で、もう一度伸びをした。
教室の喧騒は、もう遠い過去の記憶だ。
ここにあるのは、心地よい静寂と、仲間の温かい声。
そして、明日への楽しみ。
俺は、自分のステータス画面を思い浮かべた。
【天運招来EX】。
最強の運。
でも、俺は知っている。
運を引き寄せるのは、結局のところ、自分自身の選択だということを。
あの日、城を出ることを選んだ。
森で壺につまずくことを選んだ。
カエデの手を取ることを選んだ。
そのすべての選択が、今のこの瞬間に繋がっている。
「運も実力のうち、ってな」
俺は誰に聞かせるでもなく呟いた。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
夕食までは、まだ少し時間がある。
夢の中で、チョコレートの味を予習しておくとしよう。
「さて、二度寝するか」
最高の快適の中で、俺の意識はまどろみへと落ちていった。




