第三十四話:魔王討伐?
あくびを噛み殺した俺の姿は、上空遥か彼方に浮かぶ魔王の目には、この上ない侮辱として映ったようだ。
『……貴様、我の御前で欠伸だと?』
地獄の底から響くような声だ。
だが、俺にとってはただの騒音でしかない。
せっかくのティータイムを邪魔しておいて、礼儀を説くなんてお笑い草だ。
俺は耳を小指でほじりながら、隣で腰を抜かしているギルドマスターに声をかけた。
「ギルドマスター、あいつ、拡声魔法でも使ってるのか? やけに声がデカいな」
「て、天道様……! そんなことを言っている場合では……!」
ギルドマスターが悲鳴を上げた、次の瞬間だった。
遠くの空に浮かんでいたはずの漆黒の巨体が、一瞬、ブレたように揺らいだ。
刹那、世界から音が消えた。
ドォォォォン!!
遅れて、大気を引き裂くような轟音と共に、猛烈な突風がテラスを襲った。
「水よ!守護せよ!」
詠唱とともに、カエデが巨大な水の結界を展開する。
どうやら、カエデが反射的に魔法を使用し、風を防いでいるようだ。
そして、風圧が収まった後、俺たちが目にしたものは、穏やかな青空ではなかった。
黒。
圧倒的な存在を持った、黒い軍団が広がっていた。
数キロメートルは離れていたはずの距離を、一瞬でゼロにしたのだ。
俺たちの屋敷の上空、わずか数十メートルの位置に、巨大な黒竜が滞空している。
その翼は雲を払い、太陽を覆い隠し、庭全体に濃い影を落としている。
さっきまで遠くの空にいたラスボスが、今は俺の家の玄関先に浮いている。
宅配便だって、もう少し手順を踏むだろうに。
『ほう』
魔王が、値踏みするように俺たちを見下ろした。
その声は、さきほどの演説よりも低く、しかし明確な殺気を伴って物理的に降り注いできた。
『勇者を匿う愚か者どもは、貴様らか。……隠しても無駄だ』
魔王が、持っていた杖をぞんざいに振るった。
すると、庭の空間が黒く切り抜かれたように見えると当時に、空間の裂け目のような穴が開いていた。
この世界に来た時に見た、転移魔法に似た魔法だろう。
「うわぁぁぁっ!?」
「きゃぁっ!」
その穴から、ゴミを捨てるかのように、数人の男女が吐き出され、地面に無様に転がり落ちた。
泥と煤にまみれ、恐怖で顔を引きつらせているその集団。
見覚えのある顔ぶれだ。サカモトたち勇者一行である。
おそらく、門の外か森の中に隠れて様子をうかがっていたのを、魔王に見つかり、強制的にここへ転移させられたのだろう。
『死に損ないの勇者共が』
サカモトたちは魔王と目が合うと、「ひっ」と短い悲鳴を上げて、お互いに抱き合うようにして小さく縮こまった。
情けない。あまりにも情けない姿だ。
『見るに堪えん。……だが、貴様らは違うようだな』
魔王の赤い瞳が、再び俺たちに戻ってくる。
カエデは不快そうに睨み返し、セレスは剣の柄に手をかけて油断なく構えている。レイナは「デカい獲物だ」と低い唸り声を上げている。
そして俺は、飲みかけのフルーツ水をどう置くか迷っていた。
『我の御前において、平然と茶を啜るか。……傲慢な人間よ』
魔王が杖をゆっくりと持ち上げた。
その先端にある黒い宝玉が、ドクンと脈打つように光る。
『その余裕、塵となるまで保てるものなら保ってみせよ』
空間が軋む音がした。
魔王の背後に、巨大な魔法陣が展開される。
一つではない。十、二十、いや百を超える魔法陣が、空を埋め尽くすように展開されていく。
集束していく魔力が異常であることは、まったく魔法が使えない俺にも分かった。
大気中の水分が蒸発し、バチバチという静電気の音がテラスの空気を震わせているからだ。
カエデが淹れてくれた紅茶の表面に、細かいさざ波が立っていた。
「……あ」
俺は小さく声を上げた。
紅茶が冷めてしまう。
フレンチトーストの余韻を楽しむはずだった至福の時間が、暴力的なエネルギーの奔流によって上書きされていく。
「天道様! あれは……あれは『国崩し』の魔法でしょう! 王都を一撃で灰にしたという、禁断の……!」
ギルドマスターが絶叫し、頭を抱えてうずくまった。
カエデやセレスも表情を硬くするが、俺の言葉を信じているからか、動こうとはしない。
ただ静かに、俺の横でその時を待っている。
『消え去れ、塵芥のごとく』
魔王が宣告した。
杖の先端に集まっていた黒い光が、限界まで膨れ上がる。
それは小さな太陽のように輝き、しかし熱ではなく、凍てつくような冷たさを放っていた。
放たれる寸前。
世界がスローモーションになったように感じる。
俺の『運』が、動いたことを感じた。
鼻の奥に、猛烈なムズムズが込み上げてくる。
空気の乾燥か。
それとも、魔王の放つ魔力に含まれる煤のような不純物のせいか。
あるいは、先ほどまで食べていたフレンチトーストの粉砂糖が鼻に入ったのか。
生理現象というものは、いつだって空気を読まない。
世界の終わりだろうが、魔王の御前だろうが、出るものは出るのだ。
「……へ、ぶっ」
俺は、盛大にくしゃみをした。
静まり返った空間に、間の抜けた音が響き渡る。
その瞬間だった。
くしゃみをした拍子に、俺の手がテーブルに当たった。
その振動で、皿の上に残っていたフォークが、カタリと落ちた。
フォークは床に当たって跳ね返り、テラスの手すりに止まっていた一羽の鳥を驚かせた。
それは、たまたま羽休めをしていた、森の渡り鳥だった。
魔王の威圧にも気づかず眠っていた鈍感な鳥は、当たったフォークに驚き、パニックになって空へと飛び立った。
一直線に。
真上にいる、魔王の方へと向かって。
魔王は、魔法を放つ直前の極限状態にあった。
全神経を杖の先端に集中させ、魔力の照準を俺たちの屋敷に合わせていた。
そこへ、下から鳥が飛び込んできたのだ。
魔王にとっては、視界の端に何かが動いた程度の認識だったかもしれない。
だが、その鳥は、ただの鳥ではなかった。
……いや、ただの鳥なのだが、その足には「何か」が握られていた。
キラリと光る、小さな石。
それは、アタルたちが以前、川遊びをした時にレイナが拾って、「綺麗だから」という理由で鳥の巣に置いてきた、ただのガラス質の石英だった。
鳥は、驚いた拍子に、その石を足から離してしまった。
石は重力に従って落下する。
その落下地点は、あまりにも「精確」すぎた。
魔王が構える杖の先端。
圧縮された魔力が、今まさにビームとなって放たれようとしていた、その射出点。
そこに、石英の小石が、吸い込まれるようにして割り込んだ。
本来なら、そんな小石など、魔力の奔流に触れた瞬間に蒸発して消えるはずだ。
だが、タイミングが悪すぎた。
いや、俺たちにとっては、良すぎた。
膨大な魔力が周囲へ放出される「0コンマ1秒前」。
カッ!
強烈な閃光が走った。
小石は、魔力の出口を塞ぐ栓のような役割を果たしたのだろう。
行き場を失った膨大なエネルギーは、杖の内部で乱反射を起こす。
暴走し始めた魔力は、本来の通り道である前方ではなく、最も脆い方向へ――すなわち、杖を握る魔王自身へと逆流した。
『な、――!?』
魔王の声は、驚愕に染まっていた。
だが、言葉は続かなかった。
続くはずもなかった。
国一つを滅ぼすほどの熱量が、ゼロ距離で炸裂したのだから。
ドォォォォォォォォォォォン!!
轟音と共に、空に第二の太陽が生まれた。
黒い甲冑が、内側からの光によって膨張し、弾け飛ぶ。
漆黒のマントが、瞬時に燃え尽きて灰になる。
絶対的な防御を誇るはずの魔王の結界も、自らの魔力による内部崩壊には対応できなかったようだ。
俺たちは、テラスからその光景を眺めていた。
まるで、花火大会だ。
爆風が届く前に、カエデがすかさず水魔法で水の防御壁を展開し、俺たちを守ってくれた。
熱波と衝撃波がカエデの水魔法に吸収されていくため、その中はそよ風一つ吹かない。
光が収まると、そこには何もなかった。
暗雲は吹き飛び、再び青空が広がっている。
魔王の姿も、その背後に控えていた魔法陣も、乗っていたドラゴンごと綺麗さっぱり消滅していた。
ただ、キラキラと輝く光だけが、周囲に雪のように舞い降りてくる。
「……へ?」
ギルドマスターが、間の抜けた声を漏らした。
彼は空を見上げ、口を半開きにして固まっている。
理解が追いついていないのだろう。
無理もない。
世界の危機が、俺のくしゃみによって解決してしまったのだから。
「自滅、ですね」
カエデが冷静に分析結果を口にした。
「魔力放出の瞬間に、外部からの干渉により術式が暴走。あのような高密度エネルギーを制御下に置いていながら、不用意すぎます。自らの力に溺れた者の末路としては、妥当なところでしょう」
彼女は淡々と言っているが、その目は笑っていなかった。
掃除の手間が省けてよかった、とでも思っているのだろう。
「すごい……」
セレスが呆然と呟く。
「主殿は、指一本動かさずに……ただのくしゃみ一つで、魔王を葬り去ったというのですか……? これは、武芸や魔法の域を超えています。まさに、神の御業……」
いや、ただの生理現象だって言ってるだろ。
神格化するのはやめてほしい。
「あ! アタル、あれ見て!」
レイナが指差した先。
空から、何かが落下してくるのが見えた。
魔王がいた場所から落ちてくる、巨大な物体。
それは、太陽の光を反射して、虹色に輝いていた。
ズドォォン!!
屋敷の庭、少し離れた場所に、それが着弾した。
地面が揺れ、土煙が上がる。
俺たちは様子を見るために、テラスから庭へと降りた。
クレーターの中心に鎮座していたのは、大人の頭ほどもある、巨大な魔石だった。
透き通るような紫色の結晶。
内包された魔力量は桁外れで、俺ですら近づくだけで肌が粟立つほどだ。
おそらく、魔王の核となっていた魔石だろう。
本体は消滅したが、これだけは燃え尽きずに残ったらしい。
「うわぁ、大きい……」
レイナが目を丸くして近づこうとするが、カエデがそれを制した。
「待ってください。まだ熱を持っています」
カエデは杖を振り、水をかけて魔石を冷却する。
ジュウウウ、と白い蒸気が上がった。
「……これ、ものすごい魔力ですね」
カエデが魔石を観察している。
「フロンティアの市場にある魔石すべてを合わせても、これ一つに敵わないでしょう。これがあれば、屋敷の魔導設備を百年はフル稼働させられます。お風呂の追い焚きも、空調の微調整も、使い放題です」
「お、それはいいな」
俺は素直に喜んだ。
魔王が何をしに来たのかと思えば、ただの燃料配達だったわけだ。
わざわざ自ら出向いて、高純度の魔石を届けて、勝手に消えてくれた。
なんと律儀な奴だろう。
最初からそう言ってくれれば、お茶くらい出したのに。
「え、ええええええええ!?」
背後で、ようやく再起動したギルドマスターが絶叫した。
彼はクレーターの縁に立ち、頭を抱えている。
「ま、魔王が……本当に死んだ? 自爆? いや、天道様が倒したのか? どっちにしても、これは……これは歴史が変わるぞ……!」
「大袈裟だな。ただの事故だよ」
俺は肩をすくめた。
本当に、ただの不運な事故だ。
あいつにとっては不運で、俺にとっては幸運だった。
それだけの話。
「しかし、どうするんですか、これ」
セレスが空を指差す。
そこにはまだ、魔王軍の残党たちが残っていた。
空を埋め尽くしていたガーゴイルやワイバーンたちだ。
だが、彼らの動きは明らかに動揺していた。
絶対的な支配者であった魔王が、一瞬で消滅したのだ。
統率を失った軍隊ほど脆いものはない。
一匹のワイバーンが、恐怖に駆られたように悲鳴を上げ、反転して逃げ出した。
それが合図だった。
我先にと、魔物たちは北の空へと逃走を開始する。
蜘蛛の子を散らすような勢いだ。
地上からも、地響きのような音が遠ざかっていくのが分かる。
彼らも本能で悟ったのだろう。
ここには、魔王すらも瞬殺する「何か」がいると。
関わってはいけない「聖域」なのだと。
「……逃げ足の速いことだ」
俺は見送る。
追撃なんてしない。
逃げる者を追うのは労力の無駄だ。
彼らが二度とここに来なければ、それでいい。
「片付きましたね」
カエデが、涼しい顔で言った。
彼女はすでに、庭に飛び散った土や、空から降ってきた煤の掃除を始めている。
水魔法が庭全体を洗い流し、クレーターを埋め戻していく。
魔王との戦い(?)よりも、庭の景観維持の方が、彼女にとっては重要事項らしい。
「ギルドマスター、これでいいか?」
俺が振り返ると、ギルドマスターは地面にへたり込んだまま、涙を流していた。
「あ、ありがとうございました……! この街は……いや、世界は救われました……!」
「いや、俺は何もしてないって」
本当に、何もしていない。
椅子に座って、くしゃみをしただけだ。
でも、誰もそれを信じないだろう。
まあいいか。
結果として、平穏な日常が守られたなら、細かいことはどうでもいい。
「さて」
俺は大きく伸びをした。




