第三十三話:王都陥落の報と、招かれざる「置き土産」
穏やかな午後のことだ。
空は青く澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れている。
森を抜けてくる風は心地よく、テラスに座っていると、ついウトウトとしてしまう。
俺の手元には、カエデが淹れてくれた冷たいフルーツ水がある。
魔導冷蔵庫で冷やされたグラスには水滴がつき、中には輪切りにされた果物が浮いている。
一口飲むと、柑橘系の爽やかな香りと、ほのかな甘みが口いっぱいに広がる。
最高だ。
平和そのものだ。
俺は深く息を吐き、背もたれに体重を預ける。
この森の洋館での生活も、随分と板についてきた。
最初は廃屋同然だったこの場所も、今ではなかなか快適な住処になっている。
カエデの徹底的な管理と魔法のおかげで、屋敷の中は常に清潔だ。
セレスが耕してくれた畑からは新鮮な野菜が採れ、さらにレイナがボスを務めるオーラコッコからは、毎日、卵がゲットできる。
そして何より、俺の『運』が、必要なものを必要な時に運んできてくれる。
衣食住、すべてにおいて不満はない。
「天道くん、おかわりはいかがですか?」
カエデがポットを持って近づいてくる。
彼女は今日も涼しげなワンピースを着ていて、その姿はまるで避暑地のお嬢様のようだ。
校則を第一優先で守るクラス委員の面影はもうない……こともないか。
「ああ、頼むよ」
俺がグラスを差し出すと、カエデは丁寧にフルーツ水を注いでくれる。
氷がカランと音を立てる。
その音さえも、平和な午後のBGMのようだ。
「最近は、大きな騒ぎもなくていいですね」
カエデが席に戻りながら言う。
確かに、ここ数日は静かだった。
マッドドラゴンを倒し、その後にやってきた王国の宰相たちを追い払い、さらにはあの例のサカモトたち――勇者の一同を撃退してからというもの、煩わしい訪問者は来ていない。
街の人たちは俺たちを「英雄」だとか「守り神」だとか呼んでいるらしいが、屋敷まで押しかけてくるような無粋な真似はしなかった。
ギルドマスターがうまく調整してくれているおかげだろう。
「そうだな。このまま静かに暮らせれば最高なんだけどな」
俺は本心からそう思う。
世界がどうなろうと知ったことではない。
俺たちの手の届く範囲、この屋敷と庭、そして街の平穏さえ守られれば、それでいいのだ。
魔王だとか勇者だとか、そういう面倒な話は、どこか遠い国の出来事であってほしい。
だが、そんな俺のささやかな願いは、いつだって向こうからやってくるトラブルによって打ち砕かれる運命にあるらしい。
ブォン、ブォン、ブォン。
リビングにある水晶板――魔導インターフォンから、呼び出し音が聞こえてきた。
「……誰だ?」
俺は顔をしかめる。
基本的に、アポなしでやってくる客なんてろくなものではない。
カエデも不快そうに顔をしかめ、手元のカップを置いた。
「確認します」
彼女は立ち上がり、水晶板の方へと歩いていく。
画面を覗き込んだカエデが、少し驚いたように言った。
「天道くん、ギルドマスターです。……ただ、様子が変です」
「ギルドマスター? また何かの差し入れか?」
「いえ、そうではなさそうです。顔色が真っ青で、かなり慌てています」
俺は億劫がりながらもソファから腰を上げ、カエデの隣に立った。
水晶板の画面には、門の前で息を切らしているギルドマスターの姿が映っていた。
いつもは整えられている白髪が乱れ、服もどこか着崩れている。
額には大量の汗が浮かび、目は血走っていた。
ただ事ではない雰囲気が、画面越しにも伝わってくる。
「……開けてやるか」
俺は遠隔操作で門のロックを解除した。
キィ、という音を立てて鉄の門が開くと、ギルドマスターは転がるようにして敷地内に入ってきた。
俺たちはテラスに出て、彼を出迎えることにした。
セレスとレイナも、騒ぎを聞きつけてやってくる。
「主殿、何かありましたか?」
「なんか、人の匂いがするよ?」
セレスは剣を腰に帯び、レイナは鼻をひくつかせている。
庭を走ってくるギルドマスターの足取りは重い。
彼はテラスの下までたどり着くと、膝に手をついて激しく肩を上下させた。
「はぁ……はぁ……天道様……!」
「落ち着いてくれ、ギルドマスター。水でも飲むか?」
俺はカエデに目配せをする。
彼女はすぐに冷たい水をコップに注ぎ、ギルドマスターに手渡した。
彼はそれを一気に飲み干すと、少しだけ呼吸を整え、深刻な表情で顔を上げた。
「申し訳ありません……ご休息のところをお邪魔して……。ですが、緊急事態なのです」
「緊急事態? また宰相が文句を言いに来たのか?」
「いいえ、そんなレベルの話ではありません」
ギルドマスターは首を振った。
そして、信じられない言葉を口にした。
「王都が……消滅しました」
俺たちの間に、沈黙が落ちた。
カエデが持っていた水のピッチャーが、カタと小さく音を立てる。
セレスが目を見開き、レイナが首を傾げる。
「……消滅って、どういうことだ?」
俺は聞き返した。
比喩表現か何かなのかと思ったが、ギルドマスターの目は真剣そのものだった。
「文字通りの意味です。今日未明、王都アステリアは魔王軍の総攻撃を受けました。城壁は崩れ、騎士や勇者たちが敗走し……陥落したとの情報が入りました」
「数時間で? あの堅牢な王都が?」
セレスが信じられないといった声で言う。
彼女は元騎士だ。王都の防衛力がどれほどのものかを知っているのだろう。
それがたった数時間で落ちるというのは、常識では考えられないことらしい。
「はい。敵の戦力が桁違いだったようです。……それに、女王陛下も」
ギルドマスターは言葉を詰まらせ、沈痛な面持ちで続けた。
「戦死された、との報告です。城の崩壊と運命を共にされたと」
ヴィクトリア女王。
俺たちを召喚し、無能と断じて追放した張本人。
冷酷で合理的で、自分の国のためなら何でも利用するような女だった。
まさか、こんなにあっけなく死ぬとはな。
ただ、同情する気はない。
考えようによっては、彼女は自分のまいた種を刈り取っただけだ。
勇者たちに無理をさせ、俺たちのような戦力を追放し、国を守るべき力を自ら削いでいたのだから。
「そうか。それはご愁傷様だな」
俺は淡々と言った。
冷たいと思われるかもしれないが、これが正直な感想だ。
ギルドマスターも俺たちの事情を知っているからか、特になじったりはしなかった。
「問題は、その後です」
ギルドマスターの声が、さらに低くなる。
「王都を落とした魔王軍は、そのまま進軍を続けています。……このフロンティアの方角へ」
「は?」
俺は思わず声を出した。
王都からフロンティアまでは、かなりの距離があるはずだ。
なぜわざわざ、こんな辺境を目指してくるんだ?
「どうしてこっちに来るんですか? ここには何もないでしょう」
カエデが尋ねる。
「それが……生き残った勇者たちが、こちらへ逃げてきているのです」
ギルドマスターが苦渋の表情で告げた。
「勇者サカモトとその一行が、魔王軍を引き連れたまま、この街へ向かっています。『フロンティアには最強の聖女と英雄がいる。彼らに守ってもらおう』などと言いながら」
その瞬間、俺の中で何かが切れる音がした気がした。
怒りではない。
もっと底知れない、深い深い呆れと、苛立ちだ。
「あいつら……」
どこまで他力本願なんだ。
自分たちで勝てないからといって、俺たちに敵を擦り付けようとしているのか。
以前、屋敷に押しかけてきた時もそうだった。
自分たちは特別な存在だから助けられて当然だと思っている。
その傲慢さが、国を滅ぼし、今度はこの街まで巻き込もうとしている。
本当に、迷惑な連中だ。
「なんてこと……。恥知らずにも程があります」
セレスが怒りで震えている。
騎士としての誇りを持つ彼女にとって、敵を民の住む街へ誘導する行為は、万死に値する裏切りなのだろう。
「アタル、どうする? あいつら、攻撃していい?」
レイナが爪を立てて言う。
彼女の野生の勘も、勇者たちが害悪であることを察知しているようだ。
「そこまでする価値はない。爪が汚れるぞ」
俺は吐き捨てるように言った。
まったく、最後まで俺の邪魔をしやがる。
俺はただ、昼寝がしたいだけなのに。
美味しいご飯を食べて、風呂に入って、のんびりしたいだけなのに。
どうしてこう、向こうからトラブルが全力疾走してくるんだ。
その時だった。
急に、辺りが暗くなった。
まだ日は高いはずなのに、太陽が厚い雲に覆われたように光を失っていく。
風が止まり、鳥のさえずりが消えた。
代わりに、重苦しい空気が空から降りてくる。
肌にまとわりつくような、嫌な気配だ。
「……来ました」
カエデが空を見上げて呟く。
俺たちも視線を上げる。
北の空。
王都がある方角から、どす黒い雲が湧き上がっていた。
いや、あれは雲じゃない。
うごめいている。
無数の黒い点だ。
「魔物……!」
セレスが剣の柄を握りしめる。
空を覆い尽くさんばかりの、魔物の大群。
翼を持ったガーゴイルやワイバーンが空を埋め尽くし、地上からは地響きのような音が伝わってくる。
オークやゴブリン、オーガといった地上部隊が、森の木々をなぎ倒しながら進軍してきている音だ。
その数は、千や二千ではない。
万を超えているかもしれない。
まさに軍勢だ。
今まで相手にしてきた野良の魔物とはわけが違う。
そして、その軍勢の中心。
ひときわ巨大な影があった。
空に浮かぶ、漆黒の存在。
巨大なドラゴンだ。
マッドドラゴンよりも遥かに大きく、禍々しいオーラを放つ黒竜。
その背中に、一人の人影が立っていた。
距離は離れているはずなのに、その姿ははっきりと見えた。
黒いマントを翻し、頭には角のような冠を戴いている。
手には身の丈ほどの杖を持ち、その周囲の空間が重く見えた。
あいつが、親玉か。
『我、魔王なり』
声が響いた。
耳ではなく、頭の中に直接響いてくるような、低く、重い声だ。
空気がビリビリと震える。
屋敷の窓ガラスがガタガタと鳴った。
『愚かな人間どもよ。勇者を匿い、我に抗おうとするその浅はかさ。嘆くがいい。絶望するがいい』
魔王の声は、フロンティア全域に届いているのだろう。
街の方からは、人々の悲鳴が風に乗って聞こえてきた。
無理もない。
あんなものを見せられたら、普通の人間なら腰を抜かす。
たしかに、これが世界の終わりだと思っても不思議ではない。
『この地を、新たな死の都としよう。貴様らの命をもって、我が覇道の礎とする』
魔王が杖を掲げると、空の暗雲がさらに濃くなり、紫色の雷が走り始めた。
ご丁寧に照明効果までばっちりときた。
映画のクライマックスみたいな演出だ。
もっとも、こっちは観客になるつもりなんてないんだけどな。
「……なんて魔力でしょう」
カエデが顔をこわばらせている。
彼女は大聖女だ。魔力を感じる能力に長けている。
その彼女が青ざめるほどの力が、あそこに集まっているということだ。
「主殿! ここは危険です! 避難を!」
セレスが俺の前に立ち、盾になろうとする。
「アタル、ボクが噛み付いてこようか? あいつ、すごく臭いけど!」
レイナが唸り声を上げ、今にも飛び出していきそうな姿勢をとる。
ギルドマスターに至っては、腰が抜けてその場にへたり込んでしまっていた。
口をパクパクさせているが、声になっていない。
誰もが、終わったと思っている。
この圧倒的な力の前に、為す術はないと。
だけど。
俺はため息をついた。
恐怖? 絶望?
いや、違う。
ただひたすらに、面倒くさい。
せっかくのアイスクリームの時間が台無しだ。
昼寝の邪魔をされただけでも不愉快なのに、庭先で大声を張り上げられるなんて、近所迷惑にも程がある。
「……うるさいな」
俺はぽつりと呟いた。
その声は小さかったけれど、静まり返ったテラスにはよく響いた。
カエデたちが俺を見る。
「天道くん?」
「ああいう演説が好きな奴って、どこにでもいるよな。自分の声に酔ってるっていうかさ」
俺は肩をすくめた。
魔王だか何だか知らないが、俺のテリトリーで勝手なことをするのは許容範囲外だ。
それに、あいつは一つ勘違いをしている。
俺たちは勇者を匿ってなんかいない。
むしろ、追い返したいくらいだ。
それを勝手に決めつけて、まとめて滅ぼそうなんて、冤罪もいいところだ。
「でも、主殿。相手は魔王です。このままでは……」
セレスが不安そうに言う。
俺は彼女の肩をポンと叩いた。
「大丈夫だって。そんなに心配するなよ」
「え……?」
「まあ、なんとかなるだろ」
俺はいつものように言った。
根拠なんてない。
作戦もない。
ただ、俺の勘がそう言っている。
今までだってそうだった。
どんなピンチも、どんな理不尽も、俺の『運』の前ではただの通過点に過ぎなかった。
今回だって、きっとそうだ。
相手が魔王だろうが神様だろうが、俺の平穏を脅かす奴には、それ相応の「不運」が待っているはずだ。
「……ふふっ」
カエデが吹き出した。
彼女は口元を手で覆い、肩を揺らして笑った。
「貴方の『なんとかなる』を聞くと、本当にどうでもよくなってきますね。すべての常識を無視して、本当になんとかしてしまうんですから」
彼女から、恐怖が消えていた。
代わりにあるのは、俺への絶対的な信頼だ。
彼女は知っている。
俺がどれだけデタラメな運を持っているかを。
「そうですね。主殿がそう仰るなら、それは確定した未来と同じです」
セレスも表情を緩め、剣を収めた。
彼女の中で、俺の言葉は神託と同義らしい。
「アタルが大丈夫って言うなら、大丈夫だね! じゃあ、あいつが落ちてきたら、美味しいお肉になるかな?」
レイナは舌なめずりをしている。
まあ、こいつの食欲も大概だな。あの魔王を食べようとするなんて。
正直、あまりおいしそうではない。
「肉になるかは分からないけど、まあ、見ててみなよ」
俺はテラスの手すりに寄りかかり、空を見上げた。
魔王はまだ何か叫んでいる。
普通なら、ここで防衛をするために工夫をするとか、迎撃魔法を撃つとかする場面だろう。
でも、俺たちは何もしない。
ギルドマスターだけが、「正気ですか!?」と叫んでいるが、無視だ。
俺の運が、いま動き出そうとしているのを感じる。
風向きが変わった。
空気が変わった。
これは、世界が俺のために環境を整え始めている。
俺は心の中でそう確信しながら、あくびを噛み殺した。




