第三十話:勇者の絶望と、清浄なる制裁
穏やかだった午後の庭は、一瞬にして緊迫した空気が支配していた。
カエデが杖を構え、その先端から青白い光が漏れ出している。
それは慈悲の光ではない。
汚れを許さず、不浄を根こそぎ排除しようとする、絶対的な光だ。
「……さて、掃除の時間です」
彼女の低い声が広がる。
サカモトたち勇者パーティは、その気迫に押されて後ずさった。
彼らは本能的に悟ったのだろう。
目の前にいるのは、いつもの小うるさいだけのクラス委員ではない。
自分たちが束になっても敵わない、圧倒的な力を持った魔法使いなのだと。
「な、なんだよ……その魔力は……」
サカモトが震える声で呟く。
彼は、焦りと恐怖に支配されていた。
彼らは勇者として召喚され、それなりに戦ってきたはずだ。
だが、カエデが放つプレッシャーは、彼らが対峙してきたどの魔物よりも強烈だったに違いない。
「お前……無能と一緒に追放されたんじゃなかったのかよ!? なんでそんな力が……!」
魔法使いの女子生徒が叫ぶ。
彼女の杖は折れかけ、魔力も枯渇しているのが見て取れる。
対するカエデは、万全の状態だ。
しかも、この屋敷の豊富な魔力をバックにしている。
勝負になるはずがない。
「無能、ですか」
カエデが冷ややかに笑った。
その笑顔は美しかったが、同時に背筋が凍るほど冷酷だった。
「貴方たちは何も分かっていませんね。アタルくんが『無能』なのではありません。貴方たちの目が節穴だっただけです」
彼女は一歩踏み出した。
「そして、私は、ただの委員長ではありません。この屋敷を守る管理者です。……不潔な侵入者は、排除します」
カエデが杖を振るう。
次の瞬間、空気が破裂するような音が響いた。
彼女の周囲に渦巻いていた水流が、一気に膨張し、荒れ狂う奔流へと変貌したのだ。
それは以前、宰相たちを追い払った時の比ではない。
ダムが決壊したような、いや、天災そのものと呼べる規模の鉄砲水が、牙を剥いてサカモトたちに襲いかかる。
「消えなさいッ!」
カエデの怒声と共に、水の壁が勇者たちを飲み込んだ。
「うわぁぁっ!」
「きゃあぁぁぁっ!」
サカモトが剣を振るって防ごうとするが、無意味だった。
水の質量は岩石のように重く、彼らの体を軽々と弾き飛ばす。
地面をえぐり、草木をなぎ倒し、濁流となって彼らを押し流していく。
それは洗濯などという生易しいものではない。
文字通りの「洗浄」であり、「排除」だ。
「ごぼっ! ぐあっ! 息が……!」
「助け……て……!」
彼らは泥水の中で必死にもがくが、カエデの魔法は彼らを逃がさない。
激流は彼らを洗濯機の中のように回転させ、揉みくちゃにし、地面に叩きつけ、そしてまた空高く巻き上げる。
「さて、徹底的にやりますよ。汚れが落ちるまで、何度でも!」
カエデが無慈悲に杖を振るうたびに、水流はさらに勢いを増す。
ゴウゴウと轟音を立てて渦巻く水の中で、勇者たちの鎧が軋み、服が裂ける音が聞こえる。
こびりついた泥、垢、そして心の薄汚れた感情までもが、物理的な衝撃と共に剥ぎ取られていく。
「ギャァァァッ!」
「痛いっ! もうやめてくれぇぇ!」
悲鳴が上がるが、水音にかき消されていく。
高圧洗浄機どころではない。災害級の洪水に巻き込まれたようなものだ。
黒ずんでいた鎧が、本来の銀色を取り戻し始める。
固まっていた髪が解け、顔の汚れが落ちていく。
だが、それは決して心地よいシャワーではない。
汚れを「敵」とみなして殲滅する、攻撃魔法そのものなのだ。
今のカエデは、掃除の鬼神と化している。
彼らをピカピカにして、ここから追い出すこと。
そのためなら、多少の手荒な真似も辞さない構えだ。
「さすが、カエデ殿」
セレスは、カエデの水魔法に感心しているようだ。
ただ、俺からすれば、今のカエデは正直怖い。
「ボク、あんなお風呂絶対やだ……」
レイナも耳を伏せて震えている。
やがて、長い長い洗浄タイムが終わった。
カエデが杖を下ろすと、水流は嘘のように消え去った。
後に残ったのは、泥一つなく洗い清められた庭と、その中央で折り重なるように倒れている勇者たちだけだった。
彼らは咳き込み、肩で息をしている。
その姿は、さっきまでの薄汚れた亡霊とは別人だった。
髪は濡れて肌に張り付いているが、汚れは完全に落ちている。
鎧も服も、新品のように輝いていた。
ただし、全員が白目をむきかけ、ピクピクと痙攣しているが。
「……はぁ、はぁ……何なんだよ、これ……」
サカモトが呆然と呟く。
彼は自分の手を見た。
泥だらけだった手が、白く透き通るように綺麗になっている。
恐怖で顔色が蒼白になっているせいもあるだろうが。
「汚れは落ちましたね。ですが、まだ足りません」
カエデが冷徹に言った。
彼女はまだ杖を下ろしていない。
「外側の汚れは落ちても、貴方たちの内面……その腐った性根までは、まだ綺麗になっていません」
「な、まだやる気かよ……!」
「ええ。仕上げです。二度とこの場所に土足で踏み込もうなどと思わないように、しっかりと教育的指導をしておきます」
カエデの周囲に、再び魔力が集まり始めた。
今度は水ではない。
空気が凍りつくような、冷たい冷気だ。
「『凍てつく波動よ、その身を戒めよ』」
彼女が杖を振るうと、勇者たちの足元から氷の蔦が伸びた。
それは彼らの足首に絡みつき、瞬く間に下半身を凍りつかせていく。
「うわっ! 動けない!」
「冷たい! 足が!」
彼らはパニックに陥った。
逃げようにも、足が地面に固定されて動けない。
カエデは彼らに近づき、冷ややかに見下ろした。
「いいですか。ここは貴方たちが踏み荒らしていい場所ではありません。アタルくんが、そして私たちが大切に作り上げた、安息の地です」
彼女の声には、静かだが確かな怒りが込められていた。
「自分たちが辛いからといって、他人の幸せを奪おうとする。その浅ましい考え方が、貴方たちをここまで追い詰めたのではありませんか?」
「う、うるさい……! お前なんかに何が分かる!」
サカモトが反論しようとするが、その声には力がなかった。
圧倒的な実力差を見せつけられ、彼のプライドは粉々になっていた。
「分かりますよ。貴方たちがどれだけ愚かで、身勝手か。……見ていて哀れになるほどです」
カエデはため息をついた。
そして、俺の方を振り返った。
「アタルくん。仕上げはお任せしてもいいですか? これ以上、私が手を下すと、彼らの心が折れてしまいそうです」
彼女なりの慈悲だろうか。
あるいは、汚れ仕事の最後は俺に譲ってくれたのかもしれない。
「ああ、分かった」
俺は椅子から立ち上がり、ゆっくりと庭へ降りた。
凍りついた勇者たちの前まで歩いていく。
彼らは俺を見上げた。
その目には、もはや嫉妬や憎悪はない。
あるのは、畏怖と、そして諦めの色だけだ。
「サカモト」
俺は彼の名前を呼んだ。
「お前たちがどうしてこうなったか、教えてやろうか」
「……あ?」
「お前たちは、『勇者』という肩書きに甘えすぎたんだよ。世界が自分を中心に回っていると勘違いして、周りへの感謝を忘れた。だから、誰も助けてくれなくなったんだ」
俺はしゃがみ込み、彼の目線に合わせた。
「俺は『無能』と呼ばれて追放された。でも、だからこそ、自分の力で生きる覚悟を決めた。そして、大切な仲間たちと出会えた」
俺はテラスにいるセレスとレイナ、そして隣に立つカエデを見た。
彼女たちは俺を見て、微笑んでくれた。
「運が良かっただけかもしれない。でも、その運を掴んで、離さなかったのは俺たちの意志だ」
サカモトは何も言えなかった。
ただ、唇を噛み締め、悔しそうに下を向いた。
彼も薄々は気づいていたのだろう。自分たちの傲慢さが、この結果を招いたということに。
「……もう行け。二度とここには来るな」
俺は静かに告げた。
それは慈悲であり、最後通常告でもあった。
「カエデ、氷を解いてやってくれ」
「……分かりました。特別ですよ」
カエデが指を鳴らすと、彼らを拘束していた氷が砕け散った。
自由になった彼らは、へたり込みながらも、なんとか立ち上がった。
体は震え、足元もおぼつかない。
だが、その顔つきは、来た時よりも少しだけマシになっていた気がする。
いや、どちらかといえば、力が削がれて、その虚脱感の中にある種の諦念か。
「……行くぞ」
サカモトが低い声で仲間に言った。
彼は一度だけ俺の方を振り返り、何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに背を向けた。
謝罪も、感謝もなかった。
だが、それでいい。
彼らとの縁は、これで完全に切れたのだから。
勇者たちは、とぼとぼと門の方へと歩いていった。
その背中は小さく、頼りなく見えた。
かつて教室で輝いていた彼らの姿は、もうどこにもない。
彼らはこれから、王都へ戻るのだろうか。それとも、別の場所へ行くのだろうか。
どちらにせよ、彼らの前途は多難だろう。
だが、それは彼ら自身が選んだ道だ。俺たちが関与することではない。
彼らが門を出て、森の奥へと姿を消すまで、俺たちは見送った。
最後に鉄の扉が音を立てて閉じた。
その音が、過去との決別を告げる合図のように聞こえた。
「……終わりましたね」
カエデが息をついた。
彼女は杖を下ろし、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「ああ。これで本当に、静かな日常が戻ってくるな」
俺は大きく伸びをした。
肩の荷が下りた気分だ。
ずっと心のどこかに引っかかっていた、クラスメイトたちへのわだかまりが、綺麗さっぱり消え失せた気がする。
カエデの『浄化』は、俺の心まで洗ってくれたのかもしれない。
「主君、お疲れ様でした。見事な采配でした」
セレスが近づいてきて、頭を下げた。
「ボク、怖かったけど頑張ったよ! 褒めて!」
レイナが尻尾を振って抱きついてくる。
「ああ、二人ともよく我慢したな。偉いぞ」
俺はレイナの頭を撫でてやった。
彼女たちの存在が、今は何よりも愛おしい。
「さて、掃除も終わりましたし……お茶の続きとしましょうか。スコーンが冷めてしまいました」
カエデがテラスの方を振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「そうだな。温め直してもらおうか」
俺たちは笑い合いながら、テラスへと戻っていった。




