第二十九話:勇者パーティの来襲と、底なしの強欲
その日も平和だった。
俺のいるテラス。
そこでは、穏やかな風が吹き抜けていった。
森の木々がさらさらと葉を揺らし、その隙間からこぼれ落ちる陽光が、丁寧に手入れされた芝生を鮮やかに照らし出している。
かつては鬱蒼とした雑木林だったこの場所も、今では楽園と呼ぶにふさわしい様相を呈している。
セレスが日課として耕した土壌に、カエデが市場で選んだ種を蒔き、俺の運が呼び込んだ好天が育んだ結果、季節外れの花々がありえない速度で成長し、色とりどりの花弁を開いているのだ。
その花畑の周りを、『暁の鶏』たちがコッコッと楽しげな声を上げながら散歩している。その羽毛はキラキラと輝き、見ているだけでこちらの運気まで上がりそうな神々しさだった。
そんな平和な庭を見下ろすテラスで、俺たちは優雅な午後のひとときを過ごしていた。
「はい、アタル様。おかわりをお持ちしました」
セレスが恭しくポットを傾け、俺のカップに紅茶を注いでくれる。
琥珀色の液体がカップの中で踊り、芳醇な香りがふわりと立ち上った。
この紅茶葉も、先日フロンティアの市場で「箱が潰れているから」という理由でタダ同然で譲ってもらった最高級品だ。
「ありがとう、セレス。淹れ方が上手くなったな」
「もったいないお言葉です。剣の稽古と同じく、茶の湯もまた精神修養の一環と心得ておりますゆえ」
セレスは嬉しそうに目を細め、一歩下がって控えた。
彼女が着ているのは、カエデが仕立て直したエプロンドレスだ。普段の鎧姿も凛々しくていいが、こういう家庭的な格好も案外似合っている。本人は「騎士たるもの、いかなる装束でも主君を守れるようでなければ」と大真面目に語っていたが、単にカエデに着せ替え人形にされているだけのような気もする。
「ねえねえ、ボクも! ボクもおかわり!」
隣の席で、レイナが皿を掲げて叫んだ。
彼女の口の周りは、赤いジャムでべとべとになっている。
「レイナ、行儀が悪いですよ。口を拭いてから言いなさい」
カエデが呆れたように言いながら、手にした布巾でレイナの顔を拭いてやる。
その手つきは、まるで手のかかる妹やペットを世話する姉のようだ。
「だってぇ、これ美味しいんだもん! 甘酸っぱくて、トロトロで!」
「地下で見つけた果実のシロップ煮を、さらに煮詰めてジャムにしたのです。スコーンとの相性は抜群でしょう?」
カエデは誇らしげに胸を張った。
テーブルの上には、彼女が焼いたスコーンが山盛りにされている。
外はサクサク、中はしっとりとした食感。そこに濃厚なジャムと、昨日作ったばかりのホイップクリームを添えれば、絶品スイーツの完成だ。
「……平和だ」
俺はスコーンを口に運びながら、しみじみと呟いた。
本当に、心からそう思う。
ただ、好きな時に起きて、美味いものを食べて、ふかふかのベッドで寝る。
これ以上の幸せが、この世にあるだろうか。
「ええ。害虫もいませんし、空気も綺麗です」
カエデが紅茶を一口飲み、同意する。
彼女にとっても、この清潔で管理された空間は居心地が良いのだろう。
以前のような、常に何かに追われているようなピリピリとした空気は、今の彼女からは感じられない。
「このまま、日が暮れるまでここでのんびりするのも悪くないな」
「そうですね。夕食の準備まで、まだ時間もありますし」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
申し分のない午後。
平和な日常。
だが、そんな俺の思考の傍らで、何かが小さく警鐘を鳴らしていた。
――『勘』だ。
これまで数々の幸運を引き寄せてきたこの感覚が、今は微かな警告を発している。
空は青い。風は心地よい。
なのに、何かが近づいてくる気配がする。
ブォン、ブォン……。
テーブルの隅に置いてあった魔導具――水晶板が、低い音を立てて震え始めた。
正門に誰かが来た合図だ。
「……誰か、いる」
レイナがいち早く反応した。
彼女の獣耳がピクリと立ち、ジャムを舐める舌が止まる。
その瞳孔が細まり、野生動物らしい警戒が浮かぶ。
「魔物ですか?」
セレスが即座に俺の前に立ち、エプロンの下から剣の柄を引き寄せようとする動きを見せた。
彼女のまとう空気が、穏やかな給仕係のものから、鋭利な騎士のものへと一瞬で切り替わる。
「……ううん。魔物じゃない。でも、すごく嫌な匂い。汗と、泥と、血と……あと、腐ったような気持ち悪い匂い」
レイナが鼻にしわを寄せ、露骨に嫌悪感を示した。
腐ったような匂い。
それは物理的な悪臭なのか、それとも彼女の直感が捉えた内面的な何かなのか。
「お客様でしょうか。アポなしの訪問者は歓迎できませんが」
カエデが不快そうに顔をしかめ、冷めた紅茶をテーブルに置いた。
彼女の手には、いつの間にか愛用の白い杖が握られている。
俺は水晶板を手に取り、魔力を流して門の様子を確認した。
そこに映し出された映像を見て、俺は思わず目を見張った。
「……おいおい、嘘だろ」
そこにいたのは、亡霊の群れだった。
いや、生きている人間だ。だが、その姿はあまりにも凄惨だった。
泥と煤で黒ずんだ鎧。破れたローブ。折れかけた杖。
彼らは門の格子にすがりつき、何かを叫びながら、必死に中へ入ろうともがいていた。
その光景は、まるでゾンビ映画のワンシーンのようだ。
だが、見覚えがある。
いや、忘れるはずがない。
あの、泥にまみれた顔。脂ぎって額に張り付いた髪。
かつて教室で、俺を「無能」と見下していた男。
そしてこの世界で『光の勇者』という華々しい称号を得たはずの、クラスメイト――サカモトだ。
「……勇者、たちか?」
俺がポツリと呟くと、覗き込んだセレスが言葉を失った。
「彼らが……『勇者』? あの、薄汚れた集団がですか? とてもそうは見えませんが……」
「まあ、俺とカエデと同じように王都で召喚された勇者だよ。見間違いない」
俺はため息をついた。
ギルドマスターから話は聞いていた。
彼らが女王に酷使され、限界を迎えていると。
だが、まさかここまでひどい状態だとは。
これでは勇者というより、難民か、あるいは野盗の群れだ。
「どうしますか? 無視しますか?」
カエデが冷ややかに問う。
彼女にとって、屋敷の敷地内を汚す存在はすべて敵なのだろう。それがたとえ元クラスメイトであっても、今の彼らの衛生状態は「敵」認定されるレベルと判断しているに違いない。
俺は少し考えた。
無視してもいいが、門の前で野垂れ死にされても寝覚めが悪い。
それに、彼らがここまで落ちぶれた理由にも興味があった。
何より、かつて俺を見下していた彼らが、どんな顔をして俺に会いに来たのか、確かめてみたいという意地悪な好奇心もあった。
「……入れてやろう。せっかくの来客だ」
「主どの、決して警戒を怠らずに。戦崩れの騎士が一番厄介です」
セレスが忠告してきた。
「ああ、そうだな」
そういって、俺は水晶板を操作し、門のロックを解除した。
画面の中で、ギィィィ、と重苦しい音を立てて、鉄の門が開くのが見えた。
勇者たちは、支えを失ったように雪崩れ込んでくる。
彼らは、よろめきながら庭の小道を歩いてきた。
手入れの行き届いた芝生を、泥だらけのブーツで踏みにじりながら。
その無神経さに、カエデのこめかみがピクリと動いたのが分かった。
俺たちはテラスで彼らの到着を待った。
数分後、サカモトたちご一行が、息を切らしながら姿を現した。
近くで見ると、その汚れっぷりはさらに凄まじい。悪臭が風に乗って漂ってくるほどだ。
テラスの下までたどり着いた彼らは、ふと顔を上げた。
そして、俺たちの姿を見た瞬間、その足が凍りついたように止まった。
「……あ?」
サカモトの喉から、掠れた、ひび割れたような声が漏れた。
彼の充血した目が、極限まで大きく開かれる。
いや、それは理性的な光ではない。
理解不能なものを目にした時の混乱と、そして強烈な渇望の光だ。
彼らの目に映ったものは、何だっただろうか。
美しく咲き誇る花々。
一点の曇りもなく磨き上げられた、白亜の洋館。
透明なガラス窓の向こうに見える、清潔で豪華な調度品。
そして、昼下がりのテラスで、清潔な服に身を包み、優雅にお茶と菓子を楽しむ、健康的な俺たちの姿。
地獄のような戦場を這いずり回ってきた彼らにとって、ここはあまりにも眩しすぎる、別世界の光景だったに違いない。
「……天道……?」
サカモトが、信じられないものを見るように俺の名を呼んだ。
その声は震えていた。
「お前……なんで、ここに……」
俺は椅子に座ったまま、軽く片手を上げた。
「よお、久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
皮肉ではない。純粋な挨拶だ。
これ以上ないほど普通の、友人に会った時の挨拶。
だが、その「普通さ」こそが、今の彼らにとっては猛毒だったらしい。
「元気……だと……?」
サカモトの顔が、一気にひきつった。
驚きが、急速に怒りへと塗り替えられていく。
彼の肩がわなわなと小刻みに揺れ、握りしめた剣の柄がミシミシと音を立てた。
「ふざけるな……っ! 何が元気だ! 俺たちが……俺たちが、どんな思いでここまで来たと思ってるんだ……!」
ダムが決壊したように、彼の口から言葉が溢れ出した。
「寝る間もない! 水もない! 泥水をすすり、腐りかけた肉を食い、仲間が死にかけ、それでも戦って……! 女王は命令するだけだ! 『行け』『戦え』『死んでも守れ』と! 俺たちは勇者だぞ!? なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
悲痛な叫びだった。
それは、理不尽な運命に対する呪詛そのものだ。
彼らの後ろにいた魔法使いの女子生徒――クラスでは派手なグループにいた子だ――が、ヒステリックに金切り声を上げた。
「なによそれ! なんであんたがそんなに綺麗な格好してるのよ! 『無能』のくせに! 追放されたくせに!」
彼女は自分のボロボロになったローブを掴み、悔しそうに地団駄を踏んだ。
その髪は脂ぎって固まり、顔には泥と垢がこびりついている。かつての美貌は見る影もない。
「私の肌、ボロボロなのよ! 髪だってバサバサで……お風呂なんて何日も入ってないのに! なんであんたたちだけ、そんなにツヤツヤしてるのよ!」
「そうだ! おかしいだろ!」
「俺たちは世界を救うために選ばれたんだぞ!」
「一番いい思いをするのは俺たちのはずだろ!」
他の連中も口々に叫び始めた。
そこにあるのは、再会の喜びなど微塵もない。
自分たちよりも下の存在だと思っていた俺が、自分たちよりも遥かに良い暮らしをしていることへの、どうしようもない嫉妬。
そして、自分たちの苦労が報われていないことへの、行き場のない怒り。
彼らは俺を睨みつけている。
その目は、すでに人間を見る目ではなかった。
獲物を見る獣の目。
あるいは、自分たちの幸福を不当に奪った略奪者を見る目だ。
「不公平だ……! こんなの、間違ってる!」
サカモトが聖剣を引き抜いた。
金属音が響く。
かつては輝いていたであろうその剣も、今は手入れ不足で刃こぼれし、赤錆が浮いている。
それでも、人を殺すには十分な凶器だ。
彼は切っ先を俺に向け、血走った目で唸った。
「よこせ」
「……は?」
「その屋敷も、食い物も、服も、全部だ! 俺たちによこせ!」
俺は耳を疑った。
招き入れてやったのに、いきなり強盗宣言か?
助けを求めるならまだしも、奪い取ろうとするとは。
勇者という肩書きが、彼らの倫理観をここまで歪めてしまったのか。
「聞こえなかったのか! 俺たちは勇者だ! この世界のために戦ってやってるんだぞ! なら、最優先で保護される権利がある! お前のような無能が独占していいものじゃないんだよ!」
サカモトは完全に錯乱していた。
あるいは、極限状態のストレスと選民思想が、彼の傲慢さを肥大化させ、化け物に変えてしまったのかもしれない。
彼らの論理は破綻している。
だが、彼らにとってはそれが絶対的な「正義」なのだ。
自分たちは特別な存在であり、あらゆるものを搾取する権利があると、本気で信じ込んでいる。
サカモトの視線が、俺の隣にいるカエデ、そしてセレス、レイナへと向けられた。
その目が、ねっとりと彼女たちの体を舐め回す。
そこには、隠そうともしない欲望と、どす黒い劣情が立ち込めていた。
「その女たちもだ!」
彼は下卑た笑みを浮かべた。
口の端から、汚い涎が垂れている。
「俺たちの世話をさせろ! 勇者の疲れを癒やすのが、お前らの役目だろうが! その綺麗な体で、たっぷりと奉仕させてやる!」
後ろにいる男たちも、ニタニタと笑いながら同意する。
その視線に晒されたカエデが、ゾッとしたように身を震わせた。
彼女の顔から表情が消え、能面のような冷たさが張り付く。
「……最低ですね」
カエデが冷ややかに言い放った。
その声は低く、地を這うような重圧を含んでいる。
彼女はゆっくりと立ち上がり、俺の隣に並んだ。
その手には、白く輝く魔導杖が握られている。
「久しぶりに会ったと思えば、盗賊まがいの言いがかりですか。……いえ、盗賊の方がまだマシかもしれません。彼らは自分が悪党だと自覚していますから」
彼女の瞳は、ゴミを見るような、絶対零度の冷たさを帯びていた。
それは、汚れたものをこの世から抹消しようとする時の、あの目だ。
「なんだとぉ!?」
「貴方たちは、自分を正義だと信じて疑わない。その歪んだ精神性が、あの泥だらけの鎧よりも醜悪で、鼻につきます。……吐き気がするほどに」
カエデの言葉は鋭利な刃物のように、彼らのプライドを切り裂いた。
サカモトの顔が、怒りで真っ赤に染まる。血管が切れそうなほどに。
「黙れ! 元委員長風情が、偉そうな口を利くな! お前も俺たちの所有物にしてやる! 泣いて詫びても許さねえぞ!」
サカモトが吠え、仲間たちに合図を送った。
勇者パーティが、武器を構えて散開する。
魔法使いが杖を掲げ、戦士が斧を構える。
話し合いの余地はない。
彼らは力ずくで、この楽園を、そして俺たちの尊厳を奪い取るつもりだ。
セレスが剣を抜き、前に出ようとする。
彼女の全身から、騎士としての激しい闘気が立ち昇る。
「主君を愚弄し、あまつさえ略奪を働こうとするとは……! 勇者だろうが何だろうが、賊徒には断固たる制裁を加えます!」
レイナも牙を剥き、低く唸り声を上げる。
彼女の爪が伸び、戦闘態勢に入る。
「こいつら、嫌な匂いしかしない! ボクの縄張りから出て行け!」
一触即発。
美しかった庭が、醜い戦場になろうとしていた。
俺はカップに残っていた紅茶を飲み干し、静かにソーサーに置いた。
カチャン、という硬質な音が響く。
「待て」
俺は短く声をかけ、二人を制した。
「主君?」
セレスが振り返る。
「セレス、レイナ。手を出すな」
俺は椅子に深く座り直した。
彼らと戦う?
そんな大層なことじゃない。
彼らは脅威ではない。ただの、騒がしくて汚い、招かれざる客だ。
門を開けて招き入れてやった恩を仇で返すような連中に、剣を抜く価値もない。
それに、ここは俺たちの庭だ。
血で汚したくはない。
俺の意図を察したのか、カエデが小さく頷いた。
「カエデ」
「はい」
カエデが一歩前に出る。
彼女は杖を構え、その切っ先をサカモトたちに向けた。
「庭が汚れる。……掃除の時間だ」
俺の言葉に、カエデの口元が微かに緩んだ。
それは、慈愛の笑みではない。
不浄を滅する執行者の、冷酷な笑みだ。
「言われなくとも。こびりついた汚れごと、綺麗さっぱり洗い流しましょう」
カエデの周囲に、膨大な魔力が渦巻き始めた。
空気が震え、風が巻き起こる。
青い光が収束し、大気を満たしていく水分が、彼女の意思に従って形を成していく。
その魔力量は、以前、玄関で宰相たちを吹き飛ばした時の比ではない。
彼女は本気だ。
心底からの不快感と、彼らの腐った根性を叩き直すための「お仕置き」として、最大級の洗浄を用意している。
それは、渇きを癒やす慈愛の雨ではない。
不浄なるものを許さず、すべてを押し流す断罪の激流の予兆だった。
「な、なんだ!?」
勇者たちが怯んだ。
サカモトが後ずさる。
彼らは本能的に悟ったはずだ。
目の前にいるのは、か弱い少女ではない。
自分たちが束になっても敵わない、圧倒的な「力」を持った存在だと。
だが、もう遅い。
俺たちの平穏を乱した代償は、高くつくぞ。
俺は、これから始まる一方的な「大掃除」を見届けるべく、ゆっくりとそちらを見た。




