第二十八話:安息の代償と迫る危機
静寂が戻ってきた。 先ほどまで玄関先で騒ぎ立てていた不快な害虫たちは、カエデの容赦ない洗浄魔法によって、森の彼方へと洗い流された。
窓の外では、再び小鳥たちがさえずり、風が木々の葉を揺らす穏やかな音が響いている。まるで何事もなかったかのように、世界は平和を取り戻していた。
「……ふぅ。これでようやく、静かな朝食の続きが楽しめますね」
カエデがリビングに戻ってきた。
彼女は手にした白い杖を軽く振り、先端に残っていた水滴を払うと、何食わぬ顔で席に着く。その表情は晴れやかで、一仕事終えた後の爽快感さえ漂わせていた。
「お帰り。随分と派手にやったな」
「ええ。玄関周りのタイルまでピカピカにしておきました。ついでに、あの人たちが撒き散らした不浄な空気も浄化しておきましたから、もう安心です」
彼女はそう言うと、冷めかけていたフレンチトーストにフォークを伸ばした。
普通なら冷めた料理は味が落ちるものだが、今の俺たちには関係ない。カエデが軽く指先を振るえば、パンからは再び湯気が立ち上り、焼きたての香ばしさが蘇るからだ。
「いただきます」
カエデが上品にパンを口に運ぶ。 俺もまた、自分の皿に向き直った。 中断されたとはいえ、この黄金色のパンの魅力が損なわれることはない。むしろ、一度お預けを食らったことで、食欲はいっそう増していた。
口に入れると、再びあの幸福な甘さが広がる。 牛乳と卵の濃厚な味わい。焦げた砂糖のカリッとした食感。 俺は目を閉じ、その味を全身で受け止める。
「ん〜っ! やっぱり美味しい! 変な人たちがいなくなって、もっと美味しく感じるよ!」
レイナが大きく口を開け、最後の一切れを放り込んだ。 彼女の獣耳はピンと立ち、尻尾はリズミカルに左右に揺れている。彼女にとって、あの宰相たちはただの「食事の邪魔をする悪い奴ら」でしかなかったようだ。
「同感です。主君の安寧を乱す輩を排除した後の食事は、格別の味がします」
セレスも満足げにナイフを置いた。 彼女の皿は綺麗に空になっている。騎士らしく食事のマナーも洗練されているが、その食べる速度はレイナに負けず劣らず速かった。
俺も最後の一口を飲み込み、コップに残っていた牛乳を一気に干した。 喉を通る冷たい液体が、胃袋に落ちていく。 満腹だ。 そして、この上ない充足感。
「ごちそうさまでした」
俺たちは手を合わせ、朝食タイムを終えた。
◇
俺は、ソファに深く身体を沈めていた。
窓から差し込む柔らかな日差し。
甘い香り。
平和だ。
このまま日が暮れるまで、何もせずに過ごす。それこそが、俺に与えられた最大の権利であり、義務でもある。
だが、俺の『天運』は、時として俺の望まない方向へも作用するらしい。
俺のくつろぎを妨げるように、テーブルの隅に置いてあった魔導具――水晶板が、淡い光を放ち始めた。
ブォン、ブォン……。
低い振動音が聞こえてきた。
これは、敷地の入り口である『正門』に設置した魔導具からの呼び出し音だ。
板の表面に、門の前の様子が映像として浮かび上がる。
「……またか?」
もしかして、さっきの宰相たちが戻ってきたのだろうか?
いや、あれだけ派手に流されたのだから、そうすぐに戻ってこられるはずがない。
「見てみましょう」
カエデが水晶板を覗き込む。
そこに映っていたのは、宰相の脂ぎった顔ではなかった。
「……ギルドマスターですね」
初老の男性だ。
ギルドマスター。
彼は、フロンティアの冒険者ギルドで、俺たちにマッドドラゴン討伐の報酬を渡してくれた人物だ。
彼は門の鉄格子の前で、申し訳無さそうに縮こまっている。
「通していいか?」
「ええ。彼は礼儀をわきまえている方ですし、庭を泥で汚すようなこともないでしょう」
カエデの許可が出たので、俺は遠隔操作で正門のロックを解除した。
水晶板の中で、重厚な門が自動で開き、ギルドマスターが驚いたように、しかし安堵した表情で敷地内へと足を踏み入れるのが見えた。
彼が庭を横切り、屋敷の玄関にたどり着くまでの数分の間に、俺たちは茶器を片付け、客人を迎える準備を整えた。
やがて、屋敷の正面玄関の扉が控えめにノックされた。
「……失礼いたします。天道様、冷泉様」
セレスに案内され、ギルドマスターがリビングに入ってきた。
俺を見つけると、深々と頭を下げる。
その顔色は優れない。どこか疲れたような、憔悴したような感じが読み取れた。
何か、厄介ごとの匂いがする。
「こんにちは。今日は何の用ですか? またドラゴンの討伐依頼なら、パスですよ。俺たちは休暇中なんで」
俺の言葉に、ギルドマスターは力なく首を横に振った。
「いえ、依頼ではありません。ただ……確認したいことがありまして」
彼はハンカチで額の汗を拭いながら、俺とカエデを交互に見た。
「王国の宰相閣下と近衛騎士団が、このフロンティアを訪れていることはご存知でしょうか?」
「ええ、知ってますよ。さっきまでそこにいましたから」
俺が玄関の方を指差すと、ギルドマスターは「やはり」といった表情でため息をついた。
「実は、ギルドの方にも事前に通達がありました。『英雄となった二人を王都へ連れ帰る』と。彼らは意気揚々とこの屋敷へ向かったはずなのですが……」
ギルドマスターは言葉を切り、少し言いづらそうに視線を泳がせた。
「先ほど、森の入り口付近で、彼らを目撃しました。……全身ずぶ濡れで、泥まみれになった状態で」
「ほう」
「彼らは『覚えておけ!』と捨て台詞を吐きながら、ほうほうの体で王都の方角へ撤退していきました。まるで、鉄砲水にでも押し流されたかのような惨状でしたよ」
ギルドマスターは、じっと俺の目を見た。
「この周辺で、局地的な豪雨があったという報告はありません。……天道様、何かご存知ではありませんか?」
「ああ、うちの敷地に泥足で入ろうとしたんで、ちょっと水をかけて追い払ったんですよ。カエデが」
俺が事もなげに言うと、ギルドマスターは天を仰いだ。
「やはり……! いえ、薄々は感づいておりましたが、まさか本当にやってしまうとは……!」
彼はがっくりと肩を落とした。
「相手は王国の重鎮ですよ! 王の代理人と言っても過言ではないお方です。それを水攻めにして追い払うなど……これは、国に対する明確な反逆と受け取られかねません!」
ギルドマスターの声が震えている。
まあ、普通の感覚ならそうだろう。国家権力に喧嘩を売ったようなものだ。
「それで? 俺たちを捕まえに来たんですか?」
「滅相もございません! 私は……事態の深刻さをお伝えしに来たのです」
彼はソファに座るよう促されると、重たげに腰を下ろした。
カエデがキッチンから紅茶とクッキーを盛った皿をテーブルの上に置き始めた。
「まずは落ち着いてください。美味しいお菓子もありますから」
「あ、ありがとうございます……」
ギルドマスターは戸惑いながらも、クッキーを口にした。少し気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。
「……今回の件、王宮は黙っていないでしょう。ただでさえ、今は国全体が余裕を失っていますから」
「余裕がない?」
「はい。実は、王都にいる私の情報源から、あまり良くない噂を聞きまして」
ギルドマスターは声を潜めた。
「『異世界から召喚された勇者たち』についてです」
勇者。
その単語が出た瞬間、俺の手がわずかに止まった。
クラスメイトたちのことだ。
ギルドマスターは、俺とカエデがその「勇者たち」と同じ世界から来た元クラスメイトだとは知らない。俺たちはあくまで、偶然流れ着いた強力な冒険者として振る舞っているからだ。
「彼らがどうかしたんですか?」
俺は努めて無関心を装って尋ねた。
「どうやら……限界のようです」
「限界?」
「はい。女王陛下の命令により、彼らは連日連夜、魔王軍との最前線へ投入されています。十分な休息も与えられず、回復魔法で無理やり体を動かされ、次から次へと死地へ送られている……。精神を病んでしまった者も少なくないと聞きます」
ブラック企業も真っ青な労働環境だ。
いや、命の危険がある分、もっとタチが悪い。
あいつら、「勇者として優遇される」と思っていただろうに。現実は使い捨ての兵隊か。
教室で俺を「無能」と笑っていた連中の顔が浮かぶ。
自業自得と言えばそれまでだが、あの女王に使い潰されていると聞くと、少しだけ憐れみを感じなくもない。
「華々しい戦果を上げていると報道されていますが、内実はボロボロのようです。国民の支持も揺らぎ始めています」
ギルドマスターは深刻な顔で続けた。
「そこで、女王陛下は新たな策を講じようとしています。国民の不満を逸らし、かつ戦力を補強するための策を」
彼は俺とカエデを交互に見た。
「フロンティアで名を上げた『聖女』……つまり冷泉様と、そのパートナーである貴方様を、身代わりの戦力として利用しようとしているのです」
「身代わり?」
「はい。疲弊した勇者たちの失態を隠蔽し、『新たな英雄が現れた』と国民に喧伝することで、戦意高揚を図ろうとしています。そして、貴方様たちを最前線へ送り込み……勇者たちの盾にするつもりだという情報があります」
盾。
つまり、捨て駒ということか。
自分たちで「無能」と断じて追放しておいて、都合が悪くなったら「英雄」として呼び戻し、最前線で使い潰す。
しかも、俺たちの意思など関係なく、強制的に。
相変わらず、あの女王の考えそうなことだ。
自分の保身のためなら、他人の人生など何とも思っていないのだろう。
「……なるほど。宰相が必死になって俺たちを連れ戻そうとしたわけですね」
俺が納得して頷くと、ギルドマスターは身を乗り出した。
「納得している場合ではありません! これは由々しき事態ですよ! 王命を拒否したとなれば、次は軍隊が派遣されるかもしれません。貴方様たちは国から指名手配されるも同然……いや、反逆罪を適用されてもおかしくありません!」
反逆罪。
国家に仇なす大罪人。
たしかに、普通の人間なら、震え上がるような言葉だろう。
だが。
「それで?」
俺は平然と言い返した。
「そ、それで、とは……?」
「国が俺たちをどう扱おうと、知ったことじゃありません。俺たちはここで、静かに暮らしたいだけなんです。それを邪魔するなら、相手が国だろうが女王だろうが、排除するだけですよ」
俺の言葉に、ギルドマスターは絶句した。
国家権力という絶対的な力を前にして、ここまで平然としていられる人間を見たことがないのだろう。
彼は俺の顔をまじまじと見つめた。そこには虚勢も強がりもない。ただの事実として述べているだけだと、理解したようだった。
俺には確信があった。
俺には『天運』がある。カエデには『浄化』がある。セレスには『剣技』が、レイナには『野生の力』がある。
それに、この屋敷での快適な生活を守るという、何よりも強い動機がある。
国ごときに、この楽園を壊されてたまるか。
ギルドマスターは、手に持ったままだったクッキーを口に運んだ。
そして、ゆっくりと噛み締める。
「……私が馬鹿らしくなってきました」
「え?」
「国の存亡だの、反逆罪だの……そんなことで悩んでいた自分が、小さく思えてきます。貴方様たちの、この揺るぎない日常を前にしては」
彼は紅茶をすすり、ふぅと息を吐いた。
その顔からは、先ほどまでの悲壮感が消えていた。
「美味しいですね。本当に」
「ええ。平和の味がしますよ」
俺もクッキーを口に放り込んだ。
サクサクとした食感と共に、素朴な甘さが広がる。
バターの風味もしっかり効いている。
「……天道様」
ギルドマスターが、真剣な眼差しで俺を見た。
「私は、貴方様の味方です。今回の情報は、あくまで噂レベルとして処理しておきます。ギルドとしても、フロンティアの英雄を国に売り渡すような真似はいたしません」
「それは助かります。面倒ごとは嫌いなんで」
「ですが、警戒は怠らないでください。国は何をしてくるか分かりません。特に、あの宰相あたりは、強硬手段に出る可能性も……」
俺はカエデと顔を見合わせた。
カエデがくすりと笑う。
「ああ、あいつなら心配いりません。カエデが徹底的に洗浄しましたから、しばらくは立ち直れないでしょう」
「……そうでしたね。あの方を水に流すなど、聞いたこともありません」
ギルドマスターは吹き出し、そして腹を抱えて笑い出した。
「いやはや、まいりました。貴方様たちには、常識など通用しませんね。私の心配など、杞憂に過ぎなかったようです」
ひとしきり笑った後、彼はすっきりした顔で立ち上がった。
「では、私はこれで失礼します。何かあれば、いつでもギルドへご連絡ください。全力でサポートさせていただきます」
「ありがとうございます。また美味いもんができたら、差し入れしますよ」
「ええ、楽しみにしています」
ギルドマスターは、来た時とは別人のような軽やかな足取りで帰っていった。
その背中を見送りながら、俺は大きく伸びをした。
「……さて」
俺は振り返った。
そこには、いつの間にか目を覚まし、話を聞いていたセレスとレイナも立っていた。
「主君。今の話……」
セレスが真剣な表情で問いかけてくる。
「ああ。国が何か企んでるらしいが、関係ない」
俺はきっぱりと言った。
「俺たちの生活は、俺たちが守る。誰にも邪魔はさせない。それだけだ」
「……はい! その言葉、胸に刻みました。私も、この剣にかけて、主君の平穏をお守りします!」
セレスが胸に手を当てて誓う。
その瞳に迷いはない。
「ボクも! 悪いやつが来たら、ガブってする!」
レイナが牙を剥いて威嚇のポーズをとる。
「ふふ。頼もしいですね」
カエデが微笑みながら、空になったティーカップを片付ける。
「さあ、難しい話はおしまいです。お茶会の続きをしましょうか。まだクッキーはたくさんありますから」
「そうだな。湿気ないうちに食わないともったいない」
俺たちは再び、平和な日常へと戻っていった。
国の陰謀? 勇者の危機?
そんなものは、明日の天気よりもどうでもいいことだ。
今の俺たちにとって重要なのは、目の前のクッキーが美味しいということ。
それだけなのだから。
西の空が、茜色に染まり始めていた。
今日もまた、最高の一日が終わろうとしている。
そして明日もまた、間違いなく最高の一日が待っているはずだ。
俺には『天運』があるのだから。




