第二十七話:不敬な使者と、玄関払いの美学
爽やかな風が、テラスに置かれた観葉植物の葉を優しく揺らしている。
小鳥たちのさえずりが、まるで俺たちの朝食を祝福するBGMのように降り注いでいた。
木々の緑は朝露に濡れてきらきらと輝き、空はどこまでも高く、澄み渡っている。
絵に描いたような、素晴らしい朝だ。
だが、今の俺にとって、この美しい風景すらも脇役に過ぎない。
主役は、目の前のテーブルに鎮座している『彼ら』だ。
白い大皿の上で黄金色に輝く、分厚いフレンチトースト。
そして、ガラスのコップの中で氷と踊る、冷えた牛乳。
「……素晴らしいな」
俺は思わず、感嘆のため息を漏らした。
ただのパンではない。昨日のうちにカエデが焼き上げた、ふわふわの白パンだ。
それを、一晩かけて特製のアパレイユ――卵と砂糖、そして昨日手に入れた最高級の牛乳を混ぜ合わせた液――に、じっくりと漬け込んだものらしい。
パンの中心部までたっぷりと染み込んだそれは、もはやパンというカテゴリーを超え、プリンに近い存在へと昇華されている。
「さあ、召し上がれ。焼き立てが一番美味しいですから」
カエデがエプロンを外し、満足げな笑みを浮かべて席に着く。
彼女の目の前にも、同じ黄金色の山が築かれている。
セレスとレイナは、すでにフォークを握りしめて待機していた。レイナに至っては、尻尾がブンブンと左右に振られ、風を起こしているほどだ。
「待ちきれないよー! 食べていい? ねえ、食べていい?」
「主君が口をつけてからです。待つのです、レイナ」
「いいよ、食べよう。冷めたらもったいない」
俺の号令と共に、全員が一斉に動き出した。
俺はナイフを入れる。
サクッ。
表面がキャラメリゼ――砂糖を焦がして飴状にすること――されているおかげで、小気味よい音が響く。
刃が中に入ると、今度は抵抗なくスッと沈んでいく。
この感触だけで、中のトロトロ具合が伝わってくる。
切り分けた一切れを、フォークで持ち上げる。
湯気と共に、バターの芳醇な香りと、焦げた砂糖の甘く香ばしい匂いが立ち上る。
それを口へと運ぶ。
……カリッ。ジュワァァァ……。
「んんっ……!」
口の中で、食感のパレードが始まった。
カリカリとした表面の歯ごたえ。
そして、中から溢れ出す熱々のカスタードのようなアパレイユ。
濃厚な牛乳のコクと、卵の優しい風味。
それらを琥珀蜜の深みのある甘さがまとめ上げている。
「おいしーい! なにこれ、トロトロ! 口の中で溶けちゃう!」
レイナが目を丸くして叫ぶ。
彼女の口の端には、すでに甘いシロップがついている。
「信じられません……。パンが、まるで極上のお菓子のようです。噛む必要すらありません」
セレスも恍惚の表情を浮かべ、頬に手を添えている。
「牛乳の質が良いからですね。コクがあるのに後味がすっきりしていて、いくらでも食べられそうです」
カエデも自画自賛しながら、ペース良く口に運んでいる。
俺は、ここで追撃の一手を打つことにした。
コップに手を伸ばす。
表面に水滴がつき、見るからに冷えている牛乳だ。
熱々のフレンチトーストの余韻が残る口内へ、冷たい液体を流し込む。
ゴクリ。
「……くぅーっ!」
たまらない。
熱さと冷たさ。
甘さと苦さ。
カリカリとトロトロ。
この無限のループは、人をダメにする禁断の快楽だ。
「最高だ……。この瞬間のために生きてると言っても過言じゃない」
俺は背もたれに深く体を預け、空を見上げた。
平和だ。
なんて平和なんだろう。
昨日、ドラゴン退治なんていう面倒ごとに巻き込まれたが、その報酬がこれなら、まあ許してやってもいい。
牛乳と卵、そしてカエデの魔法があれば、俺たちの食卓はどこまでも充実していく。
この幸せな時間が、永遠に続けばいいのに。
俺は本気でそう思った。
しかし。
世の中というのは、そう都合よくはできていないらしい。
俺のささやかな願いを嘲笑うかのように、無粋な音が響いた。
ブォン、ブォン、ブォン。
テーブルの隅に置いてあった魔導具――手のひらサイズの水晶板が、低い警告音と共に震えだしたのだ。
小鳥のさえずりも、風の音も、すべてを台無しにする人工的な音。
「……誰だ?」
俺は眉を寄せた。
この屋敷は広大な庭と堅牢な石垣に囲まれている。ここから敷地の入り口までは距離があり、直接の音など聞こえるはずもない。
だが、この水晶板は石垣にある正門の様子を監視し、来訪者を知らせるインターホンの役割を果たしている。
「マナーを知らない野蛮人ですね。せっかくの朝食が台無しです」
カエデが不快げに呟き、手元の杖を強く握りしめた。
彼女の目から、先ほどまでの慈愛が消え失せ、冷ややかな光が宿っている。
俺は水晶板を手に取った。
魔力を流すと、板の表面に正門前の映像が鮮明に浮かび上がる。
そこには、見覚えのある顔があった。
いや、見覚えなどという生易しいものではない。
俺の脳裏に、嫌な記憶と共にこびりついている顔だ。
立派な髭を蓄え、高価そうな服に身を包んだ中年男。
そして、その後ろに控える、金色の鎧を着た騎士たち。
「……げっ」
俺は思わず声を上げた。
王国の宰相だ。
そして、近衛騎士団。
第一話で、俺たちを「無能」と断じて追放した張本人たちだった。
「どうした、出てこんか! いるのは分かっているぞ!」
宰相が正門の鉄格子に向かって怒鳴り散らしているのが、水晶板越しでも伝わってくる。
相変わらずの尊大な態度だ。
ここは俺の家だぞ。
いきなり押しかけてきて、門を壊さんばかりに叩くなんて、不法侵入もいいところだ。
「武装しています……。主君、下がっていてください。相手からは明確な害意を感じます」
セレスが立ち上がり、剣の柄に手をかけた。
彼女の全身から、ピリピリとした殺気が立ち上る。
彼女はこの男たちと面識はないはずだが、騎士としての勘が危険を察知したのだろう。
「落ち着け、セレス。ここで暴れたら、せっかくの食事が埃まみれになる」
俺は彼女を制止し、大きくため息をついた。
ナイフとフォークを置く。
もう、食欲が半減してしまった。
あの不快な声を聞いただけで、胃が重くなる。
「無視しますか?」
カエデが冷たい声で提案する。
「そうしたいのは山々だが、このまま放っておくと門を壊されそうだ。ちょっと追い払ってくるよ」
俺は重い腰を上げた。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
だが、この平穏な日常を守るためには、害虫駆除も必要だ。
「私も行きます。変な菌を持ち込まれては困りますから」
カエデも立ち上がった。
「私もお供します! 主君の安全を守るのが、私の役目ですから!」
セレスが剣を帯び直して俺の前に立つ。
「ボクも行くー! 変なやつ、やっつける!」
レイナもやる気満々だ。
結局、フレンチトーストは一時お預けとなり、全員で敷地の入り口へと向かうことになった。
広い庭を横切り、石垣に囲まれた正門の前に立つと、外からの怒鳴り声が微かに聞こえてきた。
「開けんか! 王国の使者であるぞ!」
「無礼者め! 宰相閣下をお待たせするとは何事か!」
やかましい。
俺は耳を塞ぎたくなった。
門の前に立ち、大きく深呼吸をする。
そして、ロックを解除し、重厚な鉄の扉を開けた。
ギィィ……。
扉が開くと同時に、蒸し暑い外気と、おっさんたちの脂ぎった顔が飛び込んできた。
最前列にいた宰相が、俺を見るなり鼻を鳴らした。
「ふん、ようやく出てきたか。随分と待たせてくれたな、無能」
開口一番、それかよ。
俺はあくびを噛み殺しながら、気だるげに応対した。
「朝っぱらから何ですか? 近所迷惑ですよ」
「なんだその態度は! 貴様、自分の立場が分かっているのか!」
後ろにいた騎士が、汚い飛沫を飛ばしながら怒鳴り散らす。
うわ、汚い。
俺はたまたま足元の石畳の段差に足を取られ、体勢を崩した。
そのおかげで、飛んできた唾は俺の頭上を通過していった。ナイス不運、いや幸運か。
一方、カエデは目の前に薄い水の膜を一瞬で展開し、汚れを完全に遮断していた。
セレスは一歩前に出て、俺とカエデを庇うように立ち、剣の柄に手を掛けて油断なく相手を見据えている。レイナも低い姿勢でいつでも飛びかかれるように唸り声を上げている。
「まあよい。用件を伝えてやる。ありがたく聞け」
宰相は胸を張り、巻物のようなものを取り出して広げた。
まるで王様の命令書を読み上げるかのような、仰々しい仕草だ。
「天道アタル、並びに冷泉カエデ。貴様らが先日、マッドドラゴンを討伐したという報告を受けた。本来ならば、追放された罪人の分際で勝手な真似をした罪に問われるところだが……」
宰相はそこで言葉を切り、恩着せがましい笑みを浮かべた。
「今回は特別に、その功績を認めてやろう。そして、王宮への帰還を『許可』してやる。光栄に思え」
……は?
俺は耳を疑った。
帰還を許可?
自分たちで勝手に追い出しておいて、役に立つと分かったら戻ってこい、だと?
しかも、「戻してやる」という上から目線。
どこまで図々しいんだ、こいつらは。
「加えて、その屋敷と、貴様らが隠し持っている物資、そして従えている亜人ども。それら全てを国に献上せよ。そうすれば、貴様らの罪を不問にし、下級兵士として雇ってやってもよいぞ」
宰相は、それがさも寛大な提案であるかのように言い放った。
俺の所有物を奪い、俺たちを使い捨ての兵士にする。
それが彼らにとっての「慈悲」らしい。
俺は呆れて言葉も出ない。
いや、怒りすら湧いてこない。
ただひたすらに、呆れ果てた。
こいつらの頭の中は、自分たちが世界の中心だという妄想で埋め尽くされているのだろう。
「……断る」
俺は短く言った。
「なっ……?」
宰相の顔が固まった。
予想外の言葉を聞いた、という顔だ。
「な、何を言っている? 聞こえなかったのか? 戻ることを『許可』すると言っているのだぞ? あの薄暗い森での野宿生活から、文明的な王都へ戻れるのだぞ?」
野宿?
ああ、こいつらは俺たちがどんな暮らしをしているか知らないのか。
まあ、説明するのも面倒だ。
「拒否する。面倒くさい」
俺は手をひらひらと振った。
「俺たちはここで快適に暮らしてるんだ。王都なんて窮屈な場所には戻りたくない。それに、あんたらの下で働くなんて真っ平ごめんだ」
「き、貴様ぁ……!」
宰相の顔がみるみる赤くなっていく。
血管が切れそうだ。
「この分からず屋め! これは王命に等しいのだぞ! 女王陛下の御心に背くつもりか!」
「知らんよ。俺たちはもう、あんたの国の人種じゃない。追放されたんだからな」
「ええい、黙れ黙れ! 口で言っても分からぬなら、力ずくで連れ戻すまでだ!」
宰相が合図を送ると、後ろに控えていた騎士たちが一斉に抜剣した。
ジャリッ、という金属音が響く。
平和な森の空気が、一瞬で物騒なものに変わる。
「おい、お前! その男を捕らえろ! 抵抗するなら手足を切り落としても構わん!」
先頭にいた騎士が、剣を構えて一歩踏み出した。
彼は土足のまま、屋敷の敷地内へと足を踏み入れようとした。
そのブーツには、森のぬかるんだ泥がべっとりと付着している。
「主君!」
「アタル!」
セレスが剣を抜き放ち、レイナが爪を立てて飛び出そうとする。
その瞬間だった。
ヒュッ。
空気が凍りついた。
俺の隣にいたカエデから、絶対零度の冷気が放たれたのだ。
「……汚れています」
低く、地を這うような声。
「え?」
騎士が足を止めた。
カエデは氷のような瞳で、騎士の足元を見下ろしていた。
そこにあるのは、敵意ではない。
汚物を前にした、生理的な嫌悪と拒絶だ。
「泥だらけの靴で、私が毎日磨き上げている石畳を踏まないでください。……不潔です」
「な、なんだと小娘! たかが泥くらいで――」
「敷居を跨がないでください」
カエデが杖を構え、騎士に向けた。
「不衛生な存在は、退去願います」
彼女が杖を横になぎ払う。
「『水よ、全てを洗い流せ』」
ズザザザザザァァァッ!!
何もない空間から、突如として瀑布のような水流が噴き出した。
いや、それは水魔法による『超高圧洗浄』の奔流だ。
ダムが決壊したかのような圧倒的な水量が、騎士の正面から襲いかかる。
「う、うわぁぁぁぁ!?」
「な、なんだこの水はぁぁ!」
先頭の騎士も、後ろでふんぞり返っていた宰相も、控えていた兵士たちも、まとめて水流に呑み込まれた。
抵抗する間もない。
まるで床の頑固な汚れを業務用のホースで洗い流すように、彼らは門の外へと物理的に押し流されていく。
ザッパァァァン!
彼らは悲鳴と共に、門の前を転げ落ち、そのまま森の奥深くへと運ばれていった。
水流の勢いは止まらない。
彼らの姿が豆粒のように小さくなり、やがて木々の向こう側、森の最果てへと消え去るまで、水は容赦なく彼らを押し流し続けた。
「……ふん」
カエデは杖を一振りして水を止めると、冷ややかな視線を向けたまま、もう一度杖を地面に突いた。
ドォォォォォンッ!!
さらに、カエデは杖を振るう。
「『浄化』」
敷地を埋めるように、清らかな水が満ちていく。
それは水のカーテンとなって門全体を覆い尽くし、外部との接触を遮断した。
「……これで良し。汚物は消毒……いえ、はるか彼方へ洗浄しました」
カエデは涼しい顔で杖を下ろした。
外からはもう何の音も聞こえない。
あの水流で森の端まで流された彼らが戻ってくるには、相当な時間がかかるだろう。いや、そもそもあんな鉄砲水ごとき水流で流されて無事なのだろうか?
それは俺には分からなかった。
ただ、門の前には、静寂が戻っていた。
「……やったな」
俺は苦笑した。
問答無用の高圧洗浄&門前払い。
これほど清々しい拒絶もなかなかない。
「当然です。あんな不潔な人たちを敷地に入れるわけにはいきません。それに、彼らの声は耳障りでしたから」
カエデは何事もなかったかのように、スカートの埃を払った。
「すごーい! カエデ、強ーい!」
レイナが目を輝かせて拍手している。
「恐れ入りました……。カエデ殿の強さ、しかと見届けました」
セレスが剣を納め、感心したように頷いている。
「さあ、戻りましょう。フレンチトーストが待っています」
「そうだな。せっかくの朝飯だ」
俺たちは、清々しいほど何もない門に背を向け、リビングへと戻っていった。
庭の石畳を歩く足取りは軽い。
面倒ごとはシャットアウトした。
俺たちの家は守られたのだ。
「温め直しましょうか?」
カエデが気遣わしげに尋ねる。
「いや、いいよ。このままでも十分美味い」
俺は一口飲んだ。
やはり美味い。
外の連中を追い払った後の勝利の味も加わって、格別だ。
俺はフォークを手に取り、残りのフレンチトーストに向き合った。
窓の外では、木漏れ日が揺れている。
静かで、穏やかな時間。
これこそが、俺の望むスローライフだ。
「いただきます」
俺は幸せを噛みしめるように、甘いパンを口に運んだ。




