第二十四話:裏街道の散策と、泥飛沫の悲劇
西の平原へ向かう道中、俺たちはピクニックのような穏やかな時間を過ごしていた。
森の木々は適度に間引かれ、木漏れ日が柔らかく地面を照らしている。時折、心地よい風が吹き抜け、葉を揺らす音だけが静かに響く。
本来なら、ここは魔物が徘徊する危険地帯のはずだ。だが、俺たちの周りには、平和な空気だけが漂っていた。
「……不思議ですね」
先頭を歩くセレスが、剣の柄に手を添えたまま首をかしげる。彼女は周囲を警戒こそしているが、どこか納得している雰囲気があった。
「冒険者ギルドの情報では、この辺りも魔物の目撃例が多いはずなのですが。気配の一つも感じられません」
「みんなお昼寝でもしてるんじゃないか? いい天気だし」
俺は適当に答えた。
実際には、俺の『天運招来』が魔物との遭遇を回避させているのだろう。遠くの茂みがガサガサと揺れることはあるが、それはこちらに向かってくる音ではなく、慌てて逃げ去っていく音だ。どうやら森の住人たちは、本能的に「関わってはいけないもの」を察知しているらしい。
「いえ、これは間違いなく主君の『強運』によるものでしょう」
セレスが確信を込めて断言する。彼女は俺の運の良さを、一種の『加護』や『王の資質』として思っているような節がある。
「主君が歩けば道が開く。魔物ですら道を譲る。さすがはアタル様です」
「買いかぶりすぎだって」
俺は肩をすくめた。
「あ! これ、甘い匂いがする!」
さらに前を行くレイナが、鼻をひくつかせて立ち止まった。
彼女は茂みの中に手を突っ込み、赤い木の実がついた枝を折って戻ってきた。
「見て見て! これ、美味しいやつだよ!」
「……本当ですか? 毒があるかもしれませんよ」
「大丈夫だよ! ボク、これ知ってるもん! いつも食べると元気になるやつ!」
レイナは自信満々に言うと、木の実を口に放り込み、幸せそうな顔で咀嚼し始めた。
「ん~! 甘酸っぱくておいしー!」
「大丈夫そうですね」
カエデは、じっとレイナの食べる木の実を見ている。
「カエデも食べるー?」
「いいえ、遠慮しておきます」
この答えに、彼女の潔癖な感じが出ていて、思わず俺は笑ってしまった。
しばらく歩いていくと。
「こっちこっち! 風が流れてるよ! 歩きやすい道がある!」
口の周りを赤く染めたレイナが、獣道ですらない、ただの木々の間を指差した。
だが、俺の『勘』もまた、そちらを指し示していた。正規の街道を行くよりも、こっちのほうが何か「いいこと」がありそうな気がする。
「行ってみるか。近道かもしれないし」
「……地図には載っていませんが、貴方がそう言うなら間違いはないのでしょうね」
カエデは苦笑しながらも、俺の判断に異を唱えない。彼女のスカートが草に触れないよう、魔法で少し水を操って露を払っているのが見えた。
俺たちはレイナの後を追い、森の奥深くへと足を踏み入れた。
道なき道を進んでいるはずなのに、不思議と足場は悪くなかった。
倒木はちょうどいい橋になり、密生する茨は俺たちが通る場所だけ枯れていたり、左右に開いていたりする。まるで、森そのものが俺たちを歓迎し、奥へと招き入れているかのようだ。
しばらく歩くと、周囲の景色が変わり始めた。
木々の緑が減り、代わりにゴツゴツとした岩肌が目立つようになってくる。地面も土から砂利混じりの岩場へと変わり、空気が少し乾燥してきた。
「……天道くん。薬草採取の依頼でしたよね?」
カエデが周囲を見回して言った。
「薬草が生えているのは、もっと湿り気のある平原のはずです。ここは、どちらかと言えば……」
「岩山だな」
俺は見上げた。
目の前には、切り立った崖がそびえ立っている。どうやら、西の平原を目指していたはずが、いつの間にか北側の山岳地帯の裏手に回り込んでしまったらしい。
「方向音痴にも程があります。レイナ、どこへ連れていくつもりですか?」
「だってぇ、こっちから変な匂いがしたんだもん」
レイナは悪びれずに鼻を鳴らした。
「変な匂い?」
「うん。なんかね、焦げ臭いような、鉄っぽいような……あと、すごく嫌な泥の匂い」
その言葉に、セレスが反応した。
「泥……? まさか」
セレスが鋭い視線を崖の方へ向ける。
そこには、巨大な洞窟が口を開けていた。自然にできたものではない。何かが内側から突き破って開けたような、荒々しい裂け穴だ。
そして、その奥から微かに音が聞こえてくる。
ズドォォン……!
キンッ! ガギィッ!
爆発音と、金属がぶつかり合う高い音。そして、男たちの怒号と、獣の咆哮。
「……戦闘音です」
セレスが剣を抜き、俺の前に立った。
「それも、かなり大規模な。……主君、ここは危険です。引き返しましょう」
「そうだな。面倒ごとに巻き込まれるのは御免だ」
俺は即座に同意した。
あの音の正体は、考えるまでもない。ギルドで見たあの金ピカ騎士団だ。彼らが正面から『マッドドラゴン』の巣に突入し、今まさに死闘を繰り広げているのだろう。
そして、ここは恐らく、その巣穴の「裏口」にあたる場所だ。通気口か、あるいは抜け穴か。
「帰ろう。俺たちの目的は薬草と魔石だ。ドラゴン見物じゃない」
俺がきびすを返そうとした、その時だった。
グオオオオオオオオッ!!
洞窟の奥から、空気を震わせる絶叫が響いた。
それは威嚇の叫びではない。痛みと、焦りと、そして苛立ちに満ちた悲鳴だった。
ズズズズズ……!
地面が揺れる。洞窟の中から、凄まじい勢いで何かが迫ってくる気配がした。風圧が吹き出し、砂利が舞い上がる。
「来ます!」
レイナが叫び、とっさに近くの大岩の陰に飛び込んだ。
俺も反射的にカエデの手を引き、同じ岩陰へと身を隠す。俺たちは地面に伏せた。
セレスだけが、逃げることなくその場に踏みとどまり、剣を構えた。
ドゴォォォォン!!
洞窟の入り口が内側から弾け飛んだ。
岩の破片と共に飛び出してきたのは、巨大な泥の塊だった。
いや、泥をまとった竜だ。
『マッドドラゴン』。
その体は傷だらけだった。泥の鎧はあちこちが剥がれ落ち、鱗には剣傷が刻まれ、翼の一部は焦げている。
「逃げてきたのか……」
俺は岩陰から顔を出して呟いた。
騎士団の猛攻に耐えきれず、裏口から脱出を図ったのだろう。
なんという偶然。なんという不運。いや、俺の『天運』が引き寄せた必然か。
ということは、この出会いには何か意味があるということだ。
ドラゴンは血走った目で周囲を見回した。
そして、目の前に立ち塞がるセレスと、岩陰に隠れる俺たちの姿を捉えた。
グルルルゥ……。
喉の奥で低い唸り声を上げる。
騎士団に追われ、手負いになり、逃げ場を求めて飛び出した先に、また人間がいた。
その事実は、ドラゴンの暴走を引き起こすには十分すぎた。
八つ当たりだ。弱そうな獲物を見つけ、鬱憤を晴らそうとしているのだ。
「……不愉快ですね」
隣でカエデが冷ややかな声を漏らした。
彼女は杖を握りしめ、ドラゴンを睨みつけている。
ドラゴンが大きく息を吸い込んだ。
まずい。ブレスだ。
「セレス! 避けろ!」
俺の叫びと同時に、ドラゴンの口からどす黒い濁流が吐き出された。
炎ではない。毒素を含んだ、粘り気のある泥のブレスだ。
セレスは一瞬で判断し、正面から受けるのをやめて横に跳んだ。泥の奔流は彼女がいた場所を通り過ぎ、後方の岩盤に激突して弾け飛んだ。
バシャァァァッ!
凄まじい飛沫が散る。それは雨のように降り注ぎ、周囲一帯を汚染していく。
俺とカエデが隠れている岩にも、泥のしぶきが降りかかってきた。
「うわっ!」
俺は頭を抱えて身を縮めた。
運良く、俺の体には泥一滴つかなかった。岩の形状と、風向きが味方したのだ。
しかし。
俺の隣からは、何の反応もなかった。悲鳴も、安堵の息も聞こえない。ただ、不自然なほどの静寂だけがある。
恐る恐る、俺は横を見た。
カエデが立っていた。
彼女は、自分の制服のスカートの裾を、両手でつまみ上げていた。
紺色のプリーツスカート。
その端に。
ポツリと、黒い染みが付着していた。
大きさにして、小指の爪ほど。
本当に些細な、見過ごしてしまいそうなほどの小さな汚れだ。
だが、その一点の汚れは、彼女の世界において、許されざる異物なのだろう。
「……」
カエデの肩が、小刻みに震え始めた。
周囲の気温が、急激に下がったような錯覚を覚える。
鳥肌が立った。
ドラゴンを見た恐怖ではない。もっと本能的にヤバい感じがした。
カエデがゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、光が消えていた。
そこにあるのは、絶対零度の殺意と、対象をこの世から抹消すべき「汚物」と断定した、冷徹な意思だけだ。
「……汚れた」
彼女の口から、鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声がこぼれた。
「私が……この私が、泥などで……」
彼女の手の中で、白い杖がミシミシと音を立てた。
魔力が溢れ出し、周囲の空気へと満ちていく。
それは、以前屋敷を掃除した時の比ではなかった。あの時は「綺麗にしたい」という前向きな感情だったが、今は違う。「許さない」という、破壊的な衝動だ。
「あー、カエデさん?」
俺はおずおずと声をかけた。
「その、大丈夫か? 洗濯すれば落ちると思うぞ?」
「……洗濯?」
カエデが俺を見た。
その目は、俺を認識しているようで、していなかった。
「ええ、そうですね。洗濯が必要です」
彼女は視線をドラゴンに戻した。
その怪物は、まだこちらに向かって唸り声を上げ、次の攻撃を仕掛けようとしている。
泥まみれの醜悪な姿。口から垂れ流される汚水。
よくよく考えなくても、そのすべてが、カエデの逆鱗に触れている。
「あの薄汚い発生源ごと、この世から洗い流さなければなりませんね」
カエデが一歩、岩陰から踏み出した。
風が巻き起こる。
彼女の黒髪が舞い上がり、制服のスカートがはためく。
その背中には、目に見えない鬼神の影が重なって見えた。
「セレスさん、レイナさん。下がっていてください」
カエデが静かに告げた。
その声は決して大きくないのに、戦場の騒音をかき消して二人の耳に届いたようだった。
セレスが驚いて振り返り、レイナがビクリと耳を立てる。
「私の服を汚した罪……万死に値します」
カエデが杖を天に突き上げた。
上空に、一点の曇りもない青空が広がっている。
だが、その青空が、急速に色を変え始めた。
雲が集まっているのではない。
水だ。
大気中の水分が、異常な密度で一点に収束しようとしているのだ。
俺は悟った。
これはもう、誰にも止められない。
あのドラゴンは、運が悪かったのだ。
騎士団に追われたことよりも、裏口から逃げたことよりも。
世界で一番怒らせてはいけない潔癖症の制服に、泥を跳ねてしまったことが。




