第二十三話:ギルドの喧騒と、見下される異邦人
森の朝は早い。
木々の間から差し込む陽光が、カーテンの隙間を縫って枕元へと忍び込み、俺の安眠を優しく、しかし確実に終わらせにかかる。
ふかふかのベッドから這い出し、俺は大きく伸びをした。
体の節々がポキポキと小気味よい音を立てる。
昨日の肉体労働――と言っても、俺はほとんど指図をしていただけだが――の疲れは、あの極上の露天風呂のおかげですっかりと抜け落ちていた。
俺は着替えを済ませると、部屋を出て一階のリビングへと向かった。
階段を降りる途中から、すでに活気に満ちた声が聞こえてくる。
「主君! おはようございます!」
リビングに入ると、セレスが直立不動の姿勢で出迎えてくれた。
彼女の肌は昨日よりも艶やかに見える。やはり温泉には美容の効果もあるらしい。騎士としての凛々しさはそのままに、どこか健康的な輝きが増している。
「本日の警備も異常ありません。屋敷の周囲を見回りましたが、不審な痕跡などは見当たりませんでした」
「おはよう、セレス。朝からご苦労さん」
「いえ、これが私の務めですから。それと、レイナ殿ですが……」
セレスが視線を庭の方へ向ける。
窓の外を見ると、鶏小屋の周りで何やら騒がしい光景が広がっていた。
「コケーッ!」
「整列ー! 今日もいい卵を頼むよー!」
レイナが鶏たちの前で胸を張って号令をかけている。
驚くべきことに、あの気位の高そうな『暁の鶏』たちが、レイナの言葉に従って綺麗に一列に並んでいるではないか。
「あいつ、本当に鶏たちのボスになったんだな」
「はい。彼女には動物と心を通わせる才能があるようです。おかげで、卵の回収もスムーズに行えています」
俺たちが感心して眺めていると、カエデがキッチンから顔を出した。
手には湯気の立つポットを持っている。
「おはようございます、アタルくん。朝食の準備ができていますよ」
「おはよう。いい匂いだな」
テーブルには、昨日炊いたご飯の残りと、味噌汁、そして採れたての卵が並んでいる。
質素だが、俺たちにとっては最高の朝食だ。
レイナも戻ってきて、四人で食卓を囲む。
「いただきまーす! 卵おいしー!」
レイナが嬉しそうにご飯をかき込む。
俺も箸を進めながら、ふと昨日の風呂上がりのことを思い出していた。
露天風呂は最高だった。それは間違いない。
だが、何かが足りないという感覚が、俺の中にはあった。
そう、あれが足りないのだ。
「なあ、みんな。昨日の風呂は本当に良かったよな」
「ええ、素晴らしい体験でした。肌がすべすべになりましたし」
カエデが自分の頬に手を当てて微笑む。
セレスも深く頷いた。
「剣の稽古で溜まった疲労が、湯の中に溶け出していくようでした。あの回復効果は、魔法にも匹敵するかもしれません」
「だろ? でもな、俺は気づいてしまったんだ。あの至福の時間を本当の意味で完成させるためには、どうしても必要なものがあるってことに」
俺の言葉に、三人が箸を止めてこちらを見た。
「必要なもの、ですか? 石鹸もタオルも、十分に揃っていますが」
「物じゃない。飲み物だ」
俺はコップの水を一口飲み、もったいぶってから言った。
「牛乳だ」
「……牛乳?」
カエデが不思議そうに繰り返す。
「そうだ。風呂上がりに、腰に手を当てて、冷えた牛乳を一気に飲み干す。その喉越しと、口の中に広がるまろやかな甘みがあってこそ、露天風呂は完了するんだ」
俺の熱弁に、三人は顔を見合わせた。
この世界にそんな習慣はないだろうし、そもそも牛乳をそのまま飲む文化があるかどうかも分からない。
「牛乳ですね。確かに、栄養価が高いとは聞きますが」
セレスの口調は、いまいちピントが合っていない、という風な感じだ。
「料理にも使えますね。グラタンやシチュー、それにクリームコロッケ……」
カエデが少し考え込むように顎に手を添えた。
「そうだ。牛乳があれば、食卓のレパートリーは飛躍的に広がる。ケーキだって作れるぞ」
「ケーキ!」
レイナが反応した。耳がピクリと立ち上がる。
「あの甘いやつ!? 食べたい! ボク、牛乳欲しい!」
どうやらレイナの賛同は得られたようだ。
カエデも、料理への探究心からか、前向きな表情になっている。
「分かりました。確かに、あると便利ですね」
「よし、決まりだ。じゃあ、今日は街へ買い出しに行こう」
俺が提案すると、カエデがポンと手を打った。
「ちょうど良かったです。実は、私も街へ行かなければならない用事がありました」
「用事? 調味料はまだあるだろ?」
「いえ、食材ではありません。魔石です」
カエデは立ち上がり、壁際に設置されている魔導ランプを指差した。
「この屋敷の設備……照明や空調、それに冷蔵庫などは、すべて魔導具で動いています。これまでは、屋敷にあった魔石を動力源として使っていたのですが、そろそろ在庫が底をつきそうなのです」
「ああ、なるほど。電池切れってやつか」
「はい。特に冷蔵庫が止まってしまうと、せっかくの食材が台無しになってしまいますから」
それは困る。
生ハムやチーズ、そして大切な米が眠っている。あれらが腐ってしまうのは、死活問題だ。
「補充が必要だな。どんな魔石でもいいのか?」
「いいえ。長時間安定して稼働させるためには、純度の高い魔石が必要です。フロンティアの市場にあるような安物では、すぐに交換が必要になってしまいます」
「高純度魔石か。高そうだな」
「ええ。ですが、必要経費です」
魔石と牛乳。
今日の目的は決まった。
俺たちは朝食を片付けると、支度を整えて屋敷を出た。
ちなみに、俺とカエデは相変わらず制服姿だ。
屋敷のクローゼットには貴族のドレスやらコートやらが眠っていたが、カエデは「外に行くのなら、この制服の方がいいです。生地が丈夫ですし、私が毎日浄化しているので衛生面も最良です。見知らぬ誰かが着ていた服より、よほど信頼できます」と言っていた。たしかに、俺としても、冒険に出るなら制服の方が生地が厚くて丈夫だし、動きやすい。少なくとも、ご貴族様のドレス姿で森を歩くのは勘弁願いたい。
◇
フロンティアへの道中、森の中はいつも通り静かだった。
時折、風が木々を揺らす音や、遠くで鳥が鳴く声が聞こえるだけだ。
レイナが鼻歌交じりに先頭を歩き、セレスが周囲を警戒しながらそれに続く。
俺とカエデは並んで歩きながら、今夜の夕食について話していた。
「牛乳が手に入ったら、クリームシチューにしましょうか。鶏肉と、畑で採れた野菜をたっぷり入れて」
「いいな。パンにつけて食べると最高だ」
そんな平和な会話をしながら、俺たちは街へと到着した。
巨大な防壁をくぐり、フロンティアの中へ入る。
だが、街の様子がいつもと少し違っていた。
行き交う人々の足取りが速い。
露店商人の呼び込みの声も、どこか落ち着きがなく、道端で立ち話をしている人々の表情も硬い。
街全体が、何か重苦しい空気に包まれているようだ。
「……何かあったのでしょうか」
カエデが不安げに周囲を見回す。
「分からん。だが、あまりいい雰囲気じゃないな」
俺たちは人混みを避けながら、冒険者ギルドがある中央広場へと向かった。
魔石を買うなら、ギルドの購買部か、あるいは情報を集めて専門店に行くのが確実だ。
ギルドの建物の前には、いつもならたむろしているはずの荒くれ者たちの姿がなかった。
代わりに、武装した兵士のような男たちが数人、入り口を固めている。
「……警備が厳重ですね」
セレスが小声で言う。
「構わず行こう。俺たちはただの客だ」
俺は堂々と正面の扉へと向かった。
兵士たちは俺たちを一瞥したが、特に止める様子もなく通してくれた。
重厚な扉を押し開ける。
その瞬間、ムッとした熱気と共に、張り詰めたような緊張感が肌に押し寄せてきた。
広いホールの中は、異様な静けさに支配されていた。
普段ならジョッキを片手に談笑する冒険者たちの声で溢れている場所だが、今は誰もが声を潜め、ホールの中央に注目している。
そこには、明らかに場の空気を変えている集団がいた。
眩いばかりの金色の鎧を身に纏った騎士たちだ。
十数人はいるだろうか。彼らは整然と列を作り、その中心にいる一人の男の指示を聞いていた。
その男は、ひときわ豪華なマントを羽織り、地図を広げたテーブルを囲んでギルドマスターらしき人物と話し込んでいる。
「あれは……王都の騎士団ですね」
セレスが驚きを隠せない様子で呟いた。
彼女の視線は、騎士たちの鎧に刻まれた紋章に釘付けになっている。
「王都の騎士が、なんでこんな辺境に?」
「分かりませんが、ただ事ではありません。あの装備、儀礼用ではなく実戦用です」
俺たちは壁際を移動しながら、彼らの会話に耳を傾けた。
ホールが静かなおかげで、彼らの声はよく通った。
「……被害の拡大は防がねばならん。水源が汚染されれば、この街は終わりだぞ」
「それは十二分に理解しております。しかし、相手はSランク指定の魔物……『マッドドラゴン』です。生半可な戦力では……」
「だからこそ、我らが出張ってきたのだ。陛下の威信にかけて、あの泥トカゲを討伐する」
マッドドラゴン。
その単語を聞いた瞬間、俺の隣でカエデが小さく息を呑んだ。
「マッドドラゴン……。全身が汚泥と毒にまみれた、最悪の古竜です。通り過ぎた土地を腐らせ、水を毒に変えると言われています」
カエデの声には、嫌悪感が滲んでいた。
潔癖症の彼女にとって、存在自体が許し難い敵なのだろう。
「水源の汚染か。こりゃあ、放っておくと厄介だな」
俺たちの屋敷の温泉も、地下水脈で繋がっている可能性がある。
もし汚染が広がれば、あの最高の露天風呂が泥水に変わってしまうかもしれない。
それは困る。非常に困る。
だが、今は王都のエリート様たちが張り切っているところだ。
俺たちが口を挟む場面ではないだろう。
彼らに任せておけば、きっと上手くやってくれるはずだ。
「関係ないな。俺たちは牛乳と魔石を買って帰ろう」
俺はそう言って、購買部の方へ足を向けた。
その時だった。
「おい、そこの」
背後から、傲慢な響きを含んだ声が飛んできた。
足を止めて振り返ると、金色の鎧を着た騎士の一人が、こちらを見下ろすように立っていた。
整った顔立ちだが、その表情には明確な侮蔑が浮かんでいる。
彼は俺たちを上から下までジロジロと眺め、鼻で笑った。
「ここは子供の遊び場ではないぞ。遠足なら他所へ行け」
周囲の冒険者たちが、一斉にこちらを見る。
哀れむような目、関わりたくないという目。
俺は内心でため息をつきつつ、愛想笑いを浮かべた。
「いやあ、すみません。ちょっと買い出しに来ただけでして。すぐに帰りますよ」
「買い出しだと? この非常時にか?」
騎士は大げさに肩をすくめ、仲間たちに向かって言った。
「これだから田舎者は困る。我々が命懸けで街を守ろうとしているというのに、危機感の欠片もない。平和ボケした家畜の群れか」
ひどい言われようだ。
確かに俺たちは詳しい事情を知らずに来たが、そこまで言われる筋合いはない。
初対面の相手に対して、よくそこまで無礼になれるものだと感心すらしてしまう。
その時、俺の横で空気が凍りついた。
セレスだ。
彼女の手が、腰の剣の柄にかかっている。
革手袋が軋むほどの力で握りしめられていた。
「……貴様」
セレスの口から、低い唸り声が漏れる。
「我が主君を、家畜と愚弄したか……?」
彼女の瞳に、静かだが激しい怒りの炎が灯っていた。
騎士としての誇り高い彼女にとって、主である俺への侮辱は、自分自身への侮辱よりも許し難いことなのだ。
彼女が殺気を放ち、一歩踏み出そうとした。
まずい。
ここで騒ぎを起こせば、魔石どころか街にいられなくなるかもしれない。
俺は素早くセレスの肩に手を置いた。
「よせ、セレス」
「しかし、主君! この無礼者、斬り捨てて……!」
「いいから。落ち着け」
俺は彼女の耳元で囁く。
「俺たちは買い物をしに来たんだ。喧嘩をしに来たんじゃない。ここで揉めて時間を無駄にするのは、俺の主義に反する」
「……っ」
セレスは悔しげに唇を噛み締めたが、俺の言葉には逆らえない。
彼女はゆっくりと剣から手を離し、深く息を吐いて怒りを飲み込んだ。
「……申し訳ありません。取り乱しました」
「いいんだ。気持ちは嬉しいよ」
俺たちのやり取りを見て、騎士はさらに鼻を鳴らした。
「ふん、賢明な判断だ。錆びた剣を抜いたところで、恥をかくだけだからな」
彼は興味を失ったように視線を外し、仲間の方へと戻っていった。
「行くぞ。雑魚にかまっている暇はない。マッドドラゴンの捜索だ」
金色の集団は、ギルドの裏口から意気揚々と出撃していった。
残されたのは、重苦しい空気と、俺たちに向けられた冷ややかな視線だけだ。
「……腹が立ちますね」
カエデがボソッと言った。
彼女もまた、不快感を露わにしている。
普段は冷静な彼女だが、理不尽な侮辱に対しては厳しい。
「あいつら、嫌な匂いがしたー。ボク嫌い」
レイナも鼻をつまんでいる。獣人の直感で、彼らの本質を見抜いているのかもしれない。
「まあ、気にするな。あいつらはあいつらの仕事をしに行っただけだ。俺たちも俺たちの仕事をしよう」
俺は努めて明るく言った。
怒っても腹が減るだけだ。あんな奴らのために、俺たちの快適な一日を台無しにするなんて馬鹿げている。
それに、彼らがドラゴンを倒してくれれば、俺たちの温泉も守られる。結果オーライだと思えばいい。
「さて、まずは資金稼ぎだ。高純度魔石を買うには、少し手持ちが心許ないからな」
俺は掲示板の前に移動した。
前回、薬草を売って得た金はまだ残っているが、これから牛乳を定期的に購入するとなると、余裕を持っておきたい。
それに、カエデが欲しがっている高純度の魔石は、かなりの高値で取引されているはずだ。
掲示板には、マッドドラゴン関連の緊急クエストが赤字で張り出されていた。
『水源の調査』『周辺地域の避難誘導』『討伐隊への物資補給』。
どれも危険で、面倒くさそうだ。
騎士団と関わるのも御免だ。
俺は、その隅っこに追いやられていた、一枚の地味な羊皮紙に目を止めた。
『薬草採取:フロンティア西の平原にて、薬効のある青草を求む。報酬:銀貨五枚』
西の平原。
マッドドラゴンが出没している水源は北の山岳地帯だ。
つまり、方角は正反対。
これは、まるでピクニックのような依頼だ。
「これにしよう」
俺が依頼書を剥がすと、近くにいた冒険者の一人が呆れたように声をかけてきた。
「おいおい、兄ちゃん。そんなシケた依頼受けるのか? 今はみんな、ドラゴンの特需で稼ごうとしてるってのに」
「俺たちは実力相応の仕事をするよ。命あっての物種だしな」
俺は笑って答えた。
冒険者は「ああ、そうか」と肩をすくめた。
受付へ行き、依頼の手続きをする。
職員の女性も、討伐隊の対応で疲れているのか、事務的な対応だった。
「はい、依頼をしました。……まあ、気をつけて行ってらっしゃい。西側なら安全でしょうけど」
俺たちはギルドを出た。
外の空気は、中よりもずっと美味しかった。
「さて、まずは西の平原だ。さくっと終わらせて、魔石と牛乳を買って帰ろう」
「はい。ついでに、その平原でハーブも探しましょうか。新しい石鹸の材料になりそうです」
「私は……まだ腹の虫が治まりませんが、主君がそう仰るなら」
セレスはまだ少し不満そうだが、剣の柄を撫でて気を静めている。
「平原なら、ウサギとかいるかなー? ボク、お腹空いてきた!」
レイナは通常運転だ。
俺たちは、街の人々が不安げに見上げる北の山々には背を向け、平和な西の方角へと歩き出した。




