第十九話:食卓の憂鬱と、嫌悪される黒い実
その日の朝、森の洋館にあるダイニングルームは、いつになく重苦しい空気に支配されていた。
窓からは明るい日差しが差し込み、庭からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。テーブルの上には、焼きたてのパン、具だくさんのスープ、そして昨日手に入れたばかりの黄金の卵を使ったスクランブルエッグが並んでいる。
どれも一級品の食材を使い、カエデの丁寧な仕事によって作られた料理だ。見た目も香りも食欲をそそるものばかりで、客観的に見れば、これ以上ないほど贅沢な朝食の風景と言えるだろう。
だが、俺とカエデの箸――ではなく、フォークを持つ手は重かった。
「……はぁ」
俺が深いため息をつくと、それに応えるように、向かいに座るカエデもまた、小さく息を吐き出した。
「……はぁ」
二人のため息が重なり、部屋の空気をさらに沈殿させていく。
その異様な雰囲気に、同席しているセレスとレイナが不安そうに顔を見合わせた。
「あ、あの……アタル様? どうなされたのですか? お体の具合でも悪いのでしょうか?」
セレスが心配そうに身を乗り出してくる。彼女は朝から騎士の礼装をしっかりと着込み、背筋を伸ばして食事をしていたのだが、主君の不調を察してか、その表情には困惑というものが浮かんでいる。
「ボク知ってるよ! これ、お腹がいっぱいすぎて動けないやつでしょ? ボクも昨日そうなったもん!」
レイナが口の周りにパン屑をつけたまま、無邪気に言い放つ。彼女の皿の上はすでに空っぽで、今は俺たちの皿に残っている料理を虎視眈々と狙っている状態だ。
俺は首を横に振った。
「違うんだ、二人とも。体調が悪いわけでも、満腹で苦しいわけでもない。ただ……」
言葉を濁し、俺は目の前のスクランブルエッグに視線を落とした。
黄金色に輝く卵は、口に入れれば濃厚な旨味が広がることは分かっている。塩と胡椒、そして少量のハーブで味付けされたそれは、素材の良さを最大限に引き出した逸品だ。
だが、今の俺が求めているのは、この味ではない。
「……味が、足りないんです」
俺の代わりに、カエデが口を開いた。彼女は手に持っていたフォークを皿の上に置き、どこか遠い目をして天井を仰いだ。
「味が……足りない? 塩加減なら、十分に効いているように思えますが……」
セレスが不思議そうに首を傾げる。
無理もない。この世界の料理において、味付けと言えば塩と香草、あるいは果実の酸味が基本だ。昨日のマヨネーズのような複雑な味は稀であり、彼女たちにとっては今の食事でも十分に満足できるものなのだろう。
「そうじゃないんだ、セレス。塩気の問題じゃない。もっとこう、根本的な……魂が求める味の話なんだよ」
俺は力説した。
そう、魂の問題だ。
昨日、究極の卵かけご飯を食べた時、俺たちは確かに至福の時を過ごした。米の甘みと卵のコク、それは間違いなく美味かった。
しかし、その感動が落ち着いた後、ふと湧き上がってきた感情があったのだ。
――ここに、醤油があれば。
――味噌汁が飲みたい。
一度そう思ってしまったが最後、その渇望は消えるどころか、時間が経つにつれて大きく膨れ上がっていった。
塩味だけの食事は、もちろん美味しい。だが、毎日そればかりだと、どうしても口の中が単調になってくる。
俺たちが生まれ育った国の料理には、特有の深みと香りがあった。発酵という時間をかけた魔法によって生み出される、あの独特の風味。
それがない食卓は、どんなに豪華な食材が並んでいても、どこか画竜点睛を欠いているように感じてしまうのだ。
「味噌と、醤油……。その二つがなければ、私たちの食卓はいつまで経っても完成しないのです」
カエデが悲痛な声で訴える。彼女の潔癖さは食へのこだわりにも直結しており、納得のいかない状態が続くことは精神衛生上よろしくないらしい。
「ミソ? ショウユ? なにそれ、新しいお肉の名前?」
レイナが首を傾げ、耳をパタパタと動かした。
「肉じゃないよ。調味料だ。豆を使って作る、茶色くて、黒くて……とにかく美味い汁とペーストのことだ」
「ふーん。豆かぁ……ボク、豆よりお肉がいいなぁ」
レイナは興味を失ったように、俺の皿に残っているソーセージを凝視し始めた。
やはり、肉食の獣人には伝わりにくい概念なのかもしれない。
しかし、ここで諦めるわけにはいかない。
俺とカエデの間では、すでに意見が一致している。
これからの快適なスローライフのためには、なんとしてもその二つの調味料を手に入れなければならないと。
「カエデ。入手できそうなルートの心当たりはあるか?」
「…少なくとも、フロンティアの市場にはありませんでした。書斎の図鑑も調べましたが、この国で一般的に流通している作物の中に、それらしい豆は見当たりません。ですが……」
彼女は顔を上げ、レイナの方を見た。
「この森になら、あるかもしれません。以前読んだ文献に、『東方の豆に似た、魔力を帯びた黒い豆が深き森の湿地帯に自生する』という記述がありました」
「黒い豆か。それが大豆の代わりになるってことだな」
「可能性は高いです。ただ、場所が特定できません。この『深き森』は広大ですから、闇雲に探しても見つかるかどうか……」
そこで会話が途切れた。
広大な森の中から、特定の植物を探し出す。それは俺の『天運』をもってしても、具体的なイメージがなければ引き寄せるのは難しいかもしれない。俺の運は、「なんとなくこっち」という形で発揮されることが多いが、ターゲットが明確でないと反応が鈍いこともあるのだ。
その時、俺の視線がレイナの鼻に止まった。
そうだ。ここには最強の探知機がいるじゃないか。
「なあ、レイナ」
俺が声をかけると、彼女はソーセージから目を離し、こちらを向いた。
「なに? お肉くれるの?」
「仕事をしてくれたらな。……ある匂いを探してほしいんだ」
「匂い? どんな?」
レイナが鼻をひくつかせる。
俺はカエデに目配せをした。匂いの特徴を言葉で伝えるのは難しいが、料理人の彼女なら、より具体的に表現できるはずだ。
「レイナさん。よく聞いてください。探してほしいのは、豆の匂いです」
カエデが真剣な表情で説明を始める。
「ただの豆ではありません。少し青臭くて、でも茹でると甘い香りがして……そうですね、発酵する前の段階だと、独特の土っぽい香りも混じっているかもしれません」
「土っぽい? 泥みたいな?」
「いえ、もっと植物特有の……例えるなら、雨上がりの草むらのような匂いに、少しだけ香ばしさを足したような……」
カエデが懸命に言葉を紡ぐ。彼女の記憶の中にある大豆の香りを、なんとかしてレイナに伝えようとしているのだ。
レイナは首を傾げ、目を閉じて想像しているようだったが、やがて目を見開き、顔をしかめた。
「うぇぇ……なんか、それって……」
彼女は鼻をつまみ、露骨に嫌そうな顔をした。
「すごく、変な匂いじゃない?」
「変? いい香りですよ?」
「違うよぉ! ボク、その匂い知ってる気がする! 森のずっと奥の方、ジメジメした暗い場所で嗅いだことある!」
レイナが椅子の上で身震いをした。尻尾が足の間に丸め込まれている。
「あのね、すごく嫌な匂いなの! お肉が腐った時とは違うけど、なんか鼻がムズムズして、頭が痛くなるような……獣人ならみんな近づかないよ、あんな場所!」
どうやら、獣人の鋭敏な嗅覚にとって、その豆の匂いは刺激臭として認識されているらしい。あるいは、魔力を帯びているという点が、本能的な忌避感を生んでいるのかもしれない。
「場所は分かるのか?」
俺が前のめりになって聞くと、レイナは渋々といった様子で頷いた。
「うん……。湿地帯の真ん中あたり。でも、行きたくないなぁ。あそこ、なんか気持ち悪いし、強い魔物もいるし……」
「魔物か。セレス、どう思う?」
俺は護衛役に話を振った。セレスは腕を組み、冷静に分析を始める。
「湿地帯となれば足場が悪く、戦闘には不向きです。しかし、アタル様がどうしてもその豆を必要とされるのであれば、私が道を作り、泥を払ってでもお供いたします。魔物程度、私の剣で一刀両断してご覧にいれましょう」
頼もしい言葉だ。
だが、問題は案内役のレイナだ。彼女が首を縦に振らなければ、正確な場所にはたどり着けない。
「レイナ。頼む、案内してくれ」
俺は手を合わせ、懇願のポーズをとった。
「えぇー……だってぇ……」
レイナが躊躇している。
嫌な匂いのする場所へわざわざ行きたくないというのは、ごもっともな意見だ。
だが、ここで引くわけにはいかない。日本の味を取り戻すため、食卓の未来のため、俺は切り札を切ることにした。
「もし案内してくれたら、今日の夕飯はレイナの好きなものを何でも作ってやるぞ」
その言葉に、レイナの耳がピクリと反応した。
「……何でも?」
「ああ、何でもだ。肉を山盛りにしてもいいし、あのマヨネーズをたっぷりかけた唐揚げ……鶏肉だっていい。黄金の卵を使った、特製プリンもつけてやる」
「プリン……!? あのプルプルで甘いやつ!?」
レイナの瞳が輝きを取り戻した。嫌悪感と食欲が天秤にかけられ、一瞬で食欲側へと傾いたのが見て取れた。
「やる! やるやる! ボクが案内するよ!」
彼女はテーブルに身を乗り出し、鼻息も荒く宣言した。
「あの臭い豆の場所まで、一直線に連れて行ってあげる! だから、プリンは絶対に特大サイズにしてね!」
交渉成立だ。
やはり、この屋敷においては胃袋を掴むことが最強の交渉術なのだと思い知らされる。
「よし。そうと決まれば出発の準備だ。カエデ、採取用の道具を用意してくれ。セレスは装備の点検を。レイナは……まあ、そのままでいいか」
「了解です。密閉できる容器を多めに持っていきます。匂いが漏れると、帰りの道中が大変そうですから」
「はっ! 直ちに出撃準備を整えます!」
俺たちはそれぞれの部屋へと散り、森への探索に向けた準備を開始した。
食卓の憂鬱を吹き飛ばすための、小さな冒険の始まりだ。
◇
準備を整えた俺たちは、屋敷を出て森の奥へと進んでいった。
先頭を歩くのはレイナだ。彼女は時折鼻をひくつかせ、風の匂いを読みながら獣道を進んでいく。
そのすぐ後ろをセレスが歩き、周囲への警戒を怠らない。俺とカエデは最後尾につき、周囲の景色を眺めながらのんびりとついていく形だ。
森の空気はひんやりとしていて、木漏れ日が地面に斑模様を描いている。
普段なら散歩に最適な環境だが、今日の目的地はあまり歓迎できない場所らしい。
「……うぅ、近づいてきたかも」
一時間ほど歩いたところで、レイナが足を止め、鼻をつまんだ。
「風向きが変わった。あっちの方から、あの嫌な匂いが流れてくる」
彼女が指差した先は、木々の密度が高くなり、薄暗い影が落ちている方角だった。
俺も鼻を利かせてみたが、特に不快な臭いは感じられない。ただの森の匂いだ。獣人の嗅覚とは、これほどまでに敏感なものなのだろうか。
「ここからは注意が必要です。湿地帯特有の魔物や、毒を持つ虫が多く生息しています」
セレスが剣の柄に手をかけ、緊張感を高める。
しかし、不思議なことに、俺たちが歩く先々で、生き物の気配がサーッと引いていくのが分かった。
茂みの奥で何かが動く音がするが、それは俺たちに襲いかかろうとする音ではなく、慌てて逃げ出す音だ。
「……逃げていきますね」
カエデが不思議そうに呟いた。
「普通なら、縄張りを荒らされた魔物が威嚇してきてもおかしくないのに。まるで、天敵に出会ったかのように一目散に逃げていきます」
「アタル様の威光に恐れをなしたのでしょう」
セレスが大真面目な顔で言う。
「主君の王たる覇気が、下等な魔物たちを怯えさせているのです。さすがはアタル様、歩くだけで道を切り開かれるとは」
いや、覇気なんて出していない。ただ楽をして歩きたいと願っているだけだ。
おそらく、俺の『天運招来』スキルが、「面倒な戦闘は避けたい」という俺の無意識の願望に反応して、魔物たちに「コイツに関わるとヤバい」という直感を植え付けているのかもしれない。
あるいは、運悪く魔物が腹痛を起こして寝込んでいるとか、たまたま別の獲物を追いかけて留守だとか、そんな偶然が重なっているのかもしれない。
どちらにせよ、戦わずに済むのはありがたいことだ。
「ボクには何も感じないけどなぁ……。まあ、楽でいいけどね!」
レイナは鼻をつまんだまま、軽快な足取りで進んでいく。
やがて、地面の感触が変わってきた。
ふかふかとした腐葉土から、じゅくじゅくとした泥混じりの土へ。
周囲の木々も、太い根をタコ足のように広げたマングローブのような形状のものが増えてくる。
「到着だよ。この先が湿地帯」
レイナが立ち止まり、顔をしかめた。
「もう限界! 鼻が曲がりそう! ボクはここで待ってていい?」
「ここまで来て何を言うんですか。正確な場所を教えてもらわないと困ります」
カエデが逃がさないと言わんばかりに、レイナの肩を掴んだ。
「うぅ……鬼だぁ……」
レイナは涙目になりながらも、観念して歩き出した。
湿地帯の中は、外よりも数段暗かった。頭上を覆う枝葉が日光を遮り、じめじめとした湿気が肌にまとわりつく。
足元には黒い泥が広がっており、油断すると足首まで埋まってしまいそうだ。
「気をつけてください。泥に足を取られると厄介です」
セレスが注意を促すが、俺の歩く場所だけ、なぜか適度な硬さの地面や、飛び石のように配置された木の根が続いていた。
まるで、誰かが事前に舗装してくれたかのような歩きやすさだ。
「……本当に、貴方の通る道だけ安全ですね」
後ろを歩くカエデが、泥一つついていない俺の靴を見て呆れたように言う。
彼女自身は、スカートの裾を汚さないように魔法で水を操り、泥を弾きながら慎重に進んでいる。
「ここだよ。ほら、あそこ」
レイナが指差した先。
湿地帯の中央付近、少し開けた場所に、その植物は群生していた。
高さは俺の腰くらいだろうか。
深い緑色の葉を茂らせているが、その葉の間から、無数の鞘がぶら下がっている。
ただの鞘ではない。
漆黒だ。
濡れたような光沢を放つ黒い鞘が、薄暗い森の中で異様な存在感を放っている。
そして、その周りには、目に見えるほど濃い魔力の靄のようなものが漂っていた。
「……あれが、『魔大豆』ですか」
カエデが息を殺して見つめる。
彼女はゆっくりと近づき、匂いを嗅ごうとしたが、すぐに顔を背けた。
「……っ。確かに、強烈です。大豆の香りを何十倍にも濃縮して、さらに野生の青臭さを足したような……」
「ボクの言った通りでしょ? 臭いんだよぉ」
レイナが遠くから叫ぶ。
俺も近づいてみた。
確かに、独特の匂いがする。だが、俺にとってはそれほど不快ではなかった。
むしろ、この濃厚な香りの奥底に、懐かしい味噌や醤油の片鱗を感じる。
カエデはハンカチで口元を押さえながらも、植物のそばにしゃがみ込んだ。
そして、一つの鞘を選び、慎重に手を伸ばす。
パキッ。
乾燥した鞘を割る乾いた音が響く。
中から転がり出てきたのは、艶やかな黒い粒だった。
大きさは普通の大豆よりも一回り大きい。表面は磨き上げられた黒曜石のように輝いている。
カエデはその一粒を指先でつまみ上げ、光にかざしてしげしげと観察した。
「……形、大きさ、そしてこの特有の光沢。図鑑の挿絵と完全に一致します」
彼女は粒を鼻先に近づけ、慎重に匂いを確かめる。
「間違いありません。この濃密な豆の香り……今は青臭さが勝っていますが、火を通せば間違いなく私たちが求めているものになります」
彼女は確信に満ちた声で断言した。
「これが、『魔大豆』です。私たちの求めていた、失われた味の鍵です!」
「でかした、カエデ。これがあれば、俺たちの食生活は劇的に進化するぞ」
俺は思わず拳を握りしめた。
味噌汁、冷奴、納豆、醤油ラーメン……数々の料理が脳裏をよぎり、唾液が溢れてくる。
これらは全て、この小さな黒い粒から生まれるのだ。
「よし、収穫だ。あるだけ全部持っていくぞ」
俺たちは作業に取り掛かろうとした。
セレスが袋を広げ、カエデが魔法で枝から鞘を切り離そうとする。
その時だった。
ズズズズズ……。
足元の地面が、微かに震えた。
最初は気のせいかと思ったが、振動はすぐに大きくなり、近くの水たまりに波紋を広げ始めた。
「……地震?」
俺が周囲を見回すと、レイナが突然、耳をピンと立てて叫んだ。
「違う! これ、足音だ! でっかいのが来る!」
彼女の警告と同時だった。
群生地のすぐ奥、鬱蒼とした茂みが揺れ動き、太い木々がマッチ棒のようにへし折られる音が響いた。
グオオオオオオオッ!!
腹の底に響くような、重低音の咆哮。
空気がビリビリと震える。
現れたのは、ただの魔物ではなかった。
黒い毛皮に覆われた巨体は、小山のように大きい。
その目は赤く輝き、口からは太い牙が突き出している。
湿地帯の主とも言える威圧感を放つ、巨大な熊だった。




