第十四話:覚醒と深読みする女騎士
屋敷に到着した頃には、日は落ち、空には星が瞬いていた。
門をくぐり、玄関へと辿り着く。
「……着きました」
カエデが肩で息をしながら言った。
水のカプセルを維持したまま移動するのは、かなりの集中力を要したようだ。
彼女は玄関ホールに入ると、女騎士を慎重に床――ではなく、魔法で作り出したビニールシートのような膜の上――に降ろした。
ピカピカに磨き上げた床を汚さないための配慮だ。
「とりあえず、客室に運ぶか?」
「その前に、お風呂場です。予備室で、あの泥だらけの鎧を脱がせ、体を洗います。あんな状態でベッドに寝かせるなんて、もってのほかです」
カエデの目は本気だった。
どうやら、この女騎士はベッドで休む前に、徹底的なクリーニングを受ける運命にあるらしい。
まあ、命の恩人がそう言うなら、文句を言う権利はないだろう。
「俺は手伝えないぞ。風呂場に男が入るわけにはいかないし」
「ええ。貴方はリビングで待っていてください。着替えの服と、タオルを用意してきます」
カエデは再び水で女騎士を持ち上げ、浴室の方へと消えていった。
俺は一人、リビングに残された。
ソファに腰を下ろし、ふぅと息を吐く。
静かな夜だ。
ついさっきまでの緊迫感が嘘のように、屋敷の中は穏やかな空気に満ちている。
「……ま、なんとかなったな」
俺はテーブルに置かれた水差しから水を注ぎ、一気に飲み干した。
今日もまた、俺の運はいい仕事をした。
毒を消す薬草が見つかったのも、カエデの知識と魔法が間に合ったのも。
それにしても、あの女騎士。
助けたはいいが、これからどうなるのだろう。
騎士ということは、どこかの国や組織に属しているはずだ。
目覚めたら、「礼を言う」とか言って去っていくのだろうか。
「まあ、どっちでもいいか」
俺はクッションを抱きしめた。
彼女が良い人なら泊めてやってもいいし、面倒な人なら追い出せばいい。
決定権は、この屋敷の主である俺たちにあるのだから。
浴室の方から、ジャバジャバという水音が聞こえてくる。
カエデの徹底洗浄が始まったようだ。
鎧を洗う音だろうか、ガシャンガシャンという金属音も混じっている。
まるで洗車場だな、と俺は思った。
一時間ほど経っただろうか。
浴室の扉が開き、カエデが出てきた。
彼女は少し疲れた様子だったが、その表情は晴れやかだった。
達成感に満ちている。
「終わりました」
「お疲れ。生きてたか?」
「ええ。呼吸もしっかりしていますし、傷も塞がり始めています。今は客室のベッドで眠っています」
カエデは濡れた手をタオルで拭きながら、リビングに入ってきた。
「体も、髪も、鎧も、すべて綺麗にしました」
「そりゃよかった。で、どんな人だった?」
「……美人ですね。それに、体つきが引き締まっています。相当な訓練を積んでいる証拠です。手のひらに剣ダコがありましたから、間違いなく腕利きの騎士でしょう」
カエデが評価を下す。
腕利きの騎士。
それは、俺たちが求めていた「前衛」の候補になり得るということだ。
「もしかしたら、俺たちの護衛になってくれるかもな」
「そうですね。恩を売っておいて損はありません。それに、彼女が着ていた鎧や剣の作りを見る限り、ただの兵士ではありません。貴族か、あるいは名のある騎士団の幹部クラスかもしれません」
カエデの分析は鋭い。
王城で見た兵士たちの装備よりも、ずっと上等なものだったらしい。
「まあ、起きてからの楽しみだな」
俺たちは簡単な夕食を済ませ、それぞれの部屋へと戻ることにした。
今日は疲れた。
買い出しに、人命救助。
充実しすぎている。
「おやすみ、カエデ。もし客人が夜中に暴れたら起こしてくれよ」
「その時は、貴方を盾にして逃げますから安心してください」
「ひどいな」
軽口を叩き合い、俺たちは別れた。
自室のベッドに潜り込む。
今日もふかふかだ。
目を閉じると、すぐに意識が沈んでいった。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりが、俺の安眠を優しく破った。
まぶたを開けると、そこには見慣れた白い天井があった。
カーテンの隙間から、朝の光が筋となって差し込んでいる。
俺はベッドの上で大きく伸びをした。
体の節々がポキポキと鳴る。
昨日のような疲れは残っていない。
やはり、この屋敷のベッドは最高だ。
どんな高級宿よりも、俺の体に合っている気がする。
俺はあくびを噛み殺しながらベッドから降り、窓を開けた。
ひんやりとした森の空気が流れ込んでくる。
深呼吸を一つ。
肺の中が浄化されるような爽快感だ。
「……さて」
俺は部屋を出て、廊下を歩いた。
隣の主寝室――今はカエデの部屋――からは、すでに人の気配が消えていた。
相変わらず早起きだ。
階段を降りていくと、一階のリビングから良い香りが漂ってきた。
焼きたてのパンのような香ばしさと、スープの温かい匂い。
俺の腹が、期待に反応して小さく鳴る。
リビングの扉を開けると、そこにはエプロン姿のカエデがいた。
彼女はダイニングテーブルに料理を並べている最中だった。
「あ、おはようございます、天道くん」
カエデがこちらに気づき、微笑んだ。
朝日の中で見る彼女は、家庭的でありながら、どこか凛とした空気をまとっている。
「おはよう。いい匂いだな」
「ええ。昨日買ってきた小麦粉と、フロンティアで安く譲ってもらった酵母を使って、パンを焼いてみました。魔導オーブンの調子がすこぶる良いので、うまく焼けましたよ」
テーブルの上には、こんがりとキツネ色に焼けた丸いパンと、具だくさんのスープ、そして昨日作り置きしておいた鶏肉の冷製ハムが並んでいる。
さらに、昨日手に入れた『黄金蜜』の入った小瓶も添えられていた。
「豪華だな。これならどこに出しても負けない朝食なんじゃないか?」
「素材が良いですからね。それに、ようやくまともな調味料が使えますから、腕の振るい甲斐があります」
俺たちは席に着き、朝食を始めた。
焼きたてのパンをちぎり、黄金蜜を垂らす。
口に入れると、外はカリッと、中はモチモチとした食感と共に、濃厚な甘みが広がった。
スープも野菜の旨味が溶け出していて、体に染み渡るようだ。
「……美味い」
「良かったです。バターがあれば尚良かったのですが、それはまた今度ですね」
カエデも満足そうにパンを齧っている。
平和な朝だ。
だが、この平穏な空気の中に、一つだけ懸案事項が残っていることを俺たちは忘れていなかった。
「そういえば、客人は?」
俺がスープを啜りながら聞くと、カエデは少し表情を引き締めた。
「まだ眠っています。先ほど様子を見てきましたが、熱も下がって呼吸も安定していました。おそらく、もうすぐ目を覚ますと思います」
「そっか。毒は抜けたってことだな」
「はい。あの薬草の効果は劇的でした。私の浄化魔法と組み合わせることで、体内に残留していた毒素は一掃されています。あとは、本人の体力次第ですね」
カエデは手元のカップを置き、ふぅと息を吐いた。
その時だった。
頭上の天井――つまり二階の床板を通して、ドスンという鈍い音が響いた。
続いて、何かが倒れるような音。
「……起きたみたいだな」
「行ってみましょう」
俺たちは食事を中断し、急いで二階へと向かった。
音の発生源は、女騎士を寝かせておいた客室だ。
俺が先頭に立ち、ドアノブに手をかける。
カエデは俺の後ろで、念のために杖を構えている。
「開けるぞ」
俺は声をかけてから、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中には、朝日が満ちていた。
そして、ベッドの脇の床に、一人の女性が膝をついていた。
長い金髪が肩にかかり、白い肌が光を受けて輝いている。
彼女は自分の手を見つめ、信じられないといった表情で震えていた。
「……ここは……私は……」
彼女が顔を上げ、俺たちを見た。
その瞳は澄んだ青色をしていて、強い意志の光が宿っていた。
昨日の死にかけの状態とは、まるで別人のようだ。
カエデが綺麗に洗い清めたおかげで、その美貌が際立っている。
「目が覚めたようだな。気分はどうだ?」
俺が努めて軽く声をかけると、彼女はハッとしたように身構えた。
反射的に腰に手を伸ばすが、そこにあるはずの剣はない。
彼女は一瞬焦った顔をしたが、すぐに俺たちに敵意がないことを悟ったのか、警戒を解いた。
「……貴方たちが、私を助けてくれたのか?」
凛とした、よく通る声だ。
だが、まだ喉が本調子ではないのか、少しだけ掠れている。
「まあな。森で倒れてるのを見つけて、ここまで運んだんだ」
「そうか……。かたじけない」
彼女はふらつきながらも立ち上がり、姿勢を正した。
着ているのは、カエデが用意した清潔なシャツとズボンだ。
サイズが少し合っていないが、彼女の引き締まった体躯には似合っていた。
「私は……確か、森の狼の群れに襲われ、毒を受けて……。死を覚悟したはずだった」
彼女は自分の胸元に手を当てた。
そこには、昨日は深く刻まれていたはずの爪痕があった場所だ。
今は傷跡すら残っていない。
「傷がない……。それに、毒が消えている。一体、どんな魔法を使ったのだ?」
彼女の視線が、カエデに向けられた。
カエデが手に持っている白い杖を見て、彼女は何かに納得したように頷く。
「高位の治癒魔法使いか……。いや、それだけではない。あの毒は、通常の魔法では解けないはずだ。王都の医師ですら匙を投げる猛毒だと聞いている」
詳しい。
やはり、ただの冒険者ではないらしい。
その毒の知識があるということは、それなりの教育を受けた人間か、あるいは実戦経験が豊富な騎士ということだ。
「薬草を使ったんです」
カエデが説明した。
「貴女の体から毒を抜くために、森に自生していた薬草を使いました。運良く、すぐ近くに見つかったので」
「薬草? まさか、この毒と対になる『鍵』の草を見つけたというのか?」
彼女が目を見開く。
「あの毒は、その毒素を中和できる薬草でしか解けないはずだ。だが、その草は毒を持つ魔物の近くにひっそりと生え、見つけるのは至難の業だと言われている……。それを、運良く見つけたと言うのか?」
「ええ、まあ。彼が」
カエデが俺を指差した。
女騎士の視線が俺に突き刺さる。
俺はポリポリと頬をかいた。
「なんか、足元に生えてたんだよ。俺を呼んでる気がしてさ」
「足元に……?」
彼女は絶句した。
常識的に考えて、そんな都合の良い話があるはずがない。
だが、現実に彼女は助かっている。
彼女の中で、俺への評価が混乱しているのが見て取れた。
「……ただ者ではないな」
彼女は低い声で呟いた。
そして、改めて部屋の中を見回した。
磨き上げられた床。
上質なカーテン。
埃一つない家具。
窓の外に見える、手入れされ始めた庭園。
「ここは……貴族の別荘か? これほどの調度品と、清潔な環境……。辺境の森の中とは到底思えん」
彼女の誤解が加速していく。
まあ、カエデの異常な清掃スキルのせいで、新築の豪邸みたいに見えるのは仕方がない。
「それに、貴公らの立ち居振る舞い。ただの平民には見えぬ。その娘の礼儀作法、そして貴公の……その底知れぬ余裕」
俺のダラけた態度を「余裕」と受け取ったらしい。
プラス思考な人だ。
「失礼だが、お名前を伺ってもよろしいか? 私は……」
彼女は言い淀んだ。
名前を名乗るのをためらうような事情があるのだろうか。
少しの間をおいて、彼女は意を決したように口を開いた。
「私は、セレス。……今はただの、敗北者だ」
家名や所属を言わなかった。
やはり、訳あり物件のようだ。
「俺は天道アタル。こっちは冷泉カエデ。見ての通り、ここでひっそりと暮らしている者だ」
「アタル殿、カエデ殿か。……感謝する。この命、無駄にはせぬ」
セレスは深々と頭を下げた。
その動作は洗練されていて、長い間の訓練と教育を感じさせた。
「ところで、セレスさん。貴女の装備ですが……」
カエデが部屋の隅を指差した。
そこには、昨日の泥団子状態から蘇った、白銀の鎧と剣が飾られていた。
朝日に反射して、眩しいほどの輝きを放っている。
「私の……剣?」
セレスがふらふらと歩み寄る。
そのまま彼女は、ゆっくりと愛剣の柄に触れた。
「綺麗に……なっている。手入れまでされているのか」
「汚れを落としただけですよ。騎士の方にとって、武具は命の次に大事なものでしょうから」
カエデが淡々と言う。
セレスは剣を鞘から少し抜き、刀身を確認した。
曇りのない鏡のような刃。
彼女の瞳に、涙が浮かんだ。
「……汚れたまま死ぬことこそ、騎士の恥。それを救ってくれたばかりか、誇りである剣まで清めてくれるとは……」
彼女は剣を抱きしめ、肩を震わせた。
「私は……私は、なんと礼を言えばいいのか……」
どうやら、カエデの潔癖症からくる大掃除が、彼女の琴線に触れたらしい。
彼女の中で、俺たちは「命の恩人」から「誇りの守護者」へとランクアップしたようだ。
「礼なら、話を聞かせてくれるだけでいい」
俺はベッドの近くにある椅子に腰を下ろした。
セレスは涙を拭い、居住まいを正した。
「……ああ。隠すことなど何もない。私は全てを失った身だ」
彼女は語り始めた。
彼女は、ある騎士団に所属していたこと。
主君に忠誠を誓い、その剣として生きてきたこと。
だが、魔物の大群との戦いで部隊は壊滅し、彼女自身も深手を負って森へ逃げ込んだこと。
そして、毒に侵され、意識が朦朧とする中で、騎士としての誇りも、帰るべき場所も失ったと絶望していたこと。
「主君を守れず、部下を死なせ、おめおめと一人だけ生き残った。……今の私に、騎士を名乗る資格などない」
セレスは自嘲気味に笑った。
その笑顔は痛々しく、見ているこっちが辛くなるほどだ。
「帰る場所は、ないのか?」
「ない。敗北の報告をするために戻れば、処刑されるか、あるいはどこかへ追放されるか……。どちらにせよ、私の居場所はもうどこにもないのだ」
彼女は膝の上で拳を握りしめた。
行き場のない悲しみと、自分自身への怒りが渦巻いているようだ。
俺はカエデと顔を見合わせた。
カエデが小さく頷く。
俺たちの考えは一致していた。
彼女は「使える」。
いや、言い方が悪いな。
彼女は俺たちの求めていた人材そのものだ。
腕は立つ。
身元もしっかりしている。
そして何より、行き場がない。
これは、最高の条件だ。
「なあ、セレス」
俺は切り出した。
「もし行くあてがないなら、ここに住まないか?」
「……え?」
セレスが顔を上げた。
きょとんとしている。
「住む? 私が、ここに?」
「ああ。部屋は余ってるし、飯もなんとかなる。風呂だって入り放題だ」
「し、しかし……私は敗残兵だぞ? そんな私を置くなど、迷惑にしかならぬ」
「迷惑じゃない。むしろ、いてもらわないと困るんだ」
俺は正直に事情を話すことにした。
ただし、俺たちの「追放」の件は伏せて、あくまで「ここに住んでいる一般人」という体で。
「俺たちは、この森で素材を採取して生活してるんだが、見ての通り戦う力がないんだ。カエデは魔法が使えるけど、詠唱に時間がかかるし、俺に至ってはただの一般人だ」
カエデが横で「ええ、私は、か弱い乙女です」としれっと付け加える。
「だから、魔物が出た時に前に立って守ってくれる人が欲しい。つまり、用心棒だ」
「用心棒……」
「衣食住は保証する。給料は……まあ、おいおい相談ってことで。その代わり、俺たちの盾となり、剣となってほしい。どうだ?」
俺の提案に、セレスは目を見開いたまま固まった。
彼女の脳内で、何かが高速で回転しているのが分かる。
(……なんと慈悲深い提案なのだ)
彼女の心の声が聞こえてきそうだ。
(私のような敗北者に、新たな主君として仕える機会を与えてくれるというのか。しかも、ただの施しではなく、『必要としている』と言って、私の騎士としての誇りを傷つけないように配慮してくれている……!)
セレスの瞳が潤み始めた。
やはり、深読みするタイプだ。
俺は単に、自分たちが安全に楽をするためのアタッカー……じゃなくて、パートナーが欲しいだけなのだが。
「……アタル殿。いや、アタル様」
呼び方が変わった。
「その言葉、真実と受け取ってよろしいか?」
「ああ、嘘は言わない」
「私のような、一度折れた剣でも……拾ってくださるのか?」
「折れてるなら直せばいい。それに、あんたの剣はまだ輝いてるように見えるけどな」
俺が適当なキザっぽいセリフを言うと、セレスの頬に紅が差した。
彼女はベッドから降り、床に片膝をついた。
騎士の礼だ。
背筋を伸ばし、右手を胸に当てる。
「……分かった」
彼女の声には、先ほどまでの迷いはなく、確固たる決意が込められていた。
「この命、貴方様に預けます。かつて失った誇りに代えて、今度は貴方様とカエデ様を守る盾となりましょう」
「おお、頼もしいな」
「我が剣は貴方様の剣。我が体は貴方様の盾。生涯の忠誠を、ここに誓います」
セレスが頭を垂れる。
なんだか、話が大きくなってしまった気がする。
ただの用心棒のつもりだったが、生涯の忠誠を誓われてしまった。
まあ、裏切られるよりはずっといいか。
「よろしく頼むよ、セレス。これからは仲間だ」
「はいっ! 我が主君!」
主君か。
まあ、悪い気はしない。
カエデも満足そうに頷いている。
これで、俺たちのパーティに強力な前衛が加わったわけだ。
防御のカエデ、運の俺、そして武力のセレス。
理想的じゃないか。
「さて、契約成立ってことで、早速だが仕事だ」
「はっ! 何なりと! 魔物の討伐ですか? それとも敵対勢力の排除ですか?」
セレスが殺気立つ。
やる気満々だ。
「いや、まずは飯だ。腹が減っては戦はできぬって言うだろ?」
「……あ」
セレスのお腹が、グゥゥゥと盛大な音を立てた。
彼女は真っ赤になってうつむいた。
「……申し訳ありません。数日間、まともな食事をしていなかったもので……」
「いいってことよ。一階に美味いパンとスープがある。まずは体力を戻すのが先決だ」
「はい……! ありがとうございます!」
俺たちはリビングへと移動した。
セレスは歩くたびに、屋敷の清潔さと豪華さに驚きの声を上げていた。
特に、彼女が気に入ったのは廊下の床の輝きだったらしい。
「顔が映るほどの床……。王城ですら、これほど磨かれてはいなかった。アタル様は、一体何者なのだ……?」
また何か勘違いをしているが、訂正するのも面倒なので放っておくことにした。
食事中、セレスの食べっぷりは見事だった。
上品なマナーを守りつつも、凄まじい勢いでパンとスープを胃袋に収めていく。
騎士というのは体が資本だから、燃費が悪いのかもしれない。
カエデが焼いたパンを「絶品です」と褒めちぎり、黄金蜜の味には目を丸くして感動していた。
「こんなに美味しい食事は初めてです。やはり、アタル様たちは高貴な身分の方々に違いありません」
「まあ、そう思ってくれてていいよ」
否定しない俺に、セレスは確信を深めたようだ。
食事が終わると、部屋割りの話になった。
セレスは当然、客室を使うことになるが、どの部屋にするかが問題だ。
「私は、アタル様の部屋の近くを希望します」
セレスが真剣な顔で主張した。
「夜間の警備、および有事の際に即座に駆けつけられる位置でなければなりません。主君の寝首をかかれるなど、騎士としてあってはならないことです」
「寝首って……ここ、そんなに治安悪くないぞ?」
「油断は大敵です。刺客はいつ現れるか分かりません」
彼女の中では、俺は何らかの組織に追われる重要人物という設定になっているらしい。
まあ、用心棒としては正しい姿勢だ。
「分かった。じゃあ、俺の部屋の向かい側の部屋を使えばいい。あそこなら、何かあってもすぐに対応できるだろ」
「感謝します。では、その部屋を私の詰め所とさせていただきます」
詰め所。
あくまで仕事場という認識らしい。
彼女の私物は、あの鎧と剣くらいしかないから、引っ越しも簡単だ。
「あと、一つ条件がある」
カエデが口を挟んだ。
彼女はセレスをじっと見つめ、厳しい口調で言った。
「この屋敷を汚さないこと。これが絶対のルールです。外から帰ったら必ず足を拭くこと。鎧の手入れは指定の場所で行うこと。そして、お風呂は毎日入ること」
「は、はい!」
セレスが直立不動で返事をする。
カエデの迫力に、熟練の騎士もタジタジだ。
「清潔さは規律を生みます。規律のない軍隊は弱いのと同じで、汚れた生活は心を蝕みます。アタル様をお守りするためにも、まずは身の回りを清浄に保つことです」
「おっしゃる通りです! カエデ殿の教え、肝に銘じます!」
セレスはカエデを「規律の鬼教官」として認識したようだ。
ある意味、相性はいいのかもしれない。
体育会系のセレスと、風紀委員長気質のカエデ。
俺はその間で、適当に昼寝をしていればいいというわけだ。
「じゃあ、セレス。今日はゆっくり休んでくれ。本格的な仕事は明日からだ」
「はい。しっかりと体調を整え、明日に備えます」
セレスは再び深々と頭を下げ、与えられた部屋へと向かった。
その足取りは、来た時よりもずっと力強く、希望に満ちているように見えた。
彼女が去った後、俺とカエデはリビングに残った。
「……凄い拾い物でしたね」
カエデが紅茶を飲みながら呟いた。
「ああ。あんなに忠誠心の高い人材、求人募集しても来ないぞ」
「貴方の運の良さには呆れますが、今回ばかりは感謝します。これで私も、安心して魔法の研究や家事に専念できます」
「俺も安心して眠れるよ」
窓の外を見ると、太陽が高く昇っていた。
今日もいい天気だ。
新しい仲間も増えたことだし、この森での生活はますます充実していきそうだ。
「さて、俺は二度寝でもするか」
「……貴方は本当にブレませんね」
カエデの呆れ声を聞き流しながら、俺はソファへと倒れ込んだ。
セレスが廊下を巡回する足音が、頼もしく響いている。
これで防犯対策も万全だ。
俺の『天運』が引き寄せた、最強の仲間。
これ以上の安心感はないだろう。
俺はクッションを抱きしめ、まどろみの中で思った。
すべては運のままに。
そうして俺は、心地よい眠りへと落ちていった。




