第十三話:傷ついた騎士と無造作な奇跡
フロンティアでの買い物を終えた俺たちは、来た時と同じ森の獣道を歩いていた。
行きとは違い、背中にはずっしりとした重みがある。
カエデのリュックには、彼女が厳選した調味料や布製品が詰め込まれ、俺のほうには安く手に入れた鍋やフライパン、食材が満載されていた。
普通なら肩が悲鳴を上げそうな重量だが、不思議と足取りは軽かった。
「いい買い物ができましたね」
前を歩くカエデが、白い杖で草を払いながら弾んだ声を出した。
「特にあの布です。手触りが最高でした。あれなら肌を傷つけることもありませんし、水気をよく吸ってくれそうです。帰ったら早速、使いやすい大きさに切ってストックを作らないと」
「なあ、トイレットペーパーの話をする時が一番生き生きしてるな」
「人間の尊厳に関わる重大事項ですから。それに、調味料も揃いました。今夜は塩と胡椒だけの味付けから卒業できますよ」
カエデが振り返り、にっこりと微笑む。
その笑顔は、教室でガミガミと説教をしていた頃とは別人のようだ。
自分の居場所である屋敷を整え、生活水準を上げるためのアイテムを手に入れた充実感が、彼女を輝かせているのだろう。
俺もまた、気分が良かった。
金貨も手に入ったし、何よりこの森での生活がなんとかなるという確信が得られたからだ。
あとは屋敷に帰って、風呂に入り、カエデの手料理を食べて寝るだけ。
最高の一日だ。
太陽は西に傾き始め、森の中には長い影が伸びている。
木々の間を吹き抜ける風が、昼間の熱気を冷まし、ひんやりとした空気を運んでくる。
平和な夕暮れ時の散歩道。
そう思っていた。
ピタリ。
カエデが突然、足を止めた。
「……天道くん」
彼女の声から、先ほどまでの浮ついた色が消えていた。
ピンと張り詰めた、鋭い響きだ。
「どうした?」
「変な匂いがします」
「匂い? 晩飯のことか?」
「違います。……血の匂いです」
カエデが顔をしかめ、ハンカチで鼻を覆った。
彼女の嗅覚は、不潔なものや異変に対して敏感に反応する。
言われてみれば、森の草いきれの中に、鉄錆のような生臭い匂いが混じっている気がする。
「風上……あっちですね」
カエデが杖の先で、街道から外れた深い茂みの奥を指し示した。
そこは俺たちが通ろうとしていた獣道からは少し外れているが、屋敷への方角とは大きくズレていない。
「行ってみるか?」
「……放っておくわけにもいきません。もし怪我をした動物なら、森の巡り合わせの一部として納得できますが、この匂いの強さは普通ではありません。あるいは、誰かがゴミを捨てた可能性も」
「こんな森の奥にゴミを捨てに来るやつはいないだろ。まあ、確認だけしてみるか」
俺たちは慎重に茂みをかき分けた。
進むにつれて、血の匂いは濃くなっていく。
カサリ、と俺が枝を踏んだ音が、静まり返った森に大きく響いた。
十メートルほど進んだところに、少し開けた場所があった。
そこで俺たちは、その原因を見つけた。
「……っ!」
カエデが短く息を吐き、身構える。
そこには、一人の人間が倒れていた。
銀色の鎧を着ている。
いや、かつては銀色だったのだろう。今は泥と、どす黒い液体で汚れ、あちこちがひしゃげている。
長く美しい金髪は乱れ、土にまみれて広がっていた。
「騎士……?」
俺は呟いた。
見たところ、女性だ。
華奢な体つきだが、身につけている装備は本格的なものに見える。
彼女はうつ伏せに倒れ、ピクリとも動かない。
周囲の草はなぎ倒され、激しい争いがあったことを物語っている。
「生きてるか?」
「……待ってください」
カエデが警戒しながら近づいていく。
彼女は汚れたものに触れるのを嫌うが、人命がかかっているとなれば話は別らしい。
杖を伸ばし、倒れている女性の肩を軽くつついた。
「もし。聞こえますか?」
反応はない。
カエデは決心したように膝をつき、女性の体を表に返した。
現れた顔を見て、俺は口を閉ざした。
整った顔立ちの美少女だ。
だが、その顔色は土気色を通り越して、青白く変色している。
さらに不気味なのは、首筋や腕に見える血管が、どす黒く浮き上がっていることだ。
肩のあたりにある鎧の隙間からは、血と共に紫色の液体が滲み出していた。
「これは……ひどいですね」
カエデの声が不安げに波打っている。
「ただの怪我ではありません。毒です。それも、かなり厄介な」
「毒か。……助かるのか?」
「分かりません。ですが、まだ息はあります。浅くて弱いですが」
カエデはリュックサックを放り出し、杖を構えた。
彼女の瞳に、使命感のような光が灯る。
「まずは洗浄します。傷口の汚れを落とさないと、状態も確認できません」
彼女が素早く短い言葉を唱える。
杖の先から清浄な水が湧き出し、女性の傷口を覆う。
泥と血が洗い流され、痛々しい裂傷が露わになった。
獣の爪痕だ。
三本の深い溝が、肩から胸にかけて走っている。
「……傷自体は、私の水魔法で塞げる範囲です。ですが、問題はこの変色です」
カエデが困り果てた表情を浮かべた。
洗浄しても、傷口周辺の変色は消えない。
むしろ、毒が体の奥へと浸透しているのが見て取れた。
「『浄化』で消せないのか?」
「試してみます。……『穢れを払い、清めよ』」
カエデが全神経を集中させ、魔力を送り込む。
青白い光が傷口に吸い込まれていく。
だが、毒の色は一瞬薄くなるものの、すぐにまた濃い紫色に戻ってしまう。
まるで、毒そのものが生き物のように抵抗しているかのようだ。
「くっ……ダメです。弾かれます」
カエデの額に汗がにじむ。
「この傷跡、そしてこの紫色の反応……。間違いありません。昨日、屋敷の書斎で読んだ『森の生態書』に載っていました。これは『森の狼』の中でも、特殊な個体が持つ毒です」
「知識があるなら話は早い。治し方は?」
「それが問題なんです」
カエデは焦ったように言葉を続ける。
「この毒は、呪いのように血液と強く結びつく性質を持っています。本には『影が光に張り付くようにこびりつく』と書いてありました。単に水魔法をかけても、毒は体の一部だと認識されてしまって、引き剥がせないんです」
「なるほど。服についた油汚れを、水だけで洗おうとしてるようなもんか」
「その通りです。無理に引き剥がそうとすれば、彼女の命に関わります。毒と対になり、それを鎮める力を持つ『特別な草』が必要です」
カエデの説明は分かりやすかった。
要するに、ただの回復魔法や浄化魔法による力押しは通じないということだ。
「その『特別な草』は、手持ちにあるか? さっき拾った光る草とか」
俺は、彼女が大事そうに抱えている袋を指差した。
今日の道中、俺がつまずいた拍子に見つけた光る草が入っているはずだ。
あれなら高値で売れると言っていたし、効果もありそうだ。
「いえ、あれは傷を治す力は強いですが、この毒を鎮める力はありません。この毒は、特定の薬草でしか解くことができないんです。つまり、この毒だけに合う、唯一の草でないと」
「パズルのピースみたいだな」
「そういうことです。とにかく、その特定の草が必要です。本には『ギザギザした葉を持ち、湿った岩場に生える』とありましたが……」
カエデは絶望的な顔で周囲を見回した。
辺り一面、草だらけだ。
どれがその草なのか、素人目にはさっぱり分からない。
それに、そんな都合のいい草がすぐ近くにある確率なんて、天文学的な数字だろう。
女騎士の呼吸がさらに浅くなり、苦しげなうめき声が漏れ始めた。
時間がない。
カエデの手が止まる。
万全の準備を好む彼女にとって、この手詰まりな状況は混乱を引き起こすのに十分だった。
「どうしましょう……。このままでは、彼女は死んでしまいます。私の目の前で、助けられるはずの命が消えるなんて……嫌です」
「落ち着けよ、カエデ」
俺は努めて平坦な声を出した。
焦っても事態は好転しない。
こういう時こそ、俺の適当さが役に立つ。
「ないなら、探せばいいだけだろ」
「探すって……こんな広い森の中でですか? それに、詳しい形も分からないのに!」
「あるさ。森だぞ、ここ」
俺は足元の茂みに視線を落とした。
薄暗い森の地面には、無数の雑草が生い茂っている。
どれも似たような緑色だ。
だが、俺の『勘』が、ある一点を指し示していた。
すぐそこの、大岩の陰になっている湿っぽい場所。
そこに、ひっそりと生えている草がある。
見た目はその辺の雑草と変わらない。
ギザギザした葉っぱで、色はくすんだ深緑。
だが、俺の目はそこに吸い寄せられた。
なぜか?
理由は分からない。
ただ、なんとなく「そこにある」気がした。
まるで、その草が俺に見つけて欲しがっているかのように。
「これなんかどうだ?」
俺は屈み込み、その草を無造作に引き抜いた。
ブチッ、という小気味よい音がして、根っこごと抜ける。
「ほらよ」
俺は土がついたままの草を、カエデの目の前に差し出した。
カエデは涙目になりながら、俺の手元を見た。
「……は?」
彼女の動きが止まった。
涙が引っ込み、代わりに呆れと困惑が浮かぶ。
「天道くん……ふざけているんですか? それはただの雑草です」
「いいから、調べてみてくれよ。俺の勘だと、これがその薬草になりそうな気がするんだ」
「根拠は?」
「俺を呼んでた。それに、なんとなくこの場に相応しい気がする」
「……」
カエデは俺の顔と、泥のついたみすぼらしい雑草を交互に見比べた。
その顔には、明らかな拒絶反応が出ている。
清潔な魔法を好む彼女にとって、得体の知れない泥だらけの草を扱うのは苦痛なのだろう。
「正気ですか? こんな汚い草を、傷口に使えと言うのですか?」
「そこはお前の魔法で綺麗にして、薬効だけ取り出せばいいだろ。どうせ他に手立てはないんだ。ダメ元で試すしかない」
「ダメ元って……人の命をなんだと思ってるんですか」
カエデは不満げに唇を尖らせたが、すぐに女騎士の苦しげな呼吸音を聞いて、腹をくくったようにため息をついた。
「……はぁ。分かりました。貴方がそこまで言うなら、やりますよ。どうせ、このままでは助からない命です」
「おう、頼む」
「ただし、もしこれで何も起きなくても、私は知りませんからね」
カエデはしぶしぶといった様子で、指先でつまむようにして草を受け取った。
「『清浄なる水よ、我が呼びかけに応え、不要なものを排除し、真なる恵みのみを引き出せ』」
疑心暗鬼のまま、彼女が言葉を紡ぐ。
魔法の水が草を包み込んだ。
どうせ泥水にしかならないだろう、という彼女の予想を裏切り、草は瞬く間に繊維が解け、透明度の高いエメラルドグリーンの液体へと変わった。
「……あれ?」
カエデが目を丸くする。
ゴミ一つない、美しいしずくが生まれたのだ。
ほのかに、鼻にツンとくるような鋭い香りがした。
「これ……強い力を感じます。本に書いてあった、毒を静める草の特徴と一致します……!」
カエデの表情が真剣なものに変わる。
彼女は指先で水を操作し、そのしずくを女騎士の傷口へと垂らした。
ジュワッ、という小さな音がして、紫色の毒と緑色の液体が混ざり合う。
効果は劇的だった。
毒の色が薄まり、透明になっていく。
みるみるうちに、女騎士の顔色が変わり始めたのだ。
死人のような青白さが消え、頬に赤みが差していく。
毒という呪縛が解かれ、浄化魔法が通じる状態になったのだ。
「……いけます! これなら浄化できます!」
カエデはすかさず追撃の魔法をかけた。
残った毒と汚れを一気に洗い流し、傷口を塞いでいく。
「……ぅ……」
女騎士が小さくうめき声を上げ、身じろぎをした。
呼吸が深く、穏やかなものに変わっていく。
「……信じられません」
カエデが呆然と呟いた。
地面が汚れていることも忘れて、その場にへたり込む。
「本当に効きました。あれほど厄介だった毒が、嘘のように消えて……」
彼女は俺を見上げた。
そこにあるのは、理解不能な現象を目の当たりにしたような顔だ。
「まさか、あの足元の雑草がピンポイントで毒を消す草だったなんて。貴方の運は、森の植生すら味方につけているんですか?」
「まあ、森の恵みってやつだろ。俺の『勘』の勝利だな」
俺は倒れている女騎士を見下ろした。
泥と血にまみれてはいるが、その寝顔は安らかだ。
「さて、これからどうする?」
俺が聞くと、カエデは立ち上がり、スカートの土を払った。
そして、キッと俺を見た。
「連れて帰ります」
「え、マジで?」
「当然です。ここで放置すれば、また襲われるかもしれません。それに、毒は消えましたが、体力が戻ったわけではありません」
「それはそうだけど……」
「それに」
カエデは汚れた鎧を見つめ、眉間にしわを寄せた。
「あの泥だらけのままにしておくのは、見ていて我慢なりません。屋敷に連れ帰り、あの鎧も、体も、髪の毛の一本まで綺麗に洗い清めてあげないと、私の気が済みません!」
出た、潔癖症の暴走。
人助けの半分くらいは、汚い状態を許せないという個人的な感情なんじゃないかと思えてくる。
「分かったよ。でも、どうやって運ぶんだ? 俺はごめんだぞ。そんな重そうな鎧を着た人間を背負って歩くなんて」
俺は釘を刺した。
この女騎士、鎧も含めれば相当な重量があるはずだ。
俺の貧弱な筋力では、数十メートルでへばる自信がある。
それに、泥だらけの人間を背負えば、俺の新しい服まで汚れてしまう。
「私だって嫌ですよ。せっかくの新しい服が台無しになります」
カエデも即答した。
やはり利害は一致している。
じゃあ、どうする。置いていくわけにもいかない。
カエデが杖を構え直した。
「魔法で運びます」
「お、浮遊魔法とか使えるのか?」
「いいえ。水で包んで浮かせるんです」
彼女が魔法を使うと、周囲の空気が湿り気を帯びた。
水が集まり、女騎士の体の下へ潜り込む。
そして、彼女の体を包み込むようにして持ち上げた。
ウォーターベッドが空中に浮いているような状態だ。
「これなら、彼女を汚すことなく、そして私たちも触れることなく運べます。毒の成分が残っているかもしれない服に触りたくありませんからね」
「なるほど、賢いな。でも、魔力は持つのか?」
「ギリギリです。屋敷まではなんとか持たせます。……さあ、急ぎましょう。お風呂に入りたい気持ちが、私の魔力を底上げしています!」
カエデの執念は凄まじい。
空中に浮かぶ水のカプセルに包まれた女騎士を引き連れて、俺たちは屋敷への道を急いだ。




