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第一話:喧騒の教室

 昼休みの教室っていうのは、どうしてこうも動物園みたいにうるさいんだろう。

 あっちこっちでデカい笑い声が上がって、机や椅子をガタガタと引きずる音が耳に刺さってくる。


 みんな昼飯を食べてお腹いっぱいになって、午後の授業なんて受けたくないっていうダラけた空気が教室中に充満していて。

 それが、この教室という雰囲気をユルユルな感じにしている気さえする。


 一方の俺といえば、教室の一番後ろにある窓際の席、いわゆる「主人公席」なんて呼ばれる場所で机に突っ伏していた。

 腕の中に顔を埋めて、目を閉じる。

 こうやって視界をシャットアウトするだけで、そこはもう俺だけのプライベート空間だ。誰にも邪魔されない、個人的な領域の出来上がり。

 クラスメイトたちが何を話しているのか、耳には入ってくるけど、頭の中には入れない。ただの環境音として聞き流すのがコツだ。


 みんな、必死すぎやしないか。

 教室っていう狭い箱庭の中で、自分がどのグループにいるべきか、誰と仲良くしておけば安全か、そんなことばっかり考えてる。

 仲間外れにされるのが怖くて、興味のない話に合わせたり、引きつった愛想笑いを浮かべたりして、必死に自分の居場所を確保しようとしてる。


 俺には、それがものすごく疲れる無駄な作業に思えるんだよな。

 別に友達が欲しくないわけじゃない。でも、無理をしてまで作りたいとも思わない。

 人間関係ってやつは、維持するだけでものすごいエネルギーを使う。

 相手の話を聞いて、「そうだね」って同意して、たまには違う意見を言ってみたりして、機嫌を損ねないように常に顔色を伺う。

 そこまでして得られるものって、その苦労に見合ってるのか?


 俺はそうは思わない。

 誰にも気を使わず、自分のペースで息ができるこの「ぼっち」こそが、俺にとっては一番快適で、最高の贅沢なのだ。

 周りの連中は俺を見て「寂しいやつ」って笑うかもしれない。でも、これは俺が自分で選んだ、一番賢い生き方だ。

 俺は深く息を吐いて、机の硬い感触を頬に感じながら、とろけるような眠りの世界へ落ちていこうとする。

 次の授業は国語だ。先生の声はゆっくりで穏やかだから、子守唄代わりにはちょうどいい。

 それまでの短い休み時間を、誰にも邪魔されたくなかった。


 ラッキーなことに、俺の席は先生から死角になりやすい。それに、日当たりも最高だ。

 冬はポカポカして暖かいし、夏になるとなぜか俺の席にだけ涼しい風が吹き込んでくる。

 これも、俺の『運』が良いからなんだろうか。


 思い返してみれば、俺の人生はいつだって「なんとかなって」きた。

 死に物狂いで努力をした記憶なんてない。汗水たらして何かを追いかけたこともない。

 だけど、取り返しのつかない大失敗をしたこともなければ、食べる物に困ってひもじい思いをしたこともない。

 テスト勉強を全然しなくても、直前にパラっと見た教科書のページがそのまま問題に出たりする。

 宿題を忘れて焦ってたら、たまたま先生が出張で自習になったりする。

 傘を持たずに出かけても、俺が外を歩いている間だけ雨がピタッと止んでくれる。


 そんな小さなラッキーの積み重ねが、俺の毎日を支えている。

 だから俺は、「焦る」とか「慌てる」っていう感情を、どこかに置き忘れてきたようなところがあるんだ。


 どうせ、なんとかなるだろ。


 その根拠のない自信が、このうるさい教室の中でも、俺を安らかな眠りへと誘っていた。


 ところが。

 そのささやかな幸せは、突然終わりを迎えることになった。


「ちょっと。天道くん!」


 俺の名前を呼ぶ声は、周りの雑音を一瞬で消し去るくらい、冷たくて鋭かった。

 顔を上げなくても、誰だかすぐに分かる。

 この教室で、いや、この学校中を探しても、これほど正論で、これほど冷ややかな声を出せる人間は一人しかいないからだ。


 けれど、俺は無視した。いや、無視してみることにした。


「天道くん!無視しないでください。天道 アタルくん!いつまで寝ているつもりですか」


 どうやら俺は、彼女にロックオンされていた。

 俺は「あーあ」と心の中でため息をついて、渋々顔を上げた。

 そこに立っていたのは、この教室のクラス委員である、冷泉カエデだった。


 彼女の真っ黒な髪は定規で測ったみたいに綺麗に切り揃えられている。いわゆる姫カットってやつだ。

 制服の着こなしも校則のお手本みたいで、シャツの白さが眩しいくらいピシッとしている。

 涼しげな瞳が、俺を見下ろしている。その目は、まるで道端の石ころか何かを見るような、感情のない静けさだった。


 彼女はクラス委員だ。けれど、もはやただの役職じゃない。

 学校の決まりを何よりも大切にして、ルールを守ることこそが正義だと信じて疑わない。

 周りの生徒からは『歩く校則』なんて呼ばれて煙たがられているけど、本人はそんなこと一切気にしてない様子だ。

 彼女にとって大事なのは、「世界が正しくあるかどうか」。それだけなんだろう。


「……何か用か、冷泉」


 俺はあくびを噛み殺しながら聞いた。

 こいつに関わると、ろくなことがない。それは今までの経験で嫌というほど分かってる。

 彼女は俺のだらしないところが許せないし、俺は彼女の細かすぎる性格についていけない。

 決して相容れない、水と油みたいな関係だ。


「用があるから声をかけているのです。天道くん、その胸元を見てください」


 カエデの白くて細い指先が、俺の制服を指差す。

 俺は自分の胸元に視線を落とした。

 普通のブレザーだ。昼飯のケチャップがついているわけでもないし、破れているわけでもない。


「……何ともなってないと思うけど」

「ボタンです。私は、前の時間から気になっていました。制服の第二ボタンが取れかかっています」


 言われてよく見てみると、確かに第二ボタンを留めている糸が緩んでいて、ボタンがだらりと垂れ下がっていた。

 今にもプツンと取れてしまいそうな頼りなさだ。

 でもさ、言われなきゃ気づかないくらいの小さなことだろ?


「ああ、本当だ。まあ、取れたら取れたで――」

「だらしないですね」


 俺の言葉を遮って、カエデは氷みたいな声で言った。


「服装の乱れは心の乱れです。ボタン一つ満足に管理できない人間に、何ができるというのですか? 今すぐ付け直しなさい。あるいは、安全ピンで留めるなりして、見苦しくないように処置をするべきです」

「……え、今? ここでか?」

「今すぐです。後回しにする理由がありません」


 言ってることは正しい。

 ぐうの音も出ないくらい正しい。

 でも、俺に言わせれば、たかがボタン一つでそこまで目くじらを立てる方が疲れるんじゃないかと思う。

 取れたらポケットに入れておけばいいし、家に帰ってから気が向けば直せばいい。あるいは、運良く裁縫が得意な誰かが通りかかって直してくれるかもしれないじゃん。


 しかし、目の前にいるこの真面目すぎるクラス委員様には、そんな適当な考えは通用しない。

 ここで「面倒くさい」なんて言おうものなら、彼女は延々と説教を続けるだろう。それは、ボタンを付け直す手間の何倍も疲れることになる。

 だったら、素直に従うのが一番賢い。

 俺の判断基準はいつもシンプルだ。

 楽ができるか、できないか。

 快適か、不快か。それだけ。


「分かったよ。なんとかする」

「なんとかするではなく、実行してください」


 カエデは妥協を許さない。

 俺は「はいはい」と心の中で呟いて、ポケットの中に手を突っ込んだ。

 もちろん、男子高校生が裁縫セットなんて持っているはずがない。

 でも、探すふりだけでもしておけば、少しは彼女の機嫌も直るだろう。


 そう思ってポケットの底を探ると、指先が何かに触れた。

 硬くて、冷たい金属の感触。

 つまみ出してみると、それは小さな安全ピンだった。

 ……え、なんで?

 いつ入れたのか、自分でもまったく覚えていない。もしかしたら、クリーニングに出した時についていたタグのピンが、そのまま残っていたのかもしれない。

 あるいは、道で拾って無意識に入れたのかもしれない。

 理由は分からないけど、今、この瞬間に必要なアイテムが、俺の手の中にあった。

 まさにラッキー。


「……これでいいか?」


 俺は安全ピンを使って、取れかけのボタンを裏から固定した。

 見た目は少し悪いかもしれないけど、これでボタンが落ちることはないし、ブラブラすることもない。


「……まあ、応急処置としては合格としましょう」


 カエデは少しだけ不服そうな顔をしたけど、それ以上文句を言うことはなかった。

 俺はほっと胸を撫で下ろす。

 これも俺の『運』のおかげだ。たまたまポケットに安全ピンが入っていた 。それだけのことで、長く面倒な説教タイムを回避できたんだから。


 その時だった。

 カエデがふと、顔をしかめて教室の中を見渡した。


「……騒がしいですね」


 彼女の意識が俺から逸れる。助かった。

 教室の真ん中あたりでは、クラスの中でも特に目立つ男子生徒たちが、ふざけてプロレスごっこを始めていた。

 机が派手に倒れて、筆箱が床に落ちて中身が散らばる音がする。

 普通の生徒なら、関わり合いになりたくないから、見て見ぬふりをする場面だ。触らぬ神に祟りなし、ってやつだ。

 けれど、冷泉カエデという人間に「見て見ぬふり」なんていう便利な機能はついていない。


「あなたたち、教室は暴れる場所ではありませんよ。席に戻って次の授業の準備をしなさい」


 よく通る凛とした声が、教室の空気を引き裂いた。

 プロレスごっこをしていた男子生徒たちの動きが止まる。

 彼らの視線が一斉にカエデに集まった。そこにあるのは、純粋な苛立ちと、「またかよ」っていう馬鹿にしたような色だった。


「うっせーな、委員長。固いこと言うなよ」

「今は昼休みだろ? 自由にさせろっての」


 ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、リーダー格の男子生徒が言い返す。

 カエデは一歩も引かない。


「自由と無秩序は違います。みんなが使う場所でのマナーを考えなさい。他の生徒の迷惑になっています」

「迷惑って誰が? お前以外、誰も文句言ってねーじゃん」


 男子生徒の言葉に、周りの取り巻きたちが一緒になってゲラゲラ笑う。

 確かに、誰も文句は言っていない。言えないのだ。

 彼らに逆らえば、この教室での居心地が悪くなることを誰もが知っているから。

 彼らはクラスの中心にいて、自分たちがルールだと思っている。


 しかし、カエデにとって多数決なんて何の意味もない。

 彼女にあるのは、絶対的な「正しさ」という基準だけだ。


「私が言っているのです。それが全てです」


 迷いのない瞳。背筋をピンと伸ばして、堂々と立ち向かうその姿は、ある意味ですごいと思う。

 でも、教室の空気は冷ややかだ。

 誰も彼女の味方をしない。


 『また始まったよ』

 『空気読めないな』


 そんな無言の圧力が、彼女を取り囲んでいる。

 正しいことを言っている人間が孤立して、好き勝手に振る舞う人間がその場を支配する。

 それがこの教室の、いや、世の中の縮図みたいなものだった。


 俺は頬杖をつきながら、ぼんやりとその光景を眺めていた。

 カエデの言っていることは正しい。間違っていない。

 でも、その正しさはあまりにも鋭すぎて、周りを傷つけて、そして自分自身をも傷つけているように見える。

 生きにくいだろうな、と思う。

 俺のように、適当に流して、目立たないように息を潜めていればいいのに。

 なぜ彼女は、わざわざ自分から面倒ごとの中に飛び込んでいくような真似をするのか。

 俺には理解できないし、理解したいとも思わない。

 自分と違う生き物の生態を観察するような気分で、俺はただ見ていた。


 その時。

 男子生徒の一人がイラついた様子で、黒板の溝に置いてあったチョークを手に取った。

 そして、カエデに向かって思いっきり投げつけた。


 シュッ!

 白い塊が空を切って、カエデの顔に向かって飛んでいく。

 彼女は目を見開いたけれど、避ける動作が間に合わない。


 あ、当たる――そう思った瞬間だった。


 ビューッ!


 開け放たれていた窓から、突然、ものすごい突風が吹き込んだ。

 春一番のような激しい風が教室を駆け抜けて、カーテンを大きくバサバサと翻した。

 その風の勢いに押されたのか、チョークの軌道がほんの少しだけ、カクンとずれた。


 パァン!

 チョークはカエデの長い黒髪を掠めて、すぐ後ろの黒板に当たり、粉々に砕け散った。

 白い粉が舞う中、カエデは呆然と立ち尽くしている。


「……っ、危ないじゃないですか!」


 一拍遅れて、カエデの怒鳴り声が響いた。

 投げた男子生徒も、まさかそんなタイミングで風が吹くとは思わなかったらしく、バツが悪そうに視線を逸らした。


 俺は小さく息を吐いた。

 偶然だ。たまたま強い風が吹いた。それだけのことだ。

 でも、もし風が吹かなければ、彼女の綺麗な顔にチョークの跡が残っていただろうし、目に入っていたら怪我をしてたかもしれない。

 俺は自分の胸元、さっき安全ピンで留めたボタンに触れた。


(まあ、運が良かったな、お前も)


 誰にともなく心の中で呟く。

 カエデは気を取り直して、また男子生徒たちに説教を始めようと口を開いた。

 その折れない心、メンタルの強さには恐れ入るよ。

 普通ならビビって黙ってしまうところだろうに、彼女は自分が正しいと信じている限り、止まることを知らない暴走機関車みたいだ。


 だが、彼女の言葉が続くことはなかった。


 ブォン……。

 腹の底に響くような、低い音がした。

 地震か? いや、揺れはない。

 音は床の下から直接響いてきているようだった。


「なんだこれ!?」


 誰かが叫んだ。

 教室の床、灰色の冷たいリノリウムの表面に、突然として光る模様が浮かび上がったのだ。

 魔法陣? いや、もっと複雑だ。

 青白く光っていて、見たこともない文字や図形の集まりで出来ていた。

 円と三角、複雑な線が絡み合って、まるで生き物みたいにドクン、ドクンと明滅している。

 光はあっという間に強さを増して、教室全体を飲み込もうとしていた。


「きゃあああ!」

「なんだよこれ、熱くねえぞ!?」

「ドアが開かない! 出られないぞ!」


 一瞬でパニックが広がった。

 生徒たちが出口へと殺到するけれど、教室の扉も窓も、見えない壁に阻まれたかのようにびくともしない。

 ガンガン叩いても、蹴っても、開く気配がない。


 俺は席から立ち上がることもせず、その光景をぼんやりと見つめていた。

 逃げ場がないことは、なんとなく分かった。

 この光は、ただの自然現象じゃない。もっと根本的な、強制力を持った何かだ。

 俺の『勘』が告げている。

 これは、どうあがいても逃げられない流れだと。


 カエデが、光の渦の中で立ち尽くしていた。

 彼女は逃げようとはしていなかった。足元の光る模様を、まるで正体を暴こうとするかのように、強い瞳でじっと見つめている。

 その姿勢は、どこまでも彼女らしかった。

 訳の分からない事態になっても、彼女は冷静さを捨てようとしない。

 自分の頭で考えて、理解しようとしている。


 俺はゆっくりと目を閉じた。

 ああ、面倒なことになったな。それは間違いない。

 平穏な昼休みはこれで終わりだ。


 でも、不思議と恐怖はなかった。

 これまでもそうだったように、今回もどうにかなるだろうっていう、根拠のない楽観だけがあった。

 むしろ、この退屈で窮屈な教室から連れ出してくれるのなら、行き先がどこであれ歓迎したい気分ですらある。

 ここではないどこかへ行けるのなら、それはそれで悪くないかもしれない。


「……天道くん!」


 光が視界を真っ白に染め上げる直前、カエデの声が聞こえた気がした。

 彼女が俺の方を見ていたのかどうかは分からない。

 ただ、その声にはいつもの冷たさはなくて、微かな不安と、そして誰かを気遣うような響きが含まれていた気がする。


 俺の身体がふわっと浮き上がるような感覚に包まれる。

 上も下も分からなくなるような、不思議な浮遊感。

 教室の騒がしい音が遠のいていって、代わりにヒュオオオという風を切るような音が耳元で鳴り響く。

 意識が急速に薄れていく中で、俺は最後に一つだけ思った。


 せっかくの昼寝を邪魔されたことだけは、ちょっと残念だなあ、と。


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