3-1 王様のわくわく異世界道中
ガシャンッ! と、自転車から降りるのについ大きな音を立ててしまった。それくらい気が急いている。
片手でハンドルを握り自転車を支えながら荷物をまさぐる。内ポケットのファスナーを開いて、中から小さなポーチを取り出し、それのファスナーをまた開けて、と繰り返し、ようやく目当ての鍵を取り出した。これだけ厳重にしまっているのは防犯のためだけど、こうして急いでいる時には正直ちょっとだけ煩わしい。やめる気はないけども。
鍵を挿しこみ、回す。ガチャリ。ドアを開け、自転車を玄関に押し込んだ。
「ただいま、帰りました!」
なんか、合ってるのかなこの台詞。帰りました、なんて言ったことがない。でも今まさにこの家の中で待っている相手の身分を思えば、気軽に「ただいま」とは言えない気がした。
ドアを正面に靴を脱ぎ、後ろ向きに土間を上がる。自分のスニーカーの隣には綺麗に揃えられたショートブーツが並んでいた。シンプルながら高級感あふれる美しいショートブーツ。その存在が今朝の出来事を現実だと告げていた。
良かった。夢じゃない。この先に彼女がいる。
ほんの少しの距離も耐えられない。急ぎ足で振り返り、正面のドアに飛びついた。取っ手に手をかけ勢いよくスライド、と思えば、ガツ、とちょっとした衝撃が腕に広がった。思い切りが良すぎて滑り止めにドアがぶつかったらしい。脳内の母さんが「ドアは優しく扱いなさいよ~!」と叫んでいる。ごめんね、いつもは気を付けてます。
かくしてリビングに上半身を乗り出せば、彼女は右真隣りに居た。
すっ、と背筋を伸ばすと、眩しいブロンドが一房顔の前に垂れてくる。それを背後に流し、美しい王が微笑んだ。
「チアキ、おかえりなさい」
「……あ、ただいま。……帰りました!」
危ない、たった今考えていたことすら飛んでいってしまう所だった。ハッと気づいて言葉を付け足すと、王様はその笑みを深めた。
「学びの場はどうだった?」
「なんとか間に合いましたよ。王様の……おかげ、です」
一瞬言葉に詰まったのは、果たしてあの超ジャンプ空中移動が必要なことだったのか悩んだからだ。
王様ができるだけ目立たない様に我が家で服を着替えてもらおうと思ったのに、あれじゃあ本末転倒である。通学通勤時間を過ぎていたから良かったものの、誰かがふと空を見上げていたら……いや、起こらなかったことを考えるのは止そう。電車の中でパブリックサーチ(自分も関わってはいるし、この場合はエゴサーチだろうか……)した限りでは誰にも見られていなかったみたいだし。「空 人」、「空 誰か」、「屋根 誰か」、「屋根 人」、「人 飛んでる」、まぁこんな感じでありとあらゆる検索を試してみたけれどそれらしい投稿は引っかからなかった。あとは、「なんだこれ」みたいな文面と写真もしくは動画だけで投稿されていないことを祈るばかり。
それに、ああやって王様が運んでくれたおかげで電車に余裕を持って間に合ったのは事実だ。なら彼女のおかげと言っても差し支えない。
だが王様は小さく首を左右に振った。
「いいえ。王だもの、当然のことよ。それで、どう? 学びの場は活かせたかしら」
「あー、えっと、ちゃんと勉強できたかってこと?」
「簡単に言うとそうね」
「それならできた、と思います」
「そう、良かったわ。せっかく設けられている機会なんですもの、得られるものは得ておくべきだわ」
なるほど、これも王様ムーブ。きっと民のために学校やら学び舎やらを整備することもあるのだろう。だからこそ民ではない私の勉強にも気を使ってくれているのだ。流石だ、と大きく頷く。
「王様はなにしてたんですか?」
「ずっとこの部屋にいたわよ。通されていない部屋には入っていないから、安心して」
「あ、ありがとうございます……じゃあこの部屋でなにを?」
「基本的にはそこのソファに座っていたわね」
そう言って王様はリビングの中央付近に顔を向けた。
壁のテレビに向いたソファは私が家を出る前、バタつきながら王様に指差したものだ。「そこでくつろいでいてください!」と言い残して出発したわけだが、どうやら王様はそれを律儀に守っていたらしい。
「あの、くつろげました……?」
しかしうちのソファは彼女に合っただろうか。なにせうちはエル字のローソファだ。座高が低いどころかほとんどない。これも完全にイメージで偏見でしかないけれど、王様の城にあるようなソファはもっと背が高くて、背凭れも高くて、ふかふかで猫足で……とか、そんな印象だ。果たして我が家のソファでくつろげたかどうか。
「えぇ。十分体を休められたわよ」
「そっか、それなら」
とは言うものの、果たして本心かどうか。なにせ王様は一般市民からのなけなしのもてなしを無碍にする人じゃなさそうだ。正直に「こんなんで休まるかい」とは言わないだろうし。
クッションとか、用意しておいた方が良かったかもしれない。家に誰か招くなんてこと無かったものだから、心地よさなんてまったく気にしていなかった。なんか、分厚いフカフカのクッションとか、そういうのがあっても良いのかも。
そんなことを考えながら王様の横をすり抜け、棚のフックにトートバッグをひっかける。
「なんか、なにも無かったですか? チャイムとか」
「なにかと言うと、そうね、一度だけそれが音を出していたわ。あと声もした。留守にしています、って」
「あぁ、電話ですね。留守電にしてるんでスルーで大丈夫です。……まさか出ました?」
「いいえ」
「良かった……」
と胸を撫で下ろす。
「出る、というと、なにかしら声に対応する方法があるのね?」
「あ、はい。そこの受話器を取って……ってもしかして、王様の国に電話ってない感じですか」
「知らない物だわ。なにができるの?」
「遠くにいる人と話せるんです。今度鳴ったら王様出てみます?」
「いいの?」
「はい」、と頷く。
あ、でも詐欺とかだったら困るな。家の電話にかけてくる相手なんて母さんくらいだし、当の母さんに王様のことをなんて説明すればいいかも分からない。うーん……まぁいいや、かかってきた時の番号を見て考えよう。